第84話 花火のあとも、隣にいたくて
最初の花火が夜空に開いた瞬間、祭り会場のざわめきが少しだけ遠くなった。
実際には、人の声は消えていない。
圭の「おお!」という声も、亜衣の「きれい!」という声も聞こえていた。
小さな子ども達の歓声も、屋台の方から聞こえる呼び込みの声も、全部そこにあった。
それでもなつきには、一瞬だけ世界が静かになったように感じられた。
夜空に咲いた光。
その下で、隣に春樹がいる。
薄紫の浴衣の袖が、夜風に少し揺れる。
鞄の中には、春樹が射的で取ってくれた黒猫のキーホルダーが入っている。
それだけで、胸の奥がいっぱいだった。
「きれい」
春樹が小さく言った。
なつきは花火を見上げたまま頷いた。
「うん」
二発目の花火が上がる。
今度は少し大きい。
赤と金の光が夜空に広がって、遅れて音が胸に響いた。
なつきは思わず肩を揺らす。
春樹が少しこちらを見る。
「大丈夫?」
「あ、うん。音にびっくりしただけ」
「そう」
春樹はまた空を見上げた。
それだけのやり取りなのに、なつきの胸は温かくなる。
大丈夫かと聞いてくれる。
小さなことに気づいてくれる。
海の時もそうだった。
歩きにくくないか。
暑くないか。
楽しいか。
春樹の言葉は短い。
けれど、その短さの中にちゃんと気遣いがある。
なつきは最近、それを少しずつ受け取れるようになってきた。
「春樹くん」
「何?」
「花火、久しぶり?」
「うん」
「私も」
「そうなんだ」
「うん。ちゃんと友達と見るの、久しぶりかも」
春樹は少しだけ考えるように空を見た。
「俺も、こういう人数では久しぶり」
「楽しい?」
聞いてから、少しだけ緊張した。
でも春樹はすぐに頷いた。
「うん」
なつきの胸が弾む。
「よかった」
そう言った瞬間、三発目が上がった。
青い光が夜空に広がる。
その光が春樹の横顔を少し照らした。
なつきは、花火を見るふりをしながら、ほんの少しだけ春樹の横顔を見た。
いつもより柔らかい表情。
人混みは少し苦手そうなのに、今日の春樹はちゃんと楽しんでいる。
そのことが嬉しかった。
前の方では、圭と亜衣がほとんど同じ反応をしていた。
「すげぇ!」
「今のすごい!」
「次、もっと大きいやつ来るんじゃない!?」
「来るかも!」
紅秋が小声で注意する。
「声を抑えろ。周りにも人がいる」
茜も続ける。
「花火中だから、少し落ち着いて見ましょう」
「はい」
「はい」
二人が同時に返事をする。
蓮が笑い、美優が肩を震わせている。
祐衣は手元で小さく拍手していた。
「祐衣さん」
美優が囁く。
「楽しそう」
「はい。花火、久しぶりなので」
「来てよかったね」
「本当に」
祐衣はそう言って、ちらりとなつきの方を見た。
なつきと目が合うと、柔らかく微笑む。
なつきも小さく笑い返した。
誘えてよかった。
海の時も思った。
そして今日も思う。
春樹に近い人だからと身構えていた祐衣と、こうして同じ花火を見て笑い合える。
そのことが、なつきにはとても大きかった。
花火は小規模だと聞いていた。
確かに、大きな花火大会のように何十分も続くものではない。
けれど、祭りの夜に上がるには十分だった。
一発ごとに、みんなが空を見上げる。
色が変わるたびに、圭と亜衣が小さく騒ぎ、紅秋と茜が注意しながらも笑う。
蓮と美優が自然に感想を交わし、祐衣が静かに頷く。
春樹は隣で、時々「きれい」とか「大きい」とか、短く言う。
なつきはそのたびに、胸の中へその言葉をしまっていった。
最後に少し大きな花火が上がった。
金色の光が夜空に広がり、ゆっくり消えていく。
音が遅れて胸に届いた。
その余韻が残る中、会場のあちこちから拍手が起きた。
圭が両手を上げる。
「最高!」
亜衣も頷く。
「夏って感じ!」
紅秋が言う。
「終わったからといって急に動くなよ。人が動き出すから」
茜も周りを見る。
「少し待ってから移動しましょう」
圭と亜衣は、今度は素直に頷いた。
花火が終わった後の空は、少しだけ寂しい。
さっきまで光が咲いていた場所が、また黒い夜空に戻っている。
けれど、その暗さの中に、花火の残像がまだ残っている気がした。
なつきは鞄の上から、黒猫のキーホルダーの入った袋にそっと触れた。
今日のことも、きっとこんなふうに残る。
光が消えても、胸の中にはちゃんと残る。
「横田さん」
春樹の声がした。
「うん?」
「楽しかった?」
なつきは春樹を見る。
今なら、素直に言える気がした。
「うん。すごく楽しかった」
少しだけ間を置いて、続ける。
「春樹くんと見られて、嬉しかった」
言った。
言ってしまった。
胸が大きく鳴る。
でも、目は逸らさなかった。
春樹は少しだけ瞬きをした。
そして、いつものように短く言った。
「俺も」
なつきは一瞬、呼吸を忘れた。
俺も。
たった二文字。
でも、今のなつきには花火より大きかった。
「……そっか」
声が小さくなる。
それでも、口元が勝手に緩む。
嬉しい。
どうしようもなく嬉しい。
春樹はまた夜空を見上げている。
その横顔はいつも通りに見える。
でも、なつきの胸の中では、今の「俺も」が何度も何度も響いていた。
◇
花火が終わると、人の流れが一気に動き始めた。
屋台へ戻る人。
駅へ向かう人。
まだ会場に残る人。
祭りの終わりに向かうざわめきが、通り全体を包み込んでいる。
紅秋と茜はすぐに全員を確認した。
「一度、端へ移動しよう。人が多い」
「はぐれないようにね」
圭が手を上げる。
「俺は紅秋についていく!」
「自分でも周りを見ろ」
「はい」
亜衣もなつきの腕に軽く触れる。
「なつき、歩ける?」
「うん。大丈夫」
「浴衣、疲れたでしょ」
「少し。でも楽しい方が大きい」
「いいね」
亜衣はにこっと笑った。
人混みの中を少しずつ進む。
なつきは浴衣の裾に気をつけながら歩いた。
すると、春樹がまた歩幅を合わせてくれた。
それは本当に自然だった。
言葉にしない。
でも、前へ行きすぎない。
なつきが歩きにくそうにすると、少しだけ待ってくれる。
人の流れが狭くなるところでは、春樹がさりげなく外側に立つ。
なつきはその一つ一つに気づいてしまう。
気づくたびに、胸が温かくなる。
「春樹くん」
「何?」
「また、歩きやすいようにしてくれてる?」
春樹は少しだけこちらを見た。
「浴衣だから」
当たり前のように言う。
でも、なつきには当たり前ではなかった。
「ありがとう」
「うん」
それだけで終わる。
でも、もう十分だった。
少し開けた場所まで出ると、全員で一度立ち止まった。
花火の後の会場は、まだ熱を持っている。
屋台の明かりは残っているが、さっきより少し落ち着いた雰囲気になっていた。
圭が名残惜しそうに屋台を見る。
「最後に何か食べたい」
紅秋が時計を見る。
「時間と相談だな」
亜衣も言う。
「甘いもの食べたい」
茜が少し考える。
「駅へ向かいながら買えるものならいいんじゃない?」
美優が笑う。
「じゃあ、ベビーカステラとか?」
祐衣が小さく反応する。
「あ、それ食べたいです」
蓮も頷く。
「いいね。みんなで分けられるし」
圭がぱっと顔を上げる。
「決まり!」
紅秋が言う。
「走るな」
「走らない!」
花火後の最後の屋台は、ベビーカステラになった。
小さな袋をいくつか買い、少し離れたところで分ける。
甘い匂い。
まだ温かい生地。
祭りの終わりに食べる甘いものは、どこかほっとする味だった。
「おいしい」
なつきが言うと、春樹が頷いた。
「うん」
「春樹くん、甘いの平気?」
「平気」
「好き?」
「普通」
「また普通」
なつきが笑うと、春樹もほんの少し笑った。
「おいしい」
そう付け加えてくれた。
なつきはそれが嬉しかった。
圭と亜衣は、最後まで食べ物で盛り上がっていた。
「これ、無限にいける」
「分かる!」
紅秋がすぐに言う。
「無限には食べるな」
茜も続ける。
「夕食を食べられなくなるわよ」
「先生コンビ、祭り終了間際でも強い」
圭がしみじみ言う。
亜衣も頷く。
「安心感ある」
紅秋と茜は顔を見合わせ、少しだけ困ったように笑った。
蓮が美優へベビーカステラの袋を渡す。
「まだ食べる?」
「少し」
「祐衣さんも」
「ありがとうございます」
その自然なやり取りを見ながら、なつきは今日のグループの空気を改めて感じていた。
海の時よりも、さらに馴染んでいる。
それぞれの距離が、少しずつ縮まっている。
夏休みという時間が、みんなを教室の外で繋げている。
その中に、自分もいる。
春樹の隣を目指すことだけで精一杯だった自分が、今はこの輪の中で笑っている。
それが、少し不思議で、とても嬉しかった。
◇
駅へ向かう道は、行きよりも少し静かだった。
祭りの熱はまだ残っている。
でも、花火が終わり、屋台も少しずつ片付けの気配を見せ始めている。
提灯の灯りはまだ揺れているけれど、夜は確実に深くなっていた。
圭はまだ元気そうに見えたが、歩き方は少しだけ落ち着いていた。
亜衣も楽しそうではあるものの、さすがに疲れてきている。
茜はそれを見て、時々「大丈夫?」と声をかけていた。
紅秋は全員の位置を確認しながら歩いている。
蓮と美優は少し後ろで祭りの感想を話している。
祐衣はなつきの少し近くに来た。
「横田さん」
「うん?」
「今日は誘ってくれて、本当にありがとうございました」
「ううん。来てくれて嬉しかった」
「海も、今日も、すごく楽しかったです」
「私も」
なつきは少し照れながら言った。
「祐衣さんと話せるようになって、嬉しい」
祐衣は一瞬目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「私もです」
その会話を、春樹が隣で聞いていた。
春樹は何も言わない。
でも、なつきは少しだけ春樹の方を見る。
春樹もなつきを見て、短く頷いた。
なぜ頷いたのかは分からない。
けれど、それが「よかったね」と言ってくれているように感じた。
勝手な解釈かもしれない。
でも、今夜のなつきはそのくらい前向きでいられた。
「春樹くん」
「何?」
「祐衣さん、来てくれてよかったね」
「うん」
「美優さんも、蓮くんも」
「うん」
「みんなで来られて、よかった」
春樹は少しだけ考えた。
「うん。よかった」
その言葉が、夜風の中で静かに残る。
なつきは小さく笑った。
◇
駅前に着くと、別れの時間が近づいていた。
楽しい時間は、いつも終わり際になって初めて、その短さに気づく。
さっきまで花火を見ていたのに。
さっきまで屋台の灯りの中にいたのに。
もう帰る時間だ。
圭が大きく伸びをする。
「楽しかったー!」
亜衣も頷く。
「めちゃくちゃ楽しかった!」
紅秋が言う。
「帰ったらちゃんと連絡しろよ」
「紅秋、最後まで保護者」
「大事なことだ」
茜も頷く。
「家に着いたらグループに一言ね」
「はーい」
亜衣が返事をする。
美優が春樹を見る。
「春樹もちゃんと連絡してね」
「うん」
「短くてもいいから」
「うん」
「またうんだけ?」
「たぶん」
蓮が笑う。
「春樹らしい」
祐衣も小さく笑っていた。
それぞれ帰る方向が分かれる。
駅組と地元側。
なつきは茜と亜衣と一緒に帰る。
春樹は蓮、美優、祐衣と駅へ向かう。
いつもの別れ。
でも、今日は少しだけ違った。
なつきの鞄には、黒猫のキーホルダーが入っている。
春樹からもらったもの。
それが、今日の別れを少しだけ温かくしてくれる。
「横田さん」
春樹が声をかけた。
なつきは顔を上げる。
「うん?」
「今日はありがとう」
「え?」
「浴衣、見られてよかった」
なつきの心臓が止まりそうになった。
春樹はまた、普通に言った。
普通に、でも真っ直ぐ。
なつきは一瞬言葉を失う。
亜衣が隣で完全に固まったのが分かった。
茜も少し驚いたように目を細めている。
圭は口を開きかけ、紅秋に肩を掴まれた。
美優は小さく笑い、蓮は春樹を見て少しだけ感心したような顔をした。
祐衣は優しく微笑んでいる。
なつきは、なんとか声を出した。
「……ありがとう」
それだけでは足りない気がした。
でも、それ以上言おうとすると声が震えそうだった。
それでも、今夜はもう一歩だけ進みたかった。
「私も」
なつきは薄紫の袖をそっと握る。
「春樹くんに見てもらえて、嬉しかった」
言えた。
言ってしまった。
でも、逃げなかった。
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
そして頷く。
「うん」
短い返事。
でも、拒まれなかった。
受け取ってくれた。
それだけで、なつきの胸はいっぱいだった。
「また」
春樹が言う。
「うん。またね、春樹くん」
春樹が駅の方へ歩いていく。
なつきはその背中を見送った。
今日の別れは寂しい。
でも、それ以上に温かい。
浴衣を褒めてもらえた。
黒猫をもらった。
花火を隣で見られた。
最後に、嬉しかったと言えた。
それだけで、今日という日は十分すぎるくらい特別だった。
亜衣がなつきの隣にそっと来る。
「なつき」
「うん」
「今日、すごかったね」
「……うん」
茜も優しく言う。
「ちゃんと、自分の気持ちを言葉にできたわね」
なつきは小さく頷いた。
「すごく緊張した」
「でも言えた」
「うん」
駅前の夜風が、浴衣の袖を揺らす。
祭りの音はもう遠い。
けれど、胸の中ではまだ花火が残っていた。
なつきは鞄の中の黒猫にそっと触れる。
君の隣を目指す夏。
花火の下で、また少しだけ近づけた。
その確かな感触を抱えながら、なつきは茜と亜衣と並んで帰り道を歩き出した。




