第91話 動き始める二学期
二学期が始まって、最初の授業の日。
教室の空気は、まだ完全には学校に戻りきっていなかった。
朝のホームルームが終わって、一時間目の準備をする時間。
二年十一組の教室には、久しぶりの授業を前にした独特の重たさと、それでも友達に会えた賑やかさが同居していた。
窓の外では、まだ蝉が鳴いている。
九月に入ったとはいえ、夏は簡単には終わらない。
白く強い日差しが校庭を照らし、体育館の屋根の向こうで空が眩しく広がっている。
教室の扇風機がゆっくり首を振り、エアコンの冷たい空気をかき混ぜていた。
机の上には教科書。
ノート。
筆箱。
提出物を出し終えた後の、少しだけ軽くなった鞄。
なつきの鞄の横では、小さな黒猫のキーホルダーが揺れていた。
夏祭りの夜、春樹が射的で取ってくれた黒猫。
始業式の日にもつけていた。
けれど、今日からは本当に授業が始まる。
この黒猫も、二学期の日常の中へ入っていく。
なつきは、黒猫を指先でそっと揺らした。
かすかな音。
祭りの夜とは違う、教室の中の音。
それなのに、胸の奥が少し温かくなる。
「なつき」
隣の席から、亜衣が小声で呼んだ。
「うん?」
「黒猫、完全に学校鞄の一部になったね」
「そうかな」
「うん。もう最初からそこにいました、みたいな顔してる」
「黒猫が?」
「黒猫が」
亜衣は真剣な顔で頷いた。
なつきは思わず笑ってしまう。
「何それ」
「でも本当に似合ってるよ。春樹くんも絶対また見る」
「亜衣ちゃん」
「だって見るじゃん。『見つけやすい』って」
その言葉を聞いただけで、なつきの胸が跳ねる。
春樹の声が思い出される。
――見つけやすい。
何度も言われた言葉。
ただ鞄の黒猫の話。
それだけ。
でも、なつきにはそれ以上の意味を勝手に重ねたくなる言葉だった。
「……見られたら、また緊張する」
「でも嬉しいでしょ」
「うん」
なつきは素直に頷いた。
亜衣は満足そうに笑う。
「よろしい」
前の方では、圭が机に突っ伏していた。
「一時間目から授業って、現実すぎる……」
紅秋が隣の席から冷静に言う。
「学校だからな」
「昨日まで夏休みだったんだぞ」
「昨日は始業式だ」
「気持ちはまだ夏休み」
「戻せ」
「紅秋、厳しい」
田辺が後ろから笑う。
「三浦、今日から通常運転だぞ」
「田辺は戻ってんのかよ」
「戻ってるようで戻ってない」
「同じじゃねぇか」
島中が椅子にもたれながら言う。
「一時間目、簿記だっけ?」
「そう」
茜がプリントを確認しながら答えた。
「二学期最初から商業科らしいわね」
亜衣が少しだけ肩を落とす。
「簿記……」
茜が見る。
「亜衣、夏休みで全部忘れてないでしょうね」
「全部ではない」
「一部は?」
「……旅に出た」
「戻しなさい」
圭が顔を上げる。
「俺の集中力も旅に出てる」
紅秋が即座に返す。
「圭の集中力は年中旅に出ている」
「ひどい!」
教室のあちこちで笑いが起きた。
久しぶりの授業前。
まだ全員が少しだけ浮ついている。
それでも、こうして笑い声が戻ってくると、二年十一組がまた動き出したのだと感じる。
なつきはその空気の中で、そっと春樹の方を見た。
春樹は自分の席で教科書を開いていた。
静かに。
いつも通り。
夏休み中、海で見た春樹。
祭りで見た春樹。
図書館で隣に座った春樹。
その全部を知ったあとで見る教室の春樹は、少しだけ違って見えた。
前より遠くない。
まだ近いとは言えないかもしれない。
でも、遠くから見ているだけだった頃とは違う。
黒猫を見つけてくれる。
話しかければ返してくれる。
「春樹くん」と呼べる。
それだけで、教室の景色が少し変わっていた。
その時、春樹がふと顔を上げた。
視線が合う。
なつきの心臓が跳ねる。
春樹の視線は、なつきの顔から、鞄の黒猫へ少しだけ落ちた。
そして、ほんの少し頷いた。
それだけ。
言葉はない。
でも、気づいてくれた。
なつきは小さく笑って、黒猫に指先で触れた。
春樹はまた教科書へ視線を戻した。
短い。
ほんの数秒。
けれど、なつきには十分だった。
亜衣が横から小声で言う。
「今の見た」
「……見てたの?」
「見てた。春樹くん、黒猫確認した」
「確認って」
「朝の点検」
「そんなのじゃないよ」
「でも嬉しいでしょ」
なつきは少しだけ俯く。
「……うん」
「よし」
亜衣は小さくガッツポーズをした。
茜が後ろから静かに言う。
「亜衣、授業始まるわよ」
「はい」
そのタイミングでチャイムが鳴った。
二学期最初の授業。
簿記。
商業科らしい現実が、教室に戻ってきた。
◇
先生が教室に入ってくると、ざわめきは少しずつ落ち着いた。
「はい、二学期最初の授業です。夏休み気分は今日で終わり。切り替えていきますよ」
その言葉に、教室の何人かが小さく呻いた。
圭は机の上で手を組み、祈るように言う。
「切り替えが間に合いません」
先生がすぐに反応する。
「三浦くん、声に出ています」
「すみません」
笑いが起きる。
先生も少しだけ笑った。
「でも気持ちは分かります。なので今日は復習から入ります。夏休み前にやった内容をどれだけ覚えているか、確認しましょう」
その瞬間、教室の空気が少し重くなった。
復習。
確認。
その言葉は優しそうに聞こえて、実際には怖い。
亜衣が小声で言う。
「なつき、私、旅に出た知識が帰ってこない」
「まだ始まってないよ」
「始まる前から不安」
茜が静かに言う。
「落ち着いて。基本からなら大丈夫」
「茜ちゃんがいるから生きられる」
「自分でも思い出しなさい」
先生が黒板に勘定科目を書き始める。
チョークの音。
ノートを開く音。
教科書のページがめくられる音。
授業の音が戻ってきた。
なつきはノートの端に日付を書く。
二学期最初の授業。
その横に、ほんの小さく黒猫の絵を描きかけて、慌てて止めた。
何をしているのだろう。
でも、少しだけ笑ってしまう。
春樹が取ってくれた黒猫は、もうなつきの中でかなり大きな存在になっていた。
「横田さん」
突然、斜め前から小さな声がした。
春樹だった。
なつきは少し驚いて顔を上げる。
「うん?」
春樹は黒板を見たまま、小声で言った。
「そこ、日付ずれてる」
「え?」
なつきはノートを見る。
本当だ。
日付を一日間違えていた。
「わ、ありがとう」
「うん」
春樹はそれだけ言って、また前を向いた。
ただ日付を教えてくれただけ。
それでも、授業中に春樹が気づいて声をかけてくれたことが嬉しかった。
亜衣が横で肩を震わせている。
なつきは小さく肘でつついた。
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってる」
「春樹くん、細かいとこ見てるなって」
「日付だよ」
「日付も見てる」
茜が二人を小声で注意する。
「二人とも、授業」
「はい」
「はい」
なつきは慌ててノートへ視線を戻した。
でも、胸の中にはまだ春樹の声が残っている。
日付。
小さな間違い。
それに気づいてくれた。
春樹は、やっぱりよく見ている。
そう思ってしまう。
授業は復習から始まった。
仕訳。
勘定科目。
貸方と借方。
夏休み前に確かにやった内容。
でも、少し間が空いただけで、頭の中から抜け落ちている部分がある。
先生が例題を出すと、教室のあちこちで小さなため息が漏れた。
「はい、これは現金で商品を仕入れた場合です。仕入と現金、どちらが借方でどちらが貸方か」
圭が小声で言う。
「借方と貸方、夏休みに喧嘩別れした」
紅秋が即座に返す。
「仲直りさせろ」
「どうやって?」
「問題を解け」
「厳しい」
島中が後ろで笑いをこらえている。
田辺は真剣にノートを見つめていた。
「これ、宿題会でやったやつに似てるな」
田辺が小さく呟く。
春樹が振り返り、短く言う。
「似てる」
「やっぱ?」
「うん」
「助かった。思い出した」
春樹は頷くだけだった。
その自然なやり取りを見て、なつきは少し嬉しくなった。
田辺が春樹に聞く。
春樹が普通に答える。
以前なら、そこにも少し引っかかりがあったかもしれない。
でも、宿題会を経て、その距離は少し自然になっていた。
クラスの中で、春樹の優しさが少しずつ周囲にも伝わっていく。
それが嬉しかった。
先生が練習問題を出す。
「では、各自で解いてください。できた人から手を挙げてくださいね」
教室にペンの音が広がる。
なつきも問題に向き合った。
夏休みの宿題会で何度もやったおかげか、思ったより手が動いた。
借方。
貸方。
金額。
科目。
ゆっくりだけど、書ける。
なつきは答えを書き終え、少しだけほっとした。
隣の亜衣を見ると、真剣な顔で固まっていた。
「亜衣ちゃん」
「なつき」
「うん?」
「私、今、現金と仕入に見つめ合われてる」
「どういう状況?」
「どっちが右でどっちが左か分からない」
なつきは笑いそうになりながらも、小声で説明した。
「商品を仕入れたから、仕入が増えるでしょ。だから仕入が借方で、現金が減るから貸方」
「……なつきが先生になってる」
「宿題会でやったから」
「すごい」
亜衣は感動したように言った。
「なつき、二学期初日から成長してる」
「大げさだよ」
「大げさじゃない」
茜も隣から小さく頷く。
「今の説明、分かりやすかったわ」
「え、本当?」
「ええ」
なつきは少し照れた。
自分が誰かに説明できる。
それは、少し前なら考えられなかったことだった。
春樹に教わって、茜に支えてもらって、自分でも復習して。
その積み重ねが、今の小さな説明に繋がった。
先生が答え合わせを始める。
なつきの答えは合っていた。
「合ってた」
なつきが小さく呟くと、亜衣が親指を立てた。
「さすなつ」
「何それ」
「さすがなつき」
「略さないで」
春樹が斜め前から少しだけ振り返る。
「できた?」
「うん。合ってた」
「よかった」
また短い言葉。
でも、なつきの胸は温かくなった。
「ありがとう」
「横田さんが解いたから」
いつもの言葉。
春樹は何気なく言う。
でも、それを聞くたびに、なつきは少しずつ自分を認められるようになっている。
自分で解いた。
自分でできた。
春樹がそう言ってくれるから。
それを信じてもいいと思える。
◇
一時間目が終わる頃には、教室全体が少しだけ疲れていた。
夏休み明け最初の授業は、思ったより体力を使う。
チャイムが鳴った瞬間、圭が机に倒れた。
「終わった……」
紅秋が言う。
「一時間目だ」
「現実を言うな」
「あと何時間もある」
「追い打ち!」
田辺が肩を回しながら言う。
「でも、宿題会やってたから思ったより分かったわ」
島中も頷く。
「それはある」
茜が少し誇らしげに言う。
「だから早めに復習しておくのは大事なのよ」
亜衣が机に頬をつけながら言う。
「茜ちゃんの言うことはだいたい正しい」
「だいたい?」
「全部正しいけど、たまに厳しい」
「必要な厳しさよ」
「はい」
教室に笑いが戻る。
なつきはノートを閉じながら、ふと黒猫を見た。
黒猫は鞄の横で静かに揺れている。
授業中もそこにあった。
夏休みの思い出が、簿記の授業の横で揺れている。
それが少し不思議で、少し嬉しい。
春樹が席を立ち、なつきの机の横を通る時、黒猫に少しだけ目を向けた。
なつきはそれに気づいてしまう。
春樹は何も言わなかった。
でも、気づいている。
見つけている。
そのことだけで、二学期最初の授業は、なつきにとって少し特別なものになった。
◇
二時間目、三時間目と授業は続いた。
夏休み明けの教室は、だんだんと学校のリズムを取り戻していく。
最初は眠そうだった生徒達も、先生に当てられたり、ノートを取ったり、友達と小声で確認したりするうちに、少しずつ授業の空気へ戻っていった。
それでも、休み時間になるたびに体育祭の話が誰かから出た。
「体育祭、今年も紅白かな」
誰かが言う。
「去年どうだったっけ」
「学年混合だったよな」
「特進とも一緒になるやつ」
その言葉に、なつきは少しだけ反応した。
特進。
つまり、美優や蓮、白石祐衣とも同じ組になる可能性がある。
あるいは、違う組になる可能性も。
春樹とはどうなるのだろう。
同じ組か。
違う組か。
考えた瞬間、胸が少しだけざわついた。
同じ組なら嬉しい。
でも違う組なら、敵同士として応援席から春樹を見ることになる。
それも少し、胸が忙しい。
亜衣がすぐに気づいた。
「なつき、体育祭で春樹くんと同じ組がいいなって考えた?」
「してない」
「した」
「……少し」
「素直」
茜が後ろから言う。
「組分けはまだ分からないわよ」
「うん」
「でも、違う組でも楽しめると思うわ」
「そうかな」
「応援する気持ちは、同じ組じゃなくても消えないでしょう?」
なつきは少しだけ黙った。
確かに。
春樹を応援したい気持ちは、同じ組でも違う組でも変わらない。
ただ、堂々と応援できるかどうかが違うだけ。
違う組だったら、敵なのに応援してしまう。
それはそれで、かなり恥ずかしい。
亜衣がにやっと笑う。
「敵チームの春樹くんを見て、なつきがそわそわする未来が見える」
「やめて」
「でも絶対かわいい」
「かわいくない」
「かわいい」
茜が小さく笑った。
なつきは顔を赤くしながら、黒猫に触れた。
体育祭。
まだ組分けも種目も決まっていない。
でも、もう新しい物語が動き出している気がした。
◇
昼休み前の授業が終わると、教室は一気に賑やかになった。
久しぶりの午前授業を乗り切った解放感。
昼食の匂い。
机を動かす音。
椅子を引く音。
誰かが購買へ走る足音。
そんな普通の学校の昼休みが戻ってきた。
圭が立ち上がる。
「昼だ!」
紅秋が言う。
「声」
「昼だぞ?」
「昼でも声量は考えろ」
田辺が笑う。
「三浦、体育祭で応援団やれよ」
「やりたい!」
島中が言う。
「お前、絶対向いてるわ」
圭は目を輝かせる。
「だろ? 応援なら任せろ!」
紅秋が少し考える。
「圭は盛り上げ役としては向いている」
「紅秋が認めた!」
「ただし、暴走しなければ」
「条件つき!」
亜衣も弁当を出しながら言う。
「応援団いいね。私も見たい」
茜が言う。
「応援団があるかどうか、まず確認ね」
「茜ちゃん、現実」
「大事よ」
なつきは弁当を出しながら、春樹の方を見た。
春樹はいつものように静かに昼食の準備をしている。
体育祭になったら、春樹はどんな競技に出るのだろう。
リレー。
球技。
障害物。
借り人競争。
もし借り人競争があって、春樹が誰かを借りるとしたら。
そこまで考えて、なつきは慌てて弁当の蓋を開けた。
何を想像しているのだろう。
まだ何も決まっていないのに。
でも、胸は少しだけ期待で騒いでいた。
黒猫が鞄で揺れる。
二学期の教室。
体育祭の気配。
春樹の横顔。
夏休みの余韻は、少しずつ新しい行事へ繋がっていく。
そして、昼休みの賑やかな声の中で、なつきは思った。
学校が再開した。
日常が戻ってきた。
けれど、これは夏休み前と同じ日常ではない。
黒猫を連れてきた日常。
春樹に「かっこよかった」と言えた後の日常。
そしてこれから、体育祭へ向かって動き出す日常。
君の隣を目指す日々は、二学期の教室でまた新しい形を取り始めていた。
★★★
昼休みの教室は、二学期が始まったことを一番分かりやすく教えてくれた。
授業中はまだ少し眠たげだった空気が、チャイムと同時にほどける。
椅子を引く音。
机を寄せる音。
弁当箱の蓋が開く音。
購買へ走る男子の足音。
久しぶりの昼休みを待っていたみたいに、教室のあちこちで声が弾けた。
「購買行くやつ!」
「焼きそばパン残ってるかな」
「もう無理じゃね?」
「走れ!」
そんな声が廊下へ流れていく。
なつきは弁当を机に出しながら、黒猫のキーホルダーを一度だけ見た。
教室の昼休み。
夏祭りでも図書館でもない。
でも、黒猫はここでもちゃんと揺れている。
そのことが、少しだけ心強かった。
「なつき、こっち寄せるよ」
亜衣が机を少し動かす。
「うん」
茜も自分の机を寄せて、いつもの女子三人の形ができる。
夏休み中、何度もカフェや図書館で会っていたのに、教室で机を寄せるこの感じはやっぱり特別だった。
「なんか戻ってきたね」
亜衣が弁当を開きながら言った。
「学校って感じ」
「うん」
なつきは頷く。
「ちょっと疲れたけど」
「分かる。授業って体力使う」
茜が笑う。
「一時間目から三時間目まででそれを言うの?」
「夏休み明けだから」
「少しずつ戻しましょう」
亜衣は卵焼きを口に入れながら、教室の前方を見た。
「あっちは体育祭の話で盛り上がってるね」
なつきも視線を向ける。
圭、田辺、島中が中心になって、男子数人が集まっていた。
圭は弁当を持ったまま、すでに立ち上がっている。
紅秋が隣で座れと言いたそうな顔をしているが、圭は気づいていない。
「だから、応援団あったら俺やるって!」
圭が言う。
田辺が笑う。
「お前、声でかいから向いてるわ」
「声だけじゃない。動きもいける」
島中が軽く顎を上げる。
「三浦、ダンスできるもんな」
「そう!」
圭は待ってましたとばかりに胸を張った。
「応援にダンス要素入れたら絶対盛り上がる」
「それ、体育祭で許されるのか?」
紅秋が冷静に言う。
「まず応援団の形式を確認しろ」
「紅秋、夢を壊さないで」
「夢ではなく事前確認だ」
「現実!」
そのやり取りに周囲の男子達が笑う。
田辺が腕を組みながら言った。
「俺は競技だな。リレーとか綱引きとか」
「田辺、力系強そう」
圭が言う。
「レスリング部なめんな」
島中が少しにやっとする。
「俺も走る系なら出るわ。こういうのは勝ちにいかないとな」
「島中くん、やる気だね」
亜衣が小声で言う。
なつきは少しだけ頷いた。
島中は体育祭のような場では目立つタイプだ。
田辺も体格があり、競技では頼りになりそうだった。
圭はもちろん盛り上げ役。
紅秋は、きっと全体を見て支える。
二学期が始まったばかりなのに、クラスの中に新しい熱が生まれていく。
「体育祭かぁ」
亜衣が箸を止める。
「なつき、何出る?」
「まだ分からないよ」
「走る系?」
「無理」
「じゃあ、玉入れとか?」
「高校の体育祭に玉入れあるのかな」
「分かんないけど、ありそう」
茜が言う。
「去年は学年混合の紅白で、競技はいくつか選択制だったわね。クラス対抗ではなく、学科を越えて組が分かれていたはず」
「そうなんだ」
なつきは少しだけ背筋を伸ばした。
学科を越えて。
つまり、商業科だけではなく、特進の生徒とも同じ組になる可能性がある。
美優。
蓮。
白石祐衣。
そして春樹。
誰がどちらの組になるのか。
まだ分からない。
「紅組と白組?」
亜衣が聞く。
「たぶんそうね。正式には次のホームルームで発表されると思うけれど」
「春樹くんと同じ組だったらいいね、なつき」
亜衣はあまりにも自然に言った。
なつきは弁当の箸を止める。
「えっ」
「違う?」
「いや、その……」
同じ組だったら嬉しい。
それは本当だ。
でも、もし違う組だったら。
敵チーム。
応援したいのに、堂々とは応援しにくい。
春樹が白組で、自分が紅組。
あるいは逆。
想像しただけで、胸が少しそわそわする。
茜が静かに言った。
「同じ組でも違う組でも、物語は動きそうね」
「茜ちゃん、言い方」
亜衣が笑う。
「でも分かる。違う組だったら、なつきが春樹くん応援したいのにできないやつ」
「やめて」
「絶対かわいい」
「かわいくない」
「かわいい」
なつきは赤くなりながら、弁当へ視線を落とした。
けれど、否定しきれない。
春樹を応援したい気持ちは、組が違ってもきっと消えない。
でも、自分の組も応援しなければいけない。
その間で揺れる自分が、もう想像できてしまう。
なつきは黒猫をそっと指で触れた。
黒猫は何も言わず、鞄の横で小さく揺れている。
その時、前方から圭の声が飛んできた。
「なつきー!」
「えっ?」
なつきが顔を上げると、圭がこちらを見ていた。
「体育祭、何出る?」
「まだ分からないって話してたところ」
「じゃあ応援系!」
「私?」
「なつき、応援してる時の方が強そう」
「どういう意味?」
亜衣がすぐに乗る。
「それ分かる。なつきは自分が出るより、春樹くんを応援してる時が一番強い」
「亜衣ちゃん!」
教室の近くにいた数人が笑った。
春樹の名前が出た瞬間、なつきは一気に赤くなる。
春樹は少し離れた自分の席で昼食を食べていた。
聞こえただろうか。
なつきが恐る恐る見ると、春樹は少しだけこちらを見ていた。
目が合う。
春樹は不思議そうにしている。
「俺?」
短く言った。
圭が笑う。
「春樹、体育祭でなつきに応援されたら強くなるんじゃね?」
紅秋が即座に圭の肩を押さえた。
「圭」
「何も変なこと言ってない!」
「十分だ」
田辺が横で笑っている。
「大國、応援されたらどうなんだ?」
島中も面白そうに見る。
なつきは机の下で手を握った。
もうやめてほしい。
でも、春樹がどう答えるのか気になってしまう。
春樹は少しだけ考えた。
そして、いつものように短く言った。
「嬉しいと思う」
教室の空気が、一瞬だけ止まった。
なつきの心臓も止まりかけた。
嬉しいと思う。
春樹が。
応援されたら。
なつきに、と直接言ったわけではない。
でも、流れとしてはそうだった。
顔が熱い。
耳まで熱い。
亜衣が横で完全に口元を押さえている。
茜は静かに微笑んでいる。
圭は天を仰いだ。
「春樹、そういうとこ!」
紅秋がため息を吐く。
「自覚がないんだろうな」
「何が?」
春樹は本当に分かっていない顔をしていた。
その様子に、教室にまた笑いが広がる。
なつきは俯きながら、弁当の端を見つめた。
嬉しい。
恥ずかしい。
どうしようもなく胸が忙しい。
でも、心のどこかで思ってしまう。
体育祭で、春樹を応援したい。
同じ組でも、違う組でも。
その気持ちは、もう確かにあった。
◇
昼休みの後半になると、体育祭の話はさらに教室全体へ広がっていった。
誰かが去年の種目を思い出し、黒板の端に書き始めた。
「去年あったのって、リレー、綱引き、障害物、借り物競争、応援合戦だっけ?」
「玉入れは一年だけ?」
「学年ごとに違わなかった?」
「全員参加のやつもあるよな」
「紅白リレーあった!」
黒板の端に、どんどん言葉が増えていく。
まだ正式発表ではない。
でも、こういう予想だけでクラスは盛り上がる。
田辺が黒板を見る。
「綱引きあるなら出る」
島中が言う。
「リレーも欲しいな。勝ちたいし」
圭は応援合戦の文字に目を輝かせている。
「応援合戦、絶対面白い」
亜衣も言った。
「衣装とかあるのかな」
茜が現実的に返す。
「高校の体育祭だから、そこまで派手ではないと思うけれど、応援の掛け声や並びは決めるかもしれないわね」
「茜ちゃん、もう考えてる」
「考えているというより、必要になるでしょう」
紅秋も黒板を見ながら言う。
「組が混合なら、他クラスや他学科との連携も必要になる」
「紅秋くんも完全に運営側」
亜衣が言うと、紅秋は少しだけ顔を逸らした。
「まだ決まっていない」
圭がにやりとする。
「でも向いてる」
「向いているかどうかではなく、必要かどうかだ」
「それを向いてるって言うんだよ」
田辺も頷く。
「板倉と遠山がいれば何とかなる感ある」
茜が苦笑する。
「勝手に任せないで」
島中が言う。
「でも委員長と副委員長だからな」
「副委員長は板倉くんでしょう」
「紅秋でいいって」
圭が言いかけ、紅秋に見られて口を閉じた。
「……板倉」
「分かればいい」
教室はまだ笑っている。
なつきはその様子を見ながら、夏休み前とは違うクラスのまとまりを感じていた。
最初はそれぞれの距離がまだぎこちなかった。
春樹を中心に、島中や田辺が絡んできて、時には空気が悪くなることもあった。
でも今は、少しずつ形が変わっている。
圭が場を明るくする。
紅秋が整える。
茜が支える。
亜衣がツッコミとからかいを混ぜる。
田辺も島中も、以前より角が取れてきた。
そして春樹は、相変わらず静かだけれど、ちゃんとその輪の中にいる。
なつき自身も、ただ見ているだけではなくなった。
春樹くん、と呼び。
嬉しいと言い。
かっこよかったと言えた。
その変化を、教室の空気が少しずつ受け入れてくれているように感じた。
黒猫が揺れる。
夏休みの思い出が、二学期の空気の中でちゃんと息をしている。
◇
昼休みが終わる少し前、担任が教室に顔を出した。
まだ正式なホームルームの時間ではない。
けれど、黒板の端に書かれた体育祭の予想種目を見て、苦笑した。
「もう体育祭の話ですか」
教室が一斉に反応する。
「先生、今年も紅白ですか?」
「組分けいつですか?」
「応援団ありますか?」
「リレーありますか?」
質問が飛び交う。
担任は手を軽く上げた。
「はいはい、落ち着いて。正式には次のホームルームで話します」
それだけで、教室がざわついた。
次のホームルーム。
つまり、近いうちに組分けが発表される。
なつきの胸が少し高鳴る。
担任は続けた。
「今年も紅組、白組に分かれる予定です。クラス単位ではなく、学年や学科を混ぜた編成になります。詳しい名簿は次回配ります」
その言葉に、教室中が一気に沸いた。
「混合だ!」
「特進とも一緒か!」
「誰と同じになるんだろ」
「紅白かー!」
亜衣がなつきの腕を軽くつついた。
「なつき」
「うん」
「春樹くんと同じか、違うか」
「……うん」
もう否定できなかった。
気になる。
とても。
同じ組だったら、一緒に応援できる。
違う組だったら、敵同士。
でも、どちらでも何かが起こりそうで、胸が落ち着かない。
春樹も黒板の方を見ていた。
何を考えているのだろう。
体育祭。
紅組と白組。
美優や蓮、白石祐衣とも同じ舞台になる。
もし春樹が美優や祐衣と同じ組だったら。
なつきはそれを応援席から見ることになるかもしれない。
胸が少しだけざわついた。
でも、夏休み前のようにただ不安になるだけではなかった。
美優とも話せるようになった。
祐衣とも本の話をして、一緒に海や祭りを楽しんだ。
だからこそ、今度は違う種類の緊張だった。
春樹の周りにいる人達を怖がるだけではなく、自分もその輪の中にいたいと思える。
それが、夏休みを越えた自分の変化だった。
担任は最後に言った。
「体育祭までおよそ三週間です。準備期間は短いですが、二学期最初の大きな行事です。しっかり協力してくださいね」
三週間。
その言葉が、教室の中に新しい時間を置いていった。
夏休みが終わったばかりなのに、もう次の行事が見えている。
なつきは黒猫をそっと撫でた。
黒猫は何も言わない。
けれど、まるで次へ行こうと言っているように、鞄の横で小さく揺れた。
◇
担任が教室を出た後、昼休み終了のチャイムが鳴った。
賑やかだった教室が、少しずつ午後の授業へ戻ろうとする。
けれど、体育祭の熱は完全には消えなかった。
「次のホームルームか」
圭が言う。
「紅組か白組か、どっちだろうな」
田辺が答える。
「俺、どっちでも勝つけどな」
島中も笑う。
「言ったな」
紅秋が静かに言う。
「組が分かれたら敵になる可能性もあるぞ」
「それはそれで燃える」
圭が拳を握る。
「敵でも仲間でも、盛り上がる!」
亜衣がなつきに小声で言った。
「なつき、もし春樹くんと敵だったらどうする?」
なつきは少しだけ考えた。
すぐには答えられない。
春樹を応援したい。
でも自分の組も応援したい。
きっと迷う。
でも。
「たぶん」
なつきは小さく言った。
「自分の組を応援しながら、春樹くんも見ちゃうと思う」
亜衣は一瞬驚いて、それからにやっと笑った。
「正直でよろしい」
茜も優しく頷いた。
「それでいいんじゃないかしら」
「いいの?」
「気持ちは無理に消せないでしょう」
「うん」
なつきは春樹の方を見た。
春樹は午後の授業の準備をしていた。
まだ、どちらの組になるのか分からない。
けれど、体育祭へ向かう三週間の中で、きっとまた何かが変わる。
夏休みで少し近づいた距離。
黒猫で繋がった日常。
それを今度は、学校行事の中で積み重ねていく。
午後のチャイムが鳴り、先生が入ってくる。
教室はゆっくり静かになった。
でも、なつきの胸の奥では、体育祭という新しい言葉がまだ小さく鳴っていた。
紅組か、白組か。
春樹と同じか、違うか。
まだ何も分からない。
だからこそ、次が待ち遠しい。
二学期が、本当に動き始めた。
★★★
午後の授業は、昼休みのざわめきを少しだけ残したまま進んでいった。
先生の声。
黒板を叩くチョークの音。
ノートを取る手の動き。
教室は一応、授業の形に戻っている。
けれど、完全には戻りきっていなかった。
誰かが小さく「紅組かな」と呟く。
別の誰かが「白組がいい」と返す。
先生に見られると、すぐに黙る。
けれど、しばらくするとまた誰かが小声で体育祭の話をする。
二学期最初の大きな行事。
体育祭まで三週間。
その言葉は、教室全体の中に小さな火種のように残っていた。
なつきも例外ではなかった。
ノートを取っているはずなのに、気づけば頭の端で体育祭のことを考えてしまう。
紅組か、白組か。
春樹くんと同じ組か、違う組か。
同じなら、嬉しい。
違うなら、きっと落ち着かない。
でもどちらでも、春樹を見てしまうのだろうと思った。
昼休みに亜衣へ言った言葉。
――自分の組を応援しながら、春樹くんも見ちゃうと思う。
自分で言ったくせに、思い出すとまた顔が熱くなる。
けれど、あれは本音だった。
春樹を応援したい気持ちは、もう隠せないところまで来ている。
たとえ口に出さなくても。
クラスのみんなが知っているような空気になっていても。
それでも、なつきの中ではまだ大切で、恥ずかしくて、簡単には見せられない気持ちだった。
なつきは鞄の横に揺れる黒猫をちらりと見た。
夏祭りの思い出。
春樹が取ってくれたもの。
その黒猫は、授業中も静かにそこにいる。
何も言わず、けれど確かに、なつきの背中を支えてくれているようだった。
斜め前の春樹は、いつも通り授業を受けていた。
ノートを取る手は落ち着いていて、時々先生の説明に目を向ける。
その横顔を、なつきはほんの少しだけ見てしまう。
すぐにノートへ視線を戻す。
でもまた、気づけば見ている。
夏休み前の自分なら、ただ見つめて終わっていた。
話しかけることもできず、誰かに気づかれないように、こっそり春樹を追っていた。
でも今は違う。
春樹は黒猫を見つけてくれる。
日付の間違いも教えてくれる。
「見つける」と言ってくれる。
ほんの少しずつだけれど、視線の一方通行ではなくなってきている。
そう思えることが、なつきには嬉しかった。
◇
最後の授業が終わった時、教室中から小さな解放感が漏れた。
「終わったー!」
圭が机に突っ伏す。
「二学期初日、長かった……」
紅秋が教科書を片づけながら言った。
「まだ初日だ」
「だから重い」
「明日もある」
「追い打ちやめろ」
田辺が笑う。
「でも、思ったより普通に戻ったな」
島中が肩を回しながら答える。
「まあ、体育祭の話出たからな。あれでちょっと目覚めたわ」
「体育祭で目覚めるのかよ」
「授業では眠い」
「分かる」
茜が提出物の確認をしながら言った。
「二人とも、授業でも目を覚ましていてほしいわね」
田辺と島中は同時に少しだけ姿勢を正した。
「はい」
「はい」
亜衣が笑う。
「茜ちゃん、二学期も強い」
「亜衣も他人事ではないわよ」
「はい」
教室のあちこちで帰り支度が始まる。
椅子が動く音。
鞄を閉じる音。
友達同士で予定を確認する声。
部活へ向かう生徒。
そのまま帰る生徒。
なつきは鞄に教科書を入れながら、黒猫が引っかからないように気をつけた。
その時、春樹が近くへ来た。
「横田さん」
「うん?」
「今日、図書室行く?」
なつきの手が止まる。
図書室。
二学期初日。
春樹から。
胸が跳ねた。
「うん。行くつもり」
本当は少し迷っていた。
授業初日で疲れたし、帰って休もうかとも思っていた。
でも、春樹に聞かれた瞬間、答えは決まってしまった。
「返す本?」
春樹が聞く。
「うん。夏休みに借りた本、返そうかなって。感想文に使った本」
「そっか」
「春樹くんも?」
「返す本がある」
「じゃあ、一緒に……」
言いかけて、なつきは固まった。
一緒に行く?
そこまで言っていいのだろうか。
でも、春樹は普通に頷いた。
「うん」
たった一言。
それだけで、なつきの胸はいっぱいになる。
亜衣が後ろで小さく息を吸った気配がした。
絶対に聞いていた。
なつきは見ないふりをした。
茜は優しく微笑んでいる。
「なつき、私たちは先に帰るわね」
「え?」
亜衣がにやりとする。
「図書室、行っておいで」
「亜衣ちゃん」
「大丈夫。黒猫もいる」
「黒猫は関係ないよ」
「ある」
茜が軽く亜衣をたしなめる。
「亜衣、あまりからかわないの」
「はーい」
でも顔は完全に楽しんでいた。
圭がその様子に気づく。
「春樹と横田さん、図書室?」
紅秋が即座に言う。
「圭」
「まだ何も!」
「言いそうだった」
「信用ない!」
春樹は不思議そうにする。
「本返すだけ」
その言葉に、圭は机に手をついた。
「春樹、そういうとこ!」
「何が?」
教室にまた笑いが起きた。
なつきは恥ずかしさで少し俯いた。
でも、嫌ではなかった。
春樹と図書室へ行ける。
夏休みの余韻が、二学期の放課後へ繋がっている。
◇
放課後の廊下は、昼休みとは違うざわめきで満ちていた。
部活へ向かう生徒達の声。
職員室へ向かう生徒。
久しぶりの授業に疲れた様子で歩く人。
体育祭の話をしながら階段を降りるグループ。
「紅白っていつ発表?」
「次のホームルームだって」
「特進と同じになるかな」
「リレー出たい」
そんな言葉が、廊下のあちこちから聞こえる。
なつきは春樹と並んで歩いていた。
近すぎない。
でも、離れすぎてもいない。
夏休みの海や祭りで並んで歩いた距離を、学校の廊下へ持ってきたような感覚。
それが少し不思議だった。
春樹は手に返却する本を持っている。
なつきも鞄の中に感想文で使った本を入れていた。
黒猫が歩くたびに揺れる。
廊下の光の中で、小さく動く。
「横田さん」
「うん?」
「感想文に使った本、どうだった?」
「好きだったよ」
なつきは少し考えながら言った。
「静かだけど、ちゃんと残る感じ」
「うん」
「春樹くんが選んでくれてよかった」
言った瞬間、少し恥ずかしくなる。
でも、もう消さない。
春樹は短く頷いた。
「横田さんが好きそうだったから」
なつきは胸が鳴った。
「私が?」
「うん」
「そう思って選んでくれたの?」
「うん」
春樹は普通に言う。
なつきは一瞬言葉が出なかった。
春樹は、なつきが好きそうだと思って本を選んでくれた。
それはつまり、少しは自分のことを考えてくれていたということ。
ただ本を勧めただけ。
そう分かっている。
でも、なつきにはそれがとても嬉しかった。
「……ありがとう」
「うん」
「本当に、読んでよかった」
春樹は少しだけ口元を緩めた。
「よかった」
その短いやり取りで、廊下のざわめきが少しだけ遠く感じた。
図書室へ向かう階段を上がる。
放課後の図書室は、夏休み前と変わらないようで、少しだけ違っていた。
入り口の掲示板には、二学期の図書委員当番表が貼られている。
新着本の案内。
読書感想文関連の本の返却期限。
体育祭とは関係ない静かな紙面。
その落ち着いた空気に、なつきは少しほっとした。
図書室の扉を開けると、涼しい空気と紙の匂いが迎えてくれた。
夏休みに何度も訪れた図書館とは違う。
学校の図書室の匂い。
なつきが一年の頃から、春樹を遠くから見ていた場所。
そして今は、春樹と一緒に入れる場所。
それだけで、胸の奥が静かに熱くなる。
◇
カウンターには、白石祐衣がいた。
特進の制服をきちんと着て、返却された本を整理している。
顔を上げると、柔らかく微笑んだ。
「大國くん、横田さん」
「こんにちは、祐衣さん」
なつきが言うと、祐衣は嬉しそうに頷いた。
「こんにちは。二学期、始まりましたね」
「うん。ちょっと疲れた」
「分かります。久しぶりの授業は、思ったより体力を使いますよね」
春樹も本をカウンターに置く。
「返却」
「はい」
祐衣は本を受け取り、バーコードを読み取る。
「大國くんも感想文、終わりましたか?」
「うん」
「横田さんも?」
「うん。何とか」
「よかったです。あの本、どうでした?」
なつきは自分の本を差し出しながら答えた。
「すごくよかった。最初は静かな話だと思ったけど、最後まで読むとじわっと残る感じで」
祐衣の表情が明るくなる。
「分かります。大きな事件ではなくて、少しずつ変わっていくところがいいですよね」
「うん」
春樹が横で短く頷いた。
「横田さん、感想文にも書いてた」
なつきは少しだけ慌てる。
「春樹くん」
「いいと思ったから」
祐衣が微笑む。
「横田さんらしい感想だったんですね」
なつきは顔が熱くなる。
「らしいって、春樹くんにも言われた」
「それは素敵ですね」
祐衣は茶化さず、自然にそう言った。
その優しさが嬉しかった。
祐衣とは、夏休みに海や祭りで一緒に過ごしてから、少しずつ話しやすくなっている。
春樹に近い相手だから緊張する、というだけではなくなった。
本の話ができる人。
穏やかで、ちゃんと聞いてくれる人。
なつきにとって、祐衣は少しずつ大切な友人になり始めていた。
その時、図書室の扉がもう一度開いた。
「やっぱりいた」
入ってきたのは美優だった。
特進棟から来たのか、鞄を肩にかけたまま軽く手を振る。
「春樹、祐衣、横田さん」
「美優」
春樹が短く言う。
美優はカウンターに本を置いた。
「私も返却。夏休みの本、ぎりぎりセーフ」
祐衣が笑う。
「美優さんはいつもぎりぎりですね」
「読んではいたの。返すのを忘れそうだっただけ」
「それも大事です」
「はい」
美優はなつきの鞄に目を向けた。
「あ、黒猫。学校でもつけてるんだ」
「うん」
なつきは少し照れながら触れる。
「もう馴染んできたね」
「そうかな」
「うん。春樹が取ったやつだよね」
その言葉に、なつきの顔が少し熱くなる。
「うん」
美優は春樹を見る。
「春樹、ちゃんといいもの取ったね」
「横田さんが見てたから」
春樹は何気なく言った。
なつきの心臓が跳ねる。
祭りの日にも言われた言葉。
それを図書室で、美優と祐衣の前で言われると、また違う恥ずかしさがあった。
美優は一瞬だけ春樹を見て、それからなつきを見た。
その表情は、少しだけ何かを考えているようだった。
でもすぐに、いつもの明るい笑みに戻る。
「そっか。横田さん、よかったね」
「うん」
なつきは小さく頷いた。
「すごく嬉しかった」
言えた。
美優の前でも。
祐衣の前でも。
それが、なつきには小さな勇気だった。
祐衣は柔らかく微笑む。
「大事な思い出ですね」
「うん」
春樹は何も言わなかった。
けれど、黒猫を少しだけ見ていた。
◇
四人で、本の話を少しした。
感想文に使った本。
夏休みに読んだ本。
二学期に図書室へ入る新刊のこと。
会話は静かで、穏やかだった。
美優は時々春樹へ自然に話を振る。
「春樹、これ読んでたよね」
「うん」
「感想、短かったけど」
「面白かった」
「それだけ?」
「うん」
祐衣がくすっと笑う。
「大國くんらしいですね」
なつきも笑った。
「春樹くんの感想、短いけど分かる気がする」
春樹は少し不思議そうにする。
「そう?」
「うん」
美優がなつきを見た。
「横田さん、春樹の短い言葉に慣れてきたね」
なつきは一瞬、顔が熱くなる。
「そ、そうかな」
「うん。だいぶ」
美優の声は明るい。
でも、その奥にほんの少しだけ、幼なじみとしての距離を感じた。
春樹の短い言葉を昔から知っている美優。
最近少しずつ分かるようになってきたなつき。
その差はまだある。
でも、前ほど苦しくはなかった。
なつきは自分の速度で、春樹を知っていけばいい。
そう思えるようになっていた。
「まだ、分からないことも多いけど」
なつきは小さく言った。
「でも、少しずつ分かるようになったらいいなって思う」
美優が少しだけ目を細めた。
祐衣は静かに微笑んでいる。
春樹は、なつきを見た。
「俺も」
短い言葉。
なつきは息を止める。
「え?」
春樹は少し考えてから言った。
「横田さんのこと、少しずつ分かるようになったらいいと思う」
図書室の空気が、一瞬だけ静かになった。
なつきの胸が、大きく鳴る。
美優も祐衣も何も言わなかった。
ただ、春樹を見て、それからなつきを見た。
春樹はいつも通りだった。
特別なことを言ったつもりはないのだろう。
でも、なつきにとっては大きすぎる言葉だった。
「……うん」
なつきは小さく頷いた。
「私も、嬉しい」
それだけ言うのが精一杯だった。
春樹は頷く。
「うん」
美優がふっと笑った。
「春樹、今日も急に言うね」
「そう?」
「そう」
祐衣も柔らかく言う。
「でも、いい言葉だと思います」
なつきは黒猫をそっと握った。
心臓がまだ早い。
でも、逃げたくはなかった。
◇
図書室を出る頃には、外の光が少しだけ夕方に近づいていた。
まだ明るい。
けれど、昼の強い白さは薄れている。
校舎の廊下には、部活へ向かう生徒達の声が響いていた。
美優と祐衣は特進棟へ戻ると言い、階段の前で別れた。
「またね、横田さん」
「うん。またね、美優さん、祐衣さん」
「大國くんも」
「うん」
春樹が短く返す。
美優は少しだけなつきの黒猫を見てから、笑って手を振った。
祐衣も会釈する。
二人が特進棟の方へ歩いていく。
なつきはその背中を見送りながら、胸の奥に残るものを感じていた。
美優と祐衣。
二人とも春樹に近い。
そしてこれからの体育祭では、同じ組になる可能性もある。
もしかしたら、春樹と美優と祐衣が同じ白組で、自分は別の紅組かもしれない。
そうなったら、今日みたいな穏やかな会話を遠くから見る時間が増えるかもしれない。
不安はある。
でも、その不安だけではなかった。
美優とも祐衣とも、ちゃんと話せるようになっている。
怖いだけの相手ではない。
自分も、少しずつ輪の中へ入れている。
そのことが、なつきを支えていた。
「横田さん」
春樹の声がした。
「うん?」
「帰る?」
「うん」
二人で階段を下りる。
放課後の校舎は、昼間より少し落ち着いていた。
なつきは、さっきの春樹の言葉を思い出す。
横田さんのこと、少しずつ分かるようになったらいいと思う。
何度思い出しても、胸がいっぱいになる。
言いたい。
嬉しかったと。
ちゃんと言いたい。
なつきは階段の途中で少しだけ息を吸った。
「春樹くん」
「何?」
「さっきの言葉」
「さっき?」
「私のこと、少しずつ分かるようになったらいいって」
「うん」
「嬉しかった」
言えた。
春樹は少しだけなつきを見た。
そして頷く。
「うん」
短い返事。
でも、今のなつきにはそれで十分だった。
「私も」
なつきは続けた。
「春樹くんのこと、少しずつ分かるようになりたい」
言った瞬間、顔が熱くなる。
でも、下を向かなかった。
春樹は少しだけ黙った。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
春樹が言葉を探している沈黙。
そして、静かに言った。
「うん」
たった一言。
けれど、その「うん」はとても優しかった。
◇
校門に出ると、圭と紅秋、亜衣、茜がすでに待っていた。
「遅いぞー」
圭が言う。
紅秋が横から言う。
「図書室に行っていたんだろう」
「知ってるけど」
亜衣がなつきを見る。
「なつき、顔」
「何?」
「いいことありました顔」
「してない」
「してる」
茜が微笑む。
「図書室、楽しかった?」
「うん」
なつきは少しだけ照れながら頷いた。
「本の話、した」
「それだけ?」
亜衣が追撃する。
なつきは一瞬迷った。
全部は言えない。
でも、少しだけなら。
「春樹くんが、私のこと少しずつ分かるようになったらいいって言ってくれた」
言った瞬間、亜衣が両手で口を押さえた。
圭が目を見開く。
紅秋が春樹を見る。
茜は静かに目を細めた。
「春樹くん」
亜衣が小声で言う。
「それは強い」
春樹は首を傾げる。
「そう?」
圭が両手を広げる。
「そうだよ!」
紅秋がため息を吐く。
「本人に自覚はない」
「ないね!」
春樹はやはり不思議そうだった。
なつきは恥ずかしくなりながらも、黒猫に触れた。
でも、言えてよかった。
嬉しかったことを、自分の友達にもちゃんと伝えられた。
校門の外では、夕方の風が少しだけ吹いていた。
二学期最初の一日が終わろうとしている。
体育祭の組分けはまだ分からない。
紅組か、白組か。
春樹と同じか、違うか。
美優や白石祐衣とどう絡んでいくのか。
何も決まっていない。
だからこそ、胸が騒ぐ。
春樹がなつきの鞄を見る。
「黒猫」
「うん?」
「今日も見つけた」
なつきは笑った。
「うん。見つけてくれてありがとう」
「うん」
短い会話。
でも、その短さが今は心地いい。
体育祭まで、三週間。
二学期は、もう動き始めている。
そして、なつきの気持ちもまた、静かに次の場所へ向かって動き出していた。




