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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第105話 終わりの笛と、残った熱



 体育祭は、終盤へ入っていた。


 校庭の空気は、朝とはまるで違っていた。


 開会式の頃には、まだ整っていた白線。


 真っ直ぐに並んでいた応援席。


 きれいに置かれていたカラーコーン。


 それらは一日分の足音と声に踏まれ、少しずつ熱を帯びているように見えた。


 赤いハチマキ。


 白いハチマキ。


 汗で湿った体操服。


 砂のついた靴。


 少し枯れた声。


 それでもまだ笑っている顔。


 体育祭という一日が、終わりに近づいている。


 なつきは紅組席に座り、タオルを膝の上で握っていた。


 手のひらにはまだ、応援合戦で何度も叩いた手拍子の熱が残っている。


 喉も少し痛い。


 けれど、その痛みが嫌ではなかった。


 自分がちゃんと声を出した証拠だった。


 足元の鞄では、黒猫のキーホルダーが揺れている。


 春樹が見つけてくれた黒猫。


 借り人競争で、春樹が自分を選んでくれた理由になった黒猫。


 今日一日、何度も何度も触れた。


 不安な時も。


 嬉しい時も。


 胸が痛んだ時も。


 声を出す前も。


 この黒猫は、ずっとなつきのそばにいた。


「なつき」


 亜衣が隣で言った。


「疲れた?」


「うん。疲れた」


「でも、いい顔してる」


「そう?」


「うん。午前中、借り人のあと真っ赤だった時とは違う顔」


「それは忘れて」


「無理」


 亜衣は笑った。


 なつきも少しだけ笑う。


 午前中の借り人競争。


 春樹が紅組席まで来た瞬間。


 お題カードの文字。


 『最近、よく見つける人』


 思い出すだけで、今でも胸が大きく鳴る。


 でも、それだけではない。


 午後には、紅組の応援合戦で声を出した。


 島中を応援した。


 田辺を応援した。


 春樹のリレーを見た。


 白組に点を取られて悔しかった。


 それでも、春樹がかっこよかった。


 本当に、いろいろな感情が一日に詰まっていた。


「次、最後だっけ?」


 亜衣が競技表を見る。


「うん。全員参加の最終種目」


「これで点数決まるかもね」


「紅組、勝てるかな」


「勝ちたいね」


 亜衣は珍しく、からかい抜きでそう言った。


 なつきも頷いた。


「うん。勝ちたい」


 最初は、春樹と別組になったことばかり気にしていた。


 紅組で勝ちたいという気持ちより、春樹が白組にいることの方が大きかった。


 でも今は違う。


 紅組で頑張ってきた。


 紅組のみんなと声を合わせてきた。


 だから、勝ちたい。


 その気持ちは、ちゃんと本物だった。


   ◇


 最後の全員参加競技は、紅白対抗のボール運びだった。


 クラスや学科を越えた混合チームで、数人ずつ協力して大きな布の上にボールを乗せ、落とさないようにリレー形式で運ぶ。


 速さだけでなく、声かけと呼吸が必要な競技だった。


 紅組の集合場所へ向かうと、圭がすでに燃えていた。


「最後、取るぞ!」


 田辺が頷く。


「ここで勝てばまだ分からない」


 島中も少し真剣な顔で言う。


「最後くらい、白組にやられっぱなしは嫌だしな」


 亜衣がなつきの隣に立つ。


「なつき、布持つ?」


「うん。頑張る」


「落とさないようにね」


「亜衣ちゃんもね」


「もちろん」


 圭が布の端を持ち、田辺と島中が反対側に入る。


 なつきと亜衣も同じチームになった。


 紅組の他学科の生徒達も並ぶ。


 少し離れた白組側には、春樹がいた。


 同じ競技に出るらしい。


 美優と蓮も近くにいる。


 祐衣は記録係として少し離れた場所。


 茜と紅秋も白組側で確認していた。


 春樹がこちらを見る。


 目が合う。


 黒猫は鞄についたまま応援席にあるから、今はなつきのそばにはない。


 それでも、春樹はなつきを見つけた。


 なつきも春樹を見つけた。


 小さく頷く。


 春樹も頷く。


 それだけで、胸の奥が少し落ち着いた。


「なつき、春樹くんと見つめ合ってる場合じゃないよ」


 亜衣が小声で言う。


「見つめ合ってない」


「頷き合ってた」


「……それはした」


「正直」


 圭が振り返る。


「なつき! 紅組だぞ!」


「分かってる!」


 なつきが少し強く返すと、圭は目を輝かせた。


「おお、気合い入ってる!」


 田辺が笑う。


「いいじゃん」


 島中も軽く頷いた。


「その調子で落とすなよ」


「うん」


 先生の笛が鳴る。


 競技が始まった。


 布の上に乗ったボールは、思ったより不安定だった。


 少し動くだけで転がりそうになる。


「右、右!」


 田辺が声を出す。


「圭くん、上げすぎ!」


 亜衣が叫ぶ。


「ごめん!」


「島中、そっち低い!」


「分かってる!」


 なつきも必死に布を握った。


「ゆっくり、合わせて!」


 自然に声が出た。


 自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。


 圭がすぐに反応する。


「合わせる!」


 田辺も頷く。


「一、二でいくぞ!」


 島中が低く声を合わせる。


「一、二。一、二」


 なつきも亜衣も、そのリズムに合わせて進む。


 ボールが揺れる。


 でも落ちない。


 紅組席から声が飛ぶ。


「いけー!」


「落とすな!」


「紅組!」


 白組側も同じように盛り上がっている。


 春樹達のチームも進んでいた。


 見たい。


 でも今は見られない。


 自分の手元のボールを落とさないこと。


 紅組として走ること。


 今は、それがなつきの役割だった。


「あと少し!」


 亜衣が言う。


「いける!」


 圭が叫ぶ。


 最後のラインを越える。


 次の組へ布を渡す。


 落とさなかった。


 なつきは息を吐いた。


「できた……!」


「なつき、声出てた!」


 亜衣が笑う。


「本当?」


「本当!」


 田辺も言う。


「さっきの声、助かった」


 島中が頷く。


「合わせて、ってやつな。あれで少し落ち着いた」


 圭が大きく頷く。


「なつき、紅組の調整役!」


「また係が増えた」


 なつきは息を切らしながら笑った。


 嬉しかった。


 紅組の中で、また自分の声が役に立った。


 その実感があった。


   ◇


 競技は最後まで接戦だった。


 紅組が少し前に出る。


 白組が追いつく。


 ボールが落ちそうになって、歓声が上がる。


 また持ち直して、拍手が起きる。


 全員が声を出していた。


 競技している生徒も。


 応援席の生徒も。


 先生達も。


 体育祭の最後にふさわしい熱だった。


 最後の走者がゴールへ向かう。


 紅組と白組、ほぼ同時。


 圭が叫ぶ。


「紅組ー!」


 亜衣も立ち上がりかける。


「いけ!」


 田辺が低く唸る。


「あと少し……!」


 島中が拳を握る。


 なつきも声を出した。


「紅組、頑張って!」


 ゴール。


 一瞬、どちらが早かったのか分からなかった。


 校庭がざわつく。


 先生達が確認する。


 なつきは息を止めて待った。


 放送が入る。


『ただいまの競技、一位は……紅組です!』


 その瞬間、紅組席が爆発した。


「やったー!」


 圭が飛び跳ねる。


「勝った!」


 亜衣がなつきの手を握る。


「なつき、勝った!」


「うん!」


 田辺が拳を突き上げ、島中が大きく息を吐いて笑った。


「最後、取ったな」


「紅組、やった!」


 なつきも思わず声を上げた。


 嬉しかった。


 春樹のいる白組に勝ったから、というより。


 紅組のみんなで最後に取れたことが。


 自分もその中にいたことが。


 ただ、嬉しかった。


 白組側を見ると、春樹がこちらを見ていた。


 白組は負けた。


 でも春樹は、小さく拍手していた。


 なつきは胸が温かくなった。


 紅組として勝てた。


 春樹も見てくれた。


 その両方が、今のなつきには大切だった。


   ◇


 すべての競技が終わり、閉会式の準備が始まった。


 校庭には、疲れ切ったけれど満足そうな生徒達が集まっている。


 朝のようにきれいな列ではない。


 少し乱れた髪。


 砂のついた膝。


 日焼けした頬。


 それでも、みんなの顔には一日を走りきった表情があった。


 なつきも紅組の列に並んだ。


 隣には亜衣。


 少し前に圭。


 後ろに田辺と島中。


 白組の列には春樹がいる。


 その隣に蓮。


 近くに美優と祐衣。


 茜と紅秋もいる。


 なつきは春樹を見つけた。


 春樹も、こちらを見た。


 もう何度目か分からない。


 けれど、何度でも胸が鳴る。


 閉会式が始まる。


 校長先生の話。


 体育委員の挨拶。


 そして、結果発表。


 なつきの胸がまた強く鳴る。


 紅組が最後の競技で勝った。


 でも総合点は分からない。


 白組はリレーで点を取った。


 借り人競争でも取った。


 応援合戦の点もある。


 どちらが勝ってもおかしくなかった。


 放送委員が紙を受け取る。


 校庭が静かになる。


『今年度、体育祭総合優勝は――』


 ほんの一瞬。


 風の音まで聞こえた気がした。


『白組です!』


 白組側から大きな歓声が上がった。


 春樹達の列が沸く。


 美優が跳ねるように喜び、蓮が笑って手を叩く。


 祐衣も静かに嬉しそうにしている。


 茜と紅秋も拍手していた。


 紅組側には、悔しさが広がった。


「うわー!」


 圭が頭を抱える。


「最後取ったのに!」


 田辺が悔しそうに息を吐く。


「届かなかったか」


 島中も唇を噛んでいた。


「リレーの差かもな」


 亜衣が小さく肩を落とす。


「悔しいね」


 なつきも、胸がきゅっとした。


 紅組は負けた。


 最後まで頑張った。


 声を出した。


 勝ちたいと思った。


 それでも負けた。


 悔しい。


 ちゃんと悔しかった。


 でも、白組の春樹が喜ぶ姿を見て、少し嬉しい自分もいた。


 その二つの気持ちが、胸の中で重なる。


 なつきは目を閉じるように一度息を吸った。


 それから、拍手をした。


 紅組としては悔しい。


 でも、白組は強かった。


 春樹も頑張った。


 だから、拍手したかった。


 亜衣も隣で拍手を始めた。


 圭は悔しそうにしながらも、大きく拍手した。


「白組、おめでとう!」


 田辺も。


 島中も。


 紅組の列にも、少しずつ拍手が広がった。


 なつきは春樹を見た。


 春樹もこちらを見ていた。


 そして、小さく頭を下げるように頷いた。


 なつきも頷き返した。


   ◇


 閉会式が終わると、校庭は一気にほどけた。


 緊張していた糸が切れたように、生徒達がそれぞれの場所へ戻っていく。


 片付け。


 荷物の回収。


 先生からの連絡。


 写真を撮る生徒達。


 疲れたと座り込む人。


 まだ元気に騒ぐ人。


 紅組の応援席では、圭が悔しさと達成感の間で揺れていた。


「負けた! でも楽しかった!」


 亜衣が笑う。


「感情が忙しい」


「忙しい! でも紅組最高だった!」


 田辺が頷く。


「まあ、負けたけど悪くなかったな」


 島中も少しだけ笑った。


「最後まで競ったしな」


 なつきは、紅組のメンバーを見た。


 みんな疲れている。


 悔しそうでもある。


 でも、どこか晴れやかだった。


「紅組でよかった」


 なつきは小さく言った。


 亜衣がすぐにこちらを見る。


「なつき」


「本当に。最初は、春樹くんと別組で寂しかったけど」


「うん」


「でも、紅組でよかった」


 圭が聞いて、目を輝かせた。


「なつき!」


「圭くん、泣きそう?」


「泣かない! でも嬉しい!」


 田辺が少し照れくさそうに言う。


「横田がそう言うなら、紅組も悪くなかったな」


 島中も軽く笑った。


「負けたけどな」


「それは言わないで」


 亜衣が笑う。


 なつきも笑った。


 負けた。


 悔しい。


 でも、紅組で過ごした時間はちゃんと残った。


   ◇


 片付けのため、なつき達は応援席の椅子を運ぶことになった。


 朝は整っていた椅子も、今は少し砂をかぶっている。


 一日分の熱が染み込んでいるように見えた。


 なつきは亜衣と一緒に椅子を持った。


「疲れたね」


「うん。でも楽しかった」


「今日、何回楽しかったって言ったかな」


「たくさん」


 二人で笑う。


 圭はまだ元気に見えたが、実際には少し足元がふらついていた。


 田辺が呆れて支える。


「三浦、最後まで騒ぎすぎ」


「紅組魂が……」


「魂はいいから歩け」


 島中が笑いながら椅子を運ぶ。


「明日筋肉痛だな」


「絶対なる」


 なつきも思った。


 喉も痛い。


 手も痛い。


 足も疲れている。


 でも、全部が少し嬉しい。


 片付けの途中、白組側の椅子を運んでいた春樹とすれ違った。


 春樹も少し疲れているようだった。


 でも、いつも通り落ち着いている。


「横田さん」


「春樹くん」


「お疲れ」


「お疲れ様」


 少しだけ沈黙。


 周りでは生徒達が動いている。


 その中で、なつきは春樹を見た。


「白組、優勝おめでとう」


 ちゃんと言えた。


 紅組として悔しい気持ちはある。


 でも、それでも言いたかった。


 春樹は少しだけ頷いた。


「ありがとう」


「紅組、負けちゃった」


「うん」


「悔しい」


「うん」


「でも、楽しかった」


 春樹はなつきを見た。


「横田さん、声出てた」


 また、その言葉。


 なつきは胸が温かくなる。


「うん。頑張った」


 自分で言えた。


 春樹は頷いた。


「うん。頑張ってた」


 その一言で、今日一日の疲れが少しだけ報われた気がした。


   ◇


 片付けが終わり、解散の連絡が出る頃には、空が少し夕方の色を帯び始めていた。


 校庭から人が減っていく。


 赤白の旗も外され、椅子も片づけられ、朝から続いていた熱が少しずつ静かになっていく。


 なつきは教室に戻り、鞄を手に取った。


 黒猫が揺れる。


 今日一日、ここにいた。


 何度も春樹に見つけてもらった。


 何度も自分を支えてくれた。


 なつきは黒猫を指先で撫でた。


「お疲れ様」


 小さく言う。


 亜衣が横から覗く。


「黒猫にもお疲れ様?」


「うん」


「今日は大活躍だったもんね」


「本当に」


 教室を出ると、廊下にはまだ生徒達の余韻が残っていた。


 疲れた声。


 笑い声。


 悔しがる声。


 写真を見せ合う声。


 体育祭が終わった後の、少し寂しい空気。


 校門へ向かう途中、春樹達と合流した。


 美優が白組優勝の話でまだ少し嬉しそうにしている。


「白組、勝ててよかったね」


 蓮が笑う。


「接戦だったけどね」


 祐衣も静かに言う。


「紅組の応援、とても印象に残りました」


 亜衣が胸を張る。


「でしょ?」


 圭がすぐに言う。


「紅組、最高だった!」


 紅秋が冷静に返す。


「白組が勝ったがな」


「それは言わないで!」


 田辺と島中が笑う。


 なつきはその輪の中で、春樹を見た。


 春樹もなつきを見ていた。


 少し歩幅が合う。


 ほんの少しだけ、隣に近い距離。


「春樹くん」


「何?」


「今日は、見つけてくれてありがとう」


 借り人競争のこと。


 応援合戦のこと。


 リレーの前の視線のこと。


 全部を込めた言葉だった。


 春樹は短く頷いた。


「うん」


 少し間を置いて。


「横田さんも、見つけてくれた」


 なつきの胸が静かに満たされた。


「うん」


「ありがとう」


 春樹がそう言った。


 なつきは、少しだけ笑った。


「どういたしまして」


 そのやり取りを、亜衣が後ろで聞いていたのか、口元を押さえている。


 圭も何か言いたそうだったが、田辺に肩を押さえられていた。


 島中は呆れたように笑い、紅秋は見ないふりをしていた。


 美優は少しだけ静かに二人を見て、それから柔らかく笑った。


 祐衣も穏やかに目を細めている。


   ◇


 校門の外で、紅組と白組、それぞれ帰る方向に少しずつ分かれていく。


 春樹は駅の方へ。


 なつきは亜衣や茜と途中まで。


 別れる前に、春樹が振り返った。


「横田さん」


「うん?」


「また明日」


 体育祭が終わった。


 特別な一日が終わった。


 それでも、明日がある。


 また教室で会える。


 その当たり前が、なつきにはとても嬉しかった。


「うん。また明日、春樹くん」


 春樹は頷き、駅の方へ歩いていく。


 なつきはその背中を見送った。


 赤い席から見た白い背中。


 借り人競争で自分を探してくれた春樹。


 リレーで走る春樹。


 閉会式で白組として喜ぶ春樹。


 全部が、今日の中に残っている。


 でも、それだけではない。


 紅組で声を出した自分。


 負けて悔しいと思えた自分。


 仲間と笑った自分。


 それも、ちゃんと残っている。


 なつきは黒猫をそっと揺らした。


 体育祭は終わった。


 けれど、胸の中の熱はまだ消えていない。


 君を見つけた一日。


 君に見つけてもらえた一日。


 そして、自分の声を見つけた一日。


 その余韻を抱えたまま、なつきは夕方の道を歩き出した。

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