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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第83話 提灯の下で、君の歩幅を探す


 夏祭りの会場へ近づくにつれ、空気の色が変わっていった。


 夕方の青が、少しずつ橙へ沈んでいく。


 その下で、通りに吊るされた提灯が一つ、また一つと灯り始めていた。


 昼間の街とは違う。


 同じ駅前なのに、まるで別の場所のようだった。


 屋台からは、甘くて濃い匂いが流れてくる。


 焼きそばのソース。


 たこ焼きの香ばしさ。


 りんご飴の砂糖。


 焼きとうもろこしの醤油。


 人の声。


 子どもの笑い声。


 遠くから聞こえる太鼓の音。


 なつきは、薄紫の浴衣の袖をそっと握った。


 胸が忙しい。


 春樹に浴衣を褒めてもらえた。


 それだけで、もう今日の半分くらい満たされたような気がしている。


 けれど、祭りはまだ始まったばかりだった。


「なつき、大丈夫?」


 隣から亜衣が小声で聞いてくる。


 亜衣は赤系の浴衣が本当によく似合っていた。


 明るくて、楽しそうで、祭りの灯りの中にすっと馴染んでいる。


「うん」


「顔、まだふわふわしてる」


「してない」


「してる。春樹くんに似合ってるって言われてから、ずっとしてる」


「亜衣ちゃん」


「でも今日はいい。ふわふわしていい日」


 茜が少し後ろから穏やかに言った。


「ただし、足元には気をつけてね。浴衣だと歩きにくいから」


「うん」


 なつきは頷いた。


 春樹も、少し前から何度か振り返ってくれている。


 歩きにくくないか。


 遅れていないか。


 そういう小さな確認が、言葉にされなくても伝わってくる。


 そのたびに、胸の奥が柔らかくなる。


 圭は甚平姿で、すでに完全に祭りの空気に飲まれていた。


「屋台! 屋台が多い!」


 紅秋が隣でため息をつく。


「圭、まず全員揃ってからだ」


「分かってる。でも屋台が呼んでる」


「呼んでいない」


「いや、焼きそばが俺を呼んでる」


「幻聴だ」


 蓮が笑う。


「圭、朝から何か食べてきた?」


「食べた!」


「なのにもうお腹空いてるの?」


「祭り腹は別」


 亜衣が即座に頷いた。


「分かる!」


 茜が言う。


「分からなくはないけれど、最初から食べすぎないこと」


「先生!」


「今日は茜先生と紅秋先生のダブル監視だ」


 圭がわざとらしく肩を落とす。


 紅秋が淡々と返した。


「監視されるような行動をするからだ」


「正論!」


 なつきは笑いながら、春樹の方をちらりと見た。


 春樹も少しだけ笑っている。


 大きく表情を崩すわけではない。


 でも、海の時から分かるようになった。


 春樹はちゃんと楽しんでいる時、ほんの少し口元が緩む。


 それに気づけるようになったことが、なつきには嬉しかった。


 会場の入口付近で、美優と祐衣が待っていた。


 美優は淡い水色の浴衣だった。


 明るくて、涼しげで、彼女らしい華やかさがあった。


 祐衣は白地に紺の花柄の浴衣で、落ち着いた雰囲気がよく似合っている。


 二人とも、普段の制服とも私服とも違っていた。


 なつきは思わず見とれてしまう。


「お待たせ」


 美優が手を振った。


「全然待ってないよ」


 蓮が答える。


 春樹も軽く頷く。


「美優、祐衣」


「春樹、ちゃんと来たね」


「来た」


「知ってる」


 美優は笑ってから、なつき達へ視線を向けた。


「みんな浴衣かわいい!」


 亜衣がすぐに胸を張る。


「美優ちゃんもめちゃくちゃ似合う!」


「ありがとう。亜衣ちゃんも赤、すごく似合ってる」


「やった!」


 祐衣もなつきへ微笑んだ。


「横田さん、薄紫、とても似合っています」


「あ、ありがとう。祐衣さんもすごく綺麗」


「ありがとうございます」


 祐衣は少し照れたように笑った。


 茜が美優と祐衣を見て頷く。


「二人とも素敵ね」


「茜ちゃんこそ、大人っぽい」


 美優が言うと、亜衣がすぐ乗った。


「茜ちゃんは今日、完全に大人のお姉さん枠」


「そんな枠はないわ」


「ある」


 圭が女子組を見回して、両手を上げた。


「全員似合ってる!」


 紅秋が言う。


「声」


「今のは褒めてる!」


「声量の話だ」


 美優が笑う。


「圭くん、甚平似合ってるね」


「美優さんにも言われた! 買ってよかった!」


 紅秋が静かに言う。


「勢いだけで買わなくてよかったな」


「紅秋が予算確認してくれたおかげ!」


「ならよかった」


 そのやり取りに、全員が笑った。


 なつきは笑いながら、ふと春樹を見た。


 春樹は美優や祐衣の浴衣にも自然に「似合ってる」と言っていた。


 胸が少しだけ揺れる。


 けれど、それは嫌な痛みではなかった。


 春樹は思ったことを言う人だ。


 美優にも、祐衣にも、きっと素直に言う。


 それでも、なつきに言ってくれた言葉が薄れるわけではない。


 薄紫、横田さんっぽい。


 あの言葉は、自分に向けられたものだった。


 なつきは小さく息を吸い、胸の中を整えた。


 大丈夫。


 今日は楽しむ。


 春樹だけを見る日ではない。


 みんなと過ごす夏祭りの日だ。


「さて」


 紅秋がスマホを確認する。


「会場は混んでいるから、最初はまとまって移動しよう。食べ物を買うなら、屋台前で長く立ち止まらないように」


 茜も頷く。


「迷子にならないようにね。特に圭くんと亜衣」


「名指し!」


「名指しされた!」


 圭と亜衣が同時に反応する。


 蓮が笑った。


「でも一番危なそう」


「否定できないのがつらい」


 亜衣が言う。


「私はなつきと茜ちゃんがいれば大丈夫」


「私は紅秋がいれば大丈夫」


 圭が言った瞬間、紅秋が少しだけ眉を動かした。


「俺を基準にするな」


「頼りにしてるってこと!」


「……ならいい」


 亜衣が小声で言う。


「紅秋くん、頼られると弱い」


 茜が少し笑った。


「分かるわ」


「遠山さんまで」


 紅秋が少し困ったように言う。


 なつきはその様子を見て、自然に笑った。


 こうして全員でいると、それぞれの距離が少しずつ見える。


 圭と紅秋。


 亜衣と茜。


 春樹と蓮、美優。


 祐衣と本の空気。


 そして自分と春樹。


 まだ名前で呼ばれる距離ではない。


 春樹は今も「横田さん」と呼ぶ。


 でも、その呼び方の中にある温度が、前とは少し違う気がした。


 そう思えるだけで、今は十分だった。


   ◇


 最初の屋台通りへ入ると、圭と亜衣の目が輝いた。


「たこ焼き!」


「焼きそば!」


「からあげ!」


「りんご飴!」


「全部!」


 紅秋と茜が同時に言う。


「全部は無理だ」


「全部は無理よ」


 二人の声が綺麗に重なった。


 圭と亜衣が顔を見合わせる。


「先生コンビ……」


「強い……」


 美優が笑う。


「本当に息ぴったり」


 蓮も頷く。


「助かるね」


 祐衣は少し控えめに屋台を見ている。


 なつきはその横に並んだ。


「祐衣さん、何か食べたいものある?」


「そうですね……りんご飴、少し気になります」


「あ、分かる。見た目かわいいよね」


「はい。でも全部食べきれるか少し不安で」


「じゃあ誰かと分ける?」


 祐衣が少し嬉しそうに頷く。


「それならいいかもしれません」


 以前より、祐衣と話すのが自然になっている。


 なつきはそれが嬉しかった。


 春樹の近くにいるから緊張する相手、ではなくなってきている。


 ちゃんと、祐衣自身と話せている。


「横田さん」


 春樹の声がした。


 なつきは振り返る。


「うん?」


「歩きにくくない?」


 また、気づいてくれた。


 なつきは胸が温かくなる。


「大丈夫。ゆっくり歩けば」


「うん」


 春樹は少し歩幅を落とした。


 本当に、少しだけ。


 でも、なつきには分かった。


 合わせてくれている。


 それが嬉しくて、少し恥ずかしくて、なつきは袖をそっと握った。


「ありがとう」


「うん」


 その短いやり取りを、亜衣は後ろからしっかり見ていた。


 なつきは見ないふりをした。


 絶対にあとで言われる。


 それは分かっている。


 でも今は、春樹が隣で歩幅を合わせてくれている事実だけを大切にしたかった。


 最初に買うことになったのは、たこ焼きだった。


 圭の強い希望と、亜衣の同意により決定した。


 ただし、紅秋と茜の管理のもと、人数分を少しずつ分ける形になった。


「俺、一舟いけるけど」


 圭が言う。


「この後も食べるんだろう」


 紅秋が返す。


「食べる」


「なら分けろ」


「はい」


 亜衣も言う。


「私も一舟いける」


 茜が見る。


「この後、浴衣で歩くのよ」


「分けます」


 圭と亜衣の勢いが、先生コンビによって見事に制御される。


 なつきは笑いながら、たこ焼きの入った舟を受け取った。


 熱い湯気。


 ソースの匂い。


 鰹節が揺れている。


「熱そう」


 なつきが言うと、春樹が隣で頷いた。


「熱いと思う」


「春樹くん、猫舌?」


「少し」


「そうなんだ」


 また一つ、春樹のことを知った。


 なつきはそれだけで嬉しくなる。


「じゃあ、少し冷ましてからだね」


「うん」


 圭はその横で、すでに熱さと戦っていた。


「あっつ!」


 紅秋が呆れる。


「だから言った」


「祭りのたこ焼きは熱い!」


「常識だ」


 亜衣も一口食べて、同じように跳ねた。


「あつっ!」


 茜がため息をつく。


「二人とも……」


 美優が笑いながら飲み物を差し出す。


「はい、水」


「美優さん、助かる!」


「ありがとう!」


 蓮が春樹へ言う。


「春樹、冷まして正解だったね」


「うん」


 春樹は慎重にたこ焼きを食べた。


 なつきも少し冷ましてから口に入れる。


 熱い。


 でも、おいしい。


 祭りの味だった。


「おいしい」


 なつきが言うと、春樹が頷いた。


「うん」


「春樹くん、こういうの食べるの久しぶり?」


「うん。祭り自体、久しぶり」


「私も」


 なつきは提灯の灯りを見上げた。


「なんか、いいね」


「うん」


 春樹は少しだけ周囲を見た。


「人は多いけど」


「そこは春樹くんらしい」


「そう?」


「うん」


 なつきが笑うと、春樹も少しだけ口元を緩めた。


 その小さな笑みだけで、胸が高鳴る。


 浴衣を着て、祭りの灯りの下で、春樹とたこ焼きを食べながら話している。


 そんな瞬間が本当に来るなんて、少し前の自分には想像できなかった。


   ◇


 次に向かったのは、射的の屋台だった。


 見つけた瞬間、圭の目が光った。


「射的!」


 亜衣も乗る。


「やりたい!」


 紅秋が言う。


「食べ物の次は射的か」


「祭りだから!」


 茜も少し興味深そうに見た。


「たまにはいいんじゃない?」


「茜ちゃんもやる?」


「見てから考えるわ」


 屋台の前には、すでに何人か並んでいた。


 景品の棚には、小さなお菓子やおもちゃが並んでいる。


 圭はやる気満々だった。


「俺、こういうの得意な気がする」


 紅秋が言う。


「気がするだけだろう」


「やる前から刺さないで!」


 蓮が笑う。


「圭、ダンスで体幹いいならいけるかも」


「蓮、分かってる!」


 美優が春樹を見る。


「春樹は?」


「やったことあまりない」


「意外と当てそう」


「そう?」


 なつきは春樹の横で、景品を見ていた。


 小さな猫のキーホルダーがある。


 黒猫。


 少し丸い顔で、かわいい。


 見ていると、春樹が気づいた。


「横田さん、あれ?」


「え?」


「見てた」


「あ、うん。ちょっとかわいいなって」


「黒猫」


「うん」


 なつきは少し笑った。


「でも、射的できる気がしない」


「俺も分からない」


「春樹くん、できそう」


「そう?」


「うん。落ち着いてるから」


 言ってから、なつきは少し照れた。


 春樹を褒めた。


 自然に。


 春樹は少し考える。


「じゃあ、やってみる」


「えっ」


「黒猫?」


 なつきの心臓が跳ねた。


「い、いや、無理しなくて」


「やってみるだけ」


 圭が聞きつけて振り返る。


「春樹、射的参戦!?」


 紅秋が圭の肩を押さえる。


「声」


「小声!」


 亜衣がなつきを見てにやにやする。


 なつきは目を逸らした。


 春樹が黒猫のキーホルダーを狙う。


 コルク銃を構える姿は、いつもと違って少し新鮮だった。


 真剣すぎるわけではない。


 でも、ちゃんと狙っている。


 なつきは息を止めて見守った。


 一発目。


 外れた。


「あ」


 圭が言う。


「惜しい!」


 春樹は少し首を傾げる。


「難しい」


 二発目。


 今度は景品の端に当たったが、落ちない。


「おお!」


 亜衣が小さく声を上げる。


 なつきの手にも力が入る。


 三発目。


 コルクが黒猫の横に当たる。


 景品が揺れた。


 そして、ころん、と落ちた。


「落ちた!」


 圭が叫んだ。


 紅秋が即座に言う。


「声」


「落ちたから!」


 屋台のおじさんが笑いながら黒猫のキーホルダーを渡してくれる。


 春樹はそれを受け取り、なつきの方へ来た。


「横田さん」


「え?」


「これ」


 黒猫のキーホルダー。


 なつきは固まった。


「え、でも、春樹くんが取ったのに」


「横田さんが見てたから」


 短い。


 いつものように短い。


 でも、その言葉だけで、なつきの胸はいっぱいになった。


 横田さんが見てたから。


 だから取ってくれた。


 そして、くれる。


 なつきは両手で黒猫のキーホルダーを受け取った。


「……ありがとう」


 声が震えそうだった。


「大事にする」


 春樹は頷いた。


「うん」


 亜衣が後ろで完全に口元を押さえている。


 茜も優しく目を細めている。


 美優は少し驚いたように見て、それから柔らかく笑った。


 祐衣も嬉しそうにしている。


 圭は我慢できずに小声で言った。


「青春……」


 紅秋が言う。


「今回は分かる」


「紅秋も認めた!」


 蓮が笑う。


「春樹、やるね」


 春樹は不思議そうにした。


「何が?」


 圭が天を仰ぐ。


「それだよ!」


 なつきは黒猫のキーホルダーをそっと握った。


 祭りの灯りの下で、春樹が取ってくれたもの。


 たぶん、一生忘れない。


 そう思った。


   ◇


 射的の後も、屋台巡りは続いた。


 圭はスーパーボールすくいに挑戦し、最初の一回で豪快に破った。


 亜衣も挑戦し、似たような結果になった。


「何で!?」


「紙が弱い!」


 紅秋と茜が同時に言った。


「力が強い」


「力が強いのよ」


 また声が重なり、全員が笑う。


 蓮は器用に数個すくい、美優に一つ渡していた。


 祐衣は慎重に小さなものを一つだけすくい、嬉しそうにしている。


 春樹は見ているだけだったが、圭に誘われて一度だけ挑戦した。


 結果は二個。


「春樹、普通にできるじゃん!」


 圭が言う。


「普通」


「また普通!」


 なつきは笑いながら、その様子を見ていた。


 黒猫のキーホルダーは、小さな袋に入れて大事に持っている。


 何度も触りたくなる。


 でも、落としたくないからそっとしておく。


 その存在だけで、今日の祭りが特別になっていく。


 人混みが少し濃くなり始めた頃、紅秋が提案した。


「一度、広場の端で休憩しよう」


 茜も頷く。


「浴衣組も少し座った方がいいわね」


「賛成」


 美優が言う。


「足、少し疲れてきた」


「私も少し」


 祐衣も頷いた。


 なつきも実は少し疲れていた。


 浴衣で歩くのは、思ったより大変だ。


 でも、楽しい気持ちが勝っていた。


 広場の端にある少し空いた場所で、みんなで休憩する。


 屋台の明かりが遠くに見える。


 太鼓の音が少し近づいている。


 空はすっかり夜へ向かい、提灯の灯りがいっそう鮮やかになっていた。


 なつきは黒猫のキーホルダーを取り出して、手のひらに乗せた。


 小さくて、丸くて、少し不器用な顔をしている。


 かわいい。


「横田さん」


 春樹が隣に来た。


「うん?」


「気に入った?」


 なつきは迷わず頷いた。


「うん。すごく」


「よかった」


「本当にありがとう。春樹くん」


「うん」


 春樹は少しだけキーホルダーを見た。


「黒猫、横田さんっぽい?」


「えっ」


「いや」


 春樹は少し考える。


「分からないけど、見てたから」


 なつきは笑った。


「そこは分からないんだ」


「うん」


「でも、嬉しい」


 自分から言えた。


 嬉しい、と。


 春樹は頷いた。


「うん」


 短い会話。


 でも、今日の夜の中で一番大切なものの一つになった。


 少し離れたところで、亜衣が茜に何かを囁いている。


 おそらく、いや絶対に自分達のことだ。


 でも今は、気にしすぎないことにした。


 なつきは黒猫を袋へ戻し、大事に鞄へしまった。


 落とさないように。


 壊さないように。


 今日の思い出が、ちゃんと残るように。


   ◇


 休憩を終えると、花火の時間が近づいていることに気づいた。


 小規模な花火。


 けれど、祭りの最後に上がるらしい。


 圭と亜衣はすぐに反応した。


「花火!」


「場所取り!」


 紅秋が言う。


「走らない」


 茜も言う。


「浴衣組がいるから、ゆっくり移動ね」


 圭と亜衣は同時に返事をした。


「はい」


「はい」


 会場の奥、少し開けた場所へ向かう。


 人の流れが同じ方向へ進み始めていた。


 提灯の灯り。


 屋台の煙。


 夜の空。


 祭りの音。


 その全部の中で、なつきは春樹の隣を歩いていた。


 人が多くなってきて、時々距離が近くなる。


 肩が触れそうになる。


 袖が揺れる。


 春樹が少しだけなつき側に寄って、人の流れから守るように歩いてくれる。


 なつきはそれに気づき、胸が熱くなった。


「春樹くん」


「何?」


「ありがとう」


「何が?」


「歩きやすいようにしてくれてるから」


 春樹は少しだけ目を瞬かせた。


「人、多いから」


「うん。でもありがとう」


「うん」


 それだけ。


 でも、言えたことが嬉しかった。


 自分の気持ちを、ちゃんとその場で言葉にできた。


 海の時よりも、また少しだけ自然に。


 花火を見る場所へ着く頃には、空は完全に夜になっていた。


 遠くで、打ち上げ準備の合図のような音が聞こえる。


 圭がそわそわしている。


 亜衣も同じ。


 紅秋と茜は、周囲の混雑を見ながら位置を調整している。


 蓮と美優は並んで空を見上げ、祐衣は少し緊張したように立っている。


 春樹は、なつきの隣。


 なつきは薄紫の袖をそっと握った。


 今日、春樹に浴衣を褒めてもらえた。


 黒猫のキーホルダーももらった。


 歩幅も合わせてくれた。


 まだ花火は上がっていないのに、もう胸がいっぱいだった。


 それでも。


 夜空を見上げながら、なつきは思った。


 この夏祭りは、まだ終わっていない。


 次の瞬間、遠くで小さな音が鳴った。


 ひゅう、と空気を切る音。


 全員が空を見上げる。


 夜空に、最初の花火が開いた。


 淡い光が、提灯より高い場所で丸く咲く。


 なつきは息を飲んだ。


 その横で、春樹が小さく言った。


「きれい」


 なつきは、花火を見ながら頷いた。


「うん」


 そして、胸の中で思った。


 今日のこの景色を、きっと忘れない。


 薄紫の浴衣。


 黒猫のキーホルダー。


 提灯の灯り。


 春樹の隣。


 君の隣を目指す夏は、夜空の花火の下で、また少しだけ近づいていた。

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