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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第102話 借り人競争、君が探すもの



 借り人競争の開始を告げる放送が、校庭に響いた。


『次の競技は、借り人競争です。出場者は入場門へ集まってください』


 その瞬間、紅組の応援席がざわついた。


「来た!」


 圭が身を乗り出す。


「春樹の出番だろ!」


 亜衣がすぐに言う。


「圭くん、声」


「でも来たぞ!?」


「分かってる」


 なつきは、膝の上で手を握っていた。


 足元の鞄では、黒猫のキーホルダーが小さく揺れている。


 風のせいか。


 自分の緊張が伝わっているように見えるせいか。


 なつきには分からなかった。


 白組の入場門近くに、春樹が立っている。


 体操服姿。


 いつも通り落ち着いた顔。


 その近くには、美優と蓮。


 少し離れたところに、記録係の白石祐衣と茜。


 紅秋も用具係として動いている。


 春樹は何かを蓮に言われ、短く頷いていた。


 美優が笑いながら声をかける。


 祐衣はバインダーを抱え、春樹の走順を確認している。


 なつきの胸が、静かに揺れた。


 でも、目は逸らさなかった。


「なつき」


 亜衣が隣で小さく言う。


「大丈夫?」


「うん」


「ほんと?」


「緊張してる。でも見る」


 亜衣は頷いた。


「うん。見よう」


 圭が少し振り返った。


「なつき、春樹が何引いても倒れるなよ」


「倒れないよ」


 田辺が苦笑する。


「三浦、言い方」


 島中も軽く言った。


「まあ、借り人は運だからな」


 運。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 春樹が引くお題は、春樹が決めるものではない。


 誰を借りるかも、お題次第。


 美優かもしれない。


 祐衣かもしれない。


 蓮かもしれない。


 紅秋かもしれない。


 それとも、まったく別の誰かかもしれない。


 分かっている。


 それでも、春樹が誰かを探す姿を見るのは、こんなにも胸を忙しくさせる。


   ◇


 第一走者達が並んだ。


 春樹は第二組らしい。


 最初の組には別の生徒達が並んでいる。


 放送委員が説明する。


『走者はスタート後、中央の箱からお題カードを引いてください。条件に合う人を連れて、二人でゴールしてください。無理に引っ張らず、安全に行いましょう』


 観客席から笑い声が上がる。


 借り人競争は、見る側にとっては楽しい競技だ。


 けれど、出る側と、出る人を見ている側には心臓に悪い。


 なつきはそう思った。


 最初の組がスタートした。


 カードを引く。


 走者達が一斉に周囲へ散る。


「眼鏡の人!」


「先生、来てください!」


「同じクラスの男子!」


 校庭に声が飛ぶ。


 借りられる側の生徒や先生が笑いながら走り出し、応援席から歓声が上がる。


 圭は大笑いしていた。


「これ、やっぱ盛り上がるな!」


 亜衣も笑う。


「先生借りられてる!」


 田辺も肩を震わせている。


「校長先生だったらどうすんだろ」


 島中が言う。


「借りに行く勇気あるやつ尊敬するわ」


 なつきも少し笑った。


 最初の組は明るく終わった。


 お題も普通だった。


 少しだけ安心する。


 けれど、次。


 春樹の組。


 胸の奥がまた強く鳴り始めた。


   ◇


 春樹がスタート位置に立った。


 白組のハチマキが、額ではなく首元に軽くかけられている。


 風が少し吹き、体操服の袖が揺れた。


 春樹は前を向いている。


 いつもと同じように落ち着いているように見える。


 けれど、本当に緊張していないのだろうか。


 昨日、「変なの引いたら困る」と言っていた。


 春樹も少しは緊張している。


 そう思うと、なつきの胸が少し柔らかくなった。


「春樹くん……」


 声にならないくらい小さく呟く。


 亜衣がそっと聞いていた。


 でも、何も言わなかった。


 スタートの合図。


 笛が鳴る。


 春樹が走り出した。


 速い。


 けれど全力疾走ではない。


 カードを引いた後の動きまで考えているような、落ち着いた走り。


 中央の箱へ到着し、カードを一枚引く。


 開く。


 その瞬間、なつきは息を止めた。


 春樹の目が、カードの文字を追う。


 少しだけ瞬きをする。


 そして、周囲を見た。


 まず白組側。


 美優が身を乗り出す。


 蓮が何か笑いながら声をかけている。


 祐衣も春樹を見ている。


 次に、春樹の視線が校庭を横切る。


 紅組側へ。


 なつきの心臓が大きく鳴った。


 目が合った。


 気がした。


 いや、合った。


 春樹は、紅組の応援席を見ている。


 黒猫が足元の鞄で揺れる。


 なつきは動けない。


 春樹がこちらへ走ってくる。


 周囲がざわつく。


「え、こっち?」


 亜衣が小さく言う。


 圭が目を見開く。


「春樹、紅組来るぞ!」


 田辺が立ち上がりかける。


 島中が息を呑む。


 なつきの耳から、音が遠くなった。


 春樹が、紅組席の前に来る。


 まっすぐに。


 なつきの方へ。


 そして、少し息を整えながら言った。


「横田さん」


 なつきは固まった。


「え……?」


 春樹がカードを見せる。


 そこには、手書きでこう書かれていた。


『最近、よく見つける人』


 なつきの世界が止まった。


 最近、よく見つける人。


 それは、偶然のお題なのだろう。


 先生が用意した、少し変わり種のカード。


 誰を選んでもいいような、曖昧なお題。


 けれど春樹は、なつきのところへ来た。


 黒猫を見つけるみたいに。


 教室で。


 校庭で。


 応援練習で。


 何度も「見つけた」と言ってくれた春樹が。


 今、本番の借り人競争で、なつきを見つけた。


「来て」


 春樹が短く言った。


 なつきはまだ動けない。


 亜衣が隣で、息を吸った。


「なつき」


 その声で、やっと体が動いた。


「う、うん」


 立ち上がる。


 足が少しふわふわする。


 春樹は無理に手を引かなかった。


 ただ、なつきが立つのを待ってくれた。


「大丈夫?」


 小さく聞いてくれる。


 その優しさで、少しだけ現実に戻る。


「大丈夫」


 なつきは頷いた。


 春樹と並んで、校庭へ出る。


 紅組席が大きくざわついた。


「なつきー!」


 圭が叫ぶ。


「声量!」


 亜衣が言いながらも、声が震えている。


 田辺が「マジか」と呟き、島中が少し笑った。


「大國、やるじゃん」


 白組側からも声が上がった。


 美優が目を丸くしている。


 蓮が笑いながら何か言っている。


 祐衣はバインダーを抱えたまま、少し驚いたように、でも柔らかく見ていた。


 茜は静かに微笑んでいる。


 紅秋は片手で額を押さえたように見えた。


   ◇


 春樹となつきは、ゴールへ向かって走った。


 速く走る必要はない。


 でも止まってはいけない。


 春樹はなつきの歩幅に合わせてくれていた。


 体育祭の競技中なのに。


 借り人競争なのに。


 春樹はやっぱり、なつきが走りにくくないようにしてくれている。


「春樹くん」


「何?」


「これ、いいの?」


「お題?」


「うん」


「最近、よく見つける人」


「……私?」


「うん」


 春樹は前を向いたまま言った。


「黒猫」


 その一言で、胸がいっぱいになった。


 黒猫。


 やっぱり、そうだった。


 なつきは泣きそうになった。


 でも今は走らなければいけない。


 ゴールテープが近づく。


 放送席から声が響く。


『白組、大國くんが連れてきたのは紅組の横田さんです! お題は……最近、よく見つける人!』


 会場が沸いた。


 紅組席が騒がしくなる。


 白組席も笑いと拍手に包まれる。


 なつきは顔が熱くて仕方なかった。


 でも、春樹の隣を走っている。


 それだけで、足は止まらなかった。


 二人でゴールする。


 拍手。


 歓声。


 圭の叫び声。


 亜衣の悲鳴に近い笑い声。


 全部が一気に押し寄せた。


 ゴール後、先生がお題カードを確認して笑った。


「はい、成立です」


 春樹は頷いた。


 なつきはまだ息が整わない。


 走った距離は短い。


 でも、心臓が走りすぎていた。


「横田さん」


 春樹が小さく言う。


「ありがとう」


 なつきは春樹を見る。


「……ううん」


 言葉が出ない。


 でも、どうしても言いたかった。


「見つけてくれて、ありがとう」


 春樹は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「うん」


   ◇


 紅組席へ戻るまでが、また大変だった。


 なつきが戻ってくると、亜衣が両手を広げて待っていた。


「なつき!」


「亜衣ちゃん……」


「大丈夫!? 生きてる!?」


「たぶん」


「たぶん!」


 圭が興奮しきった顔で言う。


「すごかった! 春樹、紅組まで来た! お題何だよあれ!」


 田辺も少し苦笑している。


「最近よく見つける人、ってな」


 島中が腕を組みながら言った。


「黒猫効果か」


 なつきの顔がさらに赤くなる。


「言わないで」


 亜衣が目を輝かせる。


「いや、これは言うでしょ。黒猫回収じゃん」


「回収って」


「ずっと見つけるって言ってたのが、ここで来たんだよ? 体育祭本番で? 借り人で? これは事件」


「事件にしないで」


 でも、なつきも分かっていた。


 これは、自分にとって大事件だった。


 春樹が、本番の校庭で、自分を見つけてくれた。


 お題が曖昧だったからこそ、誰を選ぶかは春樹次第だった。


 その中で、なつきのところへ来た。


 黒猫を理由に。


 最近、よく見つける人として。


 なつきは鞄の黒猫をそっと握った。


 手が少し震えていた。


 亜衣がその手を見て、少しだけ声を柔らかくする。


「嬉しかった?」


 なつきは頷いた。


「うん」


「よかったね」


「うん」


 泣きそうだった。


 でも、泣かなかった。


 体育祭はまだ続いている。


 紅組の応援席で、自分はまだ声を出す側だ。


   ◇


 白組側では、美優が春樹を迎えていた。


「春樹、びっくりした」


「そう?」


「そうだよ。紅組まで行くとは思わなかった」


 蓮が笑う。


「でもお題には合ってたね」


 春樹は頷く。


「黒猫」


 美優は一瞬黙った。


 そして、少しだけ春樹を見た。


「……そっか」


 祐衣も近くに来て、静かに言った。


「素敵なお題でしたね」


「うん」


 春樹は短く答える。


 茜はバインダーを持ちながら微笑んだ。


「なつき、真っ赤だったわ」


 紅秋がため息を吐く。


「春樹は本当に、時々まっすぐすぎる」


「何が?」


 春樹は不思議そうにしていた。


 美優はその顔を見て、少しだけ笑った。


「春樹は春樹だね」


「そう?」


「うん」


 美優の笑顔は明るかった。


 けれど、その奥にほんの少しだけ、何かを飲み込むような静けさがあった。


 祐衣はそれに気づいたように、美優を一度だけ見た。


 けれど何も言わなかった。


   ◇


 借り人競争は続いた。


 他の走者達も、さまざまなお題で会場を沸かせた。


「背の高い人」


「同じクラスの友達」


「先生」


「今日一番声が大きい人」


 そのお題では圭が借りられかけ、紅組席が大騒ぎになった。


「俺!?」


「圭くん以外いないでしょ!」


 亜衣が笑う。


 圭は結局別の組の生徒に連れていかれ、満足そうに帰ってきた。


「俺、今日一番声が大きい人認定された!」


「喜んでいいのかな」


 田辺が笑う。


 島中も肩を震わせていた。


 なつきも笑った。


 さっきまで心臓が大変だったのに、紅組の騒がしさが少しずつ日常へ戻してくれる。


 それがありがたかった。


 借り人競争の結果、春樹の組は上位だった。


 白組に点が入る。


 紅組としては悔しい。


 でも、春樹が頑張った結果でもある。


 なつきは少し複雑な気持ちで拍手した。


 亜衣が横で言う。


「敵だけど、拍手したいよね」


「うん」


「いいと思う」


「うん」


 なつきは白組側を見た。


 春樹がこちらを見ていた。


 遠い。


 でも、見つけられる。


 なつきは黒猫をそっと持ち上げるように触れた。


 春樹が小さく頷いた。


 それだけで、また胸が温かくなる。


   ◇


 午前の競技が終わり、昼休憩になった。


 紅組席には、少し疲れたけれど興奮の残る空気があった。


 なつきは弁当を広げながら、まだ少しぼんやりしていた。


 亜衣が隣でにやにやしている。


「なつき」


「何?」


「今日のハイライト、もう来たね」


「まだ午前だよ」


「でも借り人は強すぎた」


「……うん」


 否定できなかった。


 圭が弁当を食べながら言う。


「春樹、すごいな。あそこで横田さん選ぶんだもんな」


 田辺が少し複雑そうに笑う。


「まあ、お題があれならな」


 島中はなつきを見て言った。


「よかったな」


 その言い方は、いつもの軽さより少しだけ優しかった。


 なつきは小さく頷いた。


「うん」


 島中はすぐ目を逸らす。


「別に、紅組としては点取られて悔しいけどな」


「そこはそうだね」


 なつきが笑うと、田辺も頷いた。


「午後、取り返すぞ」


 圭が拳を握る。


「応援合戦で流れ持ってくる!」


 亜衣が言う。


「午後は私たちの出番だね」


 なつきは、手元の箸を握り直した。


 そうだ。


 午前中、春樹が自分を見つけてくれた。


 それは嬉しかった。


 けれど、午後には紅組の応援合戦がある。


 今度は、自分が声を出す番だ。


 春樹に見つけてもらうだけではない。


 紅組として、前に立つ番。


「私も」


 なつきは小さく言った。


「午後、頑張る」


 亜衣が笑う。


「うん」


 圭が大きく頷く。


「紅組、いくぞ!」


「声量」


「はい!」


   ◇


 昼休憩の途中、なつきは少しだけ席を離れた。


 水筒を持って、校庭の端の木陰へ行く。


 興奮がまだ残っていて、少しだけ一人になりたかった。


 黒猫に触れる。


 春樹が来た瞬間。


 カードを見せた瞬間。


 「最近、よく見つける人」と書かれた文字。


 「来て」と言った声。


 歩幅を合わせてくれた走り方。


 全部が何度も頭の中で繰り返される。


「横田さん」


 声がして、なつきは顔を上げた。


 春樹だった。


 白組の席から来たらしい。


 なつきの胸がまた跳ねる。


「春樹くん」


「さっき、ありがとう」


「私こそ」


 少し沈黙。


 風が吹いて、黒猫が揺れる。


 春樹がそれを見る。


「お題、見た時」


「うん」


「横田さんだと思った」


 なつきの呼吸が止まる。


「……私?」


「うん」


「黒猫があるから?」


「それも」


「それも?」


 春樹は少し考えた。


「最近、よく見つけるから」


 なつきの胸がいっぱいになった。


 黒猫だけではない。


 春樹は、なつきを見つけていた。


 練習で。


 教室で。


 校庭で。


 紅組の声の中で。


「……嬉しかった」


 なつきは小さく言った。


「すごく」


 春樹は頷いた。


「うん」


「でも、白組に点入ったから、紅組としては悔しい」


 言うと、春樹の口元が少し緩んだ。


「うん」


「午後、紅組も頑張るから」


「うん」


「応援合戦、見ててね」


 言ってから、顔が熱くなる。


 でも、春樹は真っ直ぐ頷いた。


「見る」


 なつきは黒猫を握った。


「私も、春樹くんのリレー見る」


「うん」


 短い約束が、また一つ増えた。


 借り人競争は終わった。


 でも、体育祭はまだ終わらない。


 午後には、なつきの声が校庭に響く。


 春樹の足音がトラックを走る。


 紅組と白組。


 別々の場所から。


 それでも、また見つけ合う。


 なつきはそう思いながら、紅組の応援席へ戻った。

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