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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第106話 翌日の教室に、まだ熱が残っている


 体育祭の翌朝。


 なつきは、目を覚ました瞬間に体の重さを感じた。


「……いたい」


 小さく声が漏れた。


 腕が重い。


 足も重い。


 特に太ももとふくらはぎが、布団の中で少し動かしただけでじんわり痛む。


 手のひらには、昨日の応援合戦で何度も叩いた手拍子の感覚が残っていた。


 喉の奥も、少しだけかすれている。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 それは昨日、ちゃんと自分が体育祭の中にいた証拠だった。


 紅組の声の中に、自分の声もあった。


 借り人競争で、春樹に見つけてもらえた。


 紅組として悔しがって、白組の春樹に拍手もできた。


 なつきは布団の中で目を閉じ、昨日の校庭を思い出した。


 白線。


 赤い旗。


 白い旗。


 圭の大きな声。


 亜衣のツッコミ。


 田辺の低い応援。


 島中の真剣な走り。


 美優の白組での明るい声。


 白石祐衣の静かな拍手。


 そして、春樹。


 お題カードを持って、紅組席まで来てくれた春樹。


 ――最近、よく見つける人。


 あの文字を思い出した瞬間、なつきは布団の中で顔を覆った。


 朝から心臓に悪い。


 けれど、嬉しい。


 嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになる。


 机の横に置いた鞄では、黒猫のキーホルダーが静かに揺れていた。


 春樹が取ってくれた黒猫。


 昨日、何度も春樹に見つけてもらった黒猫。


 なつきはゆっくり起き上がり、少し痛む足を我慢しながら鞄のそばへ行った。


 黒猫に指先で触れる。


「おはよう」


 小さく言う。


 昨日の熱は、まだ消えていなかった。


   ◇


 学校へ向かう道も、いつもより少しだけ違って感じられた。


 同じ通学路。


 同じ朝の空気。


 同じ制服。


 けれど、昨日の体育祭を越えた後の朝は、少しだけ世界が柔らかく見えた。


 歩くたびに足が痛む。


 階段を上ることを考えると少し憂鬱になる。


 それでも、学校へ行くのが嫌ではなかった。


 昨日の続きを、みんなと話したかった。


 春樹に会いたかった。


 黒猫が鞄の横で揺れる。


 それを見るたび、胸が少しだけ温かくなる。


 校門に近づくと、すでに体操服ではなく制服姿の生徒達が歩いていた。


 昨日と違う。


 体育祭は終わった。


 けれど、どの顔にもどこか疲れと余韻が残っている。


「足やばいんだけど」


「声枯れた」


「昨日のリレー見た?」


「借り人、あれ反則だろ」


 そんな声が、あちこちから聞こえた。


 なつきは自分の鞄を少し抱え直す。


 借り人。


 その言葉が聞こえただけで、まだ胸が跳ねる。


 二年十一組の教室に入ると、そこは朝から少しおかしかった。


「全身が終わった……」


 圭が机に突っ伏していた。


 いつもなら朝から一番うるさい圭が、今日は机に半分吸い込まれている。


 声も少し枯れていた。


 亜衣が隣で笑っている。


「昨日あれだけ叫べばね」


「紅組魂を出し切った」


「魂はいいけど喉を大事にして」


「もう遅い……」


 田辺は自分の席で肩を回していた。


「俺も腕が重い。綱引き、思ったより来るな」


 島中は椅子にもたれ、足を伸ばしていた。


「走った後の足がやばい」


「島中くん、昨日かっこつけてたもんね」


 亜衣が言うと、島中は少しだけ顔をしかめた。


「かっこつけてねぇ。普通に走っただけだ」


 田辺が笑う。


「普通に走っただけで足痛いなら、やっぱり本気だったんだろ」


「うるせぇ」


 紅秋は自分の席で教科書を出していた。


 昨日も白組で用具係やら確認やらに動き回っていたはずなのに、顔にはあまり疲れが出ていない。


 圭がそれを見て、机に頬をつけたまま言った。


「紅秋、なんで平気そうなんだよ」


「俺も疲れている」


「顔に出ない!」


「出す必要がない」


「ずるい!」


 教室に笑いが起きる。


 なつきも笑った。


 少し喉がかすれていて、自分でも驚いた。


 亜衣がすぐに気づく。


「なつき、声」


「ちょっと枯れたかも」


「昨日、すごく出てたもんね」


「うん」


 なつきは少し照れながらも、否定しなかった。


「頑張った」


 その一言に、亜衣が嬉しそうに目を細める。


「うん。頑張ってた」


 田辺もこちらを見る。


「本当に声出てたぞ、横田」


 島中も軽く頷いた。


「前列、ちゃんとできてた」


「ありがとう」


 なつきは素直に受け取った。


 前なら、きっと「そんなことないよ」と言っていた。


 でも昨日、自分は確かに声を出した。


 紅組の一員として、前を向いた。


 だから、頑張ったと言っていい気がした。


 圭が顔を上げる。


「紅組、負けたけど最高だった!」


「うん」


 なつきは黒猫に触れた。


「紅組でよかった」


 その言葉に、圭がまた泣きそうな顔をした。


「なつき……!」


 亜衣が笑う。


「圭くん、朝から情緒が忙しい」


「体育祭の余韻!」


 田辺が肩を回しながら笑った。


「でも分かる。負けたけど、悪くなかった」


 島中も視線を窓の外へ向ける。


「最後、勝てなかったのは悔しいけどな」


「悔しいね」


 なつきが言うと、島中は少しだけ驚いたようにこちらを見た。


「横田がそう言うと、本当に紅組だったんだなって感じする」


「紅組だったよ」


 なつきは小さく笑った。


「ちゃんと悔しかった」


 言葉にすると、胸の奥が少し熱くなった。


 春樹がいる白組が勝った。


 それは嬉しい。


 でも紅組が負けたのは悔しい。


 両方ある。


 その両方を、今のなつきは少しずつ抱えられるようになっていた。


   ◇


 春樹が教室に入ってきた。


 いつもの制服姿。


 昨日の体操服姿とは違う。


 けれど、なつきの目には、昨日の走っていた春樹の姿が重なって見えた。


 白組のハチマキ。


 借り人競争のカード。


 リレーでバトンを受け取る瞬間。


 紅組席の方を見つける視線。


 なつきの胸が、静かに跳ねる。


「おはよう、春樹くん」


「おはよう」


 春樹はなつきを見て、それから鞄の黒猫を見る。


「今日もいる」


「うん」


「昨日、よく揺れてた」


 なつきの顔が熱くなる。


「見てたの?」


「うん」


「……そっか」


 春樹は少しだけ頷いた。


「昨日、お疲れ」


「春樹くんも。白組、優勝おめでとう」


「ありがとう」


「紅組、悔しかったけど」


「うん」


「でも、楽しかった」


 春樹はなつきを見た。


「横田さん、楽しそうだった」


 その言葉に、なつきは胸が温かくなる。


 ちゃんと見てくれていた。


 借り人競争だけではなく、応援合戦だけではなく、紅組で笑っていた自分も。


「うん。楽しかった」


 なつきは頷いた。


「すごく」


 春樹は短く返す。


「よかった」


 その「よかった」が、静かに胸へ落ちてきた。


 周りでは圭がまた何か言いたそうにしていたが、紅秋が視線で止めていた。


 亜衣は口元を押さえて笑っている。


 茜は静かに目を細めていた。


   ◇


 ホームルーム前。


 昨日の借り人競争の話題が当然のように出た。


 きっかけは圭だった。


 まだ机に突っ伏していたはずなのに、春樹が席に着いた瞬間、顔を上げた。


「で、春樹」


「何?」


「あのお題、すごかったな」


 春樹は首を傾げる。


「あのお題?」


「『最近、よく見つける人』!」


 なつきの顔が一気に熱くなる。


 亜衣がすぐに笑う。


「圭くん、朝から直撃」


 田辺も苦笑する。


「まあ、気になるけどな」


 島中がにやっとする。


「黒猫だろ?」


 春樹は普通に頷いた。


「うん」


 教室の空気が一瞬止まった。


 なつきは黒猫を握りしめた。


 春樹は続ける。


「最近、よく見つけてたから」


 圭が机に突っ伏した。


「春樹……!」


 亜衣が口元を押さえる。


「これは強い」


 紅秋がため息を吐いた。


「本人に自覚がないのが問題だな」


 春樹は不思議そうにする。


「何が?」


「そういうところだ」


「そう?」


 なつきは恥ずかしさで下を向きそうになった。


 けれど、完全には逃げなかった。


 黒猫に触れたまま、小さく言う。


「嬉しかったよ」


 春樹がなつきを見る。


 教室の空気が、少し柔らかく静かになる。


「うん」


「見つけてくれて」


 声は小さい。


 でも、ちゃんと言えた。


 春樹は頷いた。


「うん」


 田辺が目を逸らしながら、少し照れたように笑う。


「朝から青春だな」


 島中が小さく言う。


「お前が言うな」


「いや、これは言うだろ」


 亜衣がなつきの肩を軽くつついた。


「言えたね」


「うん」


「えらい」


 なつきは顔を赤くしながらも、小さく頷いた。


 体育祭は終わったのに、まだ昨日の続きみたいだった。


 けれど、それは悪い続きではなかった。


   ◇


 授業が始まると、教室は少しずつ現実へ戻された。


 先生が黒板に文字を書く。


 ノートを取る。


 教科書を開く。


 体育祭の余韻に浸ってばかりはいられない。


「はい、昨日は体育祭お疲れ様でした。ですが、今日から通常授業です」


 先生のその言葉に、教室中から小さなため息が漏れた。


 圭が机に伏せそうになり、紅秋に肘で起こされる。


「圭」


「まだ体育祭の余韻が……」


「授業だ」


「現実が強い」


 亜衣も小声で言う。


「筋肉痛の日に授業は重い」


 茜が隣から返す。


「だからこそ姿勢を崩すと余計に痛くなるわよ」


「茜ちゃん、優しさが正論」


「優しさよ」


 なつきは笑いをこらえながらノートを開いた。


 昨日の校庭。


 今日の教室。


 あまりにも違う。


 でも、どちらも同じ学校の日常なのだ。


 ノートを取りながら、なつきは斜め前の春樹を見た。


 春樹はいつも通り授業を受けている。


 体育祭で走っていた春樹とは違う。


 借り人競争でなつきを迎えに来た春樹とも違う。


 でも、その全部が春樹なのだと思うと、もっと知りたくなった。


 春樹がふと振り返る。


 目が合う。


 なつきは慌てて逸らしそうになった。


 けれど、少しだけ笑った。


 春樹も小さく頷いた。


 それだけ。


 でも、前より自然だった。


 見つける距離は、体育祭が終わっても消えていなかった。


   ◇


 昼休み。


 なつき、亜衣、茜で机を寄せた。


 体育祭の話は、まだ尽きなかった。


「昨日のなつき、本当に良かったわよ」


 茜が言った。


「応援合戦?」


「ええ。前列で、ちゃんと前を見ていた」


「茜ちゃんにも見えてた?」


「もちろん。白組側からでも分かったわ」


 なつきは少しだけ照れた。


「緊張してたけど」


「緊張していても、できていたわ」


 茜の言葉は静かで、まっすぐだった。


 亜衣も頷く。


「なつき、成長したよね」


「そんなに?」


「うん。前なら絶対『私なんて』って言ってた」


「……そうかも」


 なつきは少し考えた。


 確かに、体育祭前の自分なら、自分の声が紅組の役に立ったなんて思えなかったかもしれない。


 でも昨日は、ちゃんと声を出した。


 田辺や島中にも聞こえたと言われた。


 春樹にも、頑張ってたと言ってもらえた。


「昨日は、頑張った」


 なつきが言うと、茜は優しく微笑んだ。


「ええ。よく頑張ったわ」


 亜衣も笑う。


「紅組のなつき、最高だった」


「ありがとう」


 なつきは、ちゃんと受け取った。


 昼休みの途中、圭がまた体育祭の打ち上げをしたいと言い出した。


「紅組で集まりたい!」


 田辺が弁当を食べながら言う。


「まだ言ってんのか」


「言う! 紅組の魂を語り合う!」


 島中が笑う。


「魂は重いから、普通にお疲れ会でいいだろ」


 亜衣が乗る。


「いいね。お疲れ会」


 茜が少し考える。


「中間考査の予定もあるから、やるなら短めね」


 圭が頭を抱える。


「中間考査!」


 紅秋が静かに言う。


「体育祭が終わったら次はそこだ」


「現実!」


 春樹は静かに昼食を食べていた。


 なつきは少し勇気を出して声をかける。


「春樹くん」


「何?」


「もし、お疲れ会みたいなのがあったら来る?」


 教室の空気がほんの少しだけこちらを見る。


 春樹は少し考えた。


「みんなが行くなら」


「そっか」


「うん」


 それだけの返事。


 でも、なつきは嬉しかった。


 亜衣が小声で言う。


「聞けたね」


「うん」


「体育祭後のなつき、強い」


「まだ強くはないよ」


「前より強い」


 なつきは少しだけ笑った。


   ◇


 放課後。


 体育祭の片付けの残りを少しだけ手伝うことになった。


 校庭には、まだ薄く白線の跡が残っている。


 昨日まであんなにはっきりしていた線が、少しずつ砂に混ざっていく。


 紅白の旗はもうない。


 応援席の椅子も片づけられている。


 ただ、ところどころに昨日の名残が残っていた。


 地面に残る足跡。


 カラーコーンの跡。


 用具を運んだ線。


 なつきはそれを見て、胸が少し寂しくなった。


 終わったのだ。


 体育祭が。


 あんなに緊張して、あんなに声を出して、あんなに胸が動いた一日が。


 もう昨日のことになっている。


 片付けの後、なつきは少しだけ校庭の端に立った。


 そこからは、借り人競争で春樹と走った場所が見えた。


 あの時の自分は、ほとんど何が起きているのか分からなかった。


 ただ春樹が来て。


 カードを見せられて。


 「来て」と言われて。


 春樹が歩幅を合わせてくれて。


 ゴールまで走った。


 なつきは黒猫に触れる。


 昨日のことなのに、もう少し遠い思い出のようにも感じる。


「横田さん」


 声がした。


 振り返ると、春樹がいた。


 なつきの胸が静かに鳴る。


「春樹くん」


「昨日のこと、思い出してた?」


「うん」


 なつきは校庭を見る。


「ここからだと、借り人の場所が見えるから」


「うん」


 春樹は隣に立った。


 少しだけ沈黙が落ちる。


 風が吹いた。


 黒猫が揺れる。


 校庭にはもう昨日の歓声はない。


 でも、二人の間には昨日の熱が残っていた。


「昨日」


 なつきは小さく言った。


「本当に嬉しかった」


「借り人?」


「うん」


「そっか」


「でも、それだけじゃなくて」


 なつきはゆっくり言葉を選んだ。


「紅組で声を出せたことも、嬉しかった。負けて悔しいって思えたことも。みんなと一緒に頑張れたことも」


 春樹は黙って聞いていた。


 その沈黙は、なつきの言葉を待ってくれているようだった。


 だから続けられた。


「春樹くんを見つけられたことも、嬉しかった」


 春樹は少しだけなつきを見た。


「俺も」


 なつきの胸が鳴る。


「俺も、横田さんを見つけられてよかった」


 短い言葉。


 でも、それは昨日一日の全部を包むようだった。


 なつきは黒猫に触れた。


「また、見つけてね」


 春樹は頷いた。


「うん」


「私も、見つける」


「うん」


 それだけの会話。


 でも、体育祭の締めくくりとしては十分だった。


 体育祭は終わった。


 紅組も白組も、もう日常へ戻っていく。


 けれど、あの日に生まれた熱は、消えずに残っている。


 教室でも。


 図書室でも。


 放課後の廊下でも。


 これからまた、春樹を見つけていく。


 そして、見つけてもらえる自分でいたい。


 黒猫が、夕方の風の中で小さく揺れた。


 なつきはその揺れを見つめながら、体育祭の余韻が日常へ溶けていく音を、静かに聞いていた。

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