第87話 黒猫と、久しぶりの教室
夏休みの登校日。
なつきは、朝から鞄の前で固まっていた。
いつもの学校鞄。
その横に、小さな黒猫のキーホルダーが揺れている。
夏祭りの日、春樹が射的で取ってくれた黒猫。
図書館の宿題会ではもうつけていった。
亜衣にも茜にも見てもらった。
春樹にも気づいてもらえた。
それなのに。
学校へつけていくとなると、また少し違った。
久しぶりの教室。
クラスメイト。
島中。
田辺。
三浦。
紅秋。
亜衣。
茜。
そして春樹。
夏休みの外での時間ではなく、教室という場所へ、この黒猫を持っていく。
それは、海や祭りで近づいた距離を、学校の日常へ持ち込むみたいだった。
「……大丈夫」
なつきは小さく呟いた。
黒猫を指先でそっと揺らす。
かすかな音。
その音に、祭りの夜が重なる。
春樹の声。
横田さんが見てたから。
似合ってる。
浴衣、見られてよかった。
思い出すだけで、胸が温かくなる。
なつきは深呼吸して、鞄を肩にかけた。
黒猫が小さく揺れた。
◇
学校へ向かう道は、少し懐かしかった。
夏休みが始まってからも、図書館や駅前でみんなに会っていた。
だから完全に久しぶりというわけではない。
それでも、制服を着て、学校へ向かう朝は特別だった。
蝉の声。
白く熱を含んだ空。
アスファルトから上がる暑さ。
鞄の重さ。
制服の感覚。
全部が、学校へ戻ってきたことを教えてくれる。
校門が見えた時、なつきは少しだけ足を止めた。
一学期の終業式から、まだそんなに経っていない。
それなのに、ずいぶん久しぶりに感じる。
ここから夏休みが始まった。
ここから海へ、祭りへ、宿題会へと繋がっていった。
そして今日、またここへ戻ってきた。
「なつき!」
声がして振り返ると、亜衣が手を振っていた。
制服姿の亜衣。
夏休み中に私服や浴衣を見ていたから、制服姿が少し新鮮に感じる。
「おはよう、亜衣ちゃん」
「おはよ! おお、黒猫!」
亜衣はすぐ鞄を見た。
「つけてきた!」
「うん」
「いいね。学校鞄にも合う」
「本当?」
「うん。これは春樹くんも気づく」
なつきの顔が赤くなる。
「もう図書館で気づいてくれたけど」
「学校でも気づくことが大事」
「何が違うの?」
「教室で気づくのが大事」
亜衣は妙に真剣だった。
少し遅れて茜も来た。
「おはよう」
「茜ちゃん、おはよう」
茜も黒猫を見て、優しく微笑む。
「つけてきたのね」
「うん」
「よく似合ってるわ。黒猫も嬉しそう」
「嬉しそう?」
「大事にされている感じがするもの」
その言葉に、なつきの胸が少し柔らかくなる。
「うん。大事」
素直に言えた。
亜衣が口元を押さえる。
「なつき、本当に成長した」
「何でそこで感動するの」
「だって前なら『そんなことない』って言ってた」
「そうかも」
なつきは少し笑った。
確かに、前なら否定していた気がする。
春樹からもらったものを大事だと言うこと。
それを友達の前で認めること。
今は、それができる。
少し恥ずかしいけれど、できる。
三人で校門をくぐる。
登校日の学校は、普段より少し浮ついていた。
休み中なのに学校へ来る不思議な感じ。
久しぶりに会うクラスメイト達の声。
廊下には、夏休みの話をする生徒達があちこちにいた。
「焼けた?」
「部活ばっかだった」
「宿題終わった?」
「終わるわけない」
「旅行行った?」
そんな声が飛び交っている。
二年十一組の教室へ近づくにつれ、なつきの胸が少しだけ高鳴った。
久しぶりの教室。
久しぶりのクラス。
そして、春樹。
教室に入ると、すでに何人かが来ていた。
三浦――圭は、窓際で田辺と話している。
島中もその近くにいた。
紅秋は自分の席でプリントのようなものを見ている。
春樹は、まだ来ていなかった。
なつきは少しだけ肩の力を抜く。
いてほしかったような。
まだ来ていなくて少し安心したような。
そんな複雑な気持ちだった。
「お、なつき!」
圭がすぐに気づいた。
「久しぶり!」
「久しぶり、圭くん」
田辺が軽く手を上げる。
「横田、久しぶり」
「田辺も久しぶり」
「おう」
島中も椅子にもたれながら言う。
「夏休み満喫してるな、みんな」
亜衣が胸を張る。
「海も祭りも行ったからね」
「聞いた聞いた」
田辺が言う。
「グループで写真回ってたし」
なつきは一瞬、固まった。
「写真?」
「いや、三浦が見せてきた」
圭が慌てる。
「いや、変な写真じゃないぞ! 集合写真! 祭りのやつ!」
紅秋が席から顔を上げる。
「圭、むやみに見せるなと言っただろう」
「ちゃんと集合写真だけ!」
「ならいいが」
島中がにやっとする。
「浴衣、似合ってたじゃん」
なつきの顔が熱くなる。
「あ、ありがとう」
田辺も頷く。
「横田、雰囲気違ったな」
「そ、そう?」
「おう。夏祭りって感じ」
亜衣が横からにやりとする。
「なつき、褒められてるよ」
「分かってる」
なつきは恥ずかしさで少し俯く。
クラスで浴衣の話をされるのは、また別の恥ずかしさがある。
でも、不快ではなかった。
むしろ、みんなが自然に夏休みの出来事として話してくれるのが少し嬉しい。
その時、圭がなつきの鞄に気づいた。
「あ、黒猫!」
なつきの心臓が跳ねる。
圭はすぐに笑顔になる。
「春樹が取ったやつじゃん!」
その瞬間、なつきの顔がさらに熱くなった。
田辺が反応する。
「え、何それ」
島中も身を乗り出す。
「大國が?」
圭が説明しようとする前に、紅秋が静かに言った。
「祭りの射的で取った景品だ」
「へぇ」
田辺がなつきの鞄を見る。
「いいじゃん。かわいい」
島中も笑う。
「大國、そういうことするんだな」
なつきは返事に困る。
春樹が取ってくれた。
自分が見ていたから。
それを教室で説明する勇気は、さすがにまだない。
亜衣が助けるように言った。
「かわいいでしょ。なつきのお気に入り」
「うん」
なつきは小さく頷いた。
「お気に入り」
それだけなら言えた。
圭が嬉しそうに笑う。
「春樹が見たら喜ぶな」
「圭くん」
「え、何か変なこと言った?」
紅秋がため息を吐く。
「少し」
「少し!?」
教室に笑いが起きた。
なつきも恥ずかしさを抱えながら、少しだけ笑った。
黒猫が揺れる。
教室の中で。
それが少し不思議で、少し嬉しい。
◇
しばらくして、教室の扉が開いた。
春樹が入ってきた。
なつきの背筋が自然に伸びる。
夏休み中も何度も会っていた。
海でも。
祭りでも。
図書館でも。
それなのに、制服姿の春樹を見るとまた違う緊張があった。
学校の春樹。
教室の春樹。
読書男子の春樹。
でも、今のなつきはもう、ただ遠くから見ているだけではない。
春樹くん、と呼べる。
話せる。
黒猫をつけてきた。
「おはよう、春樹くん」
なつきは少しだけ緊張しながら声をかけた。
春樹はなつきを見た。
「おはよう」
そして、すぐに鞄の黒猫へ視線が落ちる。
なつきの心臓が跳ねる。
「つけてきたんだ」
「うん」
なつきは黒猫にそっと触れた。
「学校鞄にも、つけてみた」
春樹は少しだけ頷いた。
「似合ってる」
また。
短い言葉。
でも、教室で聞くと、胸の響き方が違った。
なつきは小さく笑う。
「ありがとう」
「うん」
そのやり取りを、教室の何人かが見ていた。
圭はにやにやしている。
亜衣も同じ顔。
茜は微笑んでいる。
田辺は「へぇ」という顔をしていて、島中は少し面白そうに見ている。
紅秋は、何も言わずにプリントへ視線を戻した。
春樹はいつも通り自分の席へ向かう。
けれど、なつきの胸には、ちゃんと残った。
つけてきたんだ。
似合ってる。
学校の日常の中でも、春樹は気づいてくれた。
それだけで、黒猫をつけてきてよかったと思えた。
チャイムが鳴るまでの教室は、夏休みの報告会みたいだった。
あちこちで話が飛び交う。
旅行。
部活。
宿題。
アルバイトの手伝い。
家族の用事。
そして、まだ終わっていない課題。
「宿題終わった?」
田辺が圭に聞く。
圭は堂々と答えた。
「終わってない!」
「何で偉そうなんだよ」
「でも進んでる」
紅秋が言う。
「進んではいるな」
「紅秋が証人!」
亜衣も言う。
「私も進んでる!」
茜が頷く。
「確かに進んでいるわ」
「茜ちゃんが証人!」
島中が笑う。
「お前ら、保護者つきかよ」
圭が言う。
「宿題会のおかげだ」
田辺が少し羨ましそうにする。
「俺も混ざればよかったかな」
島中が横から言う。
「お前、部活あったろ」
「まあな」
「宿題は?」
「……これから」
茜が静かに言った。
「登校日で危機感を持った方がいいわよ」
田辺は真顔で頷いた。
「はい」
教室が笑いに包まれる。
夏休み中なのに、教室に戻るとやっぱりクラスの空気がある。
なつきはそれが少し懐かしかった。
◇
ホームルームが始まった。
担任が教室に入ってくると、ざわめきが少し落ち着く。
「はい、久しぶりです。元気そうで何よりです」
担任はそう言って、教室を見回した。
「今日は登校日なので、提出物の確認、連絡事項、二学期に向けた話をします。夏休みだからといって気を抜きすぎないように」
その言葉に、何人かが目を逸らした。
圭と亜衣も一瞬だけ動きが止まる。
紅秋と茜がそれぞれ横を見る。
二人は小さく背筋を伸ばした。
担任はプリントを配る。
夏休み後半の課題確認。
登校日後の予定。
始業式の日程。
持ち物。
注意事項。
教室に紙を回す音が響く。
なつきはプリントを受け取りながら、少しだけ現実に戻された気がした。
夏休みは楽しい。
けれど、終わりも近づいている。
まだ終わってほしくない。
でも、学校が始まることに前ほど嫌な気持ちはなかった。
なぜなら、学校が始まればまた教室で春樹に会えるから。
黒猫をつけた鞄を持って。
春樹くん、と呼んで。
同じ教室で過ごせる。
そう思うと、二学期が少し楽しみに感じられた。
担任の話は続く。
「それから、夏休み中に体調を崩す人もいます。生活リズムを戻していくこと。夜更かししすぎないこと。暑いからといって冷たいものばかり食べないこと」
圭が小声で呟く。
「刺さる」
田辺も言う。
「分かる」
亜衣が小さく頷く。
「アイス……」
茜が横から言う。
「ほどほどにね」
「はい」
担任が黒板に始業式の日程を書く。
その文字を見て、教室の空気が少しだけ変わった。
夏休みの終わりが見えた瞬間だった。
なつきは黒猫に触れる。
終わりが近づいている。
でも、夏休みで得たものはなくならない。
海の写真。
祭りの記憶。
黒猫。
春樹との言葉。
それらは、二学期にも持っていける。
ホームルームが終わると、教室はまた一気にざわついた。
「宿題やばい!」
「現実見た!」
「あと何日?」
「数えるな!」
そんな声が飛び交う。
圭が立ち上がった。
「宿題会、追加開催希望!」
亜衣も手を上げる。
「私も!」
紅秋が即座に言う。
「必要だな」
茜も頷く。
「登校日で現実を見たところで、もう一度やりましょう」
田辺が少し迷ってから言った。
「俺も行っていい?」
なつきは少し驚いた。
田辺が宿題会に。
圭が笑う。
「お、田辺も来る?」
「さすがにやばい」
島中が肩をすくめる。
「俺も予定合えば行くわ」
亜衣が少し意外そうな顔をした。
「島中くんも?」
「何だよ」
「いや、ちゃんと宿題するんだ」
「するわ」
茜が冷静に言う。
「来るなら本当にやるのよ」
「遠山、怖いな」
「宿題会だから」
田辺は苦笑しながら頷く。
「了解」
なつきはそのやり取りを見て、少し不思議な気持ちになった。
島中と田辺。
学校内で関わる二人。
外遊びにはあまり入れない方がいいと思っていた。
でも、宿題会なら学校の日常の延長だ。
夏休み後半、クラスの空気を少し広げるには自然かもしれない。
春樹はどう思っているのだろう。
なつきがちらりと見ると、春樹は普通に言った。
「分からないところあれば、見られるところは見る」
田辺が少し驚く。
「大國、いいのか?」
「うん」
島中も少しだけ気まずそうに笑う。
「じゃあ頼むわ」
圭が小声で言う。
「春樹、優しいな」
紅秋が頷く。
「大國……春樹はそういうところがある」
なつきはその言葉に、小さく笑った。
そう。
春樹はそういう人だ。
誰かを切り捨てない。
必要なら、普通に手を差し出す。
その優しさに、なつきは何度も惹かれてきた。
◇
登校日は午前中で終わった。
教室から出る生徒達は、久しぶりの学校に少し疲れたような、それでも友達に会えて嬉しかったような顔をしていた。
なつきは帰り支度をしながら、黒猫がちゃんとついているか確認した。
春樹が近づいてくる。
「横田さん」
「うん?」
「宿題会、いつ?」
「まだ決めてないけど、近いうちかな」
「田辺たちも来る?」
「たぶん」
「そう」
「春樹くん、大丈夫?」
「何が?」
「人数増えるから」
「大丈夫」
春樹は短く言った。
「教えられるところは教える」
なつきは少しだけ笑った。
「春樹くんらしい」
「そう?」
「うん」
少し間があった。
なつきは鞄の黒猫に触れてから、勇気を出して言った。
「黒猫、気づいてくれて嬉しかった」
春樹はなつきを見た。
「うん」
「学校でもつけてきてよかった」
「似合ってるから」
また、さらっと言う。
なつきは顔が熱くなる。
「……ありがとう」
春樹は頷く。
「うん」
それだけの会話。
でも、今日の登校日はそれだけで十分だった。
夏休みの思い出が、学校の日常にちゃんと繋がった。
黒猫が揺れる。
春樹が気づく。
似合ってると言ってくれる。
それは、なつきにとって大切な一歩だった。
校門へ向かう途中、亜衣がなつきの隣に並ぶ。
「なつき」
「何?」
「黒猫、完全に馴染んだね」
「うん」
「二学期、黒猫から始まるね」
「何それ」
「春樹くんとの思い出を鞄につけて登校する二学期」
「言い方」
茜が微笑む。
「でも、素敵だと思うわ」
なつきは少し照れながらも、黒猫に触れた。
「うん」
素敵。
そう思った。
夏休みが終わっても、この黒猫があれば、海や祭りの思い出を連れていける。
そして、春樹との距離も。
校門の外で、駅へ向かう春樹達と分かれる。
「また連絡するね」
なつきが言う。
春樹は頷いた。
「宿題会?」
「うん」
「分かった」
「またね、春樹くん」
「また」
春樹が駅の方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、なつきは鞄の黒猫をそっと揺らした。
夏休みの特別な時間は、少しずつ学校の日常へ戻っていく。
でも、戻るだけではない。
海も祭りも、言えた言葉も、もらった黒猫も。
全部持ったまま、また教室へ戻る。
君の隣を目指す夏は、登校日の教室で、次の季節へ続く道を見つけ始めていた。




