第108話 少し変わった教室で、同じ名前を呼ぶ
体育祭が終わって数日が経った。
校庭の白線は、もうほとんど薄くなっていた。
朝の光に照らされたグラウンドは、体育祭の日とは違って静かだった。赤い旗も白い旗もない。応援席の椅子もない。放送席も片づけられ、カラーコーンも体育倉庫の中へ戻されている。
あの日、あれだけ声が響いていた場所が、何事もなかったみたいに普通の校庭へ戻っている。
それが、なつきには少し不思議だった。
体育祭は終わった。
紅組も白組も、もうない。
けれど、胸の奥にはまだ残っている。
手拍子の音。
圭の声。
田辺の低い応援。
島中が走った時の真剣な顔。
亜衣が隣で笑ってくれたこと。
美優の白組での明るい声。
白石祐衣の静かな拍手。
そして、春樹が自分を見つけてくれた瞬間。
――最近、よく見つける人。
なつきは教室の窓際で、鞄の横に揺れる黒猫へそっと触れた。
体育祭が終わっても、黒猫はここにいる。
春樹が取ってくれた黒猫。
体育祭で、春樹がなつきを見つける目印のようになった黒猫。
ただのキーホルダーのはずなのに、今ではもう、なつきの日常の一部になっていた。
「なつき」
隣から亜衣の声がした。
振り返ると、亜衣が鞄を机に置きながらこちらを見ていた。
「おはよう」
「おはよう、亜衣ちゃん」
「また黒猫見てた?」
「……うん」
「最近ほんと、黒猫を見る時間長いね」
亜衣はにやっと笑った。
なつきは少し頬を赤くする。
「そんなに?」
「うん。見てる時の顔が完全に違う」
「どんな顔?」
「春樹くん思い出してますって顔」
「亜衣ちゃん」
「でもいい顔」
からかうような言い方だった。
けれど、その声には優しさが混ざっていた。
なつきは黒猫から指を離し、少しだけ笑う。
「体育祭が終わったの、まだ変な感じ」
「分かる。あれだけ練習して、あれだけ騒いで、終わったら普通に授業だもんね」
「うん」
「でも、なつきにとってはかなり大きかったでしょ」
亜衣の言葉に、なつきは少し黙った。
大きかった。
それは本当にそうだった。
春樹と白組・紅組に分かれて、胸が何度も揺れた。
美優や祐衣が春樹の近くにいるところを見て、少し苦しくなった。
でも、紅組で声を出した。
仲間として応援した。
負けて悔しいと思えた。
春樹に見つけてもらえた。
そして、自分からも春樹を見つけると言えた。
「うん」
なつきは小さく頷いた。
「大きかった」
亜衣は満足そうに笑った。
「よし」
「よし?」
「ちゃんと言えたから」
そう言われて、なつきは少し照れた。
最近、亜衣はよくそういうことを言う。
ちゃんと言えた。
正直でよろしい。
えらい。
子ども扱いみたいで少し恥ずかしいのに、その言葉に救われることも多かった。
教室の前方では、圭がまだ体育祭の話をしていた。
「だからさ、紅組の応援合戦、絶対よかったって!」
圭の声は、体育祭直後よりは戻ってきている。
けれど、まだ少しだけかすれていた。
田辺が苦笑する。
「お前、まだそれ言ってんのか」
「言うだろ! 紅組魂だぞ!」
島中が椅子にもたれて言う。
「魂はもういいから、声戻せ」
「戻ってきた!」
「まだかすれてるだろ」
「これは余韻!」
紅秋が静かに教科書を机へ置いた。
「余韻で授業は受けられない」
「紅秋、現実を持ってくるな!」
「現実は持ってこなくても来る」
「つらい!」
教室に笑いが広がる。
なつきも笑った。
体育祭前の教室とは、少しだけ空気が違う。
それぞれが、あの日の思い出を持ち帰っている。
だから、同じ机に座っていても、どこか少し近くなった気がした。
紅組で一緒だった圭、田辺、島中。
白組で春樹を支えていた紅秋、茜。
それぞれの立場はもう消えたはずなのに、体育祭でできたつながりはまだ教室の中に残っている。
「なつき」
茜が後ろから声をかけてきた。
「おはよう」
「おはよう、茜ちゃん」
「まだ黒猫を見ていたの?」
「茜ちゃんまで」
茜は穏やかに笑った。
「黒猫を見るなつきの顔、分かりやすいもの」
「そんなに?」
「ええ」
亜衣がすぐに頷く。
「でしょ?」
「二人して……」
なつきは恥ずかしくて少し俯いた。
けれど、黒猫を隠そうとは思わなかった。
むしろ、鞄についていることが嬉しかった。
この黒猫があるから、春樹が見つけてくれた。
体育祭が終わっても、その記憶が消えずにここにある。
◇
しばらくして、春樹が教室に入ってきた。
なつきは自然に顔を上げた。
春樹はいつも通り、静かに教室へ入ってくる。
制服姿。
鞄を肩にかけ、少し眠そうでもなく、特別急いでいるわけでもない。
体育祭の日の体操服姿とは違う。
けれど、なつきの目には、昨日までの春樹が重なった。
借り人競争でこちらへ走ってきた春樹。
リレーでバトンを受け取った春樹。
白組の列の中で、なつきを見つけてくれた春樹。
その春樹が、今はいつもの教室にいる。
日常に戻ったはずなのに、なつきの中では戻りきっていなかった。
「おはよう」
春樹が席に近づいて、短く言った。
なつきは少しだけ背筋を伸ばす。
「おはよう、春樹くん」
春樹の視線が、自然に鞄の黒猫へ向いた。
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
その一言に、胸が跳ねた。
教室の中なのに。
体育祭は終わったのに。
春樹はまだ、黒猫を見つけてくれる。
なつきは少しだけ笑って、黒猫に触れた。
「私も、春樹くん見つけたよ」
言ってから、自分で少し驚いた。
前より自然に言えた。
もちろん恥ずかしい。
でも、言ってはいけないことではないと思えた。
春樹は小さく頷いた。
「うん」
ただそれだけ。
けれど、なつきには十分だった。
亜衣が隣で完全に口元を押さえている。
圭は何か言いたそうにして、田辺に肩を掴まれていた。
「今はやめとけ」
「でも……!」
「やめとけ」
島中が小さく笑う。
「もう教室の空気が甘い」
紅秋が静かに言った。
「朝から騒ぐな」
「紅秋くんも今の聞いてたでしょ?」
亜衣が言うと、紅秋は一瞬だけ目を逸らした。
「聞こえた」
「感想は?」
「春樹は相変わらずだ」
春樹は首を傾げる。
「何が?」
「そういうところだ」
「そう?」
また笑いが起きた。
なつきは恥ずかしさで頬を熱くしながらも、笑っていた。
以前なら、こうして周囲に見られることが怖かった。
春樹とのやり取りを誰かにからかわれるだけで、心臓が痛くなるほどだった。
でも今は、少し違う。
恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
それはきっと、みんなが笑いながらも、なつきの気持ちを雑に扱わないでいてくれるからだった。
◇
朝のホームルームが始まる前、担任が教室に入ってきた。
体育祭後の気の抜けた空気を見て、少しだけ苦笑する。
「はい、皆さん。体育祭の余韻が残っているのは分かりますが、そろそろ通常運転に戻ってください」
教室のあちこちから、小さな呻き声が漏れた。
「戻りたくない」
「体育祭のままでいい」
「授業つらい」
担任は笑いをこらえるようにしながら、黒板に予定を書き始めた。
「それから、来週以降は中間考査に向けた確認も入ってきます」
その瞬間、教室の空気が一気に重くなった。
「出た」
圭が机に沈む。
「中間考査……」
田辺が遠い目をする。
「体育祭で頭から抜けたな」
島中が頷く。
「入ってたかどうかも怪しい」
茜がすぐに言う。
「入っていなかったなら、これから入れればいいわ」
「茜ちゃん、強い」
亜衣が言った。
茜は真面目に返す。
「今からなら間に合うでしょう」
「分かってるけど、心が体育祭に置いていかれてる」
「心も連れてきなさい」
「はい」
教室に笑いが戻る。
なつきは黒板に書かれた「中間考査」という文字を見つめた。
体育祭が終わったら、次はテスト。
日常は立ち止まってくれない。
でも、不思議とそれが嫌ではなかった。
体育祭で少し変われた自分のまま、また勉強や授業に戻っていく。
それも、悪くないと思えた。
斜め前の春樹を見る。
春樹はもうノートを出していた。
切り替えが早い。
春樹らしい。
なつきも慌ててノートを出す。
その時、春樹が少しだけ振り返った。
「横田さん」
「うん?」
「中間、また勉強する?」
なつきは一瞬、言葉を失った。
春樹から。
勉強の話。
それ自体は不思議ではない。
これまでも、春樹に教えてもらうことは何度もあった。
でも、体育祭後のこのタイミングで、自然に「また」と言ってもらえたことが嬉しかった。
「うん」
なつきは頷いた。
「したい」
春樹は短く返す。
「分かった」
それだけだった。
でも、なつきの胸は温かくなる。
体育祭で近づいた距離は、勉強の日常にも続いていく。
それが、少しだけ分かった気がした。
亜衣が隣から小声で言う。
「今の聞いた?」
「聞いたも何も、私に言ってたよ」
「春樹くんから勉強のお誘い」
「お誘いってほどじゃないよ」
「でも『また』って言った」
「……うん」
「よかったね」
なつきはノートを開きながら、小さく頷いた。
「うん」
◇
一時間目が始まる。
教室はゆっくりと授業の空気へ戻っていった。
チョークの音。
ページをめくる音。
ペンを走らせる音。
体育祭の声援とは違う、日常の音。
けれど、なつきにはその音も少しだけ心地よかった。
昨日までの余韻が、急に消えるわけではない。
でも、日常に戻ることで、体育祭の思い出がよりはっきり見えてくる。
あの日が特別だったからこそ、今日の普通が少し愛おしい。
先生が問題を黒板に書く。
なつきはノートに写しながら、時々春樹の背中を見る。
春樹はいつも通り。
でも、なつきの中では少し違う。
春樹が「見つけてる」と言ってくれた人。
黒猫も、横田さんも、と言ってくれた人。
勉強するかと自然に聞いてくれる人。
なつきは、春樹の背中を見ながら思った。
まだ隣ではない。
でも、前より少しだけ近い。
その距離が嬉しかった。
授業中、春樹が一度だけ振り返った。
目が合う。
なつきは今度も、すぐには逸らさなかった。
ほんの少しだけ笑う。
春樹も、小さく頷く。
それだけで、また胸が温かくなる。
体育祭が終わっても。
紅組と白組が消えても。
見つける距離は、ちゃんと残っていた。
★★★★★
一時間目が終わる。
チャイムが鳴った瞬間、それまで静かだった教室は一気に息を吹き返した。
「終わったぁ……」
圭が大きく机へ突っ伏す。
「まだ一時間目だぞ」
田辺が呆れたように笑う。
「一時間目だからだよ! 体育祭終わった直後の授業は重すぎる!」
「気持ちは分かる」
島中も伸びをしながら窓の外を見た。
青空が広がっている。
体育祭の日も、こんな空だった。
あの日なら、この時間は競技の準備をしていた頃だろう。
そんなことを考えたのは、島中だけではなかったらしい。
「今頃なら応援合戦の練習してた時間だよな」
誰かが言う。
「いや、もう本番終わってるだろ」
「そうだった」
教室のあちこちで笑いが起きた。
体育祭は終わった。
なのに、みんなの頭の中にはまだ残っている。
あの一日が。
それだけ濃い時間だったということだ。
なつきも窓の外を見た。
校庭は静かだった。
体育の授業を受ける別の学年が、小さく見える。
歓声もない。
放送もない。
でも、目を閉じれば思い出せる。
あの日の音を。
「なつき」
亜衣が椅子ごと近づいてくる。
「ぼーっとしてる」
「ちょっと思い出してた」
「体育祭?」
「うん」
「私も」
二人は窓の外を見る。
少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙は気まずくない。
同じ景色を見て、同じことを思い出している。
それだけで十分だった。
「体育祭ってさ」
亜衣がぽつりと言う。
「終わった次の日より、二日後の方が寂しくない?」
「……分かる」
「昨日は余韻でいっぱいだったけど、今日は『終わったんだな』って感じ」
「うん」
なつきは頷いた。
昨日はまだ、余韻の中にいた。
今日は、日常へ戻り始めている。
だからこそ、体育祭が本当に終わったことを実感してしまう。
「でも」
亜衣が笑う。
「なつきは終わってないじゃん」
「え?」
「春樹くんとの距離」
「もう」
なつきは頬を赤くする。
「体育祭終わってからの方が、自然に話せてる」
「……そうかな」
「そうだよ」
茜も後ろから加わる。
「ええ。前よりずっと自然」
「茜ちゃんまで」
「事実よ」
茜は穏やかだった。
余計に照れる。
「体育祭がきっかけだったのね」
「うん」
なつきは素直に頷いた。
「少しだけ」
その「少しだけ」が、自分らしい気がした。
◇
二時間目の休み時間になると、教室はさらに賑やかになった。
「写真見せろよ!」
圭がスマホを持ったクラスメイトの周りへ集まっている。
「うわ、このリレー速っ!」
「島中、顔怖い」
「真剣なんだよ」
「田辺の綱引き顔やば」
「必死だからな」
笑い声が次々と広がる。
なつきも亜衣と一緒に写真を見せてもらった。
応援席。
綱引き。
リレー。
紅組集合写真。
白組集合写真。
そして。
「あ」
借り人競争。
その写真が画面に映った。
春樹がカードを持っていて。
その隣には、少し恥ずかしそうに歩くなつき。
黒猫が揺れている。
「これだ!」
圭が嬉しそうに指を差した。
「伝説の一枚!」
「伝説って」
亜衣が笑う。
「でもいい写真」
茜も静かに頷いた。
「自然ね」
田辺も画面を覗く。
「横田、めちゃくちゃ照れてるな」
「言わないで」
「いや、本当に」
島中まで笑う。
「大國は普通なのに」
「春樹くんは普通だから……」
なつきが小さく言う。
その時だった。
「何見てる?」
春樹が後ろから声をかけた。
なつきの肩がぴくっと動く。
圭がすぐに画面を見せた。
「これ!」
春樹は写真を見る。
少しだけ黙った。
「撮られてたんだ」
「そこ?」
圭が笑う。
「感想そこ?」
「うん」
「普通『恥ずかしい』とかじゃないの?」
春樹は少し考えた。
「いい写真」
教室が一瞬静かになった。
なつきの鼓動が速くなる。
「いい写真?」
亜衣が聞く。
「うん」
春樹は画面を見る。
「横田さん、笑ってるから」
なつきは思わず写真を見た。
本当だ。
照れている。
でも、ちゃんと笑っていた。
自分では気づかなかった。
「……本当だ」
「うん」
春樹はそれだけ言って、自分の席へ戻ろうとした。
圭が頭を抱える。
「春樹ぃぃぃ……!」
紅秋がため息をついた。
「相変わらずだ」
「何が?」
「それだ」
また教室に笑いが起きる。
なつきは写真をもう一度見た。
あの日。
自分はこんな顔で笑っていたんだ。
春樹の隣で。
知らなかった。
でも、それが少し嬉しかった。
◇
昼休み。
机を寄せる音が教室中で響く。
いつものメンバーが自然に集まっていた。
なつき。
亜衣。
茜。
春樹。
圭。
田辺。
島中。
紅秋。
少し離れた席には蓮も来ている。
「体育祭終わったしさ」
圭が弁当を開きながら言った。
「打ち上げやろう!」
「またその話?」
田辺が笑う。
「いいじゃん!」
島中も頷く。
「まあ、一回くらいなら」
亜衣が乗る。
「楽しそう」
茜も少し考えた。
「みんなの予定が合えば」
圭はさらに身を乗り出した。
「紅組だけじゃなくて白組も!」
「合同?」
「うん!」
蓮が笑う。
「それなら俺も行けるな」
春樹は静かに弁当を食べている。
圭が聞く。
「春樹は?」
「みんなが行くなら」
「またそれ!」
笑いが起きた。
なつきはその輪を見ながら、小さく笑う。
春樹らしい。
でも、その「みんな」の中に、自分もいる。
そう思うだけで嬉しい。
「美優ちゃんも誘う?」
亜衣が聞く。
蓮が頷く。
「もちろん」
「祐衣ちゃんも?」
「図書委員だしね」
なつきも自然に言った。
「祐衣さんも来てくれたら嬉しい」
その言葉に、春樹が小さく頷いた。
「うん」
「祐衣、喜ぶと思う」
春樹がそう言う。
なつきは少し安心した。
祐衣とは図書室でたくさん話すようになった。
でも、まだ友達と言い切るには少しだけ距離がある。
だから、一緒に笑える時間が増えたら嬉しいと思った。
「場所どうする?」
島中が聞く。
「ファミレス?」
「カラオケ?」
「ボウリング?」
意見が飛び交う。
教室の空気がまた明るくなる。
体育祭は終わった。
でも、そこで終わりではない。
あの日できたつながりを、これからも続けていこうと、誰も口には出さないけれど思っている。
そんな空気だった。
◇
昼食も終わりかけた頃。
教室は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
なつきはお茶を飲みながら、ふと春樹を見た。
春樹もこちらを見る。
目が合う。
以前なら、慌てて逸らしていた。
でも今日は違う。
なつきは少しだけ笑った。
春樹も、小さく笑った。
ほんの少しだけ。
口元が緩む程度。
でも、それだけで十分だった。
「春樹くん」
「何?」
「また今度」
「うん」
「勉強、よろしくね」
春樹は短く頷いた。
「うん」
「一緒にやろう」
その言葉は、とても自然だった。
体育祭前なら、こんなに自然には言えなかった。
なつきの胸が静かに温かくなる。
亜衣が横から小声で囁いた。
「今の、よかった」
「聞いてたの?」
「隣だもん」
なつきは照れながら笑った。
教室には笑い声が響く。
誰かが走る音。
購買へ向かう足音。
友達を呼ぶ声。
先生を見つけて慌てる声。
そんな、何気ない昼休み。
でも、なつきにとっては特別だった。
体育祭が終わっても。
日常へ戻っても。
春樹との距離は、ちゃんと昨日より近づいている。
少しずつ。
本当に少しずつ。
その歩幅が、なつきにはちょうどよかった。
――その頃。
図書室では、本を整理しながら白石祐衣が窓の外を眺めていた。
「今日は、来るかな……」
小さく呟いたその声は、誰にも届かなかった。
けれど、その穏やかな期待が、放課後へと静かにつながっていくのだった。
★★★★★
放課後のチャイムが鳴った。
その音は、体育祭前とは少し違って聞こえた。
数日前までなら、放課後になった瞬間、校庭へ向かう生徒達の足音が廊下に溢れていた。
紅組の応援練習。
白組の隊形確認。
リレーのバトン練習。
借り人競争の説明。
放課後は、次の何かへ急いで向かう時間だった。
けれど、今は違う。
チャイムが鳴っても、廊下の空気は少しゆっくりしていた。
部活へ向かう生徒はいる。
委員会へ向かう生徒もいる。
けれど、体育祭前のような熱に押される感じはない。
学校が、少しずつ本来の速度を取り戻している。
なつきは机の中を確認し、教科書を鞄にしまった。
鞄の横で黒猫が小さく揺れる。
その揺れを見るだけで、少しだけ胸が温かくなる。
今日は図書室へ行くつもりだった。
昼休みに、打ち上げの話が出た。
春樹と、また勉強する話もした。
そして、昼休みの終わりに、図書室にいる白石祐衣のことも少し思い出していた。
体育祭が終わった後、図書室へ行くと、祐衣が静かに迎えてくれる。
春樹が奥の棚にいる。
そんな時間が、最近少しだけ特別になっていた。
「なつき、図書室?」
亜衣が鞄を肩にかけながら聞いてきた。
「うん。昨日借りた本、もう少し見たいのと……」
「春樹くん?」
「……それも、少し」
なつきが正直に言うと、亜衣は満足そうに笑った。
「いいね。否定しないなつき」
「もう否定しても、亜衣ちゃん分かるでしょ」
「分かる」
即答だった。
茜は委員会の資料を手にしていた。
「私は今日は委員会だから、先に行くわね」
「うん。茜ちゃん、頑張って」
「なつきも、図書室でちゃんと本を選んでらっしゃい」
「本を?」
「ええ。本を」
茜は意味ありげに微笑んだ。
亜衣が横で小さく吹き出す。
「茜ちゃん、言い方が上品にからかってる」
「からかってはいないわ」
「ほんと?」
「半分くらいは」
「半分!」
なつきは顔を赤くしながら笑った。
教室の前方では、圭がまだ体育祭打ち上げについて話していた。
「だからさ、ファミレスでいいじゃん!」
田辺が言う。
「人数多いと席取れるか?」
島中が腕を組む。
「予約必要じゃね?」
紅秋が静かに口を挟む。
「そもそも中間考査前に大人数で長時間集まるのは現実的ではない」
「紅秋!」
圭が嘆く。
「また現実!」
「現実は避けても来る」
「この会話、朝もした!」
笑いが起きる。
春樹はその横で、鞄を持って立っていた。
なつきがちらりと見ると、春樹もこちらを見た。
目が合う。
春樹の視線が黒猫へ落ちる。
そして、またなつきへ戻る。
「図書室?」
春樹が聞いた。
なつきの胸が小さく跳ねる。
「うん。春樹くんも?」
「うん」
「じゃあ……一緒に行く?」
言えた。
少しだけ勇気が必要だった。
でも、前よりは自然に言えた。
春樹は短く頷く。
「うん」
それだけ。
けれど、なつきには十分だった。
亜衣が後ろで小さく両手を握っている。
圭が何か言いたそうに口を開いたが、田辺に肩を押さえられた。
「今は言うな」
「でも!」
「言うな」
島中が笑う。
「お前、空気読めるようになれ」
「読んでる!」
「読めてねぇ」
紅秋が春樹を見る。
「春樹、帰りは忘れるなよ」
「うん」
「本に集中すると時間を忘れるだろ」
「たまに」
「たまにではない」
春樹は少し首を傾げた。
その様子に、なつきは思わず笑った。
◇
放課後の廊下は、いつもより少し柔らかかった。
体育祭前のような急ぎ足は少ない。
部活へ向かう生徒達の声は聞こえるけれど、それもどこか穏やかだった。
窓の外には、薄くなった校庭の白線が見える。
あの日、紅組と白組に分かれて声を出した場所。
春樹と並んで走った場所。
今は、夕方の光を浴びて静かに横たわっている。
なつきは春樹と並んで歩いていた。
近すぎない。
でも、以前ほど離れてもいない。
この距離にも少し慣れてきた気がする。
春樹の歩く速さは、いつも落ち着いている。
急ぎすぎず、遅すぎず。
なつきが横にいると、ほんの少しだけ歩幅を合わせてくれているような気がした。
借り人競争の時もそうだった。
ゴールへ向かう時、春樹はなつきの歩幅に合わせてくれた。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
「横田さん」
「うん?」
「足、まだ痛い?」
「少し」
「体育祭?」
「うん。春樹くんは?」
「少し」
「春樹くんも痛いんだ」
「走ったから」
「そっか」
当たり前のことなのに、少し嬉しかった。
春樹もちゃんと疲れている。
春樹も体育祭を走りきった人なのだ。
「リレー、速かったね」
なつきが言うと、春樹は少しだけこちらを見る。
「ありがとう」
「声には出せなかったけど、見てた」
「うん」
「紅組だったから」
「うん」
「でも、見てた」
春樹は頷いた。
「分かった」
「分かった?」
「見てるの、分かった」
なつきは思わず足を止めそうになった。
「え?」
「リレーの前、見えた」
「私が?」
「うん」
「……そっか」
胸が熱い。
声に出せなくても、届いていたのかもしれない。
見つけるって、そういうことなのかもしれない。
なつきは黒猫に触れた。
「春樹くんは、よく見つけるね」
「横田さんも」
「私も?」
「うん。見つけてた」
なつきは少しだけ笑った。
「うん。見つけてた」
廊下の向こうで、部活へ向かう男子生徒達が賑やかに走っていく。
その声が少し遠ざかると、また二人の間に静けさが戻った。
でも、その静けさはもう怖くなかった。
◇
図書室では、白石祐衣が本を整理していた。
放課後の図書室は、昼間より少しだけ影が深い。
窓から差し込む夕方の光が、机の端や本棚の背を淡く照らしている。
紙の匂い。
静かな空気。
カウンターの上に積まれた返却本。
その中で、祐衣は一冊ずつ丁寧に本を確認していた。
体育祭が終わってから、図書室に来る生徒は少し減っている。
みんな疲れているのだろう。
部活へ行く人も、すぐ帰る人も多い。
それでも、祐衣は今日、少しだけ期待していた。
来るかもしれない。
横田なつき。
大國春樹。
体育祭を越えて、二人の距離は少し変わった。
祐衣はそれを、外から静かに見ていた。
借り人競争で春樹がなつきを選んだ時、祐衣は記録係として近くにいた。
驚いた。
でも、どこか納得もした。
春樹は、派手なことをする人ではない。
けれど、見ていないようで見ている人だ。
黒猫を。
なつきを。
そして、なつきが春樹を見つける視線も。
祐衣は本を一冊棚に戻し、窓の外を見た。
校庭は静かだった。
「今日は、来るかな……」
昼休みの終わりにも呟いた言葉を、もう一度胸の中で繰り返した。
その時、図書室の扉が開いた。
祐衣が顔を上げる。
入ってきたのは、なつきと春樹だった。
「あ」
思わず小さな声が出る。
なつきが少し照れたように笑う。
「祐衣さん、こんにちは」
「こんにちは、横田さん。大國くんも」
「うん」
春樹が短く返す。
祐衣は二人を見て、少しだけ微笑んだ。
「今日は二人で?」
なつきの頬がほんのり赤くなる。
「教室から、一緒に来たの」
「そうですか」
祐衣はそれ以上からかわなかった。
けれど、目元は少し柔らかかった。
「返却ですか? それとも貸出?」
「本を見に来た」
春樹が言う。
「静かな本?」
祐衣が聞くと、春樹は頷いた。
「うん」
なつきが小さく笑う。
「やっぱり春樹くん、体育祭後は静かな本なんだね」
「うん」
「分かる気がします」
祐衣はカウンターに置いた本を揃えながら言った。
「体育祭のあとは、少し静かな物語が読みたくなりますよね」
「祐衣さんも?」
「はい。昨日は少し詩集を読みました」
「詩集……似合う」
なつきが言うと、祐衣は少しだけ驚いてから、照れたように笑った。
「そうでしょうか」
「うん」
春樹も短く言う。
「似合う」
祐衣はさらに少し照れた。
「ありがとうございます」
その空気が穏やかで、なつきは少し嬉しくなる。
祐衣は春樹に近い人。
以前なら、その距離に胸がざわつくことの方が多かった。
けれど今は、こうして三人で穏やかに話せている。
それが、少し不思議で、少し嬉しかった。
◇
なつきと春樹は奥の棚へ向かった。
夕方の図書室は静かだった。
数人の生徒が自習スペースでノートを開いている。
窓際の席では、一年生らしい女子が文庫本を読んでいた。
ページをめくる音が小さく響く。
なつきは本棚の前で足を止めた。
「今日は、春樹くんが選んでくれる?」
「うん」
「私も選ぶ」
「俺の?」
「うん」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
本を選び合う。
それは、恋愛らしい派手な出来事ではない。
でも、なつきにはとても特別だった。
相手の好きそうなものを考える。
相手がどう感じるか想像する。
それは、相手を見ていないとできないことだから。
春樹は棚を見上げた。
なつきも隣で背表紙を追う。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙。
でも、気まずくない。
本棚を挟んで流れる静かな時間。
体育祭の歓声とは正反対なのに、なつきの胸は同じくらい温かかった。
「これ」
春樹が一冊取った。
なつきに差し出す。
表紙は淡い水色で、タイトルは静かな雰囲気だった。
「横田さん、好きそう」
「どうして?」
「ゆっくり進む話」
「私、ゆっくり進む話が好きそう?」
「うん」
「当たってるかも」
なつきは本を受け取る。
ページを少しめくる。
目に入る文章は、やわらかくて、少し切ない。
「春樹くん、私の好きそうなの分かってきたね」
「少し」
その「少し」が嬉しい。
春樹が、なつきを少しずつ知ってくれている。
なつきも棚から一冊取った。
「じゃあ、春樹くんはこれ」
春樹は受け取る。
「どうして?」
「淡々としてるけど、たぶん言葉がきれい。春樹くん、こういうの好きそう」
「読む」
「早い」
「うん」
なつきは笑った。
「感想、教えてね」
「うん」
「短くてもいいから」
「短いと思う」
「知ってる」
そう言って二人で少し笑った。
カウンターの方から、祐衣がその様子をちらりと見ていた。
すぐに視線を本へ戻す。
けれど、その口元には小さな笑みがあった。
◇
奥の棚でしばらく本を見たあと、なつきは少しだけ迷ってから聞いた。
「春樹くん」
「何?」
「昼休み、打ち上げの話してたでしょ」
「うん」
「本当に来る?」
「みんなが行くなら」
「春樹くん、そればっかり」
「そう?」
「うん」
なつきは少し笑った。
「でも、来てくれたら嬉しい」
言った瞬間、胸が跳ねた。
けれど、言葉は取り消さなかった。
春樹はなつきを見た。
「うん」
「うん?」
「行く」
なつきは目を丸くした。
「みんなが行くなら、じゃなくて?」
「横田さんが嬉しいなら」
図書室の空気が、一瞬だけ静かになったように感じた。
なつきの胸が大きく鳴る。
「……それは」
言葉が詰まる。
春樹は首を傾げる。
「違う?」
「違わない」
なつきは小さく言った。
「嬉しい」
「うん」
春樹は頷いた。
ただそれだけなのに、なつきには大きすぎた。
体育祭で春樹が自分を見つけてくれた。
図書室で、黒猫も横田さんも見つけてると言ってくれた。
そして今、なつきが嬉しいなら行くと言ってくれた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
でも、確かに距離が変わっている。
なつきは本を胸に抱えた。
「じゃあ、ちゃんと予定決めないとね」
「うん」
「中間考査もあるけど」
「勉強もする」
「打ち上げも?」
「うん」
なつきは笑った。
「忙しいね」
「うん」
「でも、楽しそう」
春樹は少しだけ口元を緩めた。
「うん」
◇
貸出カウンターへ戻ると、祐衣が二人の本を見て微笑んだ。
「お互いに選んだ本ですか?」
なつきは頬を赤くしながら頷く。
「うん」
春樹も短く言う。
「うん」
「素敵ですね」
祐衣はそう言って、まずなつきの本を受け取った。
「こちらは大國くんが?」
「うん」
「横田さんに合いそうです」
「祐衣さんもそう思う?」
「はい。静かで、でも最後に少し光があるお話です」
「春樹くんが言ってたのと似てる」
なつきが言うと、春樹は少しだけ祐衣を見る。
「そう?」
祐衣は微笑んだ。
「大國くんは、言葉は短いですけれど、選び方は丁寧ですよね」
春樹は首を傾げる。
「そうかな」
「はい」
次に、春樹の本を処理する。
「こちらは横田さんが?」
「うん」
祐衣は表紙を見て、少しだけ頷いた。
「大國くんに合いそうです。淡々としているけれど、余白が多い文章なので」
「祐衣さん、すごい」
「本が好きなだけです」
祐衣は少し照れた。
なつきは思った。
祐衣ともっと話したい。
春樹の近くにいる人としてだけではなく、本の話ができる友達として。
「祐衣さん」
「はい?」
「今度、祐衣さんにも本を選んでほしいな」
祐衣は少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに微笑む。
「私でよければ、ぜひ」
「うん。お願い」
春樹が横で頷く。
「白石、選ぶの上手い」
「ありがとうございます」
祐衣は少しだけ目を伏せた。
その表情が嬉しそうで、なつきも嬉しくなった。
こうして、少しずつ輪が広がっていく。
美優や蓮も、きっと打ち上げでまた話せる。
紅組も白組も終わったけれど、そこから残ったつながりは、まだ続いていく。
◇
図書室を出る頃には、廊下は夕方の色に染まっていた。
窓から差し込む光が、床に長く伸びている。
体育祭の後の静かな放課後。
なつきは借りた本を鞄にしまいながら、黒猫に触れた。
春樹も隣で本を鞄に入れている。
「横田さん」
「うん?」
「感想、聞く」
「うん。私も聞く」
「短くても?」
「短くても」
「分かった」
なつきは笑った。
そこへ、廊下の向こうから亜衣が歩いてきた。
「おかえり」
「亜衣ちゃん、待ってたの?」
「うん。なつきの顔を確認する係」
「それ、昨日も聞いた」
「継続任務です」
亜衣はなつきの顔を見るなり、にやっと笑った。
「いい顔」
「また?」
「また。今回は体育祭の余韻と図書室の余韻と、本の交換の余韻が混ざってる」
「細かい」
「観察眼です」
春樹は不思議そうにしている。
「何が?」
亜衣は笑って首を振った。
「春樹くんはそのままでいて」
「そう?」
「うん」
そこへ紅秋も来た。
「春樹、帰るぞ」
「うん」
紅秋はなつきと亜衣を見て、軽く会釈した。
「横田さん、伊藤さん。また明日」
「また明日、紅秋くん」
亜衣が返す。
春樹もなつきを見る。
「また明日」
「うん。また明日、春樹くん」
春樹が歩いていく。
なつきはその背中を見送った。
体育祭のような大きな出来事はもう終わった。
でも、日常の中にも、胸が動く瞬間はある。
一緒に図書室へ行くこと。
本を選び合うこと。
打ち上げに来てくれたら嬉しいと言うこと。
それに、行くと返してもらえること。
どれも小さい。
でも、その小ささがなつきには大切だった。
「なつき」
亜衣が隣で言う。
「距離、縮んでるね」
なつきは黒猫をそっと撫でた。
「うん」
今度は否定しなかった。
「少しずつ」
「少しずつが好きだね」
「うん」
なつきは夕方の廊下を見た。
「少しずつがいい」
急がなくていい。
体育祭のように大きく近づく日もある。
図書室のように、静かに近づく日もある。
どちらも、自分達らしい。
君の隣を目指す日々は、特別な行事の中だけではなく、こんな何気ない放課後にも続いている。
なつきは本の重みと黒猫の揺れを感じながら、亜衣と一緒に夕方の廊下を歩き出した。
★★★★
図書室を出たあとの廊下には、夕方の光が長く伸びていた。
窓から差し込む淡い橙色の光が、床に細く流れている。
昼間の明るさとは違う。
体育祭の日の眩しい空とも違う。
静かで、少しだけ寂しくて、でもどこか温かい光だった。
なつきは鞄を肩にかけ直した。
中には、春樹が選んでくれた本が入っている。
いつもより少しだけ、鞄が重く感じた。
けれど、それは嫌な重さではなかった。
春樹が自分のために選んでくれた本。
なつきが春樹のために選んだ本。
ただそれだけのことなのに、胸の奥にやわらかい熱が残っている。
体育祭の借り人競争や応援合戦のような大きな出来事ではない。
歓声もない。
拍手もない。
誰かが見て盛り上がるわけでもない。
でも、なつきにとっては大切だった。
本を選び合うという、静かな時間。
図書室の棚の間で、春樹が「横田さん、好きそう」と言ってくれたこと。
なつきが「春樹くんはこれ」と差し出した本を、春樹が迷わず「読む」と言ってくれたこと。
そして。
――横田さんが嬉しいなら。
打ち上げの話をした時、春樹がそう言ってくれたこと。
思い出しただけで、なつきの頬が熱くなる。
「なつき」
隣から亜衣が声をかけてきた。
「今、絶対思い出してたでしょ」
「……何を?」
「春樹くん」
「う」
「ほら」
亜衣は楽しそうに笑った。
なつきは誤魔化すように黒猫を触る。
「顔に出てる?」
「出てる。かなり」
「そんなに?」
「うん。体育祭の時とは違う顔」
「どう違うの?」
「体育祭の時は、胸がいっぱいで爆発しそうな顔」
「爆発」
「今は、じわじわ温まってる顔」
「それ、分かるような分からないような」
亜衣は少しだけ真面目な顔になった。
「でも、本当にいい感じだと思う」
「うん」
「春樹くん、前よりなつきに向ける言葉が増えてる」
「そうかな」
「増えてるよ。しかも、ちゃんとなつきが嬉しい言葉」
なつきは何も言えなかった。
確かにそうだった。
春樹の言葉は、いつも短い。
でも、最近はその短さの中に、以前よりもちゃんとなつきへ向いているものがある。
見つけてる。
黒猫も、横田さんも。
横田さんが嬉しいなら。
そのどれもが、なつきの胸の中に残っている。
「……嬉しい」
なつきは小さく言った。
「うん」
亜衣は頷いた。
「それでいいと思う」
二人は階段を下りる。
放課後の校舎には、いろいろな音が混ざっていた。
部活へ向かう生徒達の足音。
委員会帰りの生徒の話し声。
先生に呼び止められている誰かの返事。
遠くから聞こえる吹奏楽部の音出し。
体育祭前とは違う、いつもの放課後。
でも、なつきにはその「いつも」が少しだけ新しく感じられた。
◇
昇降口へ向かう途中、茜と合流した。
茜は委員会の資料を抱えていて、少しだけ疲れた顔をしていた。
「茜ちゃん、お疲れ様」
「ありがとう。二人も図書室?」
「うん」
亜衣がすぐに言う。
「なつきと春樹くん、本を選び合ってたよ」
「亜衣ちゃん」
なつきが慌てる。
茜は目を細めた。
「そう。素敵ね」
「素敵って」
「本を選び合うのは、相手のことを考える時間でしょう?」
茜の言葉に、なつきは少し黙った。
相手のことを考える時間。
そう言われると、余計に胸が熱くなる。
春樹は、なつきの好きそうな本を考えてくれた。
なつきも、春樹の好きそうな本を考えた。
たった一冊の本。
でも、その中に相手を見ようとする気持ちがある。
「……うん」
なつきは頷いた。
「楽しかった」
茜は柔らかく微笑む。
「ならよかったわ」
亜衣がにやにやしながら言う。
「あとね、打ち上げの話で、春樹くんが『横田さんが嬉しいなら行く』って」
なつきは足を止めた。
「亜衣ちゃん!」
茜もさすがに少し目を丸くした。
「春樹くんが?」
「言った」
「へえ」
茜の表情が、少しだけ面白そうになる。
「それは……なつき、よかったわね」
「う、うん」
顔が熱い。
廊下なのに。
誰かに聞こえたらどうしようと思う。
けれど、亜衣も茜も声を大きくはしなかった。
ちゃんと、なつきの気持ちを守ってくれている。
「でも」
茜は少し考えるように言った。
「その打ち上げ、やるなら本当に中間考査との兼ね合いを考えた方がいいわね」
「出た、現実担当」
亜衣が笑う。
「大事よ。せっかく楽しくても、あとで焦ったら台無しになるもの」
「確かに」
なつきも頷いた。
体育祭が終わった。
打ち上げの話が出た。
春樹との距離も少し変わった。
でも、学校生活は続く。
中間考査も近づいている。
楽しいことだけではない。
でも、それも含めて日常だった。
「じゃあ」
亜衣が指を立てる。
「打ち上げは短め。勉強会もセット?」
「体育祭打ち上げ兼、中間考査前決起会?」
なつきが言うと、亜衣が目を輝かせた。
「それいい!」
茜も少し笑った。
「現実的ね。ファミレスで少しだけ集まって、そのあと勉強の予定を決めるとか」
「圭くん、絶対嫌がりそう」
「でも紅秋くんがいれば締まるわ」
「春樹くんもいるし」
亜衣がそう言って、なつきを見る。
なつきは小さく頷いた。
「春樹くんも、来てくれるって言ってたし」
言葉にすると、また胸が温かくなる。
◇
一方、その少し前。
春樹は紅秋と一緒に昇降口へ向かっていた。
廊下には夕方の光が差している。
春樹の鞄の中には、なつきが選んだ本が入っていた。
紅秋は横目で春樹を見た。
「春樹」
「何?」
「本、借りたのか」
「うん」
「横田さんが選んだ本か」
「うん」
春樹は短く答える。
紅秋は少しだけため息を吐いた。
「お前、本当に自然にそういうことをするな」
「そういうこと?」
「相手の選んだ本を迷わず借りることだ」
「読みたいと思ったから」
「横田さんが選んだからか?」
春樹は少し考えた。
「それもある」
紅秋は足を止めかけた。
春樹は気づかずに歩いている。
「……春樹」
「何?」
「それを本人に言ったのか?」
「言ってない」
「言わなくていい。今は」
「そう?」
「言ったら横田さんが倒れるかもしれない」
「倒れる?」
春樹は本気で不思議そうだった。
紅秋は額に手を当てた。
「体育祭の借り人競争から思っていたが、お前はまっすぐすぎる」
「普通に選んだだけ」
「それが問題なんだ」
「そう?」
「そうだ」
春樹は少し考える。
そして、ぽつりと言った。
「横田さん、嬉しそうだった」
「本の話か?」
「うん」
「なら、よかったんじゃないか」
「うん」
春樹は鞄を少し持ち直した。
「俺も、嬉しかった」
紅秋は今度こそ足を止めた。
春樹も気づいて振り返る。
「紅秋?」
「いや」
紅秋は短く息を吐いた。
「お前も変わってきたな」
「そう?」
「ああ」
春樹は自覚がないようだった。
けれど紅秋には分かっていた。
春樹は以前より、横田なつきのことを自然に言葉へ出すようになっている。
黒猫を見つけること。
応援を見ていたこと。
本を選ぶこと。
そして、嬉しかったと言えること。
それは小さい変化かもしれない。
でも、春樹にとっては大きい。
「打ち上げ」
紅秋が言った。
「行くのか?」
「うん」
「みんなが行くなら、か?」
春樹は少しだけ黙った。
「横田さんが嬉しいなら」
紅秋は再び額に手を当てた。
「それを本人に言ったのか?」
「言った」
「……そうか」
「何か変?」
「変ではない」
紅秋は諦めたように言った。
「ただ、横田さんの心臓には良くない」
「心臓?」
「気にするな」
春樹は首を傾げた。
紅秋は少しだけ笑った。
「まあ、行ってやれ。打ち上げも、勉強会も」
「うん」
「中間考査も近い。浮かれすぎない程度にな」
「分かった」
春樹は頷いた。
その横顔はいつも通り静かだった。
けれど紅秋には、春樹の中に少しだけ柔らかいものが増えたように見えた。
◇
昇降口で、なつき達と春樹達は自然に合流した。
亜衣がすぐに紅秋へ声をかける。
「紅秋くん、打ち上げ兼勉強会案どう?」
「勉強会の比率が高いなら検討に値する」
「厳しい!」
茜が頷く。
「でも、それくらいが現実的よね」
亜衣は少し肩を落としながらも、すぐに笑った。
「じゃあ、体育祭お疲れ会三割、勉強会七割?」
「逆だと圭くんが喜びすぎるわ」
茜が言う。
紅秋も頷いた。
「五対五が限界だな」
「じゃあ五対五!」
亜衣が楽しそうに言った。
なつきはその会話を聞きながら春樹を見た。
春樹は静かに立っている。
けれど、なつきの視線に気づいてこちらを見る。
「本」
春樹が言った。
「うん?」
「読む」
「うん。私も読む」
「感想」
「交換しようね」
「うん」
短い会話。
でも、なつきには十分だった。
亜衣が横で小さく震えている。
「本の感想交換……」
「亜衣ちゃん」
「ごめん、黙る。でもいい」
紅秋が静かに言う。
「伊藤さん、分かるが抑えろ」
「紅秋くんも分かるんだ」
「多少は」
「やっぱり!」
春樹は不思議そうにしていた。
その顔を見て、なつきは笑ってしまった。
体育祭前なら、こんなふうに笑えただろうか。
春樹の隣に近い場所で、周りに友達がいて、からかわれながらも穏やかに笑う。
きっと難しかった。
でも今は、それができている。
少しだけ。
本当に少しだけ。
自分は変わったのだと思う。
◇
校門を出ると、夕方の風が吹いた。
体育祭の日よりも、ずっと涼しい風だった。
駅へ向かう組。
自転車置き場へ向かう組。
家の方向へ歩く組。
自然に分かれていく。
春樹と紅秋は駅の方へ。
なつき、亜衣、茜は途中まで同じ方向だった。
別れる前に、春樹が振り返った。
「横田さん」
「うん?」
「また明日」
その言葉は、もう何度も聞いている。
けれど、今日は少しだけ違って聞こえた。
鞄の中には、春樹が選んでくれた本がある。
春樹の鞄の中には、なつきが選んだ本がある。
明日、また会って。
いつか感想を話して。
打ち上げの予定も決めて。
中間考査の勉強もして。
そうやって、日常は続いていく。
「うん。また明日、春樹くん」
春樹は頷き、紅秋と一緒に駅の方へ歩いていった。
なつきはその背中を見送った。
黒猫が夕方の風に揺れる。
体育祭の熱はもう校庭にはない。
でも、胸の中にはまだ残っている。
そしてその熱は、少しずつ形を変えている。
借り人競争の大きな鼓動から。
図書室の静かな本の重みへ。
応援合戦の声から。
帰り道の「また明日」へ。
特別な一日だけではなく、普通の日々の中にも、春樹との距離は続いていく。
「なつき」
亜衣が隣で言った。
「今日、いい日だったね」
「うん」
なつきは本の入った鞄を少し抱え直した。
「いい日だった」
茜が微笑む。
「明日からは中間考査の準備ね」
「茜ちゃん、余韻を……」
亜衣が肩を落とす。
なつきは笑った。
「でも、勉強会も楽しみかも」
「なつきが前向き」
「春樹くんも一緒にやるって言ってたし」
言ってから、また少し頬が熱くなる。
亜衣はにやにやした。
「うんうん」
茜も優しく笑う。
「いいことね」
なつきは夕方の道を歩きながら、黒猫に触れた。
少しずつ。
急がずに。
でも、確かに。
君の隣を目指す日々は、体育祭が終わっても続いていく。
次はきっと、テスト勉強。
打ち上げ。
本の感想。
そして、また図書室。
大きな出来事がなくても、距離は縮まる。
なつきはそれを、今日少しだけ知った。
夕方の空の下、鞄の中の本が静かに重みを伝えてくる。
その重さを抱えたまま、なつきは亜衣と茜と並んで歩いた。
明日もまた、春樹を見つけられるように。
そして、見つけてもらえる自分でいられるように。




