第110話 休日の予定が、少しだけ特別になる
中間考査の予定が発表されてから、教室の空気は少しずつ変わり始めていた。
体育祭の余韻はまだ残っている。
けれど、黒板に書かれた小テストの予定や、配られた考査範囲のプリントが、少しずつ現実を連れてくる。
「体育祭のあとにテストって、落差がすごい」
圭が机に突っ伏して言った。
紅秋が静かに返す。
「毎年そうだ」
「毎年つらい!」
「なら今年こそ早めにやれ」
「正論が痛い!」
田辺がプリントを見ながらため息をつく。
「簿記、ちゃんとやらないとな」
島中も眉を寄せる。
「商業科目、体育祭前の記憶が薄い」
亜衣がなつきの隣で言う。
「勉強会、ほんとに必要だね」
「うん」
なつきは頷いた。
昨日決まった予定。
休日に図書館で勉強して、そのあと少しだけカフェで体育祭のお疲れ会をする。
勉強会。
打ち上げ。
春樹も来る。
そのことを思うと、テスト勉強の不安の中に、ほんの少し楽しみが混ざった。
鞄の横では、黒猫が揺れている。
なつきはそっと触れた。
体育祭が終わっても、春樹と会う理由がある。
勉強。
本の感想。
それだけで、胸が温かくなる。
◇
昼休み。
机を寄せて、勉強会の予定を本格的に決めることになった。
集まったのは、なつき、亜衣、茜、春樹、圭、田辺、島中、紅秋。
そこへ蓮も来た。
「美優と祐衣にも声かけておいたよ」
蓮が言う。
なつきは顔を上げた。
「来られそう?」
「美優は来るって。祐衣も、図書館なら行きたいって」
「よかった」
自然にそう言えた。
祐衣も来る。
美優も来る。
春樹と近い二人。
以前なら胸がざわついていたかもしれない。
けれど今は、不安よりも楽しみの方が大きかった。
亜衣がなつきを見て、小さく笑う。
「なつき、今ちょっと嬉しそうだった」
「うん。嬉しい」
「素直」
圭が手を上げた。
「で、場所は水戸の図書館?」
紅秋が頷く。
「静かに勉強できる場所がいい。人数が多いなら、周囲に迷惑をかけないことが条件だ」
「はい!」
「圭、特にお前だ」
「名指し!」
田辺が笑う。
「まあ、圭は声でかいからな」
島中も言う。
「図書館で体育祭テンション出したら終わるぞ」
「出さない! たぶん!」
「たぶんじゃだめだ」
紅秋が即座に言った。
教室に笑いが広がる。
茜がプリントを見ながら言う。
「午前中に図書館で勉強、昼過ぎに軽くカフェで休憩。長居はしない。これなら現実的ね」
亜衣が頷く。
「いいね。お疲れ会要素もあるし、勉強もできる」
圭も復活する。
「カフェがあるなら頑張れる!」
「目的が逆になってる」
島中が呆れる。
春樹は静かに聞いていた。
なつきは少し勇気を出して聞く。
「春樹くん、図書館で大丈夫?」
「うん」
「カフェも?」
「うん」
「……楽しみ?」
聞いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
春樹は少し考えた。
「うん」
短い返事。
でも、それだけで嬉しかった。
「横田さんは?」
「楽しみ」
なつきは頷いた。
「勉強は不安だけど」
「見る」
「簿記?」
「うん」
「ありがとう」
亜衣が横で小声で言う。
「自然に約束してる」
「亜衣ちゃん」
「いいよ、続けて」
なつきは赤くなった。
◇
昼休みの後半、予定はだいたい決まった。
日曜日の午前十時。
水戸駅近くで集合。
そこから図書館へ行く。
午前中から昼過ぎまで勉強。
終わったら近くのカフェで少しだけ休む。
解散は早め。
中間考査前だから、長く遊びすぎない。
紅秋と茜がいるおかげで、かなり現実的な予定になった。
圭は少し物足りなさそうだったが、カフェがあることで納得していた。
「よし。体育祭お疲れ会兼、勉強会兼、カフェ会!」
「名前が長い」
田辺が笑う。
「略して?」
圭が考える。
「勉強カフェ祭り!」
「祭りは終わった」
島中が即答した。
教室にまた笑いが起きる。
なつきはその輪の中で笑いながら、ふと春樹を見た。
春樹も少しだけ笑っていた。
それを見つけられたことが嬉しかった。
◇
放課後。
なつきは図書室へ向かった。
今日も春樹が一緒だった。
廊下を並んで歩く。
以前より少しだけ自然な距離。
なつきの鞄には、春樹が選んでくれた本が入っている。
「春樹くん」
「何?」
「昨日の本、もう少し読んだ?」
「うん」
「どうだった?」
春樹は少し考える。
「静かだけど、残る」
「残る?」
「うん。読み終わったあとも、少し考える」
なつきは胸が温かくなった。
「そっか。春樹くんに合ってた?」
「うん」
「よかった」
「横田さんのは?」
「私のも、好き。春樹くんが選んでくれた理由、少し分かった気がする」
「理由?」
「ゆっくり進むけど、ちゃんと前に進んでる感じ」
言ってから、なつきは少し照れた。
「なんか、私たちみたいだなって」
春樹がなつきを見る。
沈黙。
廊下の向こうから部活の生徒達の声が聞こえる。
なつきは言いすぎたかもしれないと思い、黒猫に触れた。
春樹は静かに言った。
「うん」
「うん?」
「似てるかも」
胸が、大きく鳴った。
「……そっか」
「うん」
それ以上は何も言わなかった。
でも、その沈黙は温かかった。
◇
図書室に入ると、白石祐衣がカウンターで本を整理していた。
「こんにちは」
「祐衣さん、こんにちは」
「大國くんも」
「うん」
祐衣は二人を見て、柔らかく微笑んだ。
「勉強会の話、蓮くんから聞きました」
「来られそう?」
なつきが聞くと、祐衣は頷いた。
「はい。図書館なら、私も参加しやすいです」
「よかった」
「横田さんとも、また本の話ができますし」
その言葉が嬉しかった。
「うん。私も話したい」
祐衣は少しだけ照れたように笑う。
春樹が言う。
「白石、勉強もできる」
「大國くんほどではありません」
「できる」
「ありがとうございます」
なつきはそのやり取りを見ても、前ほど胸がざわつかなかった。
春樹と祐衣の会話は自然だ。
けれど、自分もそこにいられる。
それが大きかった。
「祐衣さん」
「はい?」
「日曜日、よかったら私にもおすすめの本、教えて」
「もちろんです」
「勉強会だけど」
「休憩時間に少しだけ」
「うん」
春樹が横で頷く。
「俺も聞く」
祐衣が微笑む。
「では、何冊か考えておきますね」
◇
その後、なつきと春樹は奥の棚へ向かった。
今日は本を借りるというより、昨日の続きを少しだけ話す時間だった。
本棚の間に立つ。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
ページをめくる音。
遠くのカウンターで祐衣が本を置く音。
静かな図書室の中で、なつきは春樹の横にいた。
「日曜日」
春樹が言った。
「うん?」
「簿記、持ってきて」
「うん」
「分からないところ、印つけておくといい」
「分かった」
「あと、英語も」
「英語も?」
「中間あるから」
「……現実」
なつきが思わず言うと、春樹は少しだけ口元を緩めた。
「現実」
「春樹くん、紅秋くんみたい」
「そう?」
「うん。少し」
なつきは笑った。
春樹もほんの少し笑う。
その小さな笑みを見つけられることが、なつきは嬉しかった。
「でも」
なつきは本棚に指を添えながら言った。
「春樹くんが教えてくれるなら、頑張れそう」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
春樹は頷いた。
「うん」
「うん?」
「頑張ろう」
短い言葉。
でも、二人で同じ方向を向いている気がした。
体育祭の時とは違う。
走るわけでも、声を出すわけでもない。
でも、これも一緒に進む時間だった。
◇
図書室を出る頃、廊下は夕方の色に染まっていた。
なつきは鞄を持ち直す。
黒猫が揺れる。
春樹がそれを見る。
「今日も見つけた」
「うん」
なつきは笑った。
「私も、春樹くん見つけた」
春樹は頷く。
「うん」
そのやり取りは、もう少しだけ自然になっていた。
廊下の向こうから紅秋が来る。
「春樹、帰るぞ」
「うん」
亜衣も途中で合流した。
「図書室どうだった?」
「勉強会の話した」
「本当に?」
「本の話もした」
「やっぱり」
亜衣は笑った。
「いいね。勉強会、楽しみになってきた」
「うん」
なつきは頷いた。
「私も」
春樹が静かに言う。
「日曜日」
「うん?」
「よろしく」
なつきの胸が温かくなる。
「うん。よろしくね、春樹くん」
体育祭は終わった。
でも、次の約束ができた。
図書館。
勉強会。
カフェ。
本の話。
そして、春樹とまた同じ時間を過ごすこと。
なつきは黒猫をそっと撫でた。
大きな行事が終わっても、物語は続いていく。
少しずつ。
急がずに。
君の隣を目指す日々は、今度は休日の図書館へ向かって動き出していた。




