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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第88話 宿題会に、夏休みの現実が来た


 登校日の翌日。


 なつきは、市立図書館の入口前で鞄の黒猫をそっと揺らした。


 小さな音が鳴る。


 夏祭りの夜とは違う、昼間の図書館前。


 けれど、その音を聞くだけで、なつきの胸にはあの日の提灯の灯りが少しだけ戻ってくる。


 春樹が射的で取ってくれた黒猫。


 学校鞄につけて登校した日、春樹はすぐに気づいてくれた。


 ――つけてきたんだ。


 ――似合ってる。


 教室で聞いたその一言は、祭りの夜に言われた「似合ってる」とはまた違う嬉しさがあった。


 特別な場所だけじゃない。


 学校でも。


 日常でも。


 春樹が見てくれる。


 そのことが、なつきにはとても大きかった。


「なつきー!」


 声がして顔を上げると、亜衣が手を振りながら近づいてきた。


 その隣には茜。


 今日も二人はいつも通りだった。


「おはよう、亜衣ちゃん、茜ちゃん」


「おはよう。黒猫、今日もいるね」


「うん」


「もう完全に相棒じゃん」


「相棒?」


「春樹くん産黒猫」


「言い方」


 なつきが赤くなると、茜が苦笑した。


「亜衣、朝からからかわないの」


「ごめんごめん。でも似合ってるのは本当」


「ありがとう」


 なつきは鞄に触れながら、少しだけ笑った。


 今日は追加宿題会。


 登校日に現実を突きつけられた結果、圭と亜衣だけでなく、田辺と島中まで参加することになった。


 学校外で一緒に遊ぶわけではない。


 図書館で宿題。


 クラスの延長。


 だから不自然ではない。


 それでも、田辺と島中が来ると聞いた時、なつきは少しだけ身構えた。


 田辺は無意識に距離が近い。


 島中はなつきへの好意がまだ完全に消えているわけではない。


 ただ、最近は二人とも以前ほど春樹へ敵意を向ける感じではなくなっていた。


 期末前の勉強会。


 登校日の会話。


 少しずつ、教室の空気も変わっている。


 なつきはそれを感じていた。


「今日、大丈夫そう?」


 茜が聞いた。


「うん。ちょっと緊張するけど」


「田辺くんと島中くん?」


「うん」


 亜衣が頷く。


「まあ、今日は宿題会だからね。遊びじゃないし、紅秋くんもいるし、春樹くんもいるし、茜ちゃんもいる」


「亜衣ちゃんは?」


「私はにぎやかし」


「自覚あるのね」


 茜が言うと、亜衣は胸を張った。


「場を明るくします」


「宿題も進めなさい」


「はい」


 その時、駅の方から春樹、紅秋、圭が歩いてきた。


 なつきは自然に背筋を伸ばす。


 春樹はいつもの落ち着いた服装で、鞄を肩にかけている。


 紅秋はすでに今日の進行を考えていそうな顔。


 圭は、どこか覚悟を決めた表情だった。


「おはよう!」


 圭が言う。


「おはよう、圭くん」


「今日は本気でやる」


 亜衣が頷いた。


「私も本気」


 紅秋が二人を見る。


「その言葉、何度目だ」


「今日は違う!」


「今日こそ!」


 茜が静かに言う。


「その言葉も何度目かしら」


 圭と亜衣は同時に目を逸らした。


 春樹がなつきを見る。


「おはよう」


「おはよう、春樹くん」


 春樹の視線が黒猫へ落ちる。


 なつきはそれだけで少し照れる。


「今日も」


「うん。つけてきた」


「うん」


 春樹は短く頷いた。


 それだけ。


 でも、その「今日も」に気づいてくれたことが嬉しかった。


 しばらくして、田辺と島中が来た。


 田辺は少し気まずそうに頭をかきながら、島中はいつもの軽い雰囲気を装いながら近づいてくる。


「おう」


 田辺が言う。


「悪いな、混ぜてもらって」


 島中も肩をすくめる。


「俺ら、完全に宿題に追われてる側だから」


 圭が笑う。


「仲間!」


 紅秋がすぐに言う。


「仲間意識を持つ前に宿題を出せ」


「はい」


 田辺がなつきを見た。


「横田、今日もその猫ついてんだな」


「あ、うん」


「かわいいじゃん」


「ありがとう」


 島中も黒猫を見る。


「大國が取ったやつだっけ」


 なつきの顔が少し熱くなる。


「うん」


 島中は一瞬だけ春樹の方を見た。


 けれど、以前のような棘はなかった。


「ふーん。大事そうだな」


 なつきは黒猫に触れる。


「大事だよ」


 言った後、自分でも驚いた。


 でも取り消さなかった。


 島中は少し目を丸くして、それから笑った。


「そっか」


 それだけだった。


 からかわれると思っていた。


 少し嫌なことを言われるかもしれないと思っていた。


 でも、島中はそれ以上何も言わなかった。


 田辺も「いいじゃん」と軽く笑っただけだった。


 なつきは胸の奥で、少しだけ息を吐いた。


   ◇


 図書館の中へ入ると、いつもの六人掛けでは足りなかった。


 今日は八人。


 蓮、美優、祐衣は不参加。


 代わりに田辺と島中がいる。


 少し大きめの学習スペースを選び、二つの机を寄せる形になった。


 席順は自然に決まった。


 なつきの隣に亜衣。


 その向かいに春樹。


 春樹の隣に紅秋。


 圭は紅秋の向かい。


 茜は亜衣の隣。


 田辺と島中は端の方。


 学校の教室とは少し違う配置。


 けれど、どこか二年十一組らしい空気があった。


「まず確認する」


 紅秋が小声で言った。


「今日は図書館だから騒がない。分からないところは小声で聞く。休憩は一時間後。各自、今日進める範囲を決める」


 田辺が小さく言う。


「板倉、先生みたいだな」


 圭が頷く。


「紅秋先生だから」


「先生ではない」


 茜もプリントを広げる。


「田辺くんと島中くんは、まず残っている宿題を全部出して」


「全部?」


 島中が嫌そうな顔をする。


「全部よ」


「遠山、怖い」


「現実を見ないと終わらないわ」


 田辺は観念したように鞄から宿題を出した。


「俺、数学と感想文がやばい」


 島中も続く。


「俺は英語と商業系のプリント」


 圭が笑う。


「みんなやばいじゃん」


 紅秋が言う。


「笑っている場合か。圭もまだ終わっていない」


「はい」


 亜衣も背筋を伸ばす。


「私も笑えない」


 茜が頷く。


「分かっているなら始めましょう」


 宿題会が始まった。


 最初は思ったより静かだった。


 田辺も島中も、本当に危機感があるのか、ちゃんとプリントに向かっている。


 圭も紅秋の監督下でワークを進め、亜衣は茜に教わりながら英語を書いている。


 なつきは読書感想文の清書に入っていた。


 春樹は向かい側で本を開きながら、時々なつきの文章を見てくれる。


「横田さん」


「うん?」


「ここ、いいと思う」


 春樹が指さしたのは、昨日書いた一文だった。


『小さな言葉や出来事が積み重なることで、人は少しずつ前を向けるようになる』


「本当?」


「うん」


「ちょっと自分のこと書きすぎかなって思った」


「自分のことが入ってる方がいいと思う」


「そう?」


「感想だから」


 なつきはその言葉に、少しだけ安心した。


「ありがとう」


「うん」


 そのやり取りを、端の方で田辺がちらりと見ていた。


 なつきは気づいて、少しだけ緊張する。


 田辺は何か言うかと思ったが、すぐに自分のプリントへ戻った。


 島中も同じように一瞬見たが、何も言わなかった。


 その沈黙が、逆に不思議だった。


 以前なら、茶化すか、割って入ってきたかもしれない。


 でも今は違う。


 少しずつ、二人も空気を読んでいる。


 それが分かって、なつきはほっとした。


   ◇


 しばらくして、田辺が春樹に小声で声をかけた。


「大國」


「何?」


「これ、分かるか?」


 数学の問題だった。


 春樹は自分のノートを少し横にずらし、田辺のプリントを見る。


「ここ、式を一つ飛ばしてる」


「式?」


「この数字をそのまま使うんじゃなくて、先にこっちを出す」


「あー……」


 田辺は眉を寄せる。


「悪い、もう一回いいか?」


「うん」


 春樹はゆっくり説明した。


 派手な教え方ではない。


 短い。


 でも、順番が分かりやすい。


 田辺は何度か頷き、やがて「あ、そういうことか」と声を抑えて言った。


「助かった」


「うん」


「大國、教えるの上手いな」


 春樹は首を傾げる。


「そう?」


 圭が小声で言う。


「春樹は自覚ないから」


 紅秋が頷く。


「そこが大國……春樹らしい」


 田辺は少し笑った。


「横田が聞きに行くの分かるわ」


 なつきは一瞬で顔が熱くなった。


「田辺」


「いや、変な意味じゃなくて。分かりやすいってこと」


 田辺は少し慌てる。


 島中が横から言う。


「お前、言い方」


「悪い」


 なつきは少し驚いた。


 田辺がすぐに謝ったことにも。


 島中が止めたことにも。


 圭が小声で笑う。


「田辺も成長」


「うるせぇ」


 紅秋が静かに言う。


「図書館」


「すみません」


 小さな笑いが机の周りに広がった。


 なつきは胸の中で、その空気をそっと受け止めた。


 こういう形もあるのかもしれない。


 島中と田辺は、恋のライバルとして外の遊びに入れる必要はない。


 でも、クラスメイトとして、学校の延長で関わることはできる。


 その距離が自然だった。


 なつきは少しだけ肩の力を抜いた。


   ◇


 一時間が経ち、休憩になった。


 図書館の外のベンチへ移動する。


 人数が多いので、二つのベンチと立ち位置に分かれた。


 圭は飲み物を開けるなり言った。


「田辺と島中がいると、なんかクラスっぽいな」


 田辺が笑う。


「何だよそれ」


「いや、いつもの宿題会とは違う感じ」


 島中が肩をすくめる。


「俺らは補習組みたいなもんだろ」


 亜衣が言う。


「補習ではないけど、現実直視組」


「それ、嫌だな」


 茜が静かに言う。


「でも今日かなり進んでいるわよ」


 田辺が少し明るくなる。


「マジ?」


「ええ。来てよかったんじゃない?」


「だな」


 島中も頷く。


「一人じゃ絶対やってない」


 紅秋が言う。


「それを自覚できただけでも前進だ」


 島中は苦笑した。


「板倉、ほんと先生だな」


「先生ではない」


 春樹は少し離れたところでお茶を飲んでいる。


 なつきはその近くに立っていた。


 黒猫が鞄の横で揺れる。


 春樹がそれを見た。


「横田さん」


「うん?」


「黒猫、今日も落ちてない」


「うん。ちゃんとついてる」


「よかった」


 なつきは黒猫を指先で撫でた。


「これつけてると、なんか頑張れる」


 言ってから、少し恥ずかしくなる。


 でも、春樹は普通に聞いていた。


「宿題?」


「うん。それもあるし……学校でも」


「学校でも?」


「うん」


 なつきは少し言葉を探す。


「海とか祭りとか、楽しかったことを思い出せるから。学校始まっても、そのまま持っていける感じがして」


 春樹は黙って聞いていた。


 その沈黙は、急かさない沈黙だった。


 なつきは続ける。


「だから、大事」


 春樹は短く頷いた。


「うん」


 少し間を置いて。


「取れてよかった」


 なつきは笑った。


「前も言ってくれたね」


「うん」


「私も、取ってくれてよかった」


 春樹は少しだけ頷く。


 それだけなのに、なつきの胸は満たされた。


 少し離れたところで、島中が二人を見ていた。


 けれど、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ息を吐いて、自分の飲み物へ視線を落とした。


 田辺がそれに気づいたのか、島中の肩を軽く叩く。


「戻ったら英語やるぞ」


「お前に言われたくねぇ」


「俺も数学やるから」


「じゃあやるか」


 二人の声は軽い。


 でも、その軽さの中に、少しだけ変化があった。


   ◇


 後半は、さらに集中した。


 田辺は春樹に教わった数学を自力で解き直し、島中は茜に英語のポイントを確認しながらプリントを進めた。


 亜衣は途中で魂が抜けかけたが、圭が「亜衣、未来の自分を救え」と言って復活した。


 その圭も五分後に集中力が切れ、紅秋に「圭も未来の自分を救え」と返されていた。


 なつきは感想文の清書を終えた。


 最後の一文を書き終えた時、胸の中に小さな達成感が広がった。


「できた……」


 小さく呟くと、春樹が顔を上げた。


「終わった?」


「うん。まだ見直しはするけど、最後まで書けた」


「お疲れ」


 その一言が嬉しかった。


「ありがとう」


 春樹は少しだけノートを見る。


「横田さん、頑張ったね」


 なつきは息を止めた。


 期末の答案返却の日にも、春樹はそう言ってくれた。


 頑張ったね。


 その言葉は、何度聞いても胸に残る。


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


「頑張った」


 今度は、自分でも認められた。


 春樹は頷く。


「うん」


 亜衣が向かいで小さく拍手する。


「なつき、感想文完了!」


 圭も小声で拍手する。


「おめでとう!」


 茜が微笑む。


「よく頑張ったわね」


 紅秋も頷く。


「早めに終わらせたのは大きい」


 田辺が言う。


「横田すげぇな」


 島中も軽く笑う。


「俺らも見習うか」


「今からでもな」


 田辺が返す。


 なつきは少し照れながらも、嬉しかった。


 春樹だけではない。


 みんなが、頑張ったことを見てくれている。


 そのことが温かかった。


   ◇


 夕方。


 宿題会は終了した。


 田辺と島中もかなり進んだらしく、来た時より表情が軽くなっていた。


「いや、助かったわ」


 田辺が言う。


「大國、また分からないとこあったら聞いていいか?」


「うん」


「遠山も、英語ありがとな」


 島中が少しだけ照れたように言った。


 茜は落ち着いて頷く。


「自分で復習しておくのよ」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 亜衣が小声で笑う。


「茜ちゃん先生、強い」


 圭が田辺と島中を見る。


「またやるなら呼ぶぞ」


 田辺が頷く。


「頼む」


 島中も言う。


「宿題終わるまではな」


 紅秋が言う。


「終わってからも復習は必要だ」


「板倉、厳しい」


「事実だ」


 図書館を出ると、夕方の空が広がっていた。


 夏の終わりが少しずつ近づいているような光。


 まだ暑い。


 でも、どこか柔らかい。


 なつきは鞄の黒猫に触れた。


 今日、この黒猫は教室でも図書館でも揺れていた。


 特別な祭りの思い出が、少しずつ日常に馴染んでいく。


 それが嬉しかった。


 春樹が隣に来る。


「横田さん」


「うん?」


「感想文、終わってよかったね」


「うん」


「黒猫効果?」


 なつきは少し驚いて、それから笑った。


「それもあるかも」


「うん」


「でも、春樹くんが見てくれたから」


 言ってから、少しだけ首を振る。


「あと、自分でも頑張ったから」


 春樹はすぐに頷いた。


「うん」


 その肯定が嬉しかった。


 なつきは黒猫をそっと揺らした。


「夏休み、終わってほしくないけど」


 小さく言う。


「学校始まるのも、少し楽しみ」


 春樹がなつきを見る。


「そう?」


「うん。黒猫つけて、教室行けるから」


 春樹は少しだけ考えてから言った。


「見つけやすい」


 なつきは笑った。


「またそれ」


「うん」


「じゃあ、見つけてね」


 言ってしまった。


 なつきは一瞬で顔が熱くなる。


 でも、春樹はいつも通り頷いた。


「うん。見つける」


 胸がいっぱいになった。


 見つける。


 ただ、鞄の黒猫の話。


 それだけ。


 でも、なつきにはそれ以上に聞こえた。


 教室の中で。


 日常の中で。


 春樹が自分を見つけてくれる。


 そう思えた。


 駅へ向かう道で、圭と亜衣がまた宿題の残りを言い合い、紅秋と茜が現実的な助言をしている。


 田辺と島中も、その会話に混ざっている。


 クラスの空気が、少しずつ夏休み後半の形になっていく。


 なつきは春樹の隣を、少しだけゆっくり歩いた。


 黒猫が揺れる。


 夏の光が、その小さな背中を照らしていた。


 君の隣を目指す夏。


 特別な海や祭りだけではなく、宿題会の机の上でも、夕方の帰り道でも。


 なつきはまた一つ、春樹との日常を増やしていた。

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