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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第107話 日常に戻っても、見つける距離



 体育祭の翌々日。


 二年十一組の教室には、ようやくいつもの空気が戻り始めていた。


 朝のざわめき。


 椅子を引く音。


 机の横に鞄を置く音。


 誰かが宿題を確認する声。


 窓の外を通り過ぎる別クラスの生徒達。


 全部、体育祭前と同じはずだった。


 けれど、なつきには少しだけ違って見えた。


 黒板には、もう体育祭の連絡は書かれていない。


 昨日まで廊下に残っていた紅白の掲示も外されている。


 校庭の白線も、窓から見ればずいぶん薄くなっていた。


 あの日、あんなに眩しく見えたトラックも、今は普通の校庭へ戻りつつある。


 それなのに、教室の中にはまだ熱が残っていた。


「足が……まだ終わってる……」


 圭が机に突っ伏しながら呻いた。


 亜衣が横から笑う。


「圭くん、昨日も同じこと言ってたよ」


「昨日より今日の方が痛い」


 田辺が肩を回しながら頷く。


「それは分かる。綱引きの腕、今日の方が重い」


 島中も椅子にもたれ、片足を伸ばしていた。


「リレーの足、まだ残ってる」


 紅秋は普通に教科書を出している。


 圭が恨めしそうに見る。


「紅秋、なんで普通なんだよ」


「普通ではない。疲れている」


「顔に出ろよ」


「出す義務はない」


「ずるい!」


 教室に笑いが広がる。


 なつきも笑った。


 喉はもう昨日より良くなっていたけれど、笑うと少しだけかすれた感じが残っている。


 手のひらにも、応援合戦で叩いた手拍子の熱がまだ微かに残っていた。


 鞄の横では、黒猫のキーホルダーが揺れている。


 春樹が取ってくれた黒猫。


 体育祭の日、何度も見つけてもらった黒猫。


 借り人競争で、春樹が自分を選んでくれた理由になった黒猫。


 その黒猫を見ているだけで、胸の奥が静かに温かくなる。


「なつき」


 亜衣が隣から小声で呼んだ。


「また黒猫見てた」


「……うん」


「体育祭から、黒猫見る時間増えたよね」


「そうかな」


「うん。見てる時の顔が違う」


「どんな顔?」


「春樹くん思い出してますって顔」


 なつきは一気に頬が熱くなる。


「亜衣ちゃん」


「でも、いい顔だよ」


 からかうような言い方なのに、声は優しかった。


 なつきは黒猫に指先で触れた。


「体育祭、終わっちゃったんだね」


「うん」


「ちょっと寂しい」


「分かる。でも、なつきにとってはかなり大きい体育祭だったでしょ?」


 なつきは少し黙った。


 大きい。


 その言葉は、とても合っていた。


 春樹に見つけてもらえた。


 紅組で声を出せた。


 前列に立てた。


 田辺や島中を本気で応援できた。


 白組が勝って悔しいと思えた。


 美優や白石祐衣が春樹の近くにいても、逃げずに見られた。


 そして、春樹に「見つける」と言ってもらえた。


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


「大きかった」


 亜衣は満足そうに笑った。


「よし」


「よし?」


「ちゃんと言えたから」


 なつきは照れながら笑った。


   ◇


 昼休みになると、体育祭の話はまた自然に教室中へ広がった。


 終わったはずなのに、話題は尽きない。


 むしろ、一日置いたことで、昨日より落ち着いて思い出せるようになったのかもしれない。


「あの借り人競争、やっぱり大國のやつが一番盛り上がったよな」


 島中が弁当を開きながら言った。


 なつきの箸が止まる。


 田辺が苦笑する。


「お題が強すぎたんだよ。『最近、よく見つける人』って」


 圭が机を軽く叩きそうになり、亜衣に目で止められた。


「しかも春樹が横田さんを連れてくるんだぞ。そりゃ盛り上がるだろ!」


「圭くん、声量」


「小声!」


「小声じゃないわね」


 茜が静かに言う。


 圭は口を押さえた。


 春樹は弁当を食べながら、不思議そうに首を傾げている。


「そんなに?」


「そんなにだよ」


 圭が即答する。


 紅秋がため息を吐いた。


「春樹はもう少し、自分の行動が周囲にどう見えるか考えた方がいい」


「考えてる」


「足りない」


「そう?」


「そうだ」


 春樹はやっぱり分かっていない顔をしていた。


 なつきは恥ずかしさで視線を落としそうになる。


 けれど、完全には逃げなかった。


 黒猫に触れながら、小さく言う。


「……嬉しかったよ」


 その声に、近くの空気が少しだけやわらかく静まった。


 春樹がなつきを見る。


「うん」


「見つけてくれて」


 言えた。


 昼休みの教室で。


 みんながいる場所で。


 声は小さかったけれど、ちゃんと言えた。


 春樹は短く頷いた。


「うん」


 圭が机に突っ伏した。


「春樹となつき、強い……」


「圭くん、実況しない」


 亜衣が言う。


 田辺は照れたように目を逸らし、島中は「青春だな」と呟いてから田辺に肘で小突かれた。


 茜は優しく微笑んでいる。


 なつきの頬は熱い。


 でも、嫌ではなかった。


 体育祭の日の出来事が、ただ恥ずかしい記憶ではなく、ちゃんと大切な思い出として教室に残っている。


 そう感じられた。


「でもさ」


 亜衣が話題を少し変えるように言った。


「体育祭が終わったら、次は中間考査だよね」


 その一言で、教室の空気が一気に現実へ引き戻された。


 圭が顔を上げる。


「やめろ、亜衣」


「現実だよ」


「体育祭の余韻を返して」


 紅秋が冷静に言う。


「余韻で点数は取れない」


「紅秋!」


 田辺も顔をしかめる。


「テストか……体育祭で頭から抜けてたな」


 島中が頷く。


「抜けてたっていうか、入ってたかも怪しい」


 茜が静かに言う。


「入っていなかったなら、これから入れ直せばいいわ」


「茜ちゃん、強い」


 亜衣が感心したように言った。


 なつきは笑いながらも、少しだけ背筋を伸ばした。


 体育祭は終わった。


 日常が戻ってくる。


 勉強も、授業も、小テストも、中間考査も。


 でも、それは嫌なことばかりではない気がした。


 体育祭で少しだけ変わった自分のまま、また日常へ戻れる。


 それが、少し嬉しかった。


   ◇


 放課後。


 なつきは図書室へ向かった。


 体育祭の片付けもほとんど終わり、放課後練習もなくなった校舎は、少し静かだった。


 窓から見える校庭には、もう紅白の旗はない。


 白線は薄くなり、普通のグラウンドへ戻っている。


 昨日まであれほど熱を持っていた場所が、少しずつ日常に戻されていく。


 そのことが、なつきには少し寂しかった。


 けれど、胸の中の熱まで消えたわけではない。


 借り人競争で春樹と並んで走ったこと。


 応援合戦で声を出したこと。


 閉会式で紅組が負けて悔しかったこと。


 校門で春樹に「見つけてくれてありがとう」と言ったこと。


 全部が、まだなつきの中に残っている。


 図書室の扉を開けると、紙の匂いと静かな空気が迎えてくれた。


 体育祭の校庭とは正反対の場所。


 でも、なつきにとっては同じくらい大切な場所になっていた。


 カウンターには白石祐衣がいた。


「あ、横田さん」


「祐衣さん、こんにちは」


「こんにちは。体育祭、お疲れ様でした」


「祐衣さんも、お疲れ様」


 祐衣は柔らかく微笑む。


「紅組の応援、とても印象に残っています。前列で、しっかり声を出していましたね」


 なつきは少し照れた。


「ありがとう。緊張したけど、亜衣ちゃん達がいたから」


「それでも、前を向いていたのは横田さん自身だと思います」


 祐衣の言葉は静かで、まっすぐだった。


 なつきは胸の奥が温かくなる。


「ありがとう。祐衣さんにそう言ってもらえると嬉しい」


 祐衣は少しだけ照れたように笑う。


 それから、声をさらに柔らかくした。


「大國くんなら、奥の棚にいますよ」


 なつきは一瞬固まった。


「えっ」


「本を探していました」


「そ、そうなんだ」


「体育祭のあとだから、静かな本を探しているみたいでした」


 なつきは思わず笑った。


「春樹くんらしいね」


「はい」


 祐衣も小さく笑う。


 そして、ほんの少しだけ間を置いて言った。


「借り人競争も、大國くんらしかったです」


 なつきの顔が熱くなる。


「見てた?」


「記録係でしたから」


「そっか」


「派手な選び方ではないのに、ちゃんと理由がある感じがしました。黒猫も、横田さんも、大國くんの中では自然につながっていたのだと思います」


 祐衣の言葉に、なつきは息を止めた。


 祐衣は優しい。


 けれど、時々とても鋭い。


 春樹のことも、なつきのことも、静かに見ている。


「……うん」


 なつきは小さく頷いた。


「私も、そうだったら嬉しい」


 祐衣は穏やかに微笑んだ。


「奥にいますよ」


「ありがとう」


   ◇


 奥の棚へ向かうと、春樹がいた。


 背の高い本棚の前で、静かに背表紙を見ている。


 制服姿の春樹。


 体操服で走っていた春樹とは違う。


 借り人競争で迎えに来てくれた春樹とも違う。


 でも、全部同じ春樹だった。


 なつきは少しだけ息を吸った。


「春樹くん」


 春樹が振り返る。


「横田さん」


「本、探してるの?」


「うん」


「どんな本?」


「静かな本」


「体育祭のあとだから?」


「うん。昨日まで、うるさかったから」


 春樹らしい答えに、なつきは思わず笑った。


「でも、楽しかったね」


「うん」


 短い返事。


 けれど、ちゃんと同じ時間を思い出しているようだった。


 なつきは黒猫に触れた。


「借り人競争のこと、今日もみんなに言われたね」


「うん」


「恥ずかしかった」


「ごめん」


「違うの」


 なつきは首を横に振った。


「謝ってほしいわけじゃないよ。恥ずかしいけど、嫌じゃなかった」


 春樹はなつきを見ていた。


 なつきは、もう少しだけ勇気を出す。


「嬉しかった」


「うん」


「最近、よく見つける人って言われて……私を選んでくれたの、本当に嬉しかった」


 図書室の奥は静かだった。


 カウンターの方から、祐衣が本を整理する音が小さく聞こえる。


 それ以外は、ほとんど音がない。


 だから、自分の声が余計にはっきり聞こえた。


「黒猫だけじゃなくて」


 なつきは黒猫に触れた。


「私のことも、見つけてくれてる気がしたから」


 言った瞬間、顔が熱くなる。


 でも、逃げなかった。


 春樹は少し黙った。


 その沈黙は、気まずいものではなかった。


 春樹が言葉を探している沈黙。


 なつきは待った。


 急かさずに。


 図書室の静けさの中で。


 そして春樹は、静かに言った。


「見つけてる」


 なつきの胸が、大きく鳴った。


「……うん」


「黒猫も」


「うん」


「横田さんも」


 短い言葉。


 けれど、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。


 なつきは一瞬、何も言えなかった。


 泣きそうになるほど嬉しいのに、ここで泣くのは違う気がして、必死に息を整える。


「ありがとう」


 ようやく言えた。


 春樹は頷いた。


「うん」


   ◇


 それからしばらく、二人で本を見た。


 会話は多くなかった。


 けれど、沈黙は気まずくなかった。


 春樹が本を取り、なつきが背表紙を読む。


 時々、気になった本を見せ合う。


「これ、横田さん好きそう」


「本当?」


「うん。ゆっくり進む話」


「私、ゆっくり進む話好きそう?」


「うん」


 なつきは少し笑った。


「当たってるかも」


 春樹も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 なつきも棚から一冊取る。


「じゃあ、春樹くんはこれ」


「どうして?」


「淡々としてそうだけど、言葉がきれいそうだから」


 春樹は受け取って、表紙を見る。


「読む」


「本当?」


「うん」


 たったそれだけで、胸が温かくなる。


 体育祭の大きな歓声とは違う。


 静かな嬉しさ。


 本棚の間でしか生まれないような、小さくてやわらかい時間だった。


 なつきは、ふと本を胸に抱えた。


「体育祭、終わって寂しいけど」


「うん」


「こういう時間に戻れるのも、嬉しいかも」


 春樹は少しだけなつきを見る。


「図書室?」


「うん」


「俺も」


 なつきの胸がまた鳴った。


「春樹くんも?」


「うん。落ち着く」


「そっか」


「横田さんと話すのも」


 なつきは息を止めた。


 春樹は、何でもないことのように言った。


 でも、なつきにとっては何でもなくなかった。


「……嬉しい」


 声が小さくなる。


 春樹は頷いた。


「うん」


 その短い返事さえ、今は優しく聞こえた。


   ◇


 図書室を出る頃、廊下には夕方の光が差していた。


 カウンターで祐衣が二人の本を貸出処理してくれる。


「二人とも、また感想を聞かせてくださいね」


「うん」


「はい」


 なつきと春樹が同時に返事をした。


 祐衣が少しだけ笑う。


 図書室を出ると、亜衣が廊下の窓際にいた。


「おかえり」


「亜衣ちゃん、待ってたの?」


「うん。茜ちゃんは委員会。私は、なつきの顔を確認する係」


「また係」


 亜衣はなつきの顔を見るなり、にやっと笑った。


「いい顔」


「そんなに?」


「うん。体育祭の余韻じゃなくて、図書室の余韻」


 なつきは赤くなる。


 春樹は不思議そうにしていた。


「何が?」


 亜衣は笑って首を振る。


「春樹くんはそのままでいて」


「そう?」


「うん」


 廊下の向こうから紅秋が来た。


「春樹、帰るぞ」


「うん」


 春樹はなつきを見る。


「また明日」


「うん。また明日、春樹くん」


 春樹が歩いていく。


 なつきはその背中を見送った。


 体育祭は終わった。


 校庭の熱も、紅白の旗も、借り人競争の歓声も、少しずつ日常へ戻っていく。


 でも、何もなかったことにはならない。


 見つけてもらえたこと。


 自分から見つけると言えたこと。


 紅組で声を出せたこと。


 そして今日、図書室で静かに言ってもらえたこと。


 ――黒猫も、横田さんも。


 なつきは黒猫をそっと撫でた。


 日常に戻っても、距離は少し変わっている。


 前より少しだけ、春樹の隣に近い場所。


 なつきはその温かさを抱えたまま、夕方の廊下を歩き出した。

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