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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第85話 黒猫と、言えた言葉の余韻



 夏祭りの翌朝。


 なつきは、枕元に置いた小さな袋を見つめた。


 中には、黒猫のキーホルダーが入っている。


 昨日、春樹が射的で取ってくれたもの。


 黒くて、丸くて、少しだけ不器用な顔をした猫。


 なつきは袋からそっと取り出し、手のひらに乗せた。


 昨日の夜の光が、まだその小さな黒猫に残っている気がした。


 提灯。


 屋台。


 花火。


 浴衣。


 春樹の声。


 ――似合ってる。


 ――浴衣、見られてよかった。


 なつきは、布団の上で顔を覆った。


「……朝から無理」


 それでも、口元は緩んでいた。


 恥ずかしい。


 思い出すだけで顔が熱くなる。


 でも、嬉しい。


 昨日の自分は、ちゃんと言えた。


 春樹に見てもらえて嬉しかった、と。


 あんなことを自分から言える日が来るなんて、少し前なら考えられなかった。


 スマホが震える。


 グループチャットだった。


 圭。


『昨日の写真送る!!』


 亜衣。


『待ってました!!』


 紅秋。


『枚数が多いなら整理してから送れ』


 圭。


『無理!全部思い出!』


 茜。


『容量に注意ね』


 美優。


『楽しみ』


 蓮。


『圭、ブレてる写真は省いていいよ』


 祐衣。


『私も見たいです』


 春樹。


『見たい』


 なつきの心臓が跳ねた。


 春樹も、見たい。


 たったそれだけなのに、昨日の写真が一気に特別になる。


 圭から写真が次々送られてくる。


 集合写真。


 浴衣姿の女子組。


 甚平姿で得意げな圭。


 紅秋と茜が同時に圭と亜衣を注意している瞬間。


 たこ焼きを前に目を輝かせる亜衣。


 射的の前で真剣な春樹。


 そして。


 春樹が黒猫のキーホルダーをなつきへ渡している写真。


 なつきは息を止めた。


 誰が撮ったのだろう。


 たぶん、亜衣だ。


 なつきが両手で黒猫を受け取っている。


 春樹はいつものように静かな顔で差し出している。


 周りでは圭が何か言いたそうにしていて、紅秋が止めている。


 写真の中の自分は、明らかに嬉しそうだった。


 恥ずかしいくらいに。


 亜衣から個別メッセージ。


『ベストショットです』


 なつきは赤くなりながら返信した。


『いつ撮ったの?』


『もちろんその瞬間』


『恥ずかしい』


『でも保存したでしょ』


『……した』


『よろしい』


 なつきは黒猫を手のひらで包んだ。


 写真にも残っている。


 でも、それ以上に、手のひらの感触として残っている。


 春樹が取ってくれたもの。


 自分が見ていたから、と言ってくれたもの。


 なつきは机の引き出しから小さなポーチを出し、黒猫を大事に入れた。


 学校が始まったら、鞄につけるかどうか。


 そこまで考えて、また顔が熱くなる。


 つけたら、春樹は気づくだろうか。


 気づいてくれたら、何と言うだろう。


 亜衣には絶対にからかわれる。


 でも、つけたい。


 なつきは黒猫を見つめながら、小さく笑った。


   ◇


 昼過ぎ。


 なつきは茜と亜衣に呼ばれて、駅前のカフェにいた。


 海の翌日と同じ流れだった。


 ただし、今回は亜衣のテンションがさらに高い。


「はい、夏祭り振り返り会を始めます!」


 亜衣がスマホを机に置いた。


 茜は紅茶を手に、落ち着いた顔で言う。


「振り返りはいいけれど、なつきを追い詰めすぎないように」


「追い詰めない。褒める」


「それならいいわ」


 なつきはすでに少し身構えていた。


「何を話すの?」


「全部」


「全部?」


「まず浴衣登場」


 亜衣は指を一本立てた。


「春樹くん、ちゃんと止まったよね」


「止まってないよ」


「止まった」


 茜も少し笑う。


「一瞬、間はあったわね」


「茜ちゃんまで」


「でも、とても自然に褒めてくれたわ」


 なつきはアイスティーのグラスを見つめる。


「うん……」


 嬉しかった。


 昨日のことなのに、まだその瞬間をはっきり思い出せる。


 春樹の視線。


 少しの間。


 似合ってる、という声。


「次、黒猫事件」


「事件って言わないで」


「これは事件でしょ」


 亜衣が写真を開く。


「横田さんが見てたから、だよ? 何それ」


「……私もびっくりした」


「びっくりで済まない」


 茜が写真を見て、静かに微笑んだ。


「本当に嬉しそうね、なつき」


 なつきは画面の中の自分を見て、恥ずかしくなる。


 でも、否定はしなかった。


「嬉しかった」


 素直に言う。


「すごく」


 亜衣は一瞬、茶化すのをやめた。


 それから、優しく笑った。


「うん。いい顔してた」


 茜も頷く。


「その嬉しいを、ちゃんと大事にしていいのよ」


「うん」


「春樹くんにも言えたでしょう? 見てもらえて嬉しかったって」


 なつきは顔を赤くした。


「言ったね……」


「あれ、すごかった」


 亜衣がしみじみ言う。


「なつき、もう完全に一歩どころじゃないよ。三歩くらい行った」


「三歩?」


「うん。浴衣で三歩」


「何それ」


 三人で笑う。


 笑いながら、なつきは昨日の帰り際を思い出した。


 駅前での別れ。


 春樹の「浴衣、見られてよかった」。


 自分の「春樹くんに見てもらえて、嬉しかった」。


 言った後、胸が破裂しそうだった。


 でも言えた。


 逃げなかった。


「私」


 なつきはゆっくり言った。


「昨日、言えてよかったって思ってる」


 亜衣と茜が黙って聞いている。


「恥ずかしかったけど、でも……ちゃんと自分の気持ちを言えたのが、嬉しかった」


 茜が優しく頷いた。


「それが一番大きいわね」


「うん」


 亜衣も言う。


「春樹くん、鈍いけど、ちゃんと受け取ってたと思うよ」


「そうかな」


「うん。あの時、少しだけ驚いてた。でも嫌そうじゃなかった」


 なつきは胸の奥が温かくなる。


 嫌じゃなかった。


 拒まれなかった。


 それだけで十分だった。


 少なくとも今は。


「次は?」


 亜衣が言う。


「次?」


「夏休み後半、どうするか」


「宿題……」


 茜が静かに言う。


 亜衣は顔を伏せた。


「現実」


「避けられないわ」


「でも祭りも終わったし、次のイベントは?」


 なつきは少し考える。


 海。


 夏祭り。


 次は何だろう。


 図書館で感想文を仕上げる回。


 学校の登校日。


 もしかしたら、花火ではなく普通の買い物。


 夏休みはまだある。


 でも、イベントを重ねすぎるより、少し日常に戻るのもいい気がした。


「宿題会、ちゃんとやらないとね」


 なつきが言うと、亜衣が驚いた顔をした。


「なつきが現実側に」


「私も未来の自分を救いたい」


「裏切り者!」


 茜が微笑む。


「裏切りではなく成長よ」


 亜衣は机に突っ伏した。


「夏祭りの余韻だけで生きたい」


「宿題も持って生きましょう」


「茜ちゃん、強い」


 なつきは笑った。


 でも、確かにそうだ。


 楽しい時間が終わった後にも、日常は続く。


 だからこそ、その日常の中で春樹とまた話せる理由を見つけたい。


 読書感想文。


 黒猫のキーホルダー。


 写真。


 宿題会。


 きっと、まだ繋がれるものはある。


   ◇


 夕方。


 家に戻ったなつきは、思い切って黒猫のキーホルダーを通学鞄につけてみた。


 まだ夏休み中だから、実際に持っていくのは先だ。


 でも、試してみたかった。


 鞄の横で揺れる黒猫。


 思ったより馴染んでいた。


 派手すぎない。


 でも、ちゃんと存在感がある。


 なつきは指先でそっと揺らした。


「……かわいい」


 スマホが震えた。


 春樹からだった。


『写真、見た』


 なつきの心臓が跳ねる。


『うん。たくさんあったね』


『黒猫の写真もあった』


 なつきは鞄につけた黒猫を見た。


『うん。亜衣ちゃんが撮ってたみたい』


『気に入った?』


 なつきは少し迷った。


 でも、もう隠したくなかった。


『すごく気に入ったよ』


 送信。


 少しだけ勇気を出して、もう一文打つ。


『鞄につけようかなって思ってる』


 送ってから、心臓がうるさくなる。


 春樹から返事。


『いいと思う』


 なつきは画面を見つめた。


 いいと思う。


 春樹がそう言ってくれた。


 それだけで、鞄につける決心がついてしまう。


『ありがとう。大事にするね』


 春樹。


『うん』


 少し間が空いて。


『取れてよかった』


 なつきは息を止めた。


 黒猫が取れてよかった。


 それはきっと、射的で落とせてよかったという意味。


 でも、なつきにはもっと大きく聞こえた。


『私も、春樹くんが取ってくれて嬉しかった』


 送ってしまった。


 昨日から、少しずつ自分の気持ちを言葉にできている。


 怖い。


 でも、伝えたい。


 春樹からの返信は、やはり短かった。


『うん』


 でも、その後にもう一通来た。


『また祭り行けたらいいね』


 なつきはスマホを両手で包んだ。


 また。


 海の時もそうだった。


 また行きたい。


 今度は祭り。


 次があるかもしれない言葉。


『うん。また行きたい』


 なつきはすぐに返した。


 画面を見つめながら、胸の中が静かに満ちていくのを感じる。


   ◇


 夜。


 なつきは机に向かい、読書感想文を書き始めた。


 今日は、なぜか少しだけ書ける気がした。


 楽しいことの余韻で集中できないと思っていたのに、逆だった。


 海や祭りで感じたこと。


 少しずつ変わっていく自分。


 春樹との距離。


 祐衣や美優への気持ちの変化。


 全部が、本の感想とどこかで繋がっていた。


 なつきはノートにゆっくり書く。


『人の気持ちは、一日で大きく変わるわけではないと思います。でも、小さな言葉や出来事が積み重なることで、気づいた時には前より少し前を向けるようになっていることがあります』


 書きながら、春樹の言葉を思い出す。


 横田さんが頑張ったからだよ。


 似合ってる。


 楽しかったね。


 また行きたい。


 浴衣、見られてよかった。


 どれも短い言葉。


 けれど、なつきには全部大切だった。


 その短い言葉が、少しずつ自分を変えてくれた。


 なつきは鞄につけた黒猫を見る。


 黒猫は、部屋の明かりの下で小さく揺れていた。


 昨日の祭りの灯りではない。


 でも、それでもかわいかった。


 そして、ちゃんとそこにある。


 思い出が、形になっている。


 スマホが震える。


 今度はグループチャットだった。


 圭。


『次の宿題会いつ!?』


 亜衣。


『圭くんが宿題会を求めてる!?』


 圭。


『祭り終わって現実が来た』


 紅秋。


『ようやく気づいたか』


 茜。


『今週中に一度やりましょう』


 蓮。


『予定合えば参加するよ』


 美優。


『私も少しなら』


 祐衣。


『読書感想文、進めたいです』


 春樹。


『俺も』


 なつきは笑った。


 夏休みは、まだ続く。


 楽しいイベントだけではなく、宿題もある。


 でも、その宿題会さえ、今は少し楽しみに思える。


 春樹にまた会える。


 みんなとまた笑える。


 そして、自分の感想文を少しだけ見てもらえるかもしれない。


 なつきは返信した。


『私も参加したい』


 送ってから、黒猫をそっと指で揺らした。


 君の隣を目指す夏。


 海と祭りで近づいた距離は、写真の中だけでは終わらない。


 明日からの日常の中でも、少しずつ積み重ねていく。


 黒猫が小さく揺れる。


 その揺れを見ながら、なつきはもう一度ペンを持った。


 今なら、感想文も、自分の気持ちも、少しだけ書ける気がした。

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