第103話 赤い声が、君へ届く
昼休憩が終わる頃、校庭の空気は午前中より少し熱を帯びていた。
日差しは高くなり、白線の引かれたトラックが眩しく光っている。
紅組の応援席にも、白組の応援席にも、昼食を終えた生徒達のざわめきが戻っていた。
けれど、なつきの胸の中には、まだ午前中の借り人競争の余韻が残っていた。
――最近、よく見つける人。
春樹が引いたお題。
春樹が選んだ相手。
自分。
何度思い返しても、胸が熱くなる。
でも、いつまでもその余韻に浸っているわけにはいかなかった。
午後の最初の大きな見せ場。
応援合戦。
なつき達、紅組応援メンバーの出番だった。
「なつき」
亜衣が隣で言う。
「いける?」
「……うん」
声は少し震えた。
でも、逃げる気持ちはなかった。
「緊張してる」
「うん」
「でも、出る」
「よし」
亜衣は笑って、なつきの肩を軽く叩いた。
圭はすでに立ち上がっている。
田辺と島中も後ろにいる。
「紅組、いくぞ」
田辺が低く言った。
島中も頷く。
「白組に借り人で点取られた分、ここで流れ持ってこようぜ」
圭が拳を握る。
「応援で空気変える!」
亜衣がすぐに言う。
「声量は本番だから十割でいいけど、叫びすぎて崩れないこと」
「了解!」
なつきは黒猫に触れた。
春樹は、見ると言ってくれた。
今度は自分が見つけてもらう番。
でも、それだけではない。
紅組の声の一つとして、ちゃんと前へ出る番。
なつきは立ち上がった。
足は少し震えていた。
けれど、隣に亜衣がいる。
中央に圭がいる。
後ろに田辺と島中がいる。
紅組の声が背中にある。
大丈夫。
揺れても、声は出せる。
◇
応援合戦の入場が始まった。
まずは紅組。
なつき達は決められた位置へ移動する。
校庭の中央。
午前中、春樹と並んで走った場所とは少し違う。
けれど、同じ校庭。
同じ空。
同じ体育祭。
なつきは前列右端に立った。
目の前には、白組の応援席が見える。
その中に春樹がいる。
遠い。
でも、見える。
春樹はなつきを見ていた。
黒猫が鞄で揺れる。
春樹の視線がそこへ落ちた気がした。
そして、なつきへ戻る。
見つけた。
そう言われた気がした。
なつきは、ほんの少しだけ頷いた。
圭が中央で深く息を吸う。
いつもの圭とは違う。
騒がしいだけではない。
本気の顔だった。
放送席から声が響く。
『午後最初の種目は、応援合戦です。まずは紅組です』
校庭が静かになった。
一瞬の沈黙。
なつきは息を吸った。
圭の声。
「一、二、三、四!」
手拍子が始まった。
パン、パン、パン、パン。
紅組の音。
なつきも手を叩く。
手のひらが熱い。
でも、リズムは崩れない。
隣の亜衣と合っている。
後ろの田辺の低い声が支えている。
島中の声も聞こえる。
圭の熱が中央から広がる。
「紅!」
「勝つぞ!」
「紅!」
「燃えろ!」
なつきは声を出した。
午前中の借り人競争の余韻。
春樹に見つけてもらえた嬉しさ。
白組にいる美優や祐衣を見た時の小さな痛み。
紅組で積み重ねた練習。
全部を、声に乗せた。
「紅!」
「勝つぞ!」
声が前へ飛ぶ。
思ったより大きく出た。
なつき自身が一番驚いた。
でも、止まらない。
隊形移動。
一歩。
手拍子。
前を見る。
白組が見える。
春樹が見える。
春樹はちゃんと見ていた。
なつきは、その視線から逃げなかった。
最後の掛け声。
圭が拳を上げる。
「紅組!」
「勝つぞ!」
なつきも拳を上げた。
校庭に、紅組の声が響いた。
音が止まる。
一瞬だけ、世界が静かになった。
そして次の瞬間、拍手と歓声が広がった。
紅組席からも。
白組席からも。
なつきは息を吐いた。
終わった。
できた。
前列で。
本番で。
春樹に見られながら。
紅組の声の中で、自分の声を出せた。
◇
退場する時、圭が小さくガッツポーズをした。
「いけた!」
亜衣が笑いながら言う。
「声量、今日は合格」
「やった!」
田辺が後ろから言う。
「最後、揃ったな」
島中も少し息を吐きながら頷いた。
「悪くなかった。いや、かなりよかった」
なつきは胸を押さえた。
心臓がまだ早い。
喉も熱い。
でも、笑っていた。
「なつき」
亜衣が隣に来る。
「出てたよ」
「うん」
「すごく出てた」
「……うん」
なつきは頷いた。
「出せた」
その言葉を、自分で言えた。
紅組席へ戻る途中、白組側から春樹が見えた。
春樹は小さく拍手していた。
なつきの胸が、また熱くなる。
春樹が見てくれていた。
拍手してくれていた。
それだけで、午前中の借り人競争とは違う嬉しさが胸に広がった。
今度は、春樹に連れていかれたからではない。
自分が紅組として立った姿を、春樹が見てくれた。
それが嬉しかった。
◇
続いて白組の応援合戦が始まった。
紅組席へ戻ったなつきは、息を整えながら白組を見る。
美優が前列に立つ。
祐衣は少し後ろで、全体を支える位置。
茜と紅秋が端で列を確認し、蓮が後方にいる。
春樹も白組の一員として立っていた。
紅組とは違う、静かな始まり。
手拍子が揃う。
低く、綺麗に。
そして、声が重なる。
美優の声がよく通る。
祐衣の声は柔らかく、けれど芯がある。
春樹の声も、少し聞こえた。
なつきの胸が少しだけ揺れる。
でも、今は痛みだけではなかった。
白組も綺麗だと思った。
美優も、祐衣も、春樹も、それぞれの場所で頑張っている。
そして自分も、さっき紅組で頑張った。
その事実が、胸の揺れを支えてくれた。
白組の最後の声が校庭に響く。
拍手が起きる。
なつきも拍手した。
亜衣が横で言う。
「白組、綺麗だったね」
「うん」
「春樹くんも見えた?」
「見えた」
「よかった」
なつきは頷いた。
「でも、紅組も負けてない」
亜衣は一瞬驚いて、それから満面の笑みを浮かべた。
「それ、最高」
◇
応援合戦の結果発表は、後の総合得点に加算される形だった。
その場で勝敗は出ない。
けれど、紅組席には確かな手応えが残っていた。
圭はまだ興奮している。
「紅組、絶対よかった!」
田辺が頷く。
「声出てた」
島中も言う。
「最初の手拍子、揃ったのが大きかったな」
亜衣がなつきを見る。
「なつき案だね」
「みんなで作ったんだよ」
「そうだけど、最初の一歩はなつき」
なつきは少し照れた。
でも、否定しなかった。
「うん」
小さく頷く。
「嬉しい」
田辺が言う。
「横田、最近ちゃんと言うようになったな」
「そうかな」
「うん。前より分かりやすい」
島中も軽く笑う。
「いいんじゃねぇの。分かりやすい方が」
圭が大きく頷く。
「紅組は分かりやすくいこう!」
亜衣が即座に言う。
「圭くんは分かりやすすぎ」
「褒めてる?」
「半分」
「また半分!」
笑いが広がる。
なつきはその中で、黒猫に触れた。
今日は、もう何度も胸がいっぱいになっている。
春樹に借り人で選ばれた。
紅組の応援合戦で声を出した。
白組の応援もちゃんと見られた。
たった半日なのに、心が何日分も動いている気がした。
◇
午後の競技はさらに続いた。
綱引きの決勝。
学年別リレー。
障害物の続き。
紅組も白組も点を取り合い、応援席はどちらも熱を帯びていた。
田辺は綱引きで大きく活躍した。
足をしっかり踏ん張り、前列の男子達と一緒に綱を引く。
紅組席から声が飛ぶ。
「田辺ー!」
「いけー!」
「踏ん張れ!」
なつきも声を出した。
「田辺、頑張って!」
田辺の表情が一瞬だけ動いた気がした。
その後、紅組は綱引きで勝った。
田辺が戻ってくると、圭が肩を組もうとして避けられた。
「汗すごいからやめろ」
「勝利の汗!」
「近い」
なつきは笑いながら言った。
「田辺、すごかった」
「おう。応援聞こえた」
「よかった」
田辺は少し照れたように笑った。
「紅組、いい感じだな」
「うん」
島中もリレーの予選で良い走りを見せた。
春樹とは別の組だが、二人とも走る競技で目立っている。
島中が走る時、なつきは紅組として全力で応援した。
春樹の時には、声には出せなくても目で追った。
どちらも本当だった。
紅組を応援したい。
春樹を見たい。
その両方を抱えることにも、少しずつ慣れてきていた。
◇
そして、午後の終盤。
白組の春樹が出るリレーの時間が近づいてきた。
なつきの胸が、また強く鳴り始める。
応援合戦で声を出して、少し自信がついた。
でも、春樹が走るとなると、やっぱり落ち着かない。
亜衣が隣で言う。
「次、春樹くんのリレーだね」
「うん」
「声、出す?」
「白組だから」
「心の中?」
「うん」
亜衣は笑った。
「それでも届くかもね」
「届くかな」
「黒猫経由で」
「何それ」
なつきは笑った。
でも、少しだけ本当にそう思ってしまう。
黒猫があるから。
見つける約束があるから。
声に出せなくても、春樹を見つける気持ちは届くかもしれない。
リレーの選手達が入場してくる。
白組の列に春樹がいた。
蓮もいる。
春樹は後半の走順。
なつきは息を吸った。
春樹がこちらを見た。
遠くからでも分かる。
視線が合った。
黒猫が揺れる。
なつきは小さく頷いた。
春樹も頷く。
午前中の借り人競争。
午後の応援合戦。
そして、リレー。
見つけ合う約束は、まだ続いている。
放送が流れる。
『次は紅白対抗リレーです』
校庭の熱が、一気に上がった。
なつきは両手を握りしめた。
春樹くん、頑張って。
声には出さない。
でも、心の中で強く思った。
白組の春樹が、トラックへ向かう。
体育祭は、いよいよ終盤へ向かって動き出していた。




