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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第81話 浴衣選びは、心臓に悪い



 夏祭りまで、あと数日。


 なつきの頭の中は、宿題よりも浴衣でいっぱいだった。


 机の上には、読書感想文のノートが開かれている。


 春樹に「いいと思う」と言ってもらえたメモ。


 そこから文章にまとめる作業をしなければならない。


 分かっている。


 分かっているのに、ペンが止まる。


 理由はひとつだった。


 ――見られるの、楽しみにしてる。


 宿題会の帰り際。


 春樹が、あまりにも普通に言った言葉。


 あれからずっと、その一言がなつきの中で反響していた。


「……無理」


 なつきは机に額をつけた。


 春樹は、きっと深い意味で言ったわけではない。


 浴衣を着るかもしれない。


 なら、見るのを楽しみにしている。


 ただそれだけ。


 春樹にとっては、普通の言葉。


 でも、なつきにとっては違う。


 楽しみにしてる。


 春樹くんが。


 私の浴衣を。


 想像するだけで、心臓が落ち着かない。


 スマホが震えた。


 亜衣からだった。


『浴衣会議、本日開催』


 続けて。


『茜も確保済み』


 さらに。


『逃げられません』


 なつきは少し笑った。


 亜衣らしい。


『どこで?』


『駅前。浴衣レンタルも見る。持ってるなら写真確認。髪型も決める』


 髪型。


 そこまで考えていなかった。


 なつきはさらに心臓が忙しくなる。


『髪型も?』


『当然』


『無理』


『無理じゃない』


 茜からもメッセージが来た。


『亜衣が暴走する前に集合しましょう』


 なつきは小さく息を吐いた。


 行くしかない。


   ◇


 駅前で合流した亜衣は、すでに完全に祭りモードだった。


 まだ祭り当日ではない。


 今日も普通の私服だ。


 それなのに、目がきらきらしている。


「浴衣!」


 亜衣が言う。


「声」


 茜がすぐ注意する。


「まだ駅前よ」


「分かってる。でも浴衣」


「分かるけれど落ち着いて」


 なつきは二人を見て笑った。


「おはよう」


「おはよう、なつき」


 茜が微笑む。


「眠れた?」


「少し」


「理由は?」


 亜衣がにやにやしながら聞く。


「……分かってるでしょ」


「春樹くんの『楽しみにしてる』?」


 なつきは顔を赤くした。


「言わないで」


「言うよ。歴史的発言だよ」


「大げさ」


「大げさじゃない」


 茜も少し笑った。


「あれは確かに、なつきには効いたでしょうね」


「茜ちゃんまで」


「でも、嬉しかったでしょう?」


 なつきは少しだけ黙る。


 そして、小さく頷いた。


「嬉しかった」


 素直に言えた。


 亜衣が満足そうに頷く。


「よし。じゃあ今日は、その期待に応える浴衣を選ぼう」


「応えなくていいよ」


「応えるの」


「重い」


「恋は重くない。尊い」


「亜衣ちゃん、変なテンション」


 茜が言う。


「まず現実的に見ましょう。持っている浴衣があればそれを使うのが一番だけれど、足りない小物や髪飾りもあるかもしれないわ」


「茜ちゃん、頼れる」


「亜衣が勢いだけだから」


「否定できない」


 三人は駅ビルの和小物を扱う店へ向かった。


 店内には、夏祭り前らしく浴衣や帯、髪飾りが並んでいた。


 淡い色。


 濃い色。


 花柄。


 金魚柄。


 朝顔。


 紺。


 白。


 薄紫。


 見ているだけで、夏祭りの空気が近づいてくる。


 なつきは、棚に並ぶ浴衣を見て息を飲んだ。


「すごい……」


「かわいいよね」


 亜衣が言う。


「なつきは何色?」


「分からない」


「白系は海でやったから、浴衣は薄紫とかどう?」


「薄紫……」


 茜が一枚を手に取る。


「これなんか、落ち着いていていいと思うわ」


 薄紫の生地に、小さな白い花が散っている浴衣。


 派手すぎない。


 でも、ちゃんと華やか。


 なつきは目を奪われた。


「かわいい」


「うん。なつきに合いそう」


 亜衣も頷く。


「これは春樹くん、言うね」


「何を?」


「似合ってる」


「亜衣ちゃん!」


「だって言うでしょ。あの人、言うよ」


 否定できなかった。


 春樹は思ったことを言う。


 髪留めも。


 水着も。


 そしてきっと、浴衣も。


 なつきは浴衣を見つめたまま、また顔が熱くなる。


 茜が優しく言った。


「なつきが着たいと思うものを選ぶのが一番よ」


「うん」


「春樹くんにどう見られるかも気になると思うけれど、まずは自分が好きだと思えるか」


 なつきは、その言葉をゆっくり受け止めた。


 自分が好きだと思えるか。


 海の水着の時もそうだった。


 最初は春樹にどう見られるかばかり考えていた。


 でも、着てみて分かった。


 自分が楽しめることも大事だ。


「これ、好きかも」


 なつきは小さく言った。


 薄紫の浴衣を見つめながら。


「じゃあ決まり候補」


 亜衣が嬉しそうに言う。


「まだ候補だよ」


「でもかなり強い」


 その後、亜衣は明るい赤系の浴衣に目を輝かせ、茜は紺地に白い花の落ち着いた浴衣を手に取った。


 三人それぞれ、似合う色が違う。


 それが楽しかった。


 試着できるコーナーで、簡易的に羽織ってみることになった。


 なつきは薄紫の浴衣を肩にかけてもらい、鏡の前に立つ。


 制服でもない。


 夏服でもない。


 水着でもない。


 浴衣。


 鏡の中の自分は、いつもより少しだけ大人っぽく見えた。


 なつきは息を止める。


「……変じゃない?」


 亜衣が即答する。


「めちゃくちゃかわいい」


 茜も微笑む。


「よく似合ってるわ」


「本当?」


「ええ」


 亜衣がスマホを構えようとする。


「写真撮っていい?」


「えっ」


「春樹くんには送らないから」


「絶対?」


「送らない。祭り当日のお楽しみにする」


「その言い方が怖い」


 茜が笑う。


「記録用ならいいんじゃない?」


 なつきは少し迷って頷いた。


「じゃあ、一枚だけ」


 亜衣が写真を撮る。


 なつきはぎこちなく笑った。


 写真を確認すると、自分でも少し驚いた。


 ちゃんと浴衣を着ている自分。


 少し照れているけれど、悪くない。


「なつき」


 亜衣が画面を見ながら言う。


「これは勝てる」


「何に?」


「春樹くんの心臓」


「勝たなくていい!」


 なつきは一瞬で赤くなる。


 茜が苦笑した。


「でも、本当に似合っているわ。自信を持っていいと思う」


「……うん」


 自信。


 少しだけ。


 本当に少しだけなら、持ってもいい気がした。


   ◇


 浴衣を見た後は、髪飾りだった。


 これがまた難しかった。


 小さな花飾り。


 揺れる飾り。


 簪風のもの。


 リボン。


 どれも可愛い。


 可愛いけれど、選べない。


「なつきはこれ」


 亜衣が薄い白花の髪飾りを持ってきた。


「浴衣と合わせるなら、控えめだけどちゃんと華やか」


 茜も頷く。


「いいと思うわ」


「亜衣ちゃん、こういうの選ぶの上手だね」


「恋する女子の装備選びは得意です」


「装備って」


「春樹くん戦に挑むから」


「戦わない」


「挑むでしょ」


「……少し」


「素直!」


 三人で笑った。


 その時、なつきのスマホが震えた。


 グループチャットだった。


 圭。


『男子組、祭りの服どうする問題発生』


 続けて写真。


 圭が甚平風の服を店で持っている写真だった。


 紅秋からすぐ返信。


『買うなら予算を考えろ』


 蓮。


『似合いそうだけどね』


 春樹。


『圭っぽい』


 圭。


『春樹に言われると買いたくなる!』


 美優。


『圭くん似合いそう』


 亜衣がそれを見て笑った。


「男子組もやってる」


「圭くん、楽しそう」


 茜が言う。


「紅秋くんが大変そうね」


 なつきはチャットを見ていた。


 春樹の文字。


 圭っぽい。


 短い感想。


 でも、ちゃんと見て言っているのが分かる。


 なつきは少し迷ってから、グループに返信した。


『圭くん、似合いそう』


 すぐに圭。


『なつきにも言われた!買うか!?』


 紅秋。


『勢いで買うな』


 亜衣。


『買っちゃえー!』


 紅秋。


『煽るな』


 茜。


『必要なら買えばいいと思うけれど、予算内でね』


 圭。


『茜さんまで現実!』


 グループチャットが賑やかになる。


 なつきは笑いながら見ていた。


 すると、春樹から個別メッセージが来た。


『浴衣、決まった?』


 心臓が跳ねた。


 なつきはスマホを両手で持つ。


『まだ候補だけど、薄紫の浴衣を見てる』


 送信。


 春樹。


『横田さんっぽい』


 なつきは固まった。


 横田さんっぽい。


 それは、どういう意味だろう。


 似合いそうという意味だろうか。


 なつきは少し迷って返信する。


『そうかな』


 春樹。


『うん。柔らかい感じ』


 なつきはスマホを胸に抱えた。


 柔らかい感じ。


 春樹が、自分にそう言ってくれた。


 直接ではない。


 画面越し。


 でも、十分すぎる。


 亜衣が横から覗き込む。


「なつき、春樹くん?」


「見ないで!」


「顔が完全に春樹くん」


 茜も少し笑った。


「何て?」


 なつきは恥ずかしそうに画面を見せた。


 亜衣は口元を押さえる。


「これは強い」


 茜も優しく微笑む。


「よかったわね」


「うん……」


 なつきは小さく頷いた。


 もう、薄紫で決まりかもしれない。


 春樹に横田さんっぽいと言われた浴衣。


 それを着たいと思ってしまう。


 単純だ。


 でも、嬉しいものは嬉しい。


   ◇


 買い物の後、三人はカフェに入った。


 テーブルの上には、それぞれの飲み物と、浴衣小物の袋。


 なつきは薄紫の浴衣をレンタル予約し、髪飾りも購入した。


 亜衣は明るい赤系。


 茜は紺色。


 それぞれの浴衣が決まった。


「祭り、楽しみになってきた」


 亜衣が言う。


「最初から楽しみにしてたでしょ」


 なつきが返す。


「さらに」


 茜が紅茶を飲みながら言う。


「当日は歩きやすい履物にしないとね。浴衣は思ったより疲れるから」


「茜ちゃん、最後まで現実」


「大事よ」


「でも助かる」


 なつきは髪飾りの袋を見つめる。


 これをつけて、浴衣を着て、夏祭りへ行く。


 春樹に会う。


 想像すると、また胸が跳ねる。


 亜衣がにやにやする。


「なつき、当日は春樹くんに何て言う?」


「何て?」


「浴衣、どうかなって聞く?」


「聞けない!」


「じゃあ黙って見せる?」


「それも無理」


「じゃあ春樹くんが言うの待ち?」


 なつきは小さくなる。


「……たぶん」


「まあ、言うよね」


 茜が笑う。


「春樹くんなら、自然に言いそうね」


「うん」


 なつきは俯きながら、でも口元を少し緩めた。


 楽しみ。


 怖い。


 恥ずかしい。


 でもやっぱり楽しみ。


「なつき」


 茜が言う。


「海の時みたいに、ちゃんと楽しむことも忘れないでね」


「うん」


「春樹くんの反応だけが目的になってしまうと、緊張しすぎるから」


「そうだね」


 海の時もそうだった。


 春樹にどう見られるかばかり考えていたけれど、実際に行ってみたら、みんなで過ごす時間そのものが楽しかった。


 夏祭りもきっとそうだ。


 屋台。


 花火。


 人混み。


 友達。


 そして春樹。


 全部含めて楽しみたい。


「でも」


 亜衣が笑う。


「褒められたら、ちゃんと喜んでいいからね」


 なつきは赤くなりながら頷いた。


「うん」


   ◇


 帰り道。


 なつきは駅前で二人と別れ、家へ向かって歩いた。


 袋の中には髪飾り。


 スマホには春樹とのメッセージ。


『横田さんっぽい』

『柔らかい感じ』


 その言葉を何度も見返してしまう。


 見返すたびに、胸の奥が温かくなる。


 家に帰ってから、なつきは鏡の前で髪飾りをそっと当ててみた。


 白い小さな花。


 薄紫の浴衣にきっと合う。


 春樹はどう思うだろう。


 また、似合ってると言ってくれるだろうか。


 考えると顔が熱くなる。


 でも、今日は逃げずに鏡を見た。


 自分の顔。


 少し照れている。


 でも、前より楽しそうに見える。


「楽しみ」


 なつきは小さく言った。


 春樹の反応も。


 みんなとの祭りも。


 浴衣を着る自分も。


 全部。


 スマホが震えた。


 春樹からだった。


『祭り、楽しみだね』


 なつきは息を止めた。


 春樹から。


 先に。


 楽しみだね、と。


 なつきはしばらく画面を見つめ、それからゆっくり返信した。


『うん。すごく楽しみ』


 少し迷って、もう一文。


『浴衣も、楽しみにしててね』


 送ってから、なつきは顔を真っ赤にした。


 送ってしまった。


 自分から。


 楽しみにしててね、と。


 スマホを握りしめる。


 数秒後。


 春樹から返事。


『うん。楽しみにしてる』


 なつきはその場にしゃがみ込んだ。


 もう無理だった。


 でも、嬉しかった。


 浴衣選びは、心臓に悪い。


 けれど、夏祭りが近づくたびに、なつきの胸は確かに前を向いていた。


 君の隣を目指す夏。


 次の舞台は、夜の祭り。


 薄紫の浴衣と、小さな白い花を持って。


 なつきはまた一歩、春樹の隣へ近づこうとしていた。

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