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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第86話 黒猫が揺れる、夏の日常


 夏祭りの翌々日。


 なつきは、いつもより少し早く家を出た。


 目的地は市立図書館。


 夏休みの宿題会。


 海へ行く前にも、夏祭りの前にも、何度も集まった場所だった。


 でも、今日のなつきは少しだけ違っていた。


 鞄の横で、小さな黒猫のキーホルダーが揺れている。


 春樹が射的で取ってくれた黒猫。


 昨日、思い切って鞄につけた。


 そして今日、初めてそれをみんなの前に持っていく。


 それだけのことなのに、朝から胸がずっと落ち着かなかった。


 歩くたびに、黒猫が小さく揺れる。


 かちゃ、と控えめな音がする。


 そのたびに、祭りの夜が蘇る。


 射的の屋台。


 春樹がコルク銃を構えた横顔。


 黒猫が落ちた瞬間。


 それを差し出してくれた手。


 ――横田さんが見てたから。


 なつきは思わず足を止めそうになった。


「……だめ、朝から思い出しすぎ」


 小さく呟いて、また歩き出す。


 けれど、口元は少し緩んでいた。


 恥ずかしい。


 でも、嬉しい。


 最近、その二つが一緒に来ることが増えた。


 春樹のことを考えると、胸は忙しい。


 でも、その忙しさは前より少しだけ怖くなくなっている。


 怖いだけではなく、楽しみも混ざっている。


 図書館へ向かう道は暑かった。


 夏の日差しは容赦がなく、朝なのにすでに空気が熱を含んでいる。


 けれど、祭りの日の夜風や海の潮風を思い出すと、この暑さも夏休みの一部のように思えた。


 スマホが震えた。


 亜衣からだった。


『もう着いた?』


 なつきは歩きながら返信する。


『向かってる』


 すぐ返事。


『黒猫つけた?』


 なつきは鞄を見る。


 黒猫が揺れている。


『つけた』


『よし!!!!』


『びっくりマーク多い』


『春樹くん気づくかな』


 その文字だけで、なつきの心臓が跳ねた。


『分からない』


『気づくよ。春樹くん、そういうとこ見る』


『そうかな』


『見る』


 少し遅れて茜からも来た。


『亜衣が朝から騒いでいるけれど、落ち着いてね』


『うん』


『黒猫、きっと似合っているわ』


 なつきは画面を見て、少しだけ笑った。


 二人とも、ちゃんと覚えていてくれる。


 春樹が取ってくれた黒猫のこと。


 なつきがそれを大事にしていること。


 そのことがありがたかった。


   ◇


 図書館の入口前には、すでに亜衣と茜がいた。


 亜衣はなつきを見つけた瞬間、視線を鞄へ落とした。


 そして、目を輝かせる。


「黒猫!」


「声」


 茜がすぐに注意する。


「図書館前よ」


「まだ中じゃない」


「でも静かに」


「はーい」


 亜衣はなつきの鞄の横に揺れる黒猫を見て、にやにやした。


「いいじゃん」


「変じゃない?」


「全然。むしろ自然」


 茜も近づいて見てくれる。


「本当にかわいいわね。鞄にも合ってる」


「ありがとう」


 なつきは少し照れながら黒猫に触れた。


「落とさないように気をつける」


「大事なものだものね」


 茜が言う。


 なつきは素直に頷いた。


「うん。大事」


 亜衣がその言葉に反応した。


「おお」


「何?」


「大事ってちゃんと言った」


「だって、本当に大事だから」


「いいね。すごくいい」


 亜衣は満足そうに頷いた。


「春樹くんにそのまま言いな」


「言えない」


「言おう」


「無理」


「無理じゃない」


 茜が苦笑する。


「まずは気づいてもらえたら、ありがとうと言えれば十分よ」


「うん」


 なつきは鞄の紐を握り直した。


 気づいてもらえたら。


 その言葉だけで、また緊張する。


 春樹は気づくだろうか。


 気づいてくれたら、何と言うだろう。


 いいと思う。


 似合ってる。


 つけたんだ。


 どれでも、きっと嬉しい。


 そう考えていると、駅の方から見慣れた三人が歩いてくるのが見えた。


 春樹。


 紅秋。


 圭。


 圭は暑さにも負けず、朝から元気そうだった。


「おはよー!」


 亜衣が手を振る。


「おはよう!」


 圭も手を振り返す。


 紅秋が言う。


「声を抑えろ。図書館だ」


「まだ外!」


「外でも入口前だ」


「はい」


 春樹はいつものように落ち着いていた。


 なつきは少しだけ姿勢を正す。


「おはよう、春樹くん」


「おはよう」


 春樹の視線が、なつきの顔から鞄へ移った。


 ほんの少し。


 本当に少しだけ。


 でも、なつきには分かった。


 気づいた。


 心臓が跳ねる。


「黒猫」


 春樹が言った。


 なつきは思わず黒猫に手を添えた。


「うん。つけてみた」


「いいと思う」


 春樹は短く言った。


 その瞬間、胸の奥がふわっと温かくなる。


 予想していた言葉。


 でも、実際に聞くと全然違う。


「ありがとう」


 なつきは小さく笑った。


「落とさないようにするね」


「うん」


 春樹は頷く。


「似合ってる」


 なつきは固まった。


 黒猫が。


 鞄に。


 似合ってる。


 そういう意味だと分かっている。


 でも、それを春樹の口から聞くと、やっぱり胸が大きく鳴る。


「……ありがとう」


 もう一度言うしかできなかった。


 亜衣が少し離れたところで口元を押さえている。


 圭も同じような顔をした。


「春樹、朝からやるな」


 紅秋が即座に言う。


「余計なことを言うな」


「まだ何も!」


「言った」


「ちょっとだけ!」


 春樹は不思議そうに首を傾げている。


「何が?」


 圭が小さく天を仰いだ。


「それだよ……」


 なつきは恥ずかしくなりながらも、黒猫をそっと撫でた。


 つけてきてよかった。


 心からそう思った。


   ◇


 図書館の中は、外の暑さが嘘みたいに涼しかった。


 本の匂い。


 冷房の静かな音。


 ページをめくる音。


 夏休みの図書館は相変わらず人が多かった。


 小学生が自由研究の本を広げていて、その横で母親らしき人がメモを取っている。


 高校生も何人かいて、宿題らしいプリントを前に黙り込んでいる。


 なつき達は、いつもの六人掛けの机へ向かった。


 今日は蓮、美優、祐衣は不参加。


 各自予定があるらしい。


 その代わり、感想文の進み具合はグループチャットで共有することになっている。


 席は自然に決まった。


 なつきの隣に春樹。


 向かいに亜衣。


 亜衣の隣に茜。


 圭と紅秋は反対側。


 前回と似た配置。


 でも今日は、なつきの鞄に黒猫がいる。


 それだけで、なんとなく心強かった。


「今日の目標」


 茜が小声で言った。


「ワークを最低三ページ。読書感想文の下書きを進めること」


 亜衣が手を上げる。


「先生」


「何?」


「最低三ページが重いです」


「夏祭りに行ったでしょう」


「行きました」


「楽しかったでしょう」


「楽しかったです」


「では現実に戻りましょう」


「はい……」


 圭も肩を落とす。


「俺も現実が重い」


 紅秋が言う。


「現実を放置するともっと重くなる」


「名言みたいに言うな」


「事実だ」


 春樹はすでに本とノートを開いていた。


 なつきも慌てて鞄から読書感想文用のノートを取り出す。


 黒猫が小さく揺れた。


 春樹がそれに少しだけ目を向ける。


 なつきはそれに気づいて、また少し照れた。


「横田さん」


「うん?」


「感想文、進んだ?」


「少し。昨日、少し書けた」


「見てもいい?」


 なつきの胸が跳ねた。


 前回も見てもらった。


 でも、完成に近づいた文章を見せるのはまた違う緊張がある。


「まだ途中だけど」


「うん」


「変だったら言ってね」


「うん」


 なつきはノートを少し春樹側へずらした。


 そこには、昨日の夜に書いた文章があった。


『人の気持ちは、一日で大きく変わるわけではないと思います。でも、小さな言葉や出来事が積み重なることで、気づいた時には前より少し前を向けるようになっていることがあります』


 春樹は黙って読んだ。


 なつきはその横顔を見ないように、ペンを握りしめる。


 沈黙が長く感じる。


 図書館の静けさが、余計に心臓の音を近く感じさせた。


 春樹が静かに言う。


「いいと思う」


 なつきは顔を上げた。


「本当?」


「うん」


「感想文っぽい?」


「横田さんっぽい」


 また、その言葉。


 横田さんっぽい。


 薄紫の浴衣の時も言ってくれた。


 今度は文章に対して。


 なつきは胸の奥が温かくなる。


「それ、褒めてる?」


「うん」


「そっか」


 なつきは少しだけ笑った。


「嬉しい」


 言えた。


 自然に。


 春樹は頷いた。


「うん」


 亜衣が向かいで肩を震わせている。


 なつきは小さく睨んだ。


 亜衣は口パクで言った。


 ――成長。


 なつきは顔を赤くしながら、ノートを戻した。


 でも、嫌ではなかった。


 嬉しいと言えたことが、自分でも嬉しかった。


   ◇


 前半の宿題時間は、思ったより静かに進んだ。


 海や祭りの後だから、みんな疲れているのかもしれない。


 圭も最初こそ「現実が重い」と言っていたが、紅秋に見張られながらワークを進めている。


 亜衣も茜に助けてもらいながら、英語のプリントへ向き合っている。


 なつきは感想文の続きを書いた。


 春樹に見てもらった一文を中心に、自分の言葉を少しずつ繋げていく。


 小さな変化。


 積み重なる言葉。


 前を向けるようになること。


 それは本の主人公のことでもあり、なつき自身のことでもあった。


 直接、春樹のことを書くわけではない。


 けれど、春樹からもらった言葉が、文章の奥に少しずつ混ざっている。


 横田さんが頑張ったからだよ。


 似合ってる。


 楽しかったね。


 また行きたい。


 浴衣、見られてよかった。


 その一つ一つが、なつきを前へ押してくれた。


 しばらくして、圭が小さく手を上げた。


「紅秋」


「何だ」


「集中力が旅に出ました」


「呼び戻せ」


「帰ってこない」


「迎えに行くな。問題を解け」


「厳しい」


 亜衣が小声で笑う。


「圭くん、分かる。私の集中力も迷子」


 茜が言う。


「二人の集中力はよく迷子になるわね」


「夏だから」


「季節のせいにしない」


 なつきは笑いをこらえる。


 春樹も少しだけ口元を緩めていた。


 その小さな笑顔を見て、なつきは胸が温かくなる。


 祭りの後の日常。


 特別な浴衣でも、花火でもない。


 ただ図書館で宿題をしているだけ。


 でも、春樹が隣にいて、みんながいて、こうして笑える。


 その日常が、前より少し大切に感じた。


 特別なイベントが距離を近づけてくれる。


 でも、近づいた距離を育てるのは、きっとこういう普通の日なのだ。


   ◇


 一時間半ほど経ったところで、休憩になった。


 図書館の外のベンチへ移動する。


 外は暑い。


 でも、ずっと冷房の中にいた体には、少しだけ夏の空気が心地よかった。


 亜衣はすぐに飲み物を開ける。


「生き返る」


 圭も同じように言う。


「俺も」


 紅秋が言う。


「二人とも大げさだ」


 茜が微笑む。


「でも、今日はよく進んでいたわ」


「本当?」


 亜衣が顔を上げる。


「ええ。前より集中できていたと思う」


「褒められた!」


 圭も紅秋を見る。


「俺は?」


「前よりは進んだ」


「紅秋基準だとそれは褒め?」


「褒めている」


「よし!」


 なつきは黒猫のキーホルダーを鞄から少し持ち上げて見ていた。


 外の光の下で見ると、また少し印象が違う。


 黒い小さな猫が、夏の日差しを受けて少しだけ光っている。


 春樹が隣に座った。


「黒猫」


「うん?」


「鞄につけて、大丈夫そう?」


「うん。落ちなそう」


「よかった」


 なつきは黒猫を指先でそっと揺らした。


「見るたびに、祭り思い出す」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。


 でも、今日は隠さなかった。


 春樹は頷いた。


「俺も、写真見たら思い出す」


「写真?」


「射的」


「あ……」


 あの写真。


 春樹が黒猫を渡してくれている写真。


 なつきは顔が熱くなる。


「あれ、恥ずかしい」


「そう?」


「私、すごく嬉しそうだったから」


「嬉しかった?」


 春樹が普通に聞いた。


 なつきは、少しだけ息を吸う。


 逃げない。


 ちゃんと言う。


「うん。嬉しかった」


 春樹は頷いた。


「よかった」


 その一言が、また胸に残る。


 よかった。


 春樹はいつも、自分が嬉しいと言うと、そう言ってくれる。


 それが本当に嬉しい。


 亜衣が少し離れたところから、完全に見守る顔をしている。


 圭も何か言いたそうにしている。


 紅秋がそれを止めている。


 茜は何も言わず、ただ優しく微笑んでいる。


 この空気にも、少しずつ慣れてきた。


 からかわれるのは恥ずかしい。


 でも、応援されていることも分かる。


 なつきは黒猫を鞄へ戻しながら、もう一度小さく言った。


「大事にするね」


 春樹は短く返した。


「うん」


   ◇


 休憩後、後半は各自の課題を進めた。


 なつきは感想文の下書きをかなり進めることができた。


 途中で春樹に少しだけ相談し、春樹は言葉を選びながら助言してくれた。


「ここ」


「うん?」


「同じことを二回言ってるかも」


「あ、本当だ」


「どっちか一つでいいと思う」


「こっちかな」


「うん」


「春樹くん、こういうの見るの上手いね」


「本を読むから?」


「たぶん」


 なつきが笑うと、春樹は少しだけ首を傾げた。


「そうかな」


「うん。すごく助かる」


「ならよかった」


 短いやり取り。


 でも、ちゃんと繋がっている感じがする。


 なつきはその感覚を大切にしながら、文章を書き直した。


 圭と亜衣も、それぞれ苦戦しながら進んでいた。


「読書感想文、何を書けばいいか分かってきた」


 圭が小声で言う。


 紅秋が少し驚く。


「本当か」


「何で疑うんだよ」


「これまでの経緯」


「ぐうの音も出ない」


 亜衣も茜にノートを見せている。


「茜ちゃん、これ感想文っぽい?」


「うん。最初よりずっといいわ」


「やった!」


「ただ、この『すごくすごくすごく』は一つでいいわ」


「気持ちを込めた」


「込めすぎ」


 全員が小さく笑った。


 図書館なので大きな声は出せない。


 でも、その控えめな笑いが、なつきには心地よかった。


 夏休みの中盤。


 海と祭りという大きなイベントの後。


 こうして宿題に戻る時間が、少しだけ穏やかで優しい。


 夕方前になり、宿題会は終了した。


 茜が全員の進み具合を確認する。


「今日はかなり進んだわね」


 亜衣が両手を上げる。


「未来の私が救われた!」


 圭も続く。


「未来の俺も!」


 紅秋が言う。


「まだ完全には救われていない」


「現実!」


「でも前進はした」


「紅秋に褒められた!」


 春樹がなつきに言う。


「横田さんも、感想文進んだね」


「うん。春樹くんのおかげ」


 言ってから、なつきは少し笑った。


「でも、自分でも頑張った」


 春樹は頷いた。


「うん」


 その肯定が嬉しかった。


 以前なら、全部「春樹くんのおかげ」と言っていたかもしれない。


 でも今は違う。


 教えてもらった。


 支えてもらった。


 それでも、自分で書いた。


 自分の言葉で進めた。


 それを少しだけ認められるようになった。


   ◇


 図書館を出ると、夕方の空が広がっていた。


 夏の一日は長い。


 けれど、こうして外に出ると、少しずつ光が柔らかくなっているのが分かる。


 圭は大きく伸びをした。


「宿題したー!」


 亜衣も同じように伸びる。


「頑張ったー!」


 紅秋が言う。


「帰ったら続きを少し見直せ」


「紅秋、家に帰っても宿題の話!?」


 茜も言う。


「記憶があるうちにね」


「茜ちゃんまで!」


 二人が肩を落とす。


 でも、前ほど本気で嫌がっているわけではなかった。


 なつきはその様子を見ながら笑う。


 春樹は隣で鞄を持ち直した。


 その時、春樹の視線がもう一度黒猫に向いた。


「横田さん」


「うん?」


「次、学校始まってもつけてる?」


 なつきの心臓が跳ねた。


「黒猫?」


「うん」


 なつきは少しだけ考えた。


 学校。


 クラス。


 春樹が取ってくれた黒猫を鞄につけていく。


 亜衣には絶対からかわれる。


 圭も何か言うかもしれない。


 島中や田辺も、気づくかもしれない。


 少し恥ずかしい。


 でも。


「つけたい」


 なつきは小さく言った。


「大事だから」


 言ってから、顔が熱くなる。


 でも、ちゃんと春樹を見た。


 春樹は少しだけ頷いた。


「いいと思う」


「うん」


「見つけやすい」


「え?」


「横田さんの鞄」


 なつきは一瞬、言葉を失った。


 春樹は何気なく言ったのだろう。


 でも、なつきにはまた特別に響いた。


 黒猫があれば、春樹が自分の鞄を見つけやすい。


 つまり、見てくれる。


 気づいてくれる。


 そう思ってしまう。


「……じゃあ、つける」


 なつきは小さく笑った。


 春樹も頷く。


「うん」


 その短い会話を、亜衣が完全に聞いていた。


「なつき」


「何?」


「学校始まったら、黒猫記念日だね」


「何それ」


「春樹くんが見つけやすい記念日」


「亜衣ちゃん」


 圭が横から言う。


「いいじゃん、黒猫。春樹が取ったやつだろ?」


 紅秋が圭を見る。


「言い方」


「普通に言っただけ!」


 なつきは赤くなったが、否定はしなかった。


「うん」


 黒猫をそっと触る。


「春樹くんが取ってくれたやつ」


 自分で言って、また胸が熱くなる。


 でも、言えた。


 それを聞いた春樹は、いつも通りに頷いた。


「うん」


 それだけだった。


 でも、なつきは十分だった。


 夏休みの日常に戻っても、海や祭りの思い出はちゃんと続いている。


 黒猫が揺れるたびに。


 春樹の言葉を思い出すたびに。


 その距離は、少しずつ日常の中に馴染んでいく。


 駅へ向かう道で、なつきは夕方の空を見上げた。


 夏休みはまだ終わっていない。


 でも、少しずつ後半へ向かっている。


 宿題もある。


 登校日もある。


 また学校が始まる日も来る。


 その時、この黒猫を鞄につけていく。


 春樹がそれに気づいてくれるかもしれない。


 そう思うだけで、次の日常が少し楽しみになった。


 君の隣を目指す夏。


 特別なイベントが終わっても、歩みは止まらない。


 黒猫が揺れる普通の日に、なつきはまた一歩、春樹の隣へ近づいていた。

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