第101話 体育祭の朝、赤い席から君を探す
体育祭当日の朝。
なつきは、いつもより早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る少し前だった。
天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
今日だ。
体育祭。
紅組として声を出す日。
春樹が白組として走る日。
借り人競争がある日。
昨日の夕方、校庭で交わした言葉が、まだ胸の中に残っている。
――見つけてくれる?
――うん。見つける。
――私も、春樹くんを見つける。
それは、告白でも約束でもないのかもしれない。
でも、なつきにとっては確かに約束だった。
布団から起き上がり、机の横に置いた鞄を見る。
黒猫のキーホルダーが、朝の光の中で小さく揺れていた。
なつきはそっと触れた。
「今日も、よろしくね」
声に出すと、少しだけ落ち着いた。
制服ではなく、今日は体操服。
その上に指定のジャージを羽織る。
鞄の横には黒猫。
紅組の応援で使うメモ。
水筒。
タオル。
日焼け止め。
亜衣と茜に何度も確認された持ち物を、一つずつ鞄に入れた。
準備を終えて玄関を出ると、朝の空気は少しだけ冷たかった。
けれど、空は晴れている。
体育祭日和。
なつきは空を見上げ、小さく息を吸った。
今日は、逃げない。
胸が揺れても、声を出す。
紅組として立つ。
春樹を見つける。
◇
学校へ向かう道には、いつもより明るい声が多かった。
体操服姿の生徒。
ジャージを肩にかけた男子。
髪を結び直しながら歩く女子。
水筒を持ち、体育祭の話をしながら校門へ向かっていく。
「リレー緊張する」
「応援合戦、声出るかな」
「今日暑くなりそう」
「借り人、変なお題出たら終わる」
そんな声が、あちこちから聞こえた。
なつきは鞄の黒猫に触れながら歩く。
校門前には、すでに亜衣がいた。
「なつき!」
「亜衣ちゃん、おはよう」
「おはよ。黒猫、いるね」
「うん」
「よし。春樹くん発見装備、完璧」
「装備って」
「今日は本番だからね」
亜衣は笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「緊張してる?」
「してる」
「私も」
「亜衣ちゃんも?」
「当たり前じゃん。応援合戦、本番だよ。人いっぱい見るし」
「そっか」
「でも大丈夫。なつきの隣、私だから」
なつきは胸が温かくなった。
「うん。ありがとう」
少し遅れて圭が走ってきた。
「おはよう! 紅組!」
亜衣がすぐ言う。
「朝から声量」
「今日はいいだろ!」
「本番前だから六割」
「六割!?」
田辺と島中も後ろから来た。
田辺は落ち着いているように見えたが、目はかなり真剣だった。
「三浦、朝から飛ばすな」
「飛ばす!」
「飛ばすなって言われてんだよ」
島中が呆れながら言う。
でも、その口元は少し笑っていた。
紅組のメンバーが揃う。
なつきは、その輪の中にいる自分を感じた。
前なら、春樹がどこにいるかばかり気にしていたかもしれない。
もちろん、今も気になる。
でもそれだけではなかった。
紅組のみんなと今日を迎えた。
その実感がある。
◇
教室に入ると、二年十一組はすでにかなり騒がしかった。
机は端へ寄せられ、荷物置き場のようになっている。
黒板には担任が書いた大きな文字。
『体育祭 水分補給を忘れずに』
その横に、誰かが小さく赤と白の旗を描いていた。
茜は白組の記録係として、朝からプリントを確認している。
紅秋も用具係の確認をしていた。
春樹は、自分の席で静かに靴紐を結び直している。
体操服姿の春樹。
いつもと違う。
制服の時より少しだけ動きやすそうで、体育の時に見た春樹を思い出す。
なつきの心臓が跳ねた。
春樹が顔を上げる。
目が合った。
春樹の視線が、すぐに黒猫へ落ちる。
そして、なつきへ戻る。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「黒猫、いる」
「うん。つけてきた」
「見つけた」
たったそれだけ。
でも、朝の緊張が少しほどけた。
「私も」
なつきは小さく言った。
「春樹くん、見つけた」
春樹は少しだけ頷く。
「うん」
亜衣が後ろで口元を押さえている。
圭が何か言いたそうにして、紅秋に視線で止められている。
茜は静かに微笑んでいた。
美優と白石祐衣、蓮はまだ特進棟だ。
このあと校庭で合流することになる。
それを思うと、胸が少し揺れる。
でも、今は春樹が見つけてくれた。
それで十分だった。
◇
開会式のため、全校生徒が校庭へ移動した。
校庭は、昨日見た静かな準備の景色とはまったく違っていた。
赤い旗。
白い旗。
放送席。
来賓用の椅子。
保護者席。
競技用具。
そして、色ごとに並ぶ生徒達。
空は高く晴れている。
朝の光が白線を照らし、校庭全体が少し眩しい。
なつきは紅組の列に並んだ。
隣には亜衣。
前の方には圭。
少し後ろに田辺と島中。
紅組の中に立っている。
その事実に、胸が熱くなった。
白組の列は少し離れた場所にあった。
春樹がいる。
紅秋がいる。
茜がいる。
さらに特進科の列に、美優、白石祐衣、蓮の姿も見えた。
美優は春樹を見つけて手を振り、蓮が軽く声をかけている。
祐衣はバインダーを抱え、落ち着いた様子で立っていた。
なつきの胸が少しだけ揺れる。
でも、目を逸らさなかった。
見た。
そして、紅組の列へ視線を戻した。
亜衣が小さく言う。
「大丈夫?」
「うん」
「よし」
開会式が始まった。
校長先生の挨拶。
体育委員の進行。
選手宣誓。
全校生徒の拍手。
いつもなら少し長く感じる話も、今日は妙に現実感がなかった。
いよいよ始まる。
その気持ちが強すぎて、時間の流れが少し違うように感じた。
圭は前方でそわそわしている。
田辺は腕を組み、真剣な顔。
島中は余裕そうに見せているが、足先が少し動いていた。
みんな緊張している。
それが分かって、なつきは少し安心した。
自分だけではない。
体育祭本番は、みんな胸が忙しい。
◇
開会式が終わると、各組の応援席へ移動になった。
紅組の応援席は校庭の東側。
白組は反対側。
本当に分かれる。
なつきは、紅組の席へ向かいながら、白組へ歩いていく春樹の背中を見た。
体操服の背中。
白組の列。
美優が隣に寄り、何かを話しかけている。
春樹は短く頷く。
蓮がその横で笑う。
祐衣が少し後ろから声をかける。
なつきの胸がきゅっとした。
でも、立ち止まらなかった。
「なつき」
亜衣が隣で言う。
「紅組こっち」
「うん」
紅組の応援席に着く。
昨日運んだ椅子が並んでいる。
自分達で準備した場所。
なつきはそこに座り、鞄を足元に置いた。
黒猫が揺れる。
春樹からは遠い。
でも、黒猫はここにある。
「見える?」
亜衣が聞く。
「何が?」
「春樹くん」
なつきは白組側を見た。
遠い。
でも、見える。
白組の中に春樹がいる。
なつきは小さく頷いた。
「見える」
「よかったね」
「うん」
圭が前で振り返った。
「紅組、最初から声出していくぞ!」
田辺が言う。
「最初の競技、何だっけ」
「大玉送り」
島中が答える。
「全員参加系からか」
亜衣がなつきを見る。
「私たちもすぐ出番だね」
「うん」
なつきは膝の上で手を握った。
本番が始まる。
応援合戦はまだ先。
春樹のリレーも借り人もまだ先。
でも、体育祭はもう動き出していた。
◇
最初の競技は、全員参加の大玉送りだった。
紅組と白組に分かれ、列の上を大きな玉を送っていく。
単純な競技だけれど、人数が多い分、会場は一気に盛り上がった。
紅組の列に入り、なつきは亜衣と隣同士になった。
圭は少し前で、すでに全力の顔をしている。
「大玉、落とすなよ!」
田辺が後ろから言う。
「圭くんが一番危ない」
亜衣が返す。
「俺は支える!」
「勢い余って弾きそう」
「やらない!」
開始の合図が鳴る。
大玉が動き出した。
紅組の声が上がる。
「いけ!」
「送って!」
「落とすな!」
なつきの頭上に大玉が近づいてくる。
亜衣と一緒に手を伸ばす。
大きな赤い玉が、手のひらを押しながら進んでいく。
「なつき、押して!」
「うん!」
重い。
思ったより勢いがある。
でも、楽しい。
紅組の声の中で、なつきも声を出した。
「いけー!」
大玉が前へ進む。
圭が叫ぶ。
「紅組、いける!」
田辺が支える。
島中が後ろから「焦るな!」と声を出す。
なつきは笑っていた。
思っていたよりずっと、体育祭の中に入れている。
春樹を見る前に、紅組としてちゃんと動いている。
それが嬉しかった。
結果は僅差で白組。
紅組の席に戻った瞬間、圭が悔しがった。
「惜しい!」
田辺も息を吐く。
「最後、ちょっと詰まったな」
島中が言う。
「でも悪くない。次だな」
亜衣がなつきを見る。
「声、出てたね」
「うん。楽しかった」
「いい顔」
なつきは笑った。
「紅組、楽しいね」
「でしょ」
白組側を見ると、春樹がこちらを見ていた。
遠いけれど、分かる。
視線が合った気がした。
春樹が小さく頷く。
なつきも、紅組の席から小さく頷き返した。
◇
午前の競技は、少しずつ進んでいった。
障害物走。
綱引き予選。
学年別競技。
紅組の田辺は、障害物走でかなり良い走りを見せた。
平均台のところで少しバランスを崩しかけたが、持ち直し、最後の網くぐりを力で突破するように進んだ。
「田辺、いけー!」
圭が叫ぶ。
「田辺、頑張って!」
なつきも声を出した。
田辺はゴール後、息を切らしながら紅組席へ戻ってきた。
「聞こえたぞ、横田」
「お疲れ様。すごかった」
「まあまあだろ」
照れたように言う田辺に、島中が笑う。
「まあまあって顔じゃねぇぞ」
「うるせぇ」
紅組が笑う。
島中もリレー予選前の短距離で走った。
軽い態度とは違い、走り出すと真剣だった。
なつきはまた声を出した。
「島中、頑張って!」
島中は走り終えた後、少しだけこちらを見て笑った。
「応援、聞こえた」
前にも言われた言葉。
でも本番で言われると、さらに嬉しかった。
紅組の応援席にいる自分。
誰かを応援できている自分。
そのことが、少しずつ自信になっていく。
そして、白組側。
春樹の出番が近づいていた。
午前の終わりに近い競技。
借り人競争の予選。
なつきの胸が、また強く鳴り始める。
亜衣が隣で言った。
「来るね」
「うん」
「大丈夫?」
なつきは白組側を見た。
春樹が集合場所へ向かっている。
美優が何か声をかける。
祐衣が記録係として近くにいる。
蓮が春樹の肩を軽く叩いている。
胸は揺れる。
でも、なつきは黒猫に触れて頷いた。
「大丈夫。見る」
亜衣は小さく笑った。
「うん」
借り人競争の参加者がスタート位置に並ぶ。
春樹は白組の走者の一人。
なつきは紅組席から、その姿を見つめた。
遠い。
でも、見つけられる。
春樹がふとこちらを見た。
黒猫が揺れる。
なつきは、そっと胸の前で手を握った。
いよいよ、借り人競争が始まる。
体育祭の朝に交わした「見つける」という約束が、校庭の真ん中で試されようとしていた。




