第104話 走る君を、赤い席から
紅白対抗リレー。
その放送が流れた瞬間、校庭の空気が一段変わった。
それまでの競技も盛り上がっていた。
応援合戦も、借り人競争も、綱引きも、どれも大きな歓声を生んだ。
けれど、リレーは違う。
体育祭の終盤。
紅組と白組の得点差が意識され始めた時間帯。
走者の名前が呼ばれるだけで、応援席から声が上がる。
なつきは紅組席で、両手を握りしめていた。
春樹が出る。
白組の春樹が。
そして紅組からは、島中が出る。
どちらも見たい。
どちらも応援したい。
けれど、なつきは紅組の席にいる。
紅組として、島中を応援しなければいけない。
それは分かっている。
でも、春樹が走る姿を見ないなんて、できるはずがなかった。
「なつき」
亜衣が隣で小声で言った。
「大丈夫?」
「うん」
「春樹くん、出るね」
「うん」
「島中くんも出る」
「うん」
「忙しいね」
亜衣が少し笑う。
なつきも小さく笑った。
「本当に」
足元の鞄では、黒猫が揺れている。
春樹が見つけてくれた黒猫。
借り人競争で、春樹がなつきを選んでくれた理由にもなった黒猫。
午前中から何度も触れて、何度も勇気をもらった。
なつきはそっと指を伸ばし、黒猫に触れた。
春樹くんを見つける。
紅組も応援する。
どちらも、今の自分の本当の気持ちだった。
◇
リレーの走者達が入場してきた。
紅組の列から島中が出てくる。
いつもの軽い笑みを浮かべているけれど、目つきは真剣だった。
体操服の袖を軽く直し、足首を回している。
田辺が紅組席から声を飛ばした。
「島中、頼むぞ!」
圭も両手を振る。
「島中ー! かませー!」
島中は片手を上げた。
照れくさそうにしながらも、ちゃんと応えている。
なつきも声を出した。
「島中、頑張って!」
島中が一瞬こちらを見る。
そして、少しだけ笑った。
聞こえた。
そう言っているようだった。
次に、白組の走者が並ぶ。
蓮がいた。
春樹もいた。
春樹は後半の走順。
蓮はその少し前。
白組側から美優の声が聞こえる。
「蓮、春樹、頑張って!」
祐衣も少し控えめに拍手している。
茜が記録係として立ちながらも、白組の走者達を見守っていた。
紅秋は用具係の位置から、春樹へ短く何か声をかけた。
春樹は頷いた。
そして、ふと紅組席を見た。
なつきと目が合った。
距離はある。
応援席も違う。
それでも、分かった。
春樹が、なつきを見つけた。
なつきも、春樹を見つけた。
なつきは小さく頷く。
春樹も、ほんの少し頷いた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
◇
第一走者がスタートラインに立つ。
校庭中が静まり返る。
風が一瞬だけ止まったように感じた。
先生の笛。
走者達が一斉に飛び出す。
歓声が爆発した。
「いけー!」
「紅組ー!」
「白組、走れ!」
大きな声が校庭を包む。
なつきも紅組席で声を出した。
「紅組、頑張って!」
最初の走者達がコーナーを回る。
バトンが渡る。
少し差がつく。
また詰まる。
リレーは、見ているだけで息が苦しくなる。
圭は立ち上がりそうな勢いで応援していた。
「紅組いけ! いける!」
亜衣が腕を引く。
「圭くん、席!」
「立ってない!」
「半分立ってる!」
田辺は低い声で応援している。
「落ち着いて渡せ……よし!」
島中の番が近づく。
なつきの胸が強く鳴る。
紅組の前の走者が、少し遅れてバトンゾーンに入ってきた。
白組がわずかに前。
島中が走り出す。
バトンを受ける。
その瞬間、島中の表情が変わった。
いつもの軽さが消える。
ただ前を見る顔。
「島中ー!」
圭が叫ぶ。
「いけー!」
田辺が声を張る。
亜衣も言う。
「島中くん、頑張って!」
なつきも、胸いっぱいに息を吸った。
「島中、頑張って!」
声が出た。
紅組の声として。
春樹を見たい気持ちを抱えたまま、それでも今は島中へ向けて。
島中は速かった。
コーナーで少し差を詰める。
白組の走者と並びかける。
紅組席が一気に沸いた。
「抜ける!」
「いけ!」
「島中!」
島中は最後の直線でさらに加速した。
完全に抜くことはできなかった。
でも、差をほとんどなくして次の走者へバトンを渡した。
紅組席から大きな拍手が起きる。
島中は息を切らしながら戻ってきた。
田辺が肩を叩く。
「やるじゃん」
「まあな」
息が乱れているのに、島中は強がるように笑った。
圭が興奮して言う。
「島中、めちゃくちゃ速かった!」
「うるせぇ。聞こえてる」
なつきも笑って言った。
「すごかった。本当に速かった」
島中は少しだけ視線を逸らした。
「……応援、聞こえた」
「よかった」
「紅組、まだいける」
「うん」
なつきは頷いた。
紅組として、ちゃんと応援できた。
その実感があった。
◇
リレーは進む。
白組の蓮の番が来た。
蓮は特進科らしい落ち着いた雰囲気のままスタート位置に立つ。
けれど走り出すと、予想以上に速かった。
足運びが軽い。
上半身がぶれず、綺麗に前へ進む。
白組席から歓声が上がる。
美優が大きく声を出す。
「蓮、いけー!」
祐衣も拍手している。
なつきは紅組席にいるのに、思わず見入ってしまった。
「蓮くん、速いね」
亜衣が言う。
「うん」
圭も悔しそうに言う。
「白組、強いな」
田辺が腕を組む。
「でもまだ終わってない」
島中も息を整えながら頷いた。
「最後まで分かんねぇよ」
その通りだった。
リレーは一人だけで決まらない。
バトン。
走順。
わずかなミス。
声援。
すべてが積み重なる。
そして、春樹の番が近づいていた。
なつきの胸が、静かに熱を持ち始める。
白組は蓮の走りで少し前へ出た。
紅組も必死に追う。
次の走者。
その次。
差は大きくもなく、小さくもない。
そして、白組のバトンが春樹の前の走者へ渡る。
なつきは息を止めた。
「春樹くん……」
声にならないくらい小さく呟く。
亜衣は何も言わなかった。
ただ、隣にいてくれた。
◇
春樹がバトンゾーンに立った。
いつも通り落ち着いて見える。
でも、目は前を見ていた。
体育の授業で見た時よりも。
昼休みのバスケで見た時よりも。
応援練習の時よりも。
少しだけ鋭い。
白組の前走者が迫る。
春樹が走り出す。
タイミングを合わせて、手を後ろへ伸ばす。
バトンが渡る。
完璧だった。
その瞬間、春樹が加速した。
なつきの視界が、春樹だけになる。
音が遠くなる。
紅組席の声も、白組席の声も、全部が背景になる。
春樹は速かった。
静かな走り。
でも力強い。
地面を蹴るたび、体が前へ進む。
無駄がなくて、綺麗で、目が離せない。
美優の声が聞こえた。
「春樹!」
蓮の声も。
「そのまま!」
祐衣の拍手。
白組の歓声。
なつきは声を出せなかった。
紅組だから。
白組の春樹を大声で応援することはできなかった。
でも、心の中では叫んでいた。
春樹くん、頑張って。
頑張って。
春樹はコーナーを抜ける。
紅組の走者が追いかける。
差は縮まらない。
春樹はさらに前へ進む。
なつきは両手を握った。
胸が痛いくらい熱い。
かっこいい。
やっぱり、かっこいい。
春樹は最後の直線で、次の走者へバトンを渡した。
白組席が大きく沸く。
なつきは息を吐いた。
自分が走ったわけでもないのに、体中に力が入っていた。
亜衣がそっと言う。
「かっこよかったね」
なつきは、少しだけ顔を赤くしながら頷いた。
「うん」
「声、出せなかった?」
「うん」
「でも、見てたね」
「うん」
「それでいいよ」
亜衣の言葉に、なつきは胸が少し楽になった。
声に出せなくても、見ていた。
春樹を、ちゃんと見つけていた。
◇
リレーは最後まで接戦だった。
白組がわずかに前。
紅組も必死に追う。
最後の走者がトラックを駆け抜ける。
校庭中が立ち上がりそうな熱に包まれた。
「紅組いけ!」
「白組そのまま!」
「抜ける!」
「逃げろ!」
なつきも紅組として声を出した。
「紅組、頑張って!」
結果は、白組の勝利だった。
白組席から大きな歓声が上がる。
紅組席には悔しさの声が広がった。
「あー!」
圭が頭を抱える。
「惜しかった!」
田辺が息を吐く。
「最後、少し届かなかったな」
島中は悔しそうに地面を見ていた。
「俺がもう少し詰めてればな」
なつきは島中を見る。
「そんなことないよ。島中、すごく速かった」
田辺も頷く。
「お前のところでかなり詰めたろ」
圭も言う。
「島中、最高だった!」
島中は少しだけ顔を上げた。
「……負けたけどな」
亜衣が言う。
「でも、かっこよかったよ」
なつきも頷く。
「うん。紅組、すごかった」
島中はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「じゃあ次で取り返すか」
その言葉に、紅組の空気が少し戻った。
負けた。
悔しい。
でも、終わりではない。
体育祭はまだ続いている。
◇
白組側では、春樹が戻ってきていた。
美優がタオルを差し出そうとして、春樹が自分のタオルを見せて断っている。
蓮が春樹の背中を軽く叩く。
祐衣が記録表を見ながら、白組の点を確認している。
茜が微笑み、紅秋が短く何か言っている。
春樹はいつも通り静かだった。
けれど、少し息が上がっている。
なつきはその姿を遠くから見ていた。
白組が勝った。
紅組としては悔しい。
でも、春樹が頑張った結果でもある。
その気持ちの置き場所が、難しかった。
亜衣が隣で言う。
「複雑?」
「うん」
「紅組は悔しい。でも春樹くんはかっこよかった」
「うん」
「両方でいいよ」
「両方」
「そう。なつきは紅組で、春樹くんが好きなんだから」
さらっと言われて、なつきの顔が熱くなる。
「亜衣ちゃん」
「事実」
「まだ、好きって……」
「違うの?」
なつきは黙った。
違わない。
違うはずがない。
ここまで来て、まだ認めない方が難しい。
春樹を見つけたい。
春樹に見つけてほしい。
春樹が走る姿を見て、胸がいっぱいになる。
借り人競争で選ばれて、泣きそうになるほど嬉しかった。
それを何と呼ぶのか。
もう、分かっている。
なつきは小さく言った。
「……うん」
亜衣は優しく笑った。
「なら、両方でいい」
なつきは黒猫に触れた。
紅組の自分。
春樹を好きな自分。
その二つは、どちらかを選ぶものではないのかもしれない。
◇
リレー後の短い休憩時間。
春樹が紅組席の近くへ来た。
白組の席に戻る途中だったのだろう。
なつきは少しだけ立ち上がった。
「春樹くん」
「横田さん」
「リレー、お疲れ様」
「うん」
「速かった」
言うと、春樹は少しだけ頷いた。
「ありがとう」
なつきは少し息を吸う。
言いたい言葉がある。
でも、紅組席の近くで。
亜衣も、圭も、田辺も、島中もいる。
恥ずかしい。
それでも、言いたかった。
「かっこよかった」
声は小さかった。
でも、春樹には届いた。
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
そして、短く言った。
「嬉しい」
その言葉で、なつきの胸が一気に温かくなる。
「でも、紅組としては悔しい」
なつきが続けると、春樹は頷いた。
「うん」
「だから、まだ負けないから」
「うん。俺も」
そのやり取りに、圭が後ろで小さく震えていた。
「春樹となつき、青春してる……」
亜衣がすぐ言う。
「圭くん、声」
「小声!」
田辺が笑いをこらえ、島中が肩をすくめる。
紅秋が遠くから春樹を呼んだ。
「春樹、白組の集合だ」
「うん」
春樹はなつきを見た。
「また後で」
「うん。また後で」
春樹が白組へ戻っていく。
なつきはその背中を見つめた。
走る春樹。
白組の春樹。
でも、ちゃんとこちらを見てくれる春樹。
胸の奥に、静かな熱が残った。
◇
体育祭は、終盤へ進んでいく。
点差はわずかに白組が優勢。
紅組も追い上げている。
残る競技は少ない。
校庭全体が、疲れと興奮と夕方の気配に包まれていた。
なつきは紅組席で、タオルを握りながら空を見上げた。
今日は本当に、心が忙しい。
借り人競争で春樹に選ばれた。
応援合戦で声を出した。
島中を応援した。
田辺を応援した。
春樹のリレーを見た。
白組に勝たれて悔しかった。
それでも春樹がかっこよくて嬉しかった。
いろんな気持ちが、一日の中に詰め込まれている。
でも、不思議と苦しくなかった。
疲れている。
胸は揺れている。
それでも、ちゃんと立っていられる。
紅組の中で。
春樹を見つけながら。
なつきは黒猫をそっと揺らした。
赤い席から、白い背中を見る。
その距離は、遠いようで、今日何度も繋がった。
体育祭は、いよいよ最後の時間へ向かっていた。




