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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第108話 少し変わった教室で、同じ名前を呼ぶ



 体育祭が終わって数日が経った。


 校庭の白線は、もうほとんど薄くなっていた。


 朝の光に照らされたグラウンドは、体育祭の日とは違って静かだった。赤い旗も白い旗もない。応援席の椅子もない。放送席も片づけられ、カラーコーンも体育倉庫の中へ戻されている。


 あの日、あれだけ声が響いていた場所が、何事もなかったみたいに普通の校庭へ戻っている。


 それが、なつきには少し不思議だった。


 体育祭は終わった。


 紅組も白組も、もうない。


 けれど、胸の奥にはまだ残っている。


 手拍子の音。


 圭の声。


 田辺の低い応援。


 島中が走った時の真剣な顔。


 亜衣が隣で笑ってくれたこと。


 美優の白組での明るい声。


 白石祐衣の静かな拍手。


 そして、春樹が自分を見つけてくれた瞬間。


 ――最近、よく見つける人。


 なつきは教室の窓際で、鞄の横に揺れる黒猫へそっと触れた。


 体育祭が終わっても、黒猫はここにいる。


 春樹が取ってくれた黒猫。


 体育祭で、春樹がなつきを見つける目印のようになった黒猫。


 ただのキーホルダーのはずなのに、今ではもう、なつきの日常の一部になっていた。


「なつき」


 隣から亜衣の声がした。


 振り返ると、亜衣が鞄を机に置きながらこちらを見ていた。


「おはよう」


「おはよう、亜衣ちゃん」


「また黒猫見てた?」


「……うん」


「最近ほんと、黒猫を見る時間長いね」


 亜衣はにやっと笑った。


 なつきは少し頬を赤くする。


「そんなに?」


「うん。見てる時の顔が完全に違う」


「どんな顔?」


「春樹くん思い出してますって顔」


「亜衣ちゃん」


「でもいい顔」


 からかうような言い方だった。


 けれど、その声には優しさが混ざっていた。


 なつきは黒猫から指を離し、少しだけ笑う。


「体育祭が終わったの、まだ変な感じ」


「分かる。あれだけ練習して、あれだけ騒いで、終わったら普通に授業だもんね」


「うん」


「でも、なつきにとってはかなり大きかったでしょ」


 亜衣の言葉に、なつきは少し黙った。


 大きかった。


 それは本当にそうだった。


 春樹と白組・紅組に分かれて、胸が何度も揺れた。


 美優や祐衣が春樹の近くにいるところを見て、少し苦しくなった。


 でも、紅組で声を出した。


 仲間として応援した。


 負けて悔しいと思えた。


 春樹に見つけてもらえた。


 そして、自分からも春樹を見つけると言えた。


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


「大きかった」


 亜衣は満足そうに笑った。


「よし」


「よし?」


「ちゃんと言えたから」


 そう言われて、なつきは少し照れた。


 最近、亜衣はよくそういうことを言う。


 ちゃんと言えた。


 正直でよろしい。


 えらい。


 子ども扱いみたいで少し恥ずかしいのに、その言葉に救われることも多かった。


 教室の前方では、圭がまだ体育祭の話をしていた。


「だからさ、紅組の応援合戦、絶対よかったって!」


 圭の声は、体育祭直後よりは戻ってきている。


 けれど、まだ少しだけかすれていた。


 田辺が苦笑する。


「お前、まだそれ言ってんのか」


「言うだろ! 紅組魂だぞ!」


 島中が椅子にもたれて言う。


「魂はもういいから、声戻せ」


「戻ってきた!」


「まだかすれてるだろ」


「これは余韻!」


 紅秋が静かに教科書を机へ置いた。


「余韻で授業は受けられない」


「紅秋、現実を持ってくるな!」


「現実は持ってこなくても来る」


「つらい!」


 教室に笑いが広がる。


 なつきも笑った。


 体育祭前の教室とは、少しだけ空気が違う。


 それぞれが、あの日の思い出を持ち帰っている。


 だから、同じ机に座っていても、どこか少し近くなった気がした。


 紅組で一緒だった圭、田辺、島中。


 白組で春樹を支えていた紅秋、茜。


 それぞれの立場はもう消えたはずなのに、体育祭でできたつながりはまだ教室の中に残っている。


「なつき」


 茜が後ろから声をかけてきた。


「おはよう」


「おはよう、茜ちゃん」


「まだ黒猫を見ていたの?」


「茜ちゃんまで」


 茜は穏やかに笑った。


「黒猫を見るなつきの顔、分かりやすいもの」


「そんなに?」


「ええ」


 亜衣がすぐに頷く。


「でしょ?」


「二人して……」


 なつきは恥ずかしくて少し俯いた。


 けれど、黒猫を隠そうとは思わなかった。


 むしろ、鞄についていることが嬉しかった。


 この黒猫があるから、春樹が見つけてくれた。


 体育祭が終わっても、その記憶が消えずにここにある。


   ◇


 しばらくして、春樹が教室に入ってきた。


 なつきは自然に顔を上げた。


 春樹はいつも通り、静かに教室へ入ってくる。


 制服姿。


 鞄を肩にかけ、少し眠そうでもなく、特別急いでいるわけでもない。


 体育祭の日の体操服姿とは違う。


 けれど、なつきの目には、昨日までの春樹が重なった。


 借り人競争でこちらへ走ってきた春樹。


 リレーでバトンを受け取った春樹。


 白組の列の中で、なつきを見つけてくれた春樹。


 その春樹が、今はいつもの教室にいる。


 日常に戻ったはずなのに、なつきの中では戻りきっていなかった。


「おはよう」


 春樹が席に近づいて、短く言った。


 なつきは少しだけ背筋を伸ばす。


「おはよう、春樹くん」


 春樹の視線が、自然に鞄の黒猫へ向いた。


「今日もいる」


「うん」


「見つけた」


 その一言に、胸が跳ねた。


 教室の中なのに。


 体育祭は終わったのに。


 春樹はまだ、黒猫を見つけてくれる。


 なつきは少しだけ笑って、黒猫に触れた。


「私も、春樹くん見つけたよ」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 前より自然に言えた。


 もちろん恥ずかしい。


 でも、言ってはいけないことではないと思えた。


 春樹は小さく頷いた。


「うん」


 ただそれだけ。


 けれど、なつきには十分だった。


 亜衣が隣で完全に口元を押さえている。


 圭は何か言いたそうにして、田辺に肩を掴まれていた。


「今はやめとけ」


「でも……!」


「やめとけ」


 島中が小さく笑う。


「もう教室の空気が甘い」


 紅秋が静かに言った。


「朝から騒ぐな」


「紅秋くんも今の聞いてたでしょ?」


 亜衣が言うと、紅秋は一瞬だけ目を逸らした。


「聞こえた」


「感想は?」


「春樹は相変わらずだ」


 春樹は首を傾げる。


「何が?」


「そういうところだ」


「そう?」


 また笑いが起きた。


 なつきは恥ずかしさで頬を熱くしながらも、笑っていた。


 以前なら、こうして周囲に見られることが怖かった。


 春樹とのやり取りを誰かにからかわれるだけで、心臓が痛くなるほどだった。


 でも今は、少し違う。


 恥ずかしい。


 でも、嫌ではない。


 それはきっと、みんなが笑いながらも、なつきの気持ちを雑に扱わないでいてくれるからだった。


   ◇


 朝のホームルームが始まる前、担任が教室に入ってきた。


 体育祭後の気の抜けた空気を見て、少しだけ苦笑する。


「はい、皆さん。体育祭の余韻が残っているのは分かりますが、そろそろ通常運転に戻ってください」


 教室のあちこちから、小さな呻き声が漏れた。


「戻りたくない」


「体育祭のままでいい」


「授業つらい」


 担任は笑いをこらえるようにしながら、黒板に予定を書き始めた。


「それから、来週以降は中間考査に向けた確認も入ってきます」


 その瞬間、教室の空気が一気に重くなった。


「出た」


 圭が机に沈む。


「中間考査……」


 田辺が遠い目をする。


「体育祭で頭から抜けたな」


 島中が頷く。


「入ってたかどうかも怪しい」


 茜がすぐに言う。


「入っていなかったなら、これから入れればいいわ」


「茜ちゃん、強い」


 亜衣が言った。


 茜は真面目に返す。


「今からなら間に合うでしょう」


「分かってるけど、心が体育祭に置いていかれてる」


「心も連れてきなさい」


「はい」


 教室に笑いが戻る。


 なつきは黒板に書かれた「中間考査」という文字を見つめた。


 体育祭が終わったら、次はテスト。


 日常は立ち止まってくれない。


 でも、不思議とそれが嫌ではなかった。


 体育祭で少し変われた自分のまま、また勉強や授業に戻っていく。


 それも、悪くないと思えた。


 斜め前の春樹を見る。


 春樹はもうノートを出していた。


 切り替えが早い。


 春樹らしい。


 なつきも慌ててノートを出す。


 その時、春樹が少しだけ振り返った。


「横田さん」


「うん?」


「中間、また勉強する?」


 なつきは一瞬、言葉を失った。


 春樹から。


 勉強の話。


 それ自体は不思議ではない。


 これまでも、春樹に教えてもらうことは何度もあった。


 でも、体育祭後のこのタイミングで、自然に「また」と言ってもらえたことが嬉しかった。


「うん」


 なつきは頷いた。


「したい」


 春樹は短く返す。


「分かった」


 それだけだった。


 でも、なつきの胸は温かくなる。


 体育祭で近づいた距離は、勉強の日常にも続いていく。


 それが、少しだけ分かった気がした。


 亜衣が隣から小声で言う。


「今の聞いた?」


「聞いたも何も、私に言ってたよ」


「春樹くんから勉強のお誘い」


「お誘いってほどじゃないよ」


「でも『また』って言った」


「……うん」


「よかったね」


 なつきはノートを開きながら、小さく頷いた。


「うん」


   ◇


 一時間目が始まる。


 教室はゆっくりと授業の空気へ戻っていった。


 チョークの音。


 ページをめくる音。


 ペンを走らせる音。


 体育祭の声援とは違う、日常の音。


 けれど、なつきにはその音も少しだけ心地よかった。


 昨日までの余韻が、急に消えるわけではない。


 でも、日常に戻ることで、体育祭の思い出がよりはっきり見えてくる。


 あの日が特別だったからこそ、今日の普通が少し愛おしい。


 先生が問題を黒板に書く。


 なつきはノートに写しながら、時々春樹の背中を見る。


 春樹はいつも通り。


 でも、なつきの中では少し違う。


 春樹が「見つけてる」と言ってくれた人。


 黒猫も、横田さんも、と言ってくれた人。


 勉強するかと自然に聞いてくれる人。


 なつきは、春樹の背中を見ながら思った。


 まだ隣ではない。


 でも、前より少しだけ近い。


 その距離が嬉しかった。


 授業中、春樹が一度だけ振り返った。


 目が合う。


 なつきは今度も、すぐには逸らさなかった。


 ほんの少しだけ笑う。


 春樹も、小さく頷く。


 それだけで、また胸が温かくなる。


 体育祭が終わっても。


 紅組と白組が消えても。


 見つける距離は、ちゃんと残っていた。

★★★★★

 一時間目が終わる。


 チャイムが鳴った瞬間、それまで静かだった教室は一気に息を吹き返した。


「終わったぁ……」


 圭が大きく机へ突っ伏す。


「まだ一時間目だぞ」


 田辺が呆れたように笑う。


「一時間目だからだよ! 体育祭終わった直後の授業は重すぎる!」


「気持ちは分かる」


 島中も伸びをしながら窓の外を見た。


 青空が広がっている。


 体育祭の日も、こんな空だった。


 あの日なら、この時間は競技の準備をしていた頃だろう。


 そんなことを考えたのは、島中だけではなかったらしい。


「今頃なら応援合戦の練習してた時間だよな」


 誰かが言う。


「いや、もう本番終わってるだろ」


「そうだった」


 教室のあちこちで笑いが起きた。


 体育祭は終わった。


 なのに、みんなの頭の中にはまだ残っている。


 あの一日が。


 それだけ濃い時間だったということだ。


 なつきも窓の外を見た。


 校庭は静かだった。


 体育の授業を受ける別の学年が、小さく見える。


 歓声もない。


 放送もない。


 でも、目を閉じれば思い出せる。


 あの日の音を。


「なつき」


 亜衣が椅子ごと近づいてくる。


「ぼーっとしてる」


「ちょっと思い出してた」


「体育祭?」


「うん」


「私も」


 二人は窓の外を見る。


 少しだけ沈黙が落ちる。


 その沈黙は気まずくない。


 同じ景色を見て、同じことを思い出している。


 それだけで十分だった。


「体育祭ってさ」


 亜衣がぽつりと言う。


「終わった次の日より、二日後の方が寂しくない?」


「……分かる」


「昨日は余韻でいっぱいだったけど、今日は『終わったんだな』って感じ」


「うん」


 なつきは頷いた。


 昨日はまだ、余韻の中にいた。


 今日は、日常へ戻り始めている。


 だからこそ、体育祭が本当に終わったことを実感してしまう。


「でも」


 亜衣が笑う。


「なつきは終わってないじゃん」


「え?」


「春樹くんとの距離」


「もう」


 なつきは頬を赤くする。


「体育祭終わってからの方が、自然に話せてる」


「……そうかな」


「そうだよ」


 茜も後ろから加わる。


「ええ。前よりずっと自然」


「茜ちゃんまで」


「事実よ」


 茜は穏やかだった。


 余計に照れる。


「体育祭がきっかけだったのね」


「うん」


 なつきは素直に頷いた。


「少しだけ」


 その「少しだけ」が、自分らしい気がした。


   ◇


 二時間目の休み時間になると、教室はさらに賑やかになった。


「写真見せろよ!」


 圭がスマホを持ったクラスメイトの周りへ集まっている。


「うわ、このリレー速っ!」


「島中、顔怖い」


「真剣なんだよ」


「田辺の綱引き顔やば」


「必死だからな」


 笑い声が次々と広がる。


 なつきも亜衣と一緒に写真を見せてもらった。


 応援席。


 綱引き。


 リレー。


 紅組集合写真。


 白組集合写真。


 そして。


「あ」


 借り人競争。


 その写真が画面に映った。


 春樹がカードを持っていて。


 その隣には、少し恥ずかしそうに歩くなつき。


 黒猫が揺れている。


「これだ!」


 圭が嬉しそうに指を差した。


「伝説の一枚!」


「伝説って」


 亜衣が笑う。


「でもいい写真」


 茜も静かに頷いた。


「自然ね」


 田辺も画面を覗く。


「横田、めちゃくちゃ照れてるな」


「言わないで」


「いや、本当に」


 島中まで笑う。


「大國は普通なのに」


「春樹くんは普通だから……」


 なつきが小さく言う。


 その時だった。


「何見てる?」


 春樹が後ろから声をかけた。


 なつきの肩がぴくっと動く。


 圭がすぐに画面を見せた。


「これ!」


 春樹は写真を見る。


 少しだけ黙った。


「撮られてたんだ」


「そこ?」


 圭が笑う。


「感想そこ?」


「うん」


「普通『恥ずかしい』とかじゃないの?」


 春樹は少し考えた。


「いい写真」


 教室が一瞬静かになった。


 なつきの鼓動が速くなる。


「いい写真?」


 亜衣が聞く。


「うん」


 春樹は画面を見る。


「横田さん、笑ってるから」


 なつきは思わず写真を見た。


 本当だ。


 照れている。


 でも、ちゃんと笑っていた。


 自分では気づかなかった。


「……本当だ」


「うん」


 春樹はそれだけ言って、自分の席へ戻ろうとした。


 圭が頭を抱える。


「春樹ぃぃぃ……!」


 紅秋がため息をついた。


「相変わらずだ」


「何が?」


「それだ」


 また教室に笑いが起きる。


 なつきは写真をもう一度見た。


 あの日。


 自分はこんな顔で笑っていたんだ。


 春樹の隣で。


 知らなかった。


 でも、それが少し嬉しかった。


   ◇


 昼休み。


 机を寄せる音が教室中で響く。


 いつものメンバーが自然に集まっていた。


 なつき。


 亜衣。


 茜。


 春樹。


 圭。


 田辺。


 島中。


 紅秋。


 少し離れた席には蓮も来ている。


「体育祭終わったしさ」


 圭が弁当を開きながら言った。


「打ち上げやろう!」


「またその話?」


 田辺が笑う。


「いいじゃん!」


 島中も頷く。


「まあ、一回くらいなら」


 亜衣が乗る。


「楽しそう」


 茜も少し考えた。


「みんなの予定が合えば」


 圭はさらに身を乗り出した。


「紅組だけじゃなくて白組も!」


「合同?」


「うん!」


 蓮が笑う。


「それなら俺も行けるな」


 春樹は静かに弁当を食べている。


 圭が聞く。


「春樹は?」


「みんなが行くなら」


「またそれ!」


 笑いが起きた。


 なつきはその輪を見ながら、小さく笑う。


 春樹らしい。


 でも、その「みんな」の中に、自分もいる。


 そう思うだけで嬉しい。


「美優ちゃんも誘う?」


 亜衣が聞く。


 蓮が頷く。


「もちろん」


「祐衣ちゃんも?」


「図書委員だしね」


 なつきも自然に言った。


「祐衣さんも来てくれたら嬉しい」


 その言葉に、春樹が小さく頷いた。


「うん」


「祐衣、喜ぶと思う」


 春樹がそう言う。


 なつきは少し安心した。


 祐衣とは図書室でたくさん話すようになった。


 でも、まだ友達と言い切るには少しだけ距離がある。


 だから、一緒に笑える時間が増えたら嬉しいと思った。


「場所どうする?」


 島中が聞く。


「ファミレス?」


「カラオケ?」


「ボウリング?」


 意見が飛び交う。


 教室の空気がまた明るくなる。


 体育祭は終わった。


 でも、そこで終わりではない。


 あの日できたつながりを、これからも続けていこうと、誰も口には出さないけれど思っている。


 そんな空気だった。


   ◇


 昼食も終わりかけた頃。


 教室は少しだけ落ち着きを取り戻していた。


 なつきはお茶を飲みながら、ふと春樹を見た。


 春樹もこちらを見る。


 目が合う。


 以前なら、慌てて逸らしていた。


 でも今日は違う。


 なつきは少しだけ笑った。


 春樹も、小さく笑った。


 ほんの少しだけ。


 口元が緩む程度。


 でも、それだけで十分だった。


「春樹くん」


「何?」


「また今度」


「うん」


「勉強、よろしくね」


 春樹は短く頷いた。


「うん」


「一緒にやろう」


 その言葉は、とても自然だった。


 体育祭前なら、こんなに自然には言えなかった。


 なつきの胸が静かに温かくなる。


 亜衣が横から小声で囁いた。


「今の、よかった」


「聞いてたの?」


「隣だもん」


 なつきは照れながら笑った。


 教室には笑い声が響く。


 誰かが走る音。


 購買へ向かう足音。


 友達を呼ぶ声。


 先生を見つけて慌てる声。


 そんな、何気ない昼休み。


 でも、なつきにとっては特別だった。


 体育祭が終わっても。


 日常へ戻っても。


 春樹との距離は、ちゃんと昨日より近づいている。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 その歩幅が、なつきにはちょうどよかった。


 ――その頃。


 図書室では、本を整理しながら白石祐衣が窓の外を眺めていた。


「今日は、来るかな……」


 小さく呟いたその声は、誰にも届かなかった。


 けれど、その穏やかな期待が、放課後へと静かにつながっていくのだった。

★★★★★

 放課後のチャイムが鳴った。


 その音は、体育祭前とは少し違って聞こえた。


 数日前までなら、放課後になった瞬間、校庭へ向かう生徒達の足音が廊下に溢れていた。


 紅組の応援練習。


 白組の隊形確認。


 リレーのバトン練習。


 借り人競争の説明。


 放課後は、次の何かへ急いで向かう時間だった。


 けれど、今は違う。


 チャイムが鳴っても、廊下の空気は少しゆっくりしていた。


 部活へ向かう生徒はいる。


 委員会へ向かう生徒もいる。


 けれど、体育祭前のような熱に押される感じはない。


 学校が、少しずつ本来の速度を取り戻している。


 なつきは机の中を確認し、教科書を鞄にしまった。


 鞄の横で黒猫が小さく揺れる。


 その揺れを見るだけで、少しだけ胸が温かくなる。


 今日は図書室へ行くつもりだった。


 昼休みに、打ち上げの話が出た。


 春樹と、また勉強する話もした。


 そして、昼休みの終わりに、図書室にいる白石祐衣のことも少し思い出していた。


 体育祭が終わった後、図書室へ行くと、祐衣が静かに迎えてくれる。


 春樹が奥の棚にいる。


 そんな時間が、最近少しだけ特別になっていた。


「なつき、図書室?」


 亜衣が鞄を肩にかけながら聞いてきた。


「うん。昨日借りた本、もう少し見たいのと……」


「春樹くん?」


「……それも、少し」


 なつきが正直に言うと、亜衣は満足そうに笑った。


「いいね。否定しないなつき」


「もう否定しても、亜衣ちゃん分かるでしょ」


「分かる」


 即答だった。


 茜は委員会の資料を手にしていた。


「私は今日は委員会だから、先に行くわね」


「うん。茜ちゃん、頑張って」


「なつきも、図書室でちゃんと本を選んでらっしゃい」


「本を?」


「ええ。本を」


 茜は意味ありげに微笑んだ。


 亜衣が横で小さく吹き出す。


「茜ちゃん、言い方が上品にからかってる」


「からかってはいないわ」


「ほんと?」


「半分くらいは」


「半分!」


 なつきは顔を赤くしながら笑った。


 教室の前方では、圭がまだ体育祭打ち上げについて話していた。


「だからさ、ファミレスでいいじゃん!」


 田辺が言う。


「人数多いと席取れるか?」


 島中が腕を組む。


「予約必要じゃね?」


 紅秋が静かに口を挟む。


「そもそも中間考査前に大人数で長時間集まるのは現実的ではない」


「紅秋!」


 圭が嘆く。


「また現実!」


「現実は避けても来る」


「この会話、朝もした!」


 笑いが起きる。


 春樹はその横で、鞄を持って立っていた。


 なつきがちらりと見ると、春樹もこちらを見た。


 目が合う。


 春樹の視線が黒猫へ落ちる。


 そして、またなつきへ戻る。


「図書室?」


 春樹が聞いた。


 なつきの胸が小さく跳ねる。


「うん。春樹くんも?」


「うん」


「じゃあ……一緒に行く?」


 言えた。


 少しだけ勇気が必要だった。


 でも、前よりは自然に言えた。


 春樹は短く頷く。


「うん」


 それだけ。


 けれど、なつきには十分だった。


 亜衣が後ろで小さく両手を握っている。


 圭が何か言いたそうに口を開いたが、田辺に肩を押さえられた。


「今は言うな」


「でも!」


「言うな」


 島中が笑う。


「お前、空気読めるようになれ」


「読んでる!」


「読めてねぇ」


 紅秋が春樹を見る。


「春樹、帰りは忘れるなよ」


「うん」


「本に集中すると時間を忘れるだろ」


「たまに」


「たまにではない」


 春樹は少し首を傾げた。


 その様子に、なつきは思わず笑った。


   ◇


 放課後の廊下は、いつもより少し柔らかかった。


 体育祭前のような急ぎ足は少ない。


 部活へ向かう生徒達の声は聞こえるけれど、それもどこか穏やかだった。


 窓の外には、薄くなった校庭の白線が見える。


 あの日、紅組と白組に分かれて声を出した場所。


 春樹と並んで走った場所。


 今は、夕方の光を浴びて静かに横たわっている。


 なつきは春樹と並んで歩いていた。


 近すぎない。


 でも、以前ほど離れてもいない。


 この距離にも少し慣れてきた気がする。


 春樹の歩く速さは、いつも落ち着いている。


 急ぎすぎず、遅すぎず。


 なつきが横にいると、ほんの少しだけ歩幅を合わせてくれているような気がした。


 借り人競争の時もそうだった。


 ゴールへ向かう時、春樹はなつきの歩幅に合わせてくれた。


 思い出した瞬間、顔が熱くなる。


「横田さん」


「うん?」


「足、まだ痛い?」


「少し」


「体育祭?」


「うん。春樹くんは?」


「少し」


「春樹くんも痛いんだ」


「走ったから」


「そっか」


 当たり前のことなのに、少し嬉しかった。


 春樹もちゃんと疲れている。


 春樹も体育祭を走りきった人なのだ。


「リレー、速かったね」


 なつきが言うと、春樹は少しだけこちらを見る。


「ありがとう」


「声には出せなかったけど、見てた」


「うん」


「紅組だったから」


「うん」


「でも、見てた」


 春樹は頷いた。


「分かった」


「分かった?」


「見てるの、分かった」


 なつきは思わず足を止めそうになった。


「え?」


「リレーの前、見えた」


「私が?」


「うん」


「……そっか」


 胸が熱い。


 声に出せなくても、届いていたのかもしれない。


 見つけるって、そういうことなのかもしれない。


 なつきは黒猫に触れた。


「春樹くんは、よく見つけるね」


「横田さんも」


「私も?」


「うん。見つけてた」


 なつきは少しだけ笑った。


「うん。見つけてた」


 廊下の向こうで、部活へ向かう男子生徒達が賑やかに走っていく。


 その声が少し遠ざかると、また二人の間に静けさが戻った。


 でも、その静けさはもう怖くなかった。


   ◇


 図書室では、白石祐衣が本を整理していた。


 放課後の図書室は、昼間より少しだけ影が深い。


 窓から差し込む夕方の光が、机の端や本棚の背を淡く照らしている。


 紙の匂い。


 静かな空気。


 カウンターの上に積まれた返却本。


 その中で、祐衣は一冊ずつ丁寧に本を確認していた。


 体育祭が終わってから、図書室に来る生徒は少し減っている。


 みんな疲れているのだろう。


 部活へ行く人も、すぐ帰る人も多い。


 それでも、祐衣は今日、少しだけ期待していた。


 来るかもしれない。


 横田なつき。


 大國春樹。


 体育祭を越えて、二人の距離は少し変わった。


 祐衣はそれを、外から静かに見ていた。


 借り人競争で春樹がなつきを選んだ時、祐衣は記録係として近くにいた。


 驚いた。


 でも、どこか納得もした。


 春樹は、派手なことをする人ではない。


 けれど、見ていないようで見ている人だ。


 黒猫を。


 なつきを。


 そして、なつきが春樹を見つける視線も。


 祐衣は本を一冊棚に戻し、窓の外を見た。


 校庭は静かだった。


「今日は、来るかな……」


 昼休みの終わりにも呟いた言葉を、もう一度胸の中で繰り返した。


 その時、図書室の扉が開いた。


 祐衣が顔を上げる。


 入ってきたのは、なつきと春樹だった。


「あ」


 思わず小さな声が出る。


 なつきが少し照れたように笑う。


「祐衣さん、こんにちは」


「こんにちは、横田さん。大國くんも」


「うん」


 春樹が短く返す。


 祐衣は二人を見て、少しだけ微笑んだ。


「今日は二人で?」


 なつきの頬がほんのり赤くなる。


「教室から、一緒に来たの」


「そうですか」


 祐衣はそれ以上からかわなかった。


 けれど、目元は少し柔らかかった。


「返却ですか? それとも貸出?」


「本を見に来た」


 春樹が言う。


「静かな本?」


 祐衣が聞くと、春樹は頷いた。


「うん」


 なつきが小さく笑う。


「やっぱり春樹くん、体育祭後は静かな本なんだね」


「うん」


「分かる気がします」


 祐衣はカウンターに置いた本を揃えながら言った。


「体育祭のあとは、少し静かな物語が読みたくなりますよね」


「祐衣さんも?」


「はい。昨日は少し詩集を読みました」


「詩集……似合う」


 なつきが言うと、祐衣は少しだけ驚いてから、照れたように笑った。


「そうでしょうか」


「うん」


 春樹も短く言う。


「似合う」


 祐衣はさらに少し照れた。


「ありがとうございます」


 その空気が穏やかで、なつきは少し嬉しくなる。


 祐衣は春樹に近い人。


 以前なら、その距離に胸がざわつくことの方が多かった。


 けれど今は、こうして三人で穏やかに話せている。


 それが、少し不思議で、少し嬉しかった。


   ◇


 なつきと春樹は奥の棚へ向かった。


 夕方の図書室は静かだった。


 数人の生徒が自習スペースでノートを開いている。


 窓際の席では、一年生らしい女子が文庫本を読んでいた。


 ページをめくる音が小さく響く。


 なつきは本棚の前で足を止めた。


「今日は、春樹くんが選んでくれる?」


「うん」


「私も選ぶ」


「俺の?」


「うん」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。


 本を選び合う。


 それは、恋愛らしい派手な出来事ではない。


 でも、なつきにはとても特別だった。


 相手の好きそうなものを考える。


 相手がどう感じるか想像する。


 それは、相手を見ていないとできないことだから。


 春樹は棚を見上げた。


 なつきも隣で背表紙を追う。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 沈黙。


 でも、気まずくない。


 本棚を挟んで流れる静かな時間。


 体育祭の歓声とは正反対なのに、なつきの胸は同じくらい温かかった。


「これ」


 春樹が一冊取った。


 なつきに差し出す。


 表紙は淡い水色で、タイトルは静かな雰囲気だった。


「横田さん、好きそう」


「どうして?」


「ゆっくり進む話」


「私、ゆっくり進む話が好きそう?」


「うん」


「当たってるかも」


 なつきは本を受け取る。


 ページを少しめくる。


 目に入る文章は、やわらかくて、少し切ない。


「春樹くん、私の好きそうなの分かってきたね」


「少し」


 その「少し」が嬉しい。


 春樹が、なつきを少しずつ知ってくれている。


 なつきも棚から一冊取った。


「じゃあ、春樹くんはこれ」


 春樹は受け取る。


「どうして?」


「淡々としてるけど、たぶん言葉がきれい。春樹くん、こういうの好きそう」


「読む」


「早い」


「うん」


 なつきは笑った。


「感想、教えてね」


「うん」


「短くてもいいから」


「短いと思う」


「知ってる」


 そう言って二人で少し笑った。


 カウンターの方から、祐衣がその様子をちらりと見ていた。


 すぐに視線を本へ戻す。


 けれど、その口元には小さな笑みがあった。


   ◇


 奥の棚でしばらく本を見たあと、なつきは少しだけ迷ってから聞いた。


「春樹くん」


「何?」


「昼休み、打ち上げの話してたでしょ」


「うん」


「本当に来る?」


「みんなが行くなら」


「春樹くん、そればっかり」


「そう?」


「うん」


 なつきは少し笑った。


「でも、来てくれたら嬉しい」


 言った瞬間、胸が跳ねた。


 けれど、言葉は取り消さなかった。


 春樹はなつきを見た。


「うん」


「うん?」


「行く」


 なつきは目を丸くした。


「みんなが行くなら、じゃなくて?」


「横田さんが嬉しいなら」


 図書室の空気が、一瞬だけ静かになったように感じた。


 なつきの胸が大きく鳴る。


「……それは」


 言葉が詰まる。


 春樹は首を傾げる。


「違う?」


「違わない」


 なつきは小さく言った。


「嬉しい」


「うん」


 春樹は頷いた。


 ただそれだけなのに、なつきには大きすぎた。


 体育祭で春樹が自分を見つけてくれた。


 図書室で、黒猫も横田さんも見つけてると言ってくれた。


 そして今、なつきが嬉しいなら行くと言ってくれた。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 でも、確かに距離が変わっている。


 なつきは本を胸に抱えた。


「じゃあ、ちゃんと予定決めないとね」


「うん」


「中間考査もあるけど」


「勉強もする」


「打ち上げも?」


「うん」


 なつきは笑った。


「忙しいね」


「うん」


「でも、楽しそう」


 春樹は少しだけ口元を緩めた。


「うん」


   ◇


 貸出カウンターへ戻ると、祐衣が二人の本を見て微笑んだ。


「お互いに選んだ本ですか?」


 なつきは頬を赤くしながら頷く。


「うん」


 春樹も短く言う。


「うん」


「素敵ですね」


 祐衣はそう言って、まずなつきの本を受け取った。


「こちらは大國くんが?」


「うん」


「横田さんに合いそうです」


「祐衣さんもそう思う?」


「はい。静かで、でも最後に少し光があるお話です」


「春樹くんが言ってたのと似てる」


 なつきが言うと、春樹は少しだけ祐衣を見る。


「そう?」


 祐衣は微笑んだ。


「大國くんは、言葉は短いですけれど、選び方は丁寧ですよね」


 春樹は首を傾げる。


「そうかな」


「はい」


 次に、春樹の本を処理する。


「こちらは横田さんが?」


「うん」


 祐衣は表紙を見て、少しだけ頷いた。


「大國くんに合いそうです。淡々としているけれど、余白が多い文章なので」


「祐衣さん、すごい」


「本が好きなだけです」


 祐衣は少し照れた。


 なつきは思った。


 祐衣ともっと話したい。


 春樹の近くにいる人としてだけではなく、本の話ができる友達として。


「祐衣さん」


「はい?」


「今度、祐衣さんにも本を選んでほしいな」


 祐衣は少し驚いた顔をした。


 それから、嬉しそうに微笑む。


「私でよければ、ぜひ」


「うん。お願い」


 春樹が横で頷く。


「白石、選ぶの上手い」


「ありがとうございます」


 祐衣は少しだけ目を伏せた。


 その表情が嬉しそうで、なつきも嬉しくなった。


 こうして、少しずつ輪が広がっていく。


 美優や蓮も、きっと打ち上げでまた話せる。


 紅組も白組も終わったけれど、そこから残ったつながりは、まだ続いていく。


   ◇


 図書室を出る頃には、廊下は夕方の色に染まっていた。


 窓から差し込む光が、床に長く伸びている。


 体育祭の後の静かな放課後。


 なつきは借りた本を鞄にしまいながら、黒猫に触れた。


 春樹も隣で本を鞄に入れている。


「横田さん」


「うん?」


「感想、聞く」


「うん。私も聞く」


「短くても?」


「短くても」


「分かった」


 なつきは笑った。


 そこへ、廊下の向こうから亜衣が歩いてきた。


「おかえり」


「亜衣ちゃん、待ってたの?」


「うん。なつきの顔を確認する係」


「それ、昨日も聞いた」


「継続任務です」


 亜衣はなつきの顔を見るなり、にやっと笑った。


「いい顔」


「また?」


「また。今回は体育祭の余韻と図書室の余韻と、本の交換の余韻が混ざってる」


「細かい」


「観察眼です」


 春樹は不思議そうにしている。


「何が?」


 亜衣は笑って首を振った。


「春樹くんはそのままでいて」


「そう?」


「うん」


 そこへ紅秋も来た。


「春樹、帰るぞ」


「うん」


 紅秋はなつきと亜衣を見て、軽く会釈した。


「横田さん、伊藤さん。また明日」


「また明日、紅秋くん」


 亜衣が返す。


 春樹もなつきを見る。


「また明日」


「うん。また明日、春樹くん」


 春樹が歩いていく。


 なつきはその背中を見送った。


 体育祭のような大きな出来事はもう終わった。


 でも、日常の中にも、胸が動く瞬間はある。


 一緒に図書室へ行くこと。


 本を選び合うこと。


 打ち上げに来てくれたら嬉しいと言うこと。


 それに、行くと返してもらえること。


 どれも小さい。


 でも、その小ささがなつきには大切だった。


「なつき」


 亜衣が隣で言う。


「距離、縮んでるね」


 なつきは黒猫をそっと撫でた。


「うん」


 今度は否定しなかった。


「少しずつ」


「少しずつが好きだね」


「うん」


 なつきは夕方の廊下を見た。


「少しずつがいい」


 急がなくていい。


 体育祭のように大きく近づく日もある。


 図書室のように、静かに近づく日もある。


 どちらも、自分達らしい。


 君の隣を目指す日々は、特別な行事の中だけではなく、こんな何気ない放課後にも続いている。


 なつきは本の重みと黒猫の揺れを感じながら、亜衣と一緒に夕方の廊下を歩き出した。

★★★★

 図書室を出たあとの廊下には、夕方の光が長く伸びていた。


 窓から差し込む淡い橙色の光が、床に細く流れている。


 昼間の明るさとは違う。


 体育祭の日の眩しい空とも違う。


 静かで、少しだけ寂しくて、でもどこか温かい光だった。


 なつきは鞄を肩にかけ直した。


 中には、春樹が選んでくれた本が入っている。


 いつもより少しだけ、鞄が重く感じた。


 けれど、それは嫌な重さではなかった。


 春樹が自分のために選んでくれた本。


 なつきが春樹のために選んだ本。


 ただそれだけのことなのに、胸の奥にやわらかい熱が残っている。


 体育祭の借り人競争や応援合戦のような大きな出来事ではない。


 歓声もない。


 拍手もない。


 誰かが見て盛り上がるわけでもない。


 でも、なつきにとっては大切だった。


 本を選び合うという、静かな時間。


 図書室の棚の間で、春樹が「横田さん、好きそう」と言ってくれたこと。


 なつきが「春樹くんはこれ」と差し出した本を、春樹が迷わず「読む」と言ってくれたこと。


 そして。


 ――横田さんが嬉しいなら。


 打ち上げの話をした時、春樹がそう言ってくれたこと。


 思い出しただけで、なつきの頬が熱くなる。


「なつき」


 隣から亜衣が声をかけてきた。


「今、絶対思い出してたでしょ」


「……何を?」


「春樹くん」


「う」


「ほら」


 亜衣は楽しそうに笑った。


 なつきは誤魔化すように黒猫を触る。


「顔に出てる?」


「出てる。かなり」


「そんなに?」


「うん。体育祭の時とは違う顔」


「どう違うの?」


「体育祭の時は、胸がいっぱいで爆発しそうな顔」


「爆発」


「今は、じわじわ温まってる顔」


「それ、分かるような分からないような」


 亜衣は少しだけ真面目な顔になった。


「でも、本当にいい感じだと思う」


「うん」


「春樹くん、前よりなつきに向ける言葉が増えてる」


「そうかな」


「増えてるよ。しかも、ちゃんとなつきが嬉しい言葉」


 なつきは何も言えなかった。


 確かにそうだった。


 春樹の言葉は、いつも短い。


 でも、最近はその短さの中に、以前よりもちゃんとなつきへ向いているものがある。


 見つけてる。


 黒猫も、横田さんも。


 横田さんが嬉しいなら。


 そのどれもが、なつきの胸の中に残っている。


「……嬉しい」


 なつきは小さく言った。


「うん」


 亜衣は頷いた。


「それでいいと思う」


 二人は階段を下りる。


 放課後の校舎には、いろいろな音が混ざっていた。


 部活へ向かう生徒達の足音。


 委員会帰りの生徒の話し声。


 先生に呼び止められている誰かの返事。


 遠くから聞こえる吹奏楽部の音出し。


 体育祭前とは違う、いつもの放課後。


 でも、なつきにはその「いつも」が少しだけ新しく感じられた。


   ◇


 昇降口へ向かう途中、茜と合流した。


 茜は委員会の資料を抱えていて、少しだけ疲れた顔をしていた。


「茜ちゃん、お疲れ様」


「ありがとう。二人も図書室?」


「うん」


 亜衣がすぐに言う。


「なつきと春樹くん、本を選び合ってたよ」


「亜衣ちゃん」


 なつきが慌てる。


 茜は目を細めた。


「そう。素敵ね」


「素敵って」


「本を選び合うのは、相手のことを考える時間でしょう?」


 茜の言葉に、なつきは少し黙った。


 相手のことを考える時間。


 そう言われると、余計に胸が熱くなる。


 春樹は、なつきの好きそうな本を考えてくれた。


 なつきも、春樹の好きそうな本を考えた。


 たった一冊の本。


 でも、その中に相手を見ようとする気持ちがある。


「……うん」


 なつきは頷いた。


「楽しかった」


 茜は柔らかく微笑む。


「ならよかったわ」


 亜衣がにやにやしながら言う。


「あとね、打ち上げの話で、春樹くんが『横田さんが嬉しいなら行く』って」


 なつきは足を止めた。


「亜衣ちゃん!」


 茜もさすがに少し目を丸くした。


「春樹くんが?」


「言った」


「へえ」


 茜の表情が、少しだけ面白そうになる。


「それは……なつき、よかったわね」


「う、うん」


 顔が熱い。


 廊下なのに。


 誰かに聞こえたらどうしようと思う。


 けれど、亜衣も茜も声を大きくはしなかった。


 ちゃんと、なつきの気持ちを守ってくれている。


「でも」


 茜は少し考えるように言った。


「その打ち上げ、やるなら本当に中間考査との兼ね合いを考えた方がいいわね」


「出た、現実担当」


 亜衣が笑う。


「大事よ。せっかく楽しくても、あとで焦ったら台無しになるもの」


「確かに」


 なつきも頷いた。


 体育祭が終わった。


 打ち上げの話が出た。


 春樹との距離も少し変わった。


 でも、学校生活は続く。


 中間考査も近づいている。


 楽しいことだけではない。


 でも、それも含めて日常だった。


「じゃあ」


 亜衣が指を立てる。


「打ち上げは短め。勉強会もセット?」


「体育祭打ち上げ兼、中間考査前決起会?」


 なつきが言うと、亜衣が目を輝かせた。


「それいい!」


 茜も少し笑った。


「現実的ね。ファミレスで少しだけ集まって、そのあと勉強の予定を決めるとか」


「圭くん、絶対嫌がりそう」


「でも紅秋くんがいれば締まるわ」


「春樹くんもいるし」


 亜衣がそう言って、なつきを見る。


 なつきは小さく頷いた。


「春樹くんも、来てくれるって言ってたし」


 言葉にすると、また胸が温かくなる。


   ◇


 一方、その少し前。


 春樹は紅秋と一緒に昇降口へ向かっていた。


 廊下には夕方の光が差している。


 春樹の鞄の中には、なつきが選んだ本が入っていた。


 紅秋は横目で春樹を見た。


「春樹」


「何?」


「本、借りたのか」


「うん」


「横田さんが選んだ本か」


「うん」


 春樹は短く答える。


 紅秋は少しだけため息を吐いた。


「お前、本当に自然にそういうことをするな」


「そういうこと?」


「相手の選んだ本を迷わず借りることだ」


「読みたいと思ったから」


「横田さんが選んだからか?」


 春樹は少し考えた。


「それもある」


 紅秋は足を止めかけた。


 春樹は気づかずに歩いている。


「……春樹」


「何?」


「それを本人に言ったのか?」


「言ってない」


「言わなくていい。今は」


「そう?」


「言ったら横田さんが倒れるかもしれない」


「倒れる?」


 春樹は本気で不思議そうだった。


 紅秋は額に手を当てた。


「体育祭の借り人競争から思っていたが、お前はまっすぐすぎる」


「普通に選んだだけ」


「それが問題なんだ」


「そう?」


「そうだ」


 春樹は少し考える。


 そして、ぽつりと言った。


「横田さん、嬉しそうだった」


「本の話か?」


「うん」


「なら、よかったんじゃないか」


「うん」


 春樹は鞄を少し持ち直した。


「俺も、嬉しかった」


 紅秋は今度こそ足を止めた。


 春樹も気づいて振り返る。


「紅秋?」


「いや」


 紅秋は短く息を吐いた。


「お前も変わってきたな」


「そう?」


「ああ」


 春樹は自覚がないようだった。


 けれど紅秋には分かっていた。


 春樹は以前より、横田なつきのことを自然に言葉へ出すようになっている。


 黒猫を見つけること。


 応援を見ていたこと。


 本を選ぶこと。


 そして、嬉しかったと言えること。


 それは小さい変化かもしれない。


 でも、春樹にとっては大きい。


「打ち上げ」


 紅秋が言った。


「行くのか?」


「うん」


「みんなが行くなら、か?」


 春樹は少しだけ黙った。


「横田さんが嬉しいなら」


 紅秋は再び額に手を当てた。


「それを本人に言ったのか?」


「言った」


「……そうか」


「何か変?」


「変ではない」


 紅秋は諦めたように言った。


「ただ、横田さんの心臓には良くない」


「心臓?」


「気にするな」


 春樹は首を傾げた。


 紅秋は少しだけ笑った。


「まあ、行ってやれ。打ち上げも、勉強会も」


「うん」


「中間考査も近い。浮かれすぎない程度にな」


「分かった」


 春樹は頷いた。


 その横顔はいつも通り静かだった。


 けれど紅秋には、春樹の中に少しだけ柔らかいものが増えたように見えた。


   ◇


 昇降口で、なつき達と春樹達は自然に合流した。


 亜衣がすぐに紅秋へ声をかける。


「紅秋くん、打ち上げ兼勉強会案どう?」


「勉強会の比率が高いなら検討に値する」


「厳しい!」


 茜が頷く。


「でも、それくらいが現実的よね」


 亜衣は少し肩を落としながらも、すぐに笑った。


「じゃあ、体育祭お疲れ会三割、勉強会七割?」


「逆だと圭くんが喜びすぎるわ」


 茜が言う。


 紅秋も頷いた。


「五対五が限界だな」


「じゃあ五対五!」


 亜衣が楽しそうに言った。


 なつきはその会話を聞きながら春樹を見た。


 春樹は静かに立っている。


 けれど、なつきの視線に気づいてこちらを見る。


「本」


 春樹が言った。


「うん?」


「読む」


「うん。私も読む」


「感想」


「交換しようね」


「うん」


 短い会話。


 でも、なつきには十分だった。


 亜衣が横で小さく震えている。


「本の感想交換……」


「亜衣ちゃん」


「ごめん、黙る。でもいい」


 紅秋が静かに言う。


「伊藤さん、分かるが抑えろ」


「紅秋くんも分かるんだ」


「多少は」


「やっぱり!」


 春樹は不思議そうにしていた。


 その顔を見て、なつきは笑ってしまった。


 体育祭前なら、こんなふうに笑えただろうか。


 春樹の隣に近い場所で、周りに友達がいて、からかわれながらも穏やかに笑う。


 きっと難しかった。


 でも今は、それができている。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 自分は変わったのだと思う。


   ◇


 校門を出ると、夕方の風が吹いた。


 体育祭の日よりも、ずっと涼しい風だった。


 駅へ向かう組。


 自転車置き場へ向かう組。


 家の方向へ歩く組。


 自然に分かれていく。


 春樹と紅秋は駅の方へ。


 なつき、亜衣、茜は途中まで同じ方向だった。


 別れる前に、春樹が振り返った。


「横田さん」


「うん?」


「また明日」


 その言葉は、もう何度も聞いている。


 けれど、今日は少しだけ違って聞こえた。


 鞄の中には、春樹が選んでくれた本がある。


 春樹の鞄の中には、なつきが選んだ本がある。


 明日、また会って。


 いつか感想を話して。


 打ち上げの予定も決めて。


 中間考査の勉強もして。


 そうやって、日常は続いていく。


「うん。また明日、春樹くん」


 春樹は頷き、紅秋と一緒に駅の方へ歩いていった。


 なつきはその背中を見送った。


 黒猫が夕方の風に揺れる。


 体育祭の熱はもう校庭にはない。


 でも、胸の中にはまだ残っている。


 そしてその熱は、少しずつ形を変えている。


 借り人競争の大きな鼓動から。


 図書室の静かな本の重みへ。


 応援合戦の声から。


 帰り道の「また明日」へ。


 特別な一日だけではなく、普通の日々の中にも、春樹との距離は続いていく。


「なつき」


 亜衣が隣で言った。


「今日、いい日だったね」


「うん」


 なつきは本の入った鞄を少し抱え直した。


「いい日だった」


 茜が微笑む。


「明日からは中間考査の準備ね」


「茜ちゃん、余韻を……」


 亜衣が肩を落とす。


 なつきは笑った。


「でも、勉強会も楽しみかも」


「なつきが前向き」


「春樹くんも一緒にやるって言ってたし」


 言ってから、また少し頬が熱くなる。


 亜衣はにやにやした。


「うんうん」


 茜も優しく笑う。


「いいことね」


 なつきは夕方の道を歩きながら、黒猫に触れた。


 少しずつ。


 急がずに。


 でも、確かに。


 君の隣を目指す日々は、体育祭が終わっても続いていく。


 次はきっと、テスト勉強。


 打ち上げ。


 本の感想。


 そして、また図書室。


 大きな出来事がなくても、距離は縮まる。


 なつきはそれを、今日少しだけ知った。


 夕方の空の下、鞄の中の本が静かに重みを伝えてくる。


 その重さを抱えたまま、なつきは亜衣と茜と並んで歩いた。


 明日もまた、春樹を見つけられるように。


 そして、見つけてもらえる自分でいられるように。

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