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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第109話 打ち上げと勉強会のあいだで


 翌朝。


 二年十一組の教室には、体育祭の熱とは少し違うざわめきが広がっていた。


 黒板には、担任が朝のうちに書いたらしい文字がある。


『中間考査範囲 順次発表』


 その一文だけで、教室の空気は少し重くなっていた。


「体育祭の余韻、終わるの早すぎない?」


 圭が机に突っ伏して言った。


 亜衣が笑う。


「現実は待ってくれないね」


「待ってほしい!」


 田辺がため息をつく。


「まあ、そろそろやらないとまずいか」


 島中も椅子にもたれて頷いた。


「体育祭で完全に抜けた」


 紅秋が静かに言う。


「抜けたなら入れ直せ」


「紅秋、それ昨日も聞いた!」


「必要なことは何度でも言う」


 教室に笑いが広がった。


 なつきも笑いながら、自分の鞄に触れた。


 黒猫のキーホルダーが揺れる。


 その奥には、昨日図書室で春樹が選んでくれた本が入っている。


 まだ全部は読めていない。


 けれど、最初の数ページだけでも、春樹らしい選び方だと思った。


 静かで、ゆっくり進んで、でも言葉の奥に少しだけ光がある。


 春樹は、なつきの好きそうな本を考えてくれた。


 そのことが、朝からずっと胸の奥を温かくしていた。


「なつき」


 亜衣が隣から声をかける。


「昨日の本、読んだ?」


「少しだけ」


「春樹くんセレクト?」


「うん」


「どうだった?」


「……好きかも」


 言うと、亜衣はにやっと笑った。


「本が? 春樹くんが?」


「亜衣ちゃん」


「ごめん。でもどっちもでしょ?」


 なつきは言い返せなかった。


 頬が熱くなる。


 そこへ茜が来て、静かに言った。


「朝からなつきを追い詰めすぎないの」


「はーい」


 亜衣は素直に引いた。


 茜はなつきの机に目を向ける。


「でも、春樹くんに本を選んでもらえたのはよかったわね」


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


「嬉しかった」


 その言葉を、最近は少しずつ言えるようになってきた。


 嬉しい。


 楽しい。


 悔しい。


 恥ずかしい。


 前より、自分の気持ちを隠さずに言える。


 体育祭を越えたからなのか。


 春樹が見つけてくれたからなのか。


 それとも、亜衣や茜が何度も受け止めてくれたからなのか。


 きっと、全部だった。


   ◇


 春樹が教室に入ってきた。


 なつきは自然に顔を上げる。


「おはよう、春樹くん」


「おはよう」


 春樹の視線が、いつものように黒猫へ落ちる。


「今日もいる」


「うん」


「見つけた」


 その言葉だけで、胸が温かくなる。


 なつきも少し笑った。


「私も、春樹くん見つけた」


 言ったあと、やっぱり少し恥ずかしい。


 でも、前より自然だった。


 春樹は頷く。


「うん」


 圭が遠くで両手で顔を覆った。


「朝から……!」


 田辺がその肩を押さえる。


「抑えろ」


「でも!」


「抑えろ」


 島中が笑う。


「もう恒例になりつつあるな」


 紅秋が春樹の横に来て言う。


「春樹、今日こそ中間考査の予定を確認しろ」


「うん」


「図書室で本だけ読んで終わるなよ」


「勉強もする」


「ならいい」


 春樹は席に着き、鞄から一冊の本を出した。


 なつきが昨日選んだ本だった。


 胸が跳ねる。


「春樹くん」


「何?」


「その本……」


「読んでる」


「もう?」


「少し」


「どうだった?」


 春樹は少し考えた。


「静か」


「うん」


「でも、嫌じゃない」


「それ、よかったってこと?」


「うん」


 短い感想。


 でも春樹らしい。


 なつきは嬉しくなった。


「よかった」


「横田さんの本は?」


「私も少し読んだ」


「どう?」


「好き。たぶん、すごく好き」


「そっか」


 春樹の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 それを見て、なつきの胸がさらに温かくなる。


 自分が選んだ本を春樹が読んでくれている。


 春樹が選んだ本を自分が読んでいる。


 ただそれだけなのに、朝の教室が少し特別になる。


   ◇


 ホームルームでは、中間考査の予定が改めて伝えられた。


 担任がプリントを配りながら言う。


「体育祭が終わって気が抜ける時期ですが、ここで崩れると後が大変です。計画的に準備しましょう」


 プリントが回ってくる。


 なつきは受け取り、日程を確認した。


 簿記。


 商業科目。


 国語。


 英語。


 数学。


 全部、現実だった。


 圭はプリントを見た瞬間、机に沈んだ。


「多い……」


 紅秋が冷静に言う。


「普通だ」


「普通が多い!」


 田辺がプリントを見ながら呟く。


「簿記、ちゃんとやらないとまずいな」


 島中も眉を寄せる。


「体育祭前にやったところ、もう怪しい」


 亜衣がなつきに小声で言う。


「勉強会、必要だね」


「うん」


 茜も頷いた。


「やるなら早めがいいわ」


 圭が顔を上げる。


「じゃあ、打ち上げ兼勉強会!」


「まだ諦めてなかったのね」


 茜が少し笑う。


「諦めない! 体育祭お疲れ会もしたいし、勉強も必要。なら合体!」


 亜衣が手を打つ。


「意外と合理的」


 紅秋が少し考えた。


「時間配分を守るならありだな」


「やった!」


「ただし、騒ぎすぎないこと」


「努力する!」


「守ると言え」


「守る!」


 教室に笑いが起きた。


 なつきは春樹を見る。


「春樹くんも来る?」


「うん」


「勉強会も?」


「うん」


「打ち上げも?」


「うん」


 春樹は短く頷いた。


 そして少し間を置いて言う。


「横田さんが嬉しいなら」


 なつきの胸が跳ねた。


 昨日、図書室で言ってくれた言葉。


 また言われるとは思わなかった。


「……嬉しい」


 小さく答えると、春樹は頷いた。


「じゃあ行く」


 亜衣が机の下で静かに拳を握った。


 茜は微笑み、田辺は少し目を逸らし、島中は「またすごいの来たな」と小さく呟いた。


 圭は口を開きかけて、紅秋に先に見られた。


「圭」


「まだ何も言ってない!」


「言いそうだった」


「はい!」


   ◇


 昼休み。


 打ち上げ兼勉強会の話は、さらに具体的になっていった。


 机を寄せた輪の中に、なつき、亜衣、茜、春樹、圭、田辺、島中、紅秋が集まる。


 蓮も途中からやって来た。


「何の会議?」


 蓮が笑いながら聞く。


 圭が胸を張る。


「体育祭お疲れ会兼中間考査勉強会!」


「長いね」


「略して?」


 亜衣が考える。


「お疲れ勉強会?」


「疲れそう」


 島中が言う。


「勉強打ち上げ?」


 田辺が言う。


「それも変だな」


 茜が苦笑する。


「名前は普通でいいのでは?」


 紅秋が頷いた。


「ただの勉強会でいい」


「打ち上げ要素が消えた!」


 圭が嘆く。


 蓮が笑う。


「じゃあ、最初の三十分だけ体育祭の話して、その後勉強とか?」


「いい!」


 圭が指を差す。


「蓮、分かってる!」


 紅秋が少し考える。


「三十分なら許容範囲だな」


「紅秋くんの許可が出た」


 亜衣が笑う。


 なつきはその輪の中で、自然に笑っていた。


 体育祭前は、春樹と同じ輪にいるだけで緊張していた。


 今も緊張はする。


 でも、その緊張の中に安心がある。


 みんなで話している。


 その中に春樹がいて、自分もいる。


 それが嬉しかった。


「美優ちゃんと祐衣さんも誘う?」


 なつきが言うと、蓮が頷いた。


「美優は来ると思うよ。祐衣も誘ってみる」


 春樹も言う。


「白石、勉強できる」


「本も選ぶの上手いしね」


 なつきが言うと、春樹は頷いた。


「うん」


 亜衣がなつきを見る。


「祐衣ちゃんとも仲良くなってきたね」


「うん。もっと話したい」


 それは自然に出た言葉だった。


 以前なら、祐衣のことを春樹に近いライバルのように見て、少し身構えていたかもしれない。


 でも今は違う。


 祐衣は、静かで優しくて、本の話ができる人。


 春樹をよく見ている人でもあるけれど、なつきのこともちゃんと見てくれる人だった。


「いいんじゃない?」


 亜衣は笑った。


「輪が広がってきた感じ」


 茜も頷く。


「体育祭のあとだからこそ、自然に誘えるわね」


 圭が手を上げる。


「じゃあメンバーは、なつき、亜衣、茜、春樹、紅秋、蓮、美優、祐衣、俺、田辺、島中!」


「多いな」


 島中が笑う。


「でも楽しそう」


 田辺も頷いた。


「場所、どうする?」


 蓮が言う。


「駅前のファミレスなら席ありそうだけど、人数多いなら分けることになるかも」


 紅秋が即座に現実へ戻す。


「勉強するなら騒がしすぎる場所は向かない。図書館や学校の空き教室の方がいい」


 圭が少し肩を落とす。


「打ち上げ感が……」


 亜衣が提案する。


「じゃあ、まず休日に図書館で勉強して、そのあとカフェで軽くお疲れ会は?」


 なつきは目を丸くした。


「それ、いいかも」


 茜も頷く。


「現実的ね」


 春樹も短く言う。


「いいと思う」


 圭が復活した。


「カフェがあるならいい!」


 島中が笑う。


「結局食べたいだけだろ」


「違う! 交流!」


「食べながら交流だろ」


 教室にまた笑いが起きる。


   ◇


 昼休みの終わり頃。


 話し合いは、まだ完全には決まらなかった。


 けれど、大まかな方向は見えた。


 休日、図書館で勉強。


 そのあと短めにカフェ。


 体育祭お疲れ会と中間考査対策を兼ねる。


 なつきは、その予定を聞きながら胸が少し弾んでいた。


 体育祭が終わっても、次がある。


 春樹と、みんなと、一緒に過ごす時間がある。


 それが嬉しかった。


 チャイムが鳴る少し前。


 春樹がなつきへ言った。


「横田さん」


「うん?」


「簿記、見る」


「え?」


「勉強会で」


 なつきは少し遅れて意味を理解した。


「教えてくれるの?」


「うん」


「ありがとう」


 春樹は頷いた。


「本の感想も」


「うん。話そうね」


「うん」


 短い約束が二つ。


 勉強。


 本の感想。


 どちらも、次に会う理由になる。


 なつきは黒猫に触れた。


 体育祭の時のような大きな約束ではない。


 でも、日常の中で続いていく約束。


 それが、なつきにはとても大切に思えた。


   ◇


 放課後。


 なつきは図書室へ行く前に、少しだけ教室に残っていた。


 窓から見える校庭は、もう完全に普通の放課後の顔をしている。


 部活の生徒達が走っている。


 体育祭の白線はさらに薄くなっている。


 けれど、なつきの胸にはまだ残っている。


 そしてそこへ、新しい予定が重なった。


 勉強会。


 カフェ。


 本の感想。


 春樹とまた話す時間。


「なつき」


 亜衣が隣に来る。


「楽しみ?」


「うん」


「春樹くんと勉強」


「みんなと、だよ」


「はいはい」


 亜衣は笑った。


「でも、楽しみにできる予定があるのっていいよね」


「うん」


 なつきは頷いた。


「体育祭が終わって寂しかったけど、次ができた感じ」


「そうそう」


 茜もやって来る。


「ただし、勉強会だから本当に勉強するのよ」


「茜ちゃん、そこは大丈夫」


 亜衣が言う。


「春樹くんと紅秋くんと茜ちゃんがいたら、絶対さぼれない」


「それは確かに」


 なつきは笑った。


 その笑い声が、夕方の教室に小さく響く。


 体育祭のような大歓声ではない。


 でも、これも大切な音だった。


 なつきは鞄を持つ。


 黒猫が揺れる。


「じゃあ、図書室行ってくるね」


「いってらっしゃい」


 亜衣がにやにやしながら手を振る。


「本の感想、進展あったら報告」


「進展って」


「何でも」


 なつきは赤くなりながらも、笑って教室を出た。


 廊下の先には、図書室がある。


 そこにはきっと、祐衣がいて。


 もしかしたら、春樹もいる。


 日常に戻っても、物語は続いている。


 体育祭の熱は、勉強会と本の感想へ形を変えた。


 なつきは黒猫に触れながら、夕方の廊下を歩き出した。

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