第100話 前日の校庭で、君を見つける
体育祭前日の朝。
なつきは、いつもより少しだけ早く教室に着いた。
まだ人の少ない二年十一組の教室は、普段より広く感じられた。
机と椅子が整然と並び、黒板には昨日の最後に書かれたままの文字がうっすら残っている。
窓の外では、校庭に白線を引く先生の姿が見えた。
真っ直ぐな白い線。
曲がらないように慎重に引かれていくトラック。
体育倉庫の前には、大玉やカラーコーン、長机が並べられている。
応援席用の椅子も、まだ雑然としてはいるけれど、もう明日の形を待っているようだった。
なつきは窓際に立ち、しばらく校庭を眺めた。
明日。
体育祭。
紅組と白組。
胸の奥が、静かに鳴る。
嬉しいような。
怖いような。
楽しみなような。
少しだけ逃げたいような。
その全部が混ざっていた。
鞄の横では、黒猫のキーホルダーが小さく揺れている。
春樹が夏祭りで取ってくれた黒猫。
最初は、ただ大切な思い出だった。
けれど今では、登校する時も、授業中も、応援練習の時も、ずっとなつきの横にいた。
春樹が何度も見つけてくれた黒猫。
自分が春樹を見つけるための、少しだけ勇気をくれる黒猫。
なつきは指先でそっと触れた。
「明日も、よろしくね」
小さく呟く。
誰もいない教室だから言えた言葉だった。
けれど、言った瞬間、少しだけ気持ちが落ち着いた。
その時、教室の扉が開いた。
「あ、なつき早い」
亜衣だった。
手には購買で買ったらしい飲み物。
髪を少しだけ整えながら入ってくる。
「おはよう、亜衣ちゃん」
「おはよ。……校庭見てた?」
「うん」
「明日だもんね」
「うん」
亜衣はなつきの隣に立ち、同じように校庭を見下ろした。
まだ準備途中の校庭。
でも、そこにはもう明日の熱がある。
亜衣は少しだけ目を細めた。
「なんか、始まる前って一番緊張するよね」
「うん」
「本番になっちゃえば、きっと流れで動けるんだけど」
「そうだね」
なつきは黒猫に触れた。
「私、ちゃんと声出せるかな」
「出せるよ」
亜衣は即答した。
なつきが驚いて見ると、亜衣は笑っていた。
「だって、もう出てるもん。練習で」
「でも、本番は人が多いし」
「うん」
「白組も見てるし」
「うん」
「春樹くんも、見てるかもしれないし」
「見てるよ」
亜衣はまた即答した。
「絶対見てる」
「絶対?」
「うん。黒猫を見つける人だから」
その言葉に、なつきの顔が熱くなった。
「亜衣ちゃん」
「でも本当でしょ?」
「……うん」
春樹は見つけてくれる。
人混みの中でも。
白組の中からでも。
紅組の前列にいる自分を。
黒猫が揺れるのを。
そう思うと、緊張の奥に小さな嬉しさが灯った。
亜衣は少しだけ真面目な声で言った。
「なつき、明日は揺れていいよ」
「え?」
「美優ちゃんとか祐衣ちゃんが春樹くんの近くにいて、胸が痛くなってもいい」
「……うん」
「借り人競争で何か起きて、落ち着かなくなってもいい」
「うん」
「でも、そのまま紅組で立ってよう」
亜衣はなつきを見た。
「私、隣にいるから」
なつきは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
亜衣は笑った。
「それに、なつきが沈んだら圭くんが騒ぐし、田辺くんが変に真面目なこと言うし、島中くんが不器用に引っ張るから」
「ふふ、そうかも」
「そうだよ。紅組、意外と強いよ」
「うん」
なつきはもう一度、校庭を見た。
白い線。
赤白の旗。
準備途中の椅子。
明日、自分はあそこに立つ。
紅組として。
そして、春樹を見つける。
◇
教室に人が増えていくにつれ、前日の空気はどんどん濃くなっていった。
圭はいつも以上に落ち着きがなかった。
「紅組、今日仕上げるぞ!」
朝の挨拶より先にそう言った。
紅秋が白組側の席から静かに返す。
「まず座れ」
「気持ちは立ってる!」
「体は座れ」
「はい!」
田辺が笑う。
「三浦、明日まで体力残しとけよ」
「残す!」
島中も椅子に座りながら言った。
「声も残しとけ」
「残す!」
「ほんとかよ」
「たぶん!」
「不安しかねぇ」
教室に笑いが広がる。
なつきも笑った。
体育祭の練習を始めた頃は、春樹と別組になったことが胸に引っかかって、紅組の熱に置いていかれるような気がしていた。
でも今は違う。
圭が騒ぐと、少し安心する。
田辺がまっすぐに勝ちたいと言うと、自分も頑張ろうと思う。
島中が不器用に気遣ってくれると、胸が少し軽くなる。
亜衣が隣で笑ってくれると、声を出せる気がする。
紅組は、もう他人事ではなかった。
自分の組だった。
昼休み。
紅組の机の輪では、最後の確認が行われていた。
圭の熱量メモ。
亜衣の清書メモ。
田辺が書き足した注意点。
島中がまとめた移動位置。
そして、なつきの手拍子案。
机の上に広げられたその紙は、少し不格好だった。
でも、それが紅組らしかった。
「最初は手拍子で揃える」
亜衣が指でなぞる。
「圭くんがカウント」
「任せろ」
「声量は八割」
「九割」
「八割」
「八・五」
「八割」
「はい」
圭が負けた。
田辺が笑う。
「伊藤、強いな」
「圭くんの喉を守る係なので」
「俺の喉、守られてる」
島中がメモを見ながら言う。
「最後の拳、昨日ちょっとズレたから、今日は合わせようぜ」
「うん」
なつきは頷いた。
「最後、前を見てから上げるんだよね」
「そう。焦ると早くなる」
島中が言う。
なつきは少し驚いた。
「島中、ちゃんと見てるね」
「見てなきゃ揃わねぇだろ」
「ありがとう」
「別に」
島中は目を逸らす。
亜衣がすかさずにやけた。
「島中くん、照れた」
「照れてねぇ」
田辺が笑う。
「最近その流れ多いな」
「お前らが言うからだろ」
圭が大きく頷いた。
「紅組、仲良くなったな!」
その言葉に、なつきは少しだけ胸をつかれた。
仲良くなった。
本当にそうかもしれない。
最初は、春樹と別組になった寂しさを埋めるために、紅組の輪に入っていたのかもしれない。
でも今は違う。
紅組の練習を、ちゃんと楽しみにしている。
明日、紅組として声を出したいと思っている。
「なつき」
田辺がふいに言った。
「明日、無理すんなよ」
「え?」
「いや、前列だし。緊張するだろ」
島中も言う。
「声出なくなっても、亜衣と三浦がどうにかするだろ」
「俺がどうにかする!」
圭が胸を張る。
「私もいる」
亜衣が笑う。
なつきは、少しだけ目の奥が熱くなった。
「ありがとう」
声が思ったより柔らかくなる。
「でも、明日はちゃんと声出したい」
四人がなつきを見る。
なつきは黒猫に触れながら言った。
「紅組の声の中に、私の声も入れたい」
一瞬、沈黙が落ちた。
それから圭が、ぐっと拳を握った。
「いい!」
亜衣が笑う。
「最高」
田辺が少し照れたように頷く。
「なら、出そうぜ」
島中も軽く笑った。
「前列、任せた」
なつきは頷いた。
「うん」
◇
放課後。
前日準備と最終練習のため、校庭にはたくさんの生徒が残っていた。
体育祭実行委員が走り回り、先生達が用具を確認する。
紅組の応援席には赤い目印。
白組の応援席には白い目印。
校庭の真ん中には、まだ誰も走っていないトラックがある。
けれど、そこには明日の足音がもう重なっているようだった。
紅組の最終練習が始まった。
なつきは前列右端。
隣に亜衣。
中央に圭。
後ろには田辺と島中。
いつもの場所。
もう、立ち位置を探さなくても体が覚えている。
圭が深く息を吸った。
いつもの大声ではなく、少し抑えた声。
それでも、熱は十分だった。
「いくぞ」
全員が頷く。
「一、二、三、四!」
手拍子。
パン、パン、パン、パン。
紅組の音が、夕方の校庭に広がる。
なつきは手を叩く。
昨日より、音が体に馴染んでいた。
隣の亜衣の手拍子。
後ろの田辺の低い声。
島中の息遣い。
中央の圭の熱。
全部が、自分を支えてくれる。
「紅!」
「勝つぞ!」
「紅!」
「燃えろ!」
声を出す。
前へ。
校庭へ。
白組の方へ。
春樹の方へ。
胸は揺れる。
でも、声は止まらない。
途中の隊形移動。
一歩。
手拍子。
視線を上げる。
白組が見えた。
美優が見えた。
白石祐衣が見えた。
春樹が見えた。
春樹は、こちらを見ていた。
黒猫に視線が落ちる。
そして、なつきへ戻る。
見つけた。
その一瞬で、なつきの声はもう一段前へ出た。
「紅組!」
「勝つぞ!」
最後の拳。
全員で前を向く。
音が止まる。
夕方の校庭に、一瞬だけ静けさが落ちた。
そして、拍手が起こった。
紅組の中から。
近くで見ていた生徒達から。
白組の方からも。
なつきは息を吐いた。
手のひらが熱い。
喉も熱い。
でも、胸の奥はもっと熱かった。
「今の、よかった!」
圭が叫ぶ。
「声量!」
亜衣が言う。
「ごめん! でも今のは言わせて!」
田辺が笑う。
「まあ、今のは言っていいだろ」
島中も頷いた。
「仕上がった感じあるな」
亜衣がなつきの肩を軽く叩く。
「なつき、めちゃくちゃ出てた」
「本当?」
「本当」
圭も近づいてくる。
「前列、完全にいける!」
田辺が頷く。
「明日もそのままでいい」
島中が少しだけ笑う。
「緊張しても今日くらい出せれば十分だろ」
なつきは息を整えながら、みんなを見た。
「ありがとう」
言葉が自然に出た。
「みんながいるから、出せた」
圭が一瞬固まった。
亜衣が口元を緩める。
田辺が照れたように頭をかく。
島中は目を逸らした。
「……そういうの、さらっと言うなよ」
「え?」
「照れるだろ」
田辺が笑う。
「島中が照れた」
「うるせぇ」
その笑いの中で、なつきは思った。
紅組でよかった。
春樹と別組になった時は、寂しかった。
白組に美優や祐衣がいることに揺れた。
でも、紅組で過ごした時間も確かに大切だった。
◇
白組の最終確認が始まった。
なつきは水筒を持ち、少し離れたところから見ていた。
白組は最後まで綺麗だった。
紅組のように熱で押し出すのではなく、音と動きを揃えて見せる。
美優の声は明るく前に出る。
祐衣は後方でずれを確認し、必要なところだけ丁寧に声をかける。
茜と紅秋が全体を整え、蓮がリレー組と応援組の動きを繋ぐ。
春樹は、応援の中心ではなくても、白組の中に自然に立っていた。
なつきの胸が少し揺れる。
やっぱり、春樹の近くにいる美優を見ると、少し苦しい。
祐衣が春樹に話しかけている姿を見ると、自分もあんなふうに落ち着いて話せたらと思う。
でも、今はその揺れに飲まれなかった。
自分には、紅組で出した声がある。
春樹が見つけてくれた視線がある。
それだけで、立っていられた。
白組の練習が終わると、美優がこちらへ駆け寄ってきた。
「横田さん!」
「美優さん」
「紅組、すごかった! 最後の声、ほんとに響いてた」
「ありがとう。白組も綺麗だったよ」
美優は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。春樹も珍しくちゃんと声出してたよ」
「聞こえた」
なつきは笑った。
「春樹くんの声、少しだけ」
「よく聞こえたね」
「……見てたから」
言ってから、少し顔が熱くなった。
美優は一瞬だけ目を丸くして、それから優しく笑った。
「そっか」
その笑顔は、茶化すものではなかった。
少しだけ、何かを分かっているような笑顔だった。
祐衣も近づいてきた。
「横田さん、前列、とても自然でした」
「本当?」
「はい。最初の頃より、ずっと視線が上がっていました」
祐衣の言葉は、いつも具体的で優しい。
なつきは胸が温かくなる。
「ありがとう。祐衣さんにそう言ってもらえると、安心する」
祐衣は少し照れたように微笑んだ。
「私も、紅組の手拍子を参考にしたいくらいです」
「え、そんな」
「本当に」
春樹は少し後ろで、その会話を見ていた。
なつきが視線を向けると、春樹は短く言った。
「よかった」
たった一言。
でも、なつきにとっては十分だった。
◇
その後は、前日準備だった。
応援席の椅子運び。
用具の確認。
校庭の端の掃除。
掲示物の貼り直し。
紅組も白組も関係なく、生徒達はあちこちで動いた。
なつきは亜衣と一緒に椅子を運んだ。
「明日、ここに座るんだね」
亜衣が言う。
「うん」
「なつき、春樹くんのリレー見える席だといいね」
「亜衣ちゃん」
「でも大事でしょ?」
「……うん」
「正直」
二人で笑う。
圭は田辺と島中と一緒に、椅子を多めに持とうとしていた。
「三浦、持ちすぎ」
「いける!」
「昨日も言ってたろ」
「今日は本当にいける!」
その直後、少しバランスを崩し、田辺が支える。
「ほら」
「田辺、助かった!」
島中が呆れたように笑う。
「前日に怪我すんな」
その光景も、もう紅組らしかった。
準備の途中、なつきは用具置き場の近くで春樹と出会った。
春樹は白組の用具リストを持っている。
少し汗をかいていて、けれど表情はいつも通り落ち着いていた。
「横田さん」
「春樹くん」
「椅子運び?」
「うん。春樹くんは?」
「用具確認」
「お疲れ様」
「うん」
少し沈黙。
周りでは生徒達が動いている。
誰かが先生を呼び、誰かが笑いながら椅子を運ぶ。
それなのに、二人の間だけ少し静かだった。
春樹の視線が黒猫へ落ちる。
「明日もつける?」
なつきの胸が跳ねた。
「うん。つけてくる」
「そっか」
「……見つけてくれる?」
言ってしまった。
前にも似たことを言った。
でも、明日の本番を前にして、どうしても聞きたかった。
春樹は少しだけなつきを見た。
そして、静かに頷いた。
「うん。見つける」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「私も」
なつきは黒猫に触れながら言った。
「春樹くんを見つける」
春樹は頷く。
「うん」
たったそれだけ。
でも、明日への約束になった。
紅組と白組。
応援席も違う。
競技も違う。
春樹の近くには美優や祐衣がいる時間もある。
なつきの周りには紅組の仲間がいる。
それでも、見つける。
見つけてもらう。
それがあれば、明日も立っていられる気がした。
◇
準備が終わる頃には、校庭は夕方の光に包まれていた。
白線の引かれたトラック。
紅白の旗。
並べられた椅子。
明日を待つだけの校庭。
昼間の騒がしさが少しずつ引いていき、代わりに前日だけの静かな緊張が残っていた。
なつきは少しだけ一人で校庭を見た。
ここで明日、声を出す。
ここで明日、春樹が走る。
ここで明日、借り人競争がある。
胸はきっと揺れる。
でも、今日までの自分がいる。
紅組で頑張った自分。
春樹に見つけてもらった自分。
美優や祐衣を見ても逃げなかった自分。
それを忘れなければ、大丈夫。
「なつきー!」
亜衣の声がした。
「帰ろ!」
「うん!」
なつきは鞄を持ち直した。
黒猫が揺れる。
校門へ向かう途中、春樹達白組のメンバーが少し前を歩いていた。
美優が蓮と話して笑う。
祐衣が茜と何か確認している。
紅秋が圭に「明日は声を残せ」と言っている。
圭が「残す!」と返している。
田辺と島中がそのやり取りに笑っている。
紅組も白組も、明日へ向かっている。
春樹がふと振り返った。
目が合う。
黒猫が揺れる。
春樹が小さく頷く。
なつきも頷いた。
言葉はいらなかった。
明日、見つける。
明日、見つけてもらう。
体育祭前日の校庭で、二人の間に静かな約束ができていた。
君の隣を目指す日々は、明日、大きな声と足音の中へ進んでいく。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
『君の隣を目指して』を楽しんでいただけましたら、ブックマークや★★★★★で応援していただけると、とても励みになります。
皆さまからいただく応援は、更新を続ける原動力です。
これからも、一歩ずつ距離を縮めていくなつきたちを温かく見守っていただけたら嬉しいです。
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