第96話 借りる人、見つける人
体育祭の練習が始まってから、教室の空気は少しずつ変わっていった。
朝の挨拶より先に、誰かが競技の話をする。
休み時間になれば、紅組と白組で自然に固まる。
放課後の予定を確認する声が飛び交う。
「今日、リレー練習だよな」
「借り人の説明もあるって」
「応援合戦、昨日より揃えたい」
「綱引き組は体育館前集合らしいぞ」
そんな会話が当たり前になり始めていた。
なつきは席に座り、鞄の横で揺れる黒猫を見つめる。
黒猫は、今日もそこにいる。
春樹が取ってくれた黒猫。
けれど最近は、それを見るたびに祭りの記憶だけではなく、体育祭のことも思い浮かぶようになっていた。
春樹は白組。
なつきは紅組。
それでも、春樹は見つけてくれる。
なつきも、春樹を見つける。
昨日、なつきは言った。
――私も、春樹くん見つけたよ。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
でも、後悔はしていなかった。
言えたことが、嬉しかった。
「なつき」
亜衣が隣から声をかける。
「また黒猫見て、春樹くん思い出してた?」
「……うん」
「もう隠さないね」
「隠しても分かるでしょ」
「分かる」
亜衣は笑った。
「今日、借り人の説明あるんだって」
「知ってる」
「春樹くん、出るよね」
「うん」
その言葉だけで、胸が少し落ち着かなくなる。
借り人競争。
春樹が誰かを借りる競技。
お題次第で、何が起こるか分からない。
美優かもしれない。
白石祐衣かもしれない。
蓮かもしれない。
紅秋かもしれない。
茜かもしれない。
もちろん、他の誰かかもしれない。
そして、ありえないと思いながらも、なつきは少しだけ自分の名前を考えてしまう。
もし、春樹が自分を借りに来たら。
紅組なのに。
敵なのに。
そんなことがあるわけない。
でも、借り人競争は何があるか分からない。
だから心臓に悪い。
「顔」
亜衣が言う。
「出てる?」
「出てる」
「……無理」
「でも楽しみでしょ」
「怖い方が大きい」
「怖いけど、見たい?」
「……見たい」
亜衣は満足そうに頷いた。
「正直でよろしい」
茜が後ろから静かに言う。
「二人とも、朝から盛り上がりすぎよ」
「茜ちゃんは白組の記録係だよね」
「ええ」
茜はプリントを確認しながら頷いた。
「今日は借り人競争の説明も記録係が確認することになっているから、私も参加するわ」
「じゃあ春樹くんの借り人、近くで見るんだ」
亜衣が言う。
なつきの胸が少し揺れる。
茜はそれに気づいたのか、少し優しく微笑んだ。
「なつき、心配しなくても、私はちゃんと公平に記録するだけよ」
「うん。分かってる」
「それに、何があっても体育祭の競技だから」
「うん」
なつきは頷いた。
そう。
これは体育祭の競技。
恋愛のための場ではない。
でも、恋をしているなつきにとっては、ただの競技では終わらない。
◇
放課後。
借り人競争とリレーの合同説明が、校庭の端で行われた。
紅組と白組、両方の競技参加者が集まっている。
リレーに出る島中、白組の春樹と蓮。
障害物走の田辺。
借り人競争の春樹。
記録係の茜、白石祐衣。
応援側のなつきと亜衣、圭も見学兼手伝いとして参加していた。
美優も白組応援合戦の代表として来ている。
人数が多い。
校庭の端に集まっただけで、体育祭が近づいている感じがした。
なつきは紅組側で亜衣と並んで立っていた。
少し離れた白組側には春樹がいる。
その隣には蓮。
少し前に美優。
白石祐衣は記録用のバインダーを持っている。
茜は祐衣と並んで先生の説明を聞いていた。
春樹の周りに、白組の人達がいる。
もう見慣れてきたはずなのに、やっぱり胸は少しざわつく。
その時、春樹がこちらを見た。
なつきと目が合う。
春樹の視線が、なつきの鞄の黒猫へ一瞬落ちる。
そして、また顔へ戻る。
小さく頷く。
それだけ。
でも、なつきの胸のざわめきが少しだけ静かになった。
見つけてくれた。
今日も。
亜衣が隣で小声で言う。
「見つけられたね」
「うん」
「なつきも見つけた?」
「うん」
「よし」
先生が手を叩いた。
「はい、集まってください。今日はリレーの簡単な確認と、借り人競争の説明をします」
全員の視線が先生へ向く。
なつきも背筋を伸ばした。
「まずリレーは、紅白それぞれ代表者が走ります。バトンの受け渡しが大事なので、今日は軽く走順とバトン練習をします」
島中が少し肩を回す。
「来たな」
田辺が横で言う。
「お前、リレー燃えてるな」
「勝ちたいからな」
圭が紅組側から声を抑えて言う。
「島中、頼むぞ」
「任せとけ」
島中は軽く笑った。
いつもの軽さはある。
けれど、競技に向かう目は真剣だった。
なつきは少し意外に思う。
島中は春樹に対して張り合うことが多かった。
けれど今は、紅組として勝ちたいという気持ちが前に出ている。
それが、少し新鮮だった。
白組側では、蓮が春樹に声をかけている。
「春樹、走順どうする?」
「どこでも」
「またそれ」
美優が笑う。
「春樹は後半でもいけると思うけど」
蓮も頷く。
「うん。最後の前とか安定しそう」
春樹は少し考える。
「任せる」
紅秋が少し離れた場所から言った。
「春樹はプレッシャーで崩れるタイプではない。後半でもいいと思う」
「紅秋くん、分析が的確」
美優が感心したように言う。
白石祐衣もメモを取りながら頷いた。
「大國くんは、落ち着いていますからね」
なつきはその会話を聞いて、少しだけ胸がきゅっとした。
春樹をよく見ている人達。
春樹の良さを自然に言葉にできる人達。
美優も、紅秋も、祐衣も。
でも、なつきも知っている。
春樹は落ち着いている。
でも、笑う時は少しだけ口元が緩む。
人混みは少し苦手そう。
甘いものは普通。
猫舌気味。
本を選ぶ時、人のことをちゃんと考えてくれる。
黒猫を見つけてくれる。
なつきだけが知っていることも、少しずつ増えている。
そう思うと、胸の痛みが少し和らいだ。
◇
リレー組が先に軽く走ることになった。
紅組は島中を含めた数人。
白組は春樹と蓮を含めた数人。
校庭のトラックを一部使い、短い距離でバトン練習をする。
なつきは応援側として端に立っていた。
隣には亜衣。
少し後ろには圭。
田辺は障害物走の説明待ちで、腕を組んで見ている。
「島中くん、けっこう速いんだよね」
亜衣が言う。
「うん。体育でも動ける感じあった」
「春樹くんも速そう」
「うん」
なつきは春樹を見る。
白組の列の中で、春樹はバトンを受け取る位置を確認していた。
派手に目立つわけではない。
でも、立ち姿が落ち着いている。
蓮が何か言い、春樹が頷く。
美優が「頑張って」と声をかける。
祐衣が記録用紙を見ながら春樹の走順を確認している。
その光景に胸が少し揺れる。
でも、目を逸らさなかった。
見たい。
春樹が走るところを。
たとえ白組でも。
先生の合図で、練習が始まった。
まずは紅組。
島中がバトンを受け取って走る。
思ったより速い。
地面を蹴る足が軽く、上半身もぶれない。
普段の少し軽い態度とは違って、真剣な顔をしていた。
「島中くん、速い!」
亜衣が声を上げる。
圭も拳を握る。
「いいぞ島中!」
田辺も低く言う。
「やるじゃん」
なつきも思わず声を出した。
「島中、頑張って!」
その声が届いたのか、島中が走り終えた後にこちらを見た。
少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「応援、聞こえた」
なつきは少し照れる。
「お疲れ様」
「悪くないだろ」
「うん。速かった」
田辺が島中の背中を軽く叩く。
「調子乗るなよ」
「褒めろよ」
「速かった速かった」
「雑」
紅組側に笑いが起きる。
なつきはその空気に少し安心した。
紅組を応援する。
ちゃんとできた。
春樹だけではなく、紅組の仲間を見て声を出せた。
それが小さな自信になった。
次は白組。
春樹の番が近づく。
なつきの心臓が、自然に速くなる。
「なつき」
亜衣が小声で言う。
「見る準備」
「してる」
「声は?」
「敵だから」
「でも見ちゃう?」
「……うん」
春樹がバトンを受け取った。
その瞬間、なつきの視界が春樹だけになる。
走り出しは静かだった。
でも速い。
無駄な動きが少なく、まっすぐ前へ進む。
体育のバスケの時も思った。
春樹は、派手にアピールしない。
でも動くと目を引く。
なつきは息を忘れそうになった。
白組側から美優の声が飛ぶ。
「春樹、いける!」
蓮も笑って声を出す。
「そのまま!」
祐衣も小さく拍手している。
なつきは紅組側に立っている。
応援してはいけないわけではない。
でも、紅組の前で白組の春樹を大声で応援する勇気はない。
それでも、心の中では叫んでいた。
春樹くん、頑張って。
春樹は走り終え、バトンを次へ渡した。
なつきは胸に手を当てる。
かっこよかった。
また、そう思った。
声には出せなかった。
でも、顔には出ていたらしい。
亜衣が横でにやにやしていた。
「なつき」
「何?」
「全部顔に出てる」
「……無理」
「春樹くん、速かったね」
「うん」
「かっこよかった?」
なつきは少しだけ黙った。
そして、小さく頷く。
「かっこよかった」
亜衣は満足そうに笑った。
「よし」
◇
リレー練習の後は、借り人競争の説明だった。
参加者が前へ集められる。
春樹もその中に入る。
なつきは、応援側として少し離れて見ていた。
先生が説明する。
「借り人競争は、走者がお題カードを引き、その条件に合う人を会場内から連れてゴールする競技です。危険がないように、相手を無理に引っ張らないこと。事前に協力者を決めておくことはできません」
圭が小声で言う。
「これ、絶対盛り上がるやつ」
亜衣も頷く。
「うん。危険」
なつきは何も言えない。
先生は続ける。
「お題は、簡単なものが中心です。『眼鏡をかけている人』『同じ組の人』『先生』『背の高い人』などですね」
少し安心する。
恋愛系のお題ではなさそう。
そう思った瞬間、先生が付け加えた。
「ただし、毎年少し変わり種のお題もあります。無理のない範囲で楽しんでください」
なつきの心臓がまた跳ねた。
変わり種。
何だろう。
嫌な予感と、少しの期待が同時に来る。
春樹は説明を普通に聞いている。
美優が横から春樹に言う。
「春樹、誰を借りてもちゃんと声かけるんだよ」
「うん」
蓮が笑う。
「春樹、無言で連れていきそうだもんね」
「しない」
祐衣が微笑む。
「大國くんなら、落ち着いてできそうです」
美優が頷く。
「でも急に来られた人はびっくりするかも」
その会話を聞きながら、なつきは想像してしまう。
春樹が誰かの前へ来る。
お題カードを見せる。
「来て」と言う。
もし、それが自分だったら。
なつきは顔が熱くなり、慌てて視線を落とした。
「なつき」
亜衣が小声で言う。
「想像したね」
「してない」
「した」
「……した」
「何のお題?」
「言えない」
「言えないやつか」
「亜衣ちゃん」
亜衣は楽しそうに笑ったが、すぐに少し優しい声になった。
「でもさ、もし春樹くんが誰を借りても、競技だからね」
「うん」
「美優ちゃんでも、祐衣ちゃんでも、誰でも」
「うん」
「なつきが不安になるのは分かるけど、それで全部決まるわけじゃないから」
なつきは亜衣を見た。
亜衣は、ちゃんと分かってくれている。
からかいながらも、一番揺れるところでは支えてくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
なつきは黒猫に触れた。
そうだ。
借り人競争は競技。
それだけで春樹の気持ちが決まるわけではない。
不安はある。
でも、それだけに飲まれないようにしたい。
◇
説明後、試しに一度だけ借り人の流れを練習することになった。
本番のお題とは別に、先生が簡単なお題カードを用意しているらしい。
春樹が試走に選ばれた。
なつきの心臓が跳ねる。
「大國くん、じゃあ試しにやってみましょう」
「はい」
春樹がスタート位置に立つ。
お題カードの箱まで軽く走り、カードを一枚引く。
開く。
春樹は少しだけ周りを見た。
その視線が、一瞬なつきの方へ来た気がした。
なつきの息が止まりそうになる。
でも春樹は、すぐに白組側へ向かった。
そして、蓮の前で止まる。
「蓮」
「俺?」
「うん。背の高い人」
蓮が笑う。
「なるほど」
春樹と蓮が並んで軽く走り、ゴールする。
周囲から拍手が起きた。
なつきは、ほっとしたような、少しだけ残念なような、不思議な気持ちになった。
お題は「背の高い人」。
蓮。
普通。
何もおかしくない。
なのに、春樹がこちらを見た気がしただけで、心臓が大変だった。
「なつき」
亜衣が横で言う。
「今、期待した?」
「……少し」
「正直」
「でも蓮くんでよかった」
「よかった?」
「安心した」
「でもちょっと残念?」
なつきは答えられなかった。
亜衣はにやりとした。
「なるほど」
「何も言ってない」
「顔が言ってる」
なつきは黒猫を軽く握った。
本番はどうなるのだろう。
ますます怖い。
でも、見たい。
◇
練習が終わり、解散になった頃には、校庭に夕方の色が落ち始めていた。
紅組の島中はリレー練習で少し汗をかいていたが、満足そうだった。
田辺は障害物走の説明を聞いて、妙に燃えている。
圭は借り人競争に自分も出たかったと騒いでいる。
「俺も借り人やりたかった!」
亜衣が言う。
「圭くんがやったら絶対会場中走り回る」
「盛り上がるだろ!」
「危ない」
田辺が笑う。
「三浦は応援で声出してろ」
「それもやる!」
島中が春樹の方を見て言った。
「大國、リレー速かったな」
春樹がこちらを見る。
「島中も」
島中は少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、軽く笑う。
「おう。負けねぇから」
「うん」
短いやり取り。
でも、以前とは違う。
敵意ではなく、勝負としての言葉。
田辺も頷く。
「白組、強そうだけど、紅もいける」
圭が拳を上げる。
「紅組、勝つぞ!」
亜衣がすぐに言う。
「声」
「はい」
なつきはその輪の中で笑った。
春樹と白組は気になる。
でも、紅組もちゃんと楽しい。
その両方を抱えていける気がした。
帰り支度をしていると、春樹がなつきの近くへ来た。
「横田さん」
「うん?」
「応援、聞こえた」
「え?」
「島中に」
なつきは少し照れた。
「あ、うん。紅組だから」
「うん」
「春樹くんの時は……声出せなかった」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
でも、言葉は止まらなかった。
「でも、見てた」
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
それから頷く。
「うん」
「速かった」
「ありがとう」
「かっこよかった」
言った瞬間、なつきは固まった。
二学期初日にも言った。
でも、また言ってしまった。
しかも放課後の校庭で。
春樹は少しだけ黙った。
そして、短く言った。
「嬉しい」
なつきの胸が、一気に温かくなる。
「……うん」
それ以上は言えなかった。
黒猫が夕方の風で小さく揺れる。
借りる人。
見つける人。
体育祭の競技は、まだ練習が始まったばかり。
でも、なつきの中ではもう、いくつもの気持ちが走り出していた。
紅組として勝ちたい。
春樹を見つけたい。
春樹に見つけてほしい。
その全部を抱えたまま、体育祭までの日々は続いていく。




