第80話 宿題会と、浴衣という新たな難題
海の写真を見返すたびに、なつきの胸は少しだけ忙しくなる。
集合写真。
女子五人の写真。
飲み物を買いに行った時の写真。
そして、春樹からのメッセージ。
――また行きたい。
それだけで、夏がまだ続いていることを強く感じた。
けれど、夏は楽しいだけではない。
机の上には、夏休みの宿題があった。
「……現実」
なつきは小さく呟いた。
今日は宿題会だった。
海のあと、次は夏祭りへ行きたいという話になった。
圭と亜衣はすぐに盛り上がり、蓮も美優も祐衣も前向きだった。
春樹も「人多そう」と言いながら、否定はしなかった。
だから、ほぼ行く流れになっている。
ただし。
紅秋と茜から条件が出た。
宿題を進めてから。
それは正しい。
正しすぎる。
だから今日は、市立図書館で宿題会。
なつきは鞄にワークと読書感想文用の本、ノート、筆記用具を入れた。
そして、少しだけ迷ってスマホを見た。
春樹とのメッセージ画面。
『本、進んだ?』
『少し。感想文のメモも書いたよ』
『見たい』
『恥ずかしい。でも、今度少しだけなら』
『うん。楽しみにしてる』
楽しみにしてる。
その文字を思い出すだけで、胸が熱くなる。
今日は春樹に、少しだけメモを見せるかもしれない。
恥ずかしい。
でも、見てほしい。
そんな気持ちが混ざっていた。
◇
図書館に着くと、すでに亜衣と茜がいた。
亜衣は机に突っ伏している。
始まる前から終わっていた。
「亜衣ちゃん?」
なつきが声をかける。
「浴衣」
「え?」
「浴衣って、難しくない?」
なつきの心臓が跳ねた。
宿題より先に、浴衣の話だった。
茜がため息をつく。
「朝からずっとこれなの」
「だって夏祭りだよ? 浴衣着たいじゃん。でも着たら着たで大変じゃん。歩きにくいし、暑いし、でも可愛いし」
「気持ちは分かるけれど、今日は宿題会よ」
「分かってる。でも浴衣が頭から離れない」
なつきは席に座りながら、少しだけ想像してしまった。
浴衣。
夏祭り。
夜。
屋台の明かり。
春樹くん。
もし浴衣で会ったら、春樹は何と言うだろう。
似合ってる。
海の時みたいに、短く言ってくれるだろうか。
想像した瞬間、顔が熱くなった。
「なつき」
亜衣が顔を上げる。
「今、春樹くんに浴衣褒められる想像した」
「してない」
「した」
「……少し」
「素直!」
茜が微笑む。
「海で一歩進んだから、少し自信がついたのかもしれないわね」
「自信……あるのかな」
「少なくとも、前よりは前向きよ」
なつきは鞄から本を取り出しながら、小さく頷いた。
たしかに、前なら浴衣なんて考えるだけで逃げ出したくなったかもしれない。
でも今は違う。
恥ずかしい。
緊張する。
でも、着てみたい。
春樹に見てもらいたい。
そう思ってしまう。
その自分を、もう完全には否定しなかった。
しばらくして、春樹達もやって来た。
春樹、紅秋、圭。
圭は入ってくるなり、声を出しかけて紅秋に止められた。
「ここは図書館だ」
「分かってる」
「今、叫びそうだった」
「夏祭りの話したかっただけ」
「宿題が先だ」
「紅秋、夏でも門番」
春樹がなつきの隣へ来る。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「本、持ってきた?」
「うん」
「メモも?」
なつきは一瞬固まる。
覚えていた。
「……少しだけ」
「見てもいい?」
「あとで」
「うん」
春樹は普通に頷いた。
それだけなのに、なつきの胸は落ち着かない。
圭が向かい側に座りながら小声で言う。
「春樹、本の話になると距離近いな」
紅秋が即座に見る。
「余計なことを言うな」
「まだ小声」
「内容の問題だ」
亜衣が笑いをこらえる。
「圭くん、言いたいことは分かる」
「だろ?」
茜が静かに言う。
「二人とも、宿題を出しましょう」
「はい」
「はい」
宿題会が始まった。
最初の一時間は、ワーク。
茜と紅秋が事前に決めた。
夏祭りの話は休憩時間。
それまでは宿題。
圭と亜衣は何度も何かを言いかけ、そのたびに止められた。
「紅秋」
「何だ」
「夏祭りってさ」
「ワーク」
「はい」
「茜ちゃん」
「何?」
「浴衣ってさ」
「英語」
「はい」
なつきは笑いそうになりながらも、自分のワークを進めた。
春樹が隣にいる。
時々、分からないところを聞く。
春樹は短く教えてくれる。
その距離が、もう少しずつ日常になってきている。
でも、ふとした瞬間に心臓が跳ねる。
海の写真。
似合ってる。
楽しかったね。
その記憶がまだ新しいからだ。
「横田さん」
「うん?」
「ここ、前にも似た問題やった」
「あ、本当だ」
「できると思う」
「やってみる」
春樹の「できると思う」は、なつきの背中を押してくれる。
なつきは問題を解き、答えを確認した。
「合ってる?」
春樹が見る。
「うん」
「やった」
「できてる」
なつきは小さく笑った。
「ありがとう」
「横田さんが解いたから」
その言葉に、また胸が温かくなる。
期末の時から、春樹は何度もそう言ってくれる。
自分が頑張ったから。
自分でできたから。
その言葉が、なつきに少しずつ自信をくれていた。
◇
一時間が経つと、圭が机に倒れた。
「休憩!」
「まだ言ってない」
紅秋が言う。
「心が先に休憩した」
「戻せ」
亜衣も背中を伸ばす。
「私の心も休憩に入りました」
茜が時計を見る。
「まあ、時間ね」
「やった!」
図書館の外のベンチへ移動する。
今日は曇り気味で、外でも少し過ごしやすかった。
亜衣が飲み物を開けながら、待ちきれない様子で言う。
「夏祭り!」
圭も同時に言う。
「祭り!」
二人は顔を見合わせた。
「気が合うね」
「祭りだからな」
紅秋がスマホを出す。
「日程は来週の土曜日。駅周辺の夏祭り。夕方から夜。花火は小規模だがあるらしい」
茜も確認する。
「混雑するから、集合場所は駅の東口側がいいかもしれないわね」
「運営コンビ、もう調べてる」
亜衣が言う。
「助かります」
圭も頭を下げる。
「今回は夜だから、帰り時間も決めておくべきだな」
紅秋が言う。
茜も頷く。
「保護者に伝える時間もあるし」
「真面目」
亜衣が言う。
「でも大事」
なつきは黙って話を聞いていた。
夏祭り。
夕方。
夜。
浴衣。
花火。
春樹。
単語が並ぶだけで胸が忙しい。
春樹は隣でお茶を飲んでいる。
祭りに対して、特別はしゃいでいる様子はない。
でも、嫌そうでもない。
「春樹くん」
なつきは思い切って声をかけた。
「何?」
「夏祭り、行く?」
「うん」
「人、多そうだけど」
「多そう」
「大丈夫?」
春樹は少し考えた。
「みんながいるなら」
その言葉に、なつきは胸が温かくなる。
「そっか」
「横田さんは?」
「行きたい」
なつきは素直に言った。
「みんなで行けたら、楽しそうだから」
春樹は頷いた。
「うん」
そのやり取りを、亜衣が見逃すはずがなかった。
「なつき、今のいい」
「何が?」
「自然に誘った」
「誘ったわけじゃ」
「行く?って聞いたじゃん」
「それは……」
茜が優しく言う。
「自分から聞けたわね」
なつきは少し赤くなった。
でも、嬉しかった。
自分でも気づかないうちに、春樹へ自然に話しかけられる場面が増えている。
それが小さな成長のように思えた。
圭が急に言う。
「浴衣組いる?」
その一言で、なつきの心臓が跳ねた。
亜衣がすぐ手を上げる。
「着たい!」
茜も少し考える。
「せっかくなら着てもいいかもしれないわね」
「茜ちゃん絶対似合う」
「ありがとう」
圭が春樹を見る。
「春樹、女子が浴衣だったらどうする?」
紅秋が圭の肩を掴む。
「質問の仕方」
「普通に聞いただけ!」
春樹は少し首を傾げた。
「似合ってたら、似合ってるって言う」
なつきは固まった。
亜衣が口元を押さえる。
茜も少し笑う。
圭は天を仰いだ。
「春樹、それを普通に言うのがすげぇ」
「そう?」
「そう!」
紅秋がため息を吐く。
「大國……春樹はそういうところがある」
「紅秋くんも言い直し慣れてきたね」
亜衣が言うと、紅秋は少しだけ目を逸らした。
「慣れてきただけだ」
なつきは春樹の言葉を頭の中で何度も反芻していた。
似合ってたら、似合ってるって言う。
海の時もそうだった。
髪留めも。
水着も。
春樹は、思ったことをそのまま言う。
もし浴衣を着て行ったら。
また、言ってくれるだろうか。
似合ってる、と。
考えただけで無理だった。
でも、着たいと思ってしまった。
◇
休憩後の後半は、読書感想文のメモだった。
なつきは少し緊張しながら、ノートを開いた。
春樹が隣で見る。
「見てもいい?」
「少しだけなら」
なつきはノートをずらした。
メモには、物語の感想と、自分の気持ちが少し混ざっている。
『少しずつ変わる気持ちは、自分では分かりにくい』
『あとから写真を見返した時に、距離が変わっていることに気づくこともある』
『私は、少しずつでも自分から近づける人になりたい』
春樹は静かに読んだ。
なつきは恥ずかしくて、顔を上げられなかった。
何を思っているのだろう。
変だと思われないだろうか。
本の感想というより、自分のことを書きすぎているかもしれない。
春樹はしばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じる。
そして、短く言った。
「いいと思う」
なつきは顔を上げた。
「本当?」
「うん」
「変じゃない?」
「変じゃない」
春樹はノートを見ながら言った。
「横田さんの言葉って感じがする」
胸が、静かに熱くなった。
自分の言葉。
そう言ってもらえた。
「……ありがとう」
「うん」
「春樹くんに見せるの、緊張した」
「そう?」
「うん」
「でも、見せてくれてありがとう」
なつきは言葉を失った。
春樹は普通にそう言った。
けれど、なつきにはとても大きかった。
見せてくれてありがとう。
自分の言葉を受け取ってもらえた気がした。
亜衣が向こうで何かを察している顔をしている。
圭も気づきかけている。
紅秋が小さく首を振った。
今は邪魔するな、という合図のようだった。
茜は静かに微笑んでいた。
なつきはノートをそっと自分の方へ戻した。
このメモで、感想文を書こう。
自分の言葉で。
そう思えた。
◇
宿題会が終わる頃には、夏祭りの日程もほぼ決まっていた。
来週の土曜日。
夕方五時に水戸駅集合。
浴衣は着たい人だけ。
帰り時間はそれぞれ家に確認。
蓮、美優、祐衣にもグループチャットで連絡することになった。
図書館を出ると、外は少し夕方の色になっていた。
「浴衣かー」
亜衣が伸びをしながら言う。
「楽しみ!」
圭が言う。
「俺は何着ればいいんだ?」
紅秋が答える。
「普通の私服でいいだろう」
「甚平とか?」
「持っているのか?」
「ない」
「なら私服だ」
「現実!」
茜が笑う。
「浴衣組は歩きやすさも考えないとね」
「茜ちゃん、着る?」
「たぶん」
「なつきは?」
亜衣がにやりと見る。
なつきは少しだけ黙った。
春樹の言葉が頭にある。
似合ってたら、似合ってるって言う。
着たい。
でも恥ずかしい。
それでも。
「……着たいかも」
小さく言うと、亜衣が目を輝かせた。
「よし!」
茜も優しく頷く。
「いいと思うわ」
春樹が少し離れたところで聞いていたのか、こちらを見る。
「浴衣?」
なつきは心臓が跳ねた。
「う、うん。まだ分からないけど」
「そう」
春樹は少しだけ頷いた。
「見られるの、楽しみにしてる」
なつきは完全に固まった。
春樹は何も特別なことを言ったつもりではないのだろう。
ただ、自然に言っただけ。
でも、その破壊力は大きすぎた。
「……はい」
なつきは小さく返すのが精一杯だった。
圭が両手で口を押さえている。
亜衣も同じ顔をしている。
紅秋が二人の肩を同時に掴んだ。
「何も言うな」
「言わない!」
「言わないけど!」
茜が小さく笑っている。
なつきは顔を熱くしたまま、空を見上げた。
夏祭り。
浴衣。
春樹くんが、楽しみにしてる。
もう、着るしかない気がした。
宿題会のはずだったのに、帰る頃には頭の中が浴衣でいっぱいになっていた。
君の隣を目指す夏。
海の次は、夜の祭り。
また一つ、胸が忙しくなる予定が増えた。




