第82話 薄紫の浴衣と、待ち合わせ前の鼓動
夏祭り当日の朝。
なつきは、目覚ましが鳴るよりずっと前に目を覚ました。
部屋の中はまだ静かだった。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、朝の空気には少しだけ湿った夏の匂いが混ざっている。
遠くで蝉が鳴いていた。
いつもの朝なら、少しうるさいと思う音。
けれど今日だけは、その鳴き声まで祭りの日の始まりを知らせているように感じた。
なつきは布団の中で、しばらく天井を見つめた。
今日。
夏祭り。
浴衣。
春樹くん。
その四つの言葉が、寝起きの頭の中で順番に浮かび、最後のひとつで心臓が大きく跳ねた。
「……まだ朝なのに」
なつきは小さく呟き、布団を顔まで引き上げた。
だめだ。
もう緊張している。
集合は夕方。
まだ何時間もある。
それなのに、胸の奥がずっと落ち着かない。
昨日の夜、春樹から届いたメッセージを何度も見返した。
『うん。楽しみにしてる』
たったそれだけ。
でも、その文字がなつきにとっては十分すぎた。
薄紫の浴衣を楽しみにしてくれている。
いや、春樹はきっと深い意味で言ったわけではない。
いつものように、思ったことをそのまま言っただけ。
分かっている。
分かっているのに、心臓は聞き分けてくれない。
なつきは布団から顔を出し、枕元のスマホを手に取った。
画面を開く。
グループチャットには、まだ大きな動きはない。
けれど、圭が朝早くに一言だけ送っていた。
『祭りだーー!!』
その下に紅秋。
『朝から騒ぐな』
さらに亜衣。
『圭くん早すぎ笑』
茜。
『集合時間を間違えないように』
春樹。
『夕方』
美優。
『春樹、それだけ?』
蓮。
『まあ、分かるけどね』
祐衣。
『今日はよろしくお願いします』
なつきは思わず笑った。
みんな、もう今日のことを考えている。
それだけで、少し安心した。
自分だけが落ち着かないわけではない。
圭は圭らしく朝から騒いでいるし、亜衣もそれに乗っている。
紅秋と茜は相変わらず現実担当。
美優は自然に春樹へ突っ込んでいる。
蓮は穏やかに見守り、祐衣は丁寧に挨拶している。
その中に、自分もいる。
なつきは返信を打った。
『おはよう。今日はよろしくね』
送ってすぐ、亜衣から個別メッセージが飛んできた。
『起きてた!』
『起きてるよ』
『心臓は?』
『朝から忙しい』
『正直でよろしい』
なつきは小さく笑った。
亜衣は、なつきが隠してもどうせ見抜く。
なら最初から少し正直に言ってしまった方が楽だった。
『浴衣、緊張する』
送ると、亜衣からすぐに返る。
『大丈夫。絶対かわいい』
続いて。
『春樹くん、たぶん言う』
さらにつづけて。
『似合ってる、って』
なつきはスマホを胸に押し当てた。
朝から心臓に悪い。
『言わないで』
『当日シミュレーション大事』
『無理』
『無理じゃない。言われたらありがとうって言うだけ』
ありがとう。
それだけ。
海の時もそうだった。
髪留めを褒められた時も、水着を褒められた時も。
なつきは何とか「ありがとう」と言えた。
今日も言えるだろうか。
浴衣姿で。
夕方の駅で。
春樹の前で。
想像しただけで、布団の中に沈みたくなった。
茜からも個別メッセージが来た。
『浴衣は午後から着付けるので、午前中は落ち着いて準備ね。忘れ物を確認しておくこと』
なつきは思わず姿勢を正した。
茜の文章には、なぜか生活リズムを整える力がある。
『うん。ありがとう』
『楽しむことを忘れないように』
その一文を見て、なつきはしばらく黙った。
楽しむ。
海の前にも、茜は同じようなことを言ってくれた。
春樹にどう見られるかだけではなく、自分が楽しむこと。
今日もきっと同じだ。
浴衣を褒めてもらえるか。
春樹と話せるか。
それも大事。
でも、夏祭りそのものを楽しむことも大事。
屋台。
提灯。
人混み。
花火。
友達。
笑い声。
そこに春樹がいる。
全部含めて、今日という日を楽しむ。
なつきは深く息を吸った。
「楽しむ……」
小さく声に出す。
それだけで、少しだけ落ち着いた気がした。
◇
午前中は、思ったより長かった。
宿題を少しでも進めようと机に向かったが、文字がなかなか頭に入らない。
読書感想文のノートを開き、春樹に「横田さんの言葉って感じがする」と言ってもらったメモを見返す。
あの時のことを思い出すと、また胸が温かくなる。
でも、今日はそれどころではなかった。
なつきはペンを握ったまま、気づけば浴衣の袋を見ている。
薄紫。
小さな白い花。
それに合わせて買った髪飾り。
あれを今日、本当に着る。
レンタル予約をして、午後には亜衣と茜と合流し、着付けをしてもらう予定だった。
なつき一人では絶対に無理だった。
着付けも、髪も、小物も。
全部、亜衣と茜がいてくれるからできる。
それがありがたくて、少しだけ申し訳なくもある。
スマホが震える。
今度はグループチャットではなく、春樹からだった。
なつきは椅子の上で固まった。
春樹から。
祭り当日。
個別。
息を整えて、画面を開く。
『集合、五時で合ってる?』
なつきは一瞬、力が抜けた。
春樹らしい。
確認だった。
でも、それが少しおかしくて、少し嬉しい。
『うん。五時に水戸駅だよ』
送る。
すぐに返る。
『ありがとう』
なつきは少し迷ってから、勇気を出した。
『春樹くん、準備してる?』
送った後、心臓が跳ねる。
自分から話を続けた。
春樹からの返信は短かった。
『まだ』
なつきは笑ってしまった。
男子はそうなのかもしれない。
いや、春樹がそうなのかもしれない。
『浴衣じゃないよね?』
送ってから、少しだけ後悔する。
変な質問だったかな。
でも、春樹は普通に返してきた。
『私服』
続けて。
『圭は甚平らしい』
なつきは思わず笑った。
圭くん、本当に買ったんだ。
『圭くんらしいね』
『うん』
少し間が空く。
それから、春樹からもう一通来た。
『横田さんは浴衣?』
なつきの心臓が大きく跳ねた。
分かっているはずなのに。
昨日話したはずなのに。
改めて聞かれると、急に恥ずかしい。
『うん』
それだけ打って送る。
すぐに、春樹。
『楽しみにしてる』
二度目。
なのに、破壊力は変わらなかった。
なつきは机に突っ伏した。
「……ほんと、無理」
でも、嬉しい。
どうしようもなく嬉しい。
なつきは少しだけ時間を置いてから返信した。
『ありがとう。緊張するけど、楽しみにしてて』
送ってから、顔が熱くなった。
前なら絶対に送れなかった。
でも今日は送れた。
春樹から返る。
『うん』
いつもの二文字。
けれど、今日のその二文字は、夕方への約束みたいに見えた。
◇
午後。
なつきは浴衣の入った袋を持って、亜衣と茜との待ち合わせ場所へ向かった。
夏の日差しは強かった。
夕方には少し涼しくなるだろうか。
そんなことを考えながら歩く。
浴衣の袋はそれほど重くない。
でも、なつきにはずっしり感じられた。
この中に、今日の緊張が全部入っているみたいだった。
駅近くの着付けスペースの前には、すでに亜衣がいた。
赤系の浴衣の袋を持ち、明るい顔で手を振っている。
「なつき!」
「亜衣ちゃん」
「いよいよだね」
「うん……」
「顔がすでに祭り前じゃなくて告白前みたい」
「やめて」
なつきが赤くなると、亜衣は楽しそうに笑った。
「でも大丈夫。今日のなつきは絶対かわいい」
「何回言うの」
「何回でも言う。必要だから」
「必要?」
「なつきはすぐ不安になるから、先にいっぱい言っておく」
その言葉が、思ったより優しかった。
なつきは少し目を伏せる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
少し遅れて茜も来た。
紺色の浴衣の袋を持っている。
今日も落ち着いているが、どこかいつもより柔らかい雰囲気だった。
「二人とも早いわね」
「茜ちゃん」
「なつき、緊張してる?」
「してる」
「でしょうね」
茜は苦笑しながらも、優しく言った。
「でも大丈夫。ちゃんと似合うわ」
「うん……」
「それに、今日の目的は春樹くんに褒められることだけじゃないでしょう?」
なつきは頷いた。
「楽しむこと」
「そう」
亜衣が横から言う。
「でも褒められたら全力で喜ぶこと」
「それはそれで大事ね」
「茜ちゃんも認めた!」
なつきは二人を見て笑った。
緊張は消えない。
でも、二人がいるとちゃんと息ができる。
三人で着付けスペースへ入った。
中には同じように祭りへ向かう人達が何人かいて、色とりどりの浴衣が広げられていた。
空気が一気に祭り前のものになる。
布の擦れる音。
着付けをする人の声。
髪をまとめる音。
鏡の前で笑う女子達。
誰かの「かわいい」という声。
その全部が、なつきの胸をまた高鳴らせた。
「本当に祭りなんだ……」
なつきが呟くと、亜衣が頷く。
「祭りです」
茜が微笑む。
「まず着替えましょう」
薄紫の浴衣を広げる。
小さな白い花が、布の上に静かに咲いている。
なつきは指先でそっと触れた。
柔らかな色。
春樹が「横田さんっぽい」と言ってくれた色。
その言葉を思い出すと、胸の中に小さな灯りがともる。
着付けは、思ったより大変だった。
普段の服とは違う。
布を重ね、帯を締め、形を整える。
少し動くだけで崩れそうな気がして、なつきは何度も体を固くした。
「なつき、肩に力入りすぎ」
亜衣が笑う。
「だって、崩れそうで」
「大丈夫。ちゃんと着付けてもらってるから」
茜も言う。
「歩く時は少し小さめの歩幅ね」
「うん」
「走らない」
「走らないよ」
「春樹くんを見て逃げない」
「茜ちゃん!」
なつきが思わず声を上げると、亜衣が吹き出した。
「茜ちゃん、たまに鋭いよね」
「必要な注意よ」
「逃げない……たぶん」
なつきは小さく言った。
亜衣がすかさず反応する。
「たぶん?」
「努力します」
「よろしい」
鏡の前に立った時、なつきは言葉を失った。
薄紫の浴衣。
白い小さな花。
帯は淡い白に近い色で、全体が柔らかくまとまっている。
髪は少しだけまとめてもらい、買った白い花の髪飾りが横に添えられていた。
鏡の中の自分は、いつもの自分ではなかった。
でも、まったく知らない自分でもなかった。
少し背伸びしている。
でも無理をしているわけではない。
自分の中にあった柔らかい部分が、浴衣で少し見えるようになった気がした。
「……私?」
思わず呟く。
亜衣が隣から覗き込む。
「なつきです」
「すごい……」
「かわいい」
茜も鏡の中のなつきを見て、静かに微笑んだ。
「本当に似合ってるわ」
「ありがとう……」
なつきは鏡から目を離せなかった。
春樹は、どう思うだろう。
また、似合ってると言ってくれるだろうか。
その想像だけで、胸がいっぱいになる。
けれど同時に、今は少しだけ自分でも思えた。
悪くない。
今日の自分は、少しだけ前を向ける。
亜衣は赤系の浴衣で、明るく元気な雰囲気がさらに増していた。
「亜衣ちゃん、すごく似合う」
「ほんと?」
「うん。亜衣ちゃんらしい」
「よし!」
茜は紺色の浴衣に白い花。
落ち着いていて、凛としている。
「茜ちゃん、大人っぽい」
「ありがとう」
亜衣も頷く。
「茜ちゃん、絶対周り見振り返る」
「大げさよ」
「大げさじゃない」
三人で鏡の前に並ぶ。
それだけで、いつもの女子会とは違う特別感があった。
亜衣がスマホを構える。
「写真撮ろう」
「うん」
三人で一枚。
なつきは少しぎこちなく笑った。
でも、写真の中の自分はちゃんと嬉しそうだった。
「春樹くんに送る?」
亜衣が聞く。
「送らない!」
「ですよね」
「当日のお楽しみって言ったでしょ」
「そうだった」
茜が小さく笑う。
「集合場所で見てもらいましょう」
なつきの心臓がまた跳ねた。
集合場所。
あと少し。
この姿で、春樹に会う。
◇
集合時間が近づくにつれ、なつきの足取りは少しずつぎこちなくなった。
浴衣で歩くのに慣れていないせいもある。
下駄ではなく歩きやすい履物にしたけれど、それでも普段とは違う。
でも一番の理由は、もうすぐ春樹に会うからだった。
駅へ向かう道には、同じように祭りへ行く人達が増えていた。
浴衣の女子。
甚平の男子。
家族連れ。
屋台へ向かう子ども達。
まだ会場には着いていないのに、駅周辺はすでに祭りの空気を帯びている。
どこかで太鼓の音が聞こえた。
提灯の準備をしている人達も見える。
夕方の空は、少しずつ青から橙へ向かっていた。
「なつき」
亜衣が横から小声で言う。
「呼吸してる?」
「してる」
「顔が緊張してる」
「してるから」
「春樹くん、たぶん固まるよ」
「固まらないよ」
「いや、固まらなくても一秒くらい止まる」
「それ、分かるの?」
「分かる」
茜が言う。
「春樹くんがどう反応しても、なつきはありがとうって言うのよ」
「うん」
「逃げない」
「うん」
「俯きすぎない」
「……努力します」
亜衣が笑う。
「今日のなつき、注意事項多い」
「だって」
なつきは小さく息を吐いた。
心臓が本当に忙しい。
でも、逃げたいわけではない。
むしろ、早く見てほしい気持ちもある。
それが自分でも不思議だった。
恥ずかしい。
でも見てほしい。
怖い。
でも会いたい。
恋は、こんなに矛盾している。
集合場所が見えてきた。
駅前の広場。
そこには、すでに何人かがいた。
圭が目立った。
甚平姿だった。
本当に買ったらしい。
紺色の甚平で、本人の明るい雰囲気と妙に合っている。
その隣に紅秋。
紅秋は私服だが、いつもより少し落ち着いた夏らしい服装で、スマホを見ながら時間を確認している。
蓮もいた。
すっきりとした私服で、祭りの人混みにも自然に馴染んでいる。
そして。
春樹。
なつきは、一瞬足を止めた。
春樹は私服だった。
落ち着いた色のシャツに、夏らしい軽い服装。
派手ではない。
でも、春樹らしい。
海の時とはまた違う、夕方の祭りに向かう春樹。
なつきの胸が大きく鳴る。
その時、圭がこちらに気づいた。
「おー!」
叫びかけて、紅秋に視線で止められる。
圭は少し声を抑えた。
「女子組、浴衣だ!」
蓮が振り返り、目を細めて笑った。
「すごいね。みんな似合ってる」
紅秋も少しだけ姿勢を正した。
「……似合っていると思う」
亜衣がにやりとする。
「紅秋くん、今ちょっと照れた?」
「照れていない」
「浴衣でもそれ言うんだ」
「事実だ」
圭は亜衣を見て親指を立てた。
「亜衣、赤めっちゃ似合う!」
「ありがと! 圭くんも甚平似合ってる!」
「だろ!?」
茜が紅秋へ軽く会釈する。
「ありがとう。紅秋くんも、今日は雰囲気が違うわね」
「そうかな」
「ええ。落ち着いていていいと思う」
紅秋は少しだけ目を逸らした。
「……ありがとう」
圭がそれを見て肩を震わせる。
「紅秋、照れてる」
「圭」
「はい」
そのやり取りの横で、なつきはまだ春樹を見る勇気を集めていた。
春樹は、なつきを見ていた。
ちゃんと。
視線が合う。
空気が一瞬、少しだけ静かになった気がした。
実際には駅前は騒がしい。
人の声も、車の音も、祭りへ向かう足音もある。
でも、なつきの中では、春樹の視線だけがはっきりしていた。
「横田さん」
春樹が言った。
なつきは息を止める。
「はい」
春樹は少しだけ間を置いた。
その一秒が、とても長かった。
そして、いつものように短く言った。
「似合ってる」
なつきの胸が、いっぱいになった。
やっぱり言ってくれた。
でも、分かっていても、何度想像していても、実際に言われると全然違った。
薄紫の浴衣を選んでよかった。
髪飾りをつけてよかった。
逃げずに来てよかった。
そう思った。
「……ありがとう」
声は小さかった。
でも、ちゃんと顔を上げて言えた。
春樹は頷く。
「うん」
それだけ。
それだけなのに、もう十分だった。
亜衣が後ろで口元を押さえている。
茜は優しく見守っている。
圭は何か言いたそうにしているが、紅秋に肩を押さえられている。
蓮は穏やかに笑っている。
なつきは、顔が熱くなるのを感じながらも、逃げなかった。
俯きすぎない。
ありがとうと言う。
できた。
春樹が少しだけ付け加えた。
「薄紫、横田さんっぽい」
なつきはもう一度、胸が鳴った。
メッセージと同じ言葉。
でも、直接聞くと、何倍も強かった。
「……春樹くんが、そう言ってくれたから」
思わず、口から出た。
言ってから、なつきは固まる。
今のは、かなり恥ずかしい。
春樹が少し首を傾げる。
「俺?」
「う、うん」
「そう」
春樹は少しだけ考えた。
それから、静かに言った。
「選んでよかったと思う」
なつきは言葉を失った。
春樹の言葉は、いつも短い。
でも今日のそれは、優しかった。
なつきは胸の前で手を握り、小さく頷いた。
「うん」
圭がついに我慢できず、小声で叫んだ。
「青春!」
紅秋が即座に言う。
「声」
「小声!」
亜衣が隣で笑う。
「圭くん、分かる」
「だろ?」
茜が苦笑する。
「二人とも、そろそろ移動しましょう。美優さんと祐衣さんも合流するんでしょう?」
その言葉で、なつきは少し現実に戻った。
そうだ。
まだ全員揃っていない。
美優と祐衣は、会場近くで合流する予定だった。
夏祭りはこれから。
今日は、まだ始まったばかり。
それなのに、もう胸がいっぱいだった。
◇
会場へ向かう道は、すでに祭りの空気で満ちていた。
提灯が並び、屋台の匂いが少しずつ近づいてくる。
焼きそば。
たこ焼き。
甘い綿あめ。
りんご飴。
人の声。
子どもの笑い声。
遠くから聞こえる太鼓の音。
夕方の街が、いつもと違う顔をしている。
なつきは、春樹の少し隣を歩いていた。
近すぎない。
でも、離れすぎてもいない。
浴衣だから歩幅が小さい。
それに合わせるように、春樹の歩く速度が少しゆっくりになっている気がした。
気のせいかもしれない。
でも、なつきはそう感じた。
「横田さん」
「うん?」
「歩きにくい?」
「少し。でも大丈夫」
「無理しないで」
「うん」
そんな短いやり取りだけで、また胸が温かくなる。
春樹はちゃんと気づいてくれる。
それが嬉しい。
前を歩く圭と亜衣は、すでに屋台の話で盛り上がっていた。
「最初何食べる!?」
「たこ焼き!」
「焼きそば!」
「両方!」
「圭くん、気が合う!」
紅秋が後ろから言う。
「最初から食べすぎるなよ」
茜も続ける。
「歩きながら食べるものはこぼさないようにね」
「先生が二人!」
圭と亜衣が同時に叫ぶ。
蓮が笑う。
「この組み合わせ、やっぱり安定してるね」
春樹が短く言う。
「うん」
なつきも笑った。
みんながいる。
春樹が隣にいる。
浴衣を褒めてもらえた。
そして、夏祭りはこれから。
人混みの向こうに、提灯の明かりが少しずつ灯り始めていた。
なつきは薄紫の袖をそっと握る。
緊張はまだある。
でも、それ以上に楽しみだった。
君の隣を目指す夏。
夜の祭りは、まだ始まったばかりだった。




