第79話 写真の中の、夏の距離
海へ行った翌日。
なつきは、少しだけ遅く目を覚ました。
体が重い。
足にほんの少し疲れが残っている。
腕も、肩も、昨日の海の感覚をまだ覚えていた。
波の冷たさ。
砂浜の熱。
潮風。
春樹の声。
似合ってる。
楽しかったね。
また来たいね。
その言葉を思い出した瞬間、なつきは布団の中で顔を覆った。
「……朝から無理」
けれど、嫌ではなかった。
胸の奥がずっと温かい。
昨日は、本当に楽しかった。
みんなで行った海。
水着。
写真。
飲み物を買いに行った時間。
春樹に支えてもらった瞬間。
帰り際のありがとう。
全部が、夢ではなく本当にあったことだと思うと、また顔が熱くなる。
スマホが震えた。
グループチャットだった。
圭。
『昨日の写真送るぞー!』
亜衣。
『待ってました!』
圭。
『まず集合写真!』
画像が送られてくる。
なつきは布団の中で画面を開いた。
海を背景に、九人が並んでいる。
圭は大きくピース。
亜衣も同じくらい元気。
紅秋は少し控えめ。
茜は落ち着いて笑っている。
蓮は穏やか。
美優は華やか。
祐衣は少し照れたような笑顔。
春樹は、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
そして、なつき。
少し緊張しているけれど、ちゃんと笑っていた。
春樹の近くにいる。
近すぎない。
でも、同じ写真の中で、同じ海を背にして笑っている。
それだけで胸がいっぱいになった。
亜衣から個別メッセージが来る。
『なつき、春樹くんの隣ではないけど、けっこう近いね』
『見てたの?』
『見るでしょ』
『恥ずかしい』
『保存しなさい』
『もうした』
送ってから、なつきは固まった。
素直に言いすぎた。
亜衣からすぐ返る。
『素直でよろしい』
なつきは布団を被った。
でも、保存したのは本当だった。
そのあとも写真が続いた。
女子五人の写真。
男子四人の写真。
圭と亜衣が水をかけ合っている写真。
紅秋と茜が同時に二人を注意している写真。
祐衣が貝殻を持って笑っている写真。
美優と蓮が波打ち際に立っている写真。
そして。
亜衣が撮ったらしい一枚。
春樹となつきが、自販機から戻ってくるところ。
二人で飲み物の袋を持って歩いている。
何気ない写真。
でも、なつきの息が止まった。
春樹の隣を歩いている。
自分が。
自然に。
少し俯きながら笑っている。
春樹は前を見ているけれど、どこか穏やかな顔をしている。
なつきはその写真を見つめたまま、しばらく動けなかった。
亜衣からメッセージ。
『これ、いい写真でしょ』
なつきは少し迷ってから返す。
『うん』
『保存した?』
『した』
『よし』
茜からも個別で来た。
『昨日、本当に楽しそうだったわね』
『うん。すごく楽しかった』
『春樹くんとも、ちゃんと話せていたわ』
なつきは写真を見ながら返信した。
『自分でもびっくりした』
『一歩ずつね』
『うん』
なつきはスマホを胸に置いた。
昨日の海は終わった。
でも、写真の中に残っている。
それが嬉しかった。
◇
昼過ぎ。
なつきは茜と亜衣に呼ばれて、いつもの駅前カフェにいた。
海翌日の反省会。
亜衣がそう言った。
茜は「反省ではなく振り返りね」と訂正した。
なつきは、たぶんからかわれるだろうと思いながらも、行かない選択肢はなかった。
「はい!」
席に着くなり、亜衣がスマホを机の上に置いた。
「昨日のベストショット発表!」
「やっぱりそうなるんだ」
なつきが言う。
「なるでしょ」
茜が紅茶を置きながら微笑む。
「亜衣が朝から楽しそうだったものね」
「楽しいよ。昨日のなつき、見どころ多すぎ」
「やめて」
「まず髪留め褒められた朝」
「もうそこから?」
「次、水着似合ってる事件」
「事件って言わないで」
「そして支えられ事件」
「亜衣ちゃん」
「飲み物買い出し二人歩き事件」
「事件多すぎる」
茜が静かに言う。
「でも、どれも大切な一歩だったと思うわ」
なつきは少し赤くなりながら、アイスティーを見つめた。
「うん……」
「昨日、楽しかった?」
茜が聞く。
なつきは迷わず頷いた。
「楽しかった」
亜衣が少しだけ優しい声で言う。
「春樹くんのことだけじゃなくて?」
「うん」
なつきは昨日を思い出す。
圭と亜衣の水かけ合い。
紅秋と茜の注意。
蓮と美優の穏やかな雰囲気。
祐衣との本の話。
みんなで食べた昼ご飯。
集合写真。
帰りの疲れた空気。
「みんなで行けて、楽しかった」
「いいね」
亜衣が笑う。
「でも春樹くんも?」
「……うん」
「よし」
なつきは赤くなりながらも、もう否定しなかった。
「春樹くんとも話せて、嬉しかった」
口に出すと、また胸が温かくなった。
茜が静かに頷く。
「ちゃんと言えるようになったわね」
「まだ恥ずかしいけど」
「恥ずかしくても言えるのは、すごいことよ」
「うん」
亜衣がスマホを操作して、自販機帰りの写真を見せた。
「これ、本当にいい」
なつきは画面を見る。
やっぱり胸が跳ねる。
「いつ撮ったの?」
「戻ってくる時」
「全然気づかなかった」
「自然な顔してたよ」
「そうかな」
「うん。春樹くんの隣にいるのに、前より固まってない」
茜も写真を見て言った。
「確かに。自然ね」
自然。
その言葉が嬉しかった。
春樹の隣で自然にいられる。
それは、なつきがずっと目指していることだった。
「まだまだだけど」
なつきは小さく言う。
「でも、少し近づけた気がする」
亜衣と茜は、同時に優しく笑った。
「うん」
「近づいてるわ」
カフェの中は涼しい。
窓の外には夏の光。
昨日の海とは違うけれど、まだ体のどこかに潮風が残っているような気がした。
「次」
亜衣が急に身を乗り出す。
「夏祭り行きたい」
「もう次?」
なつきが笑う。
「夏は短い」
茜が言う。
「予定を詰めすぎるのはよくないけれど、夏祭りはありね」
「花火!」
亜衣の目が輝く。
「浴衣!」
なつきの心臓が跳ねた。
浴衣。
春樹くん。
夜。
夏祭り。
想像しただけで危険だった。
亜衣がすぐに気づく。
「なつき、今想像した」
「してない」
「した」
「……少し」
「素直!」
茜が微笑む。
「浴衣はいいわね。夏らしいし」
「茜ちゃんも着る?」
「機会があれば」
「絶対似合う」
「ありがとう」
亜衣はスマホで近くの祭りの日程を調べ始めた。
「来週末に駅周辺で夏祭りあるっぽい」
「早い」
なつきが言う。
「海の次は祭り。完璧」
「宿題は?」
茜が静かに聞く。
亜衣は一瞬止まった。
「……宿題会を挟みます」
「よろしい」
三人で笑った。
海が終わったばかりなのに、もう次の予定が生まれようとしている。
でも、それが嫌ではなかった。
夏が続いている。
春樹とまた会えるかもしれない。
みんなでまた笑えるかもしれない。
そう思うと、胸が弾んだ。
◇
夕方。
家に帰ったなつきは、昨日の写真をもう一度見返していた。
グループチャットには、夕方になっても少しずつ写真や感想が送られていた。
圭。
『次は祭り行きたい!』
亜衣。
『同意!』
紅秋。
『宿題会を挟んでからだ』
圭。
『出た、宿題門番』
蓮。
『でも祭りはいいね』
美優。
『浴衣着たいかも』
祐衣。
『夏祭り、楽しそうですね』
春樹。
『人多そう』
圭。
『春樹、そこ!?』
春樹。
『うん』
なつきは笑った。
春樹らしい。
人混みが苦手そうなのも、なんとなく分かる。
でも、来てくれるだろうか。
なつきは少し迷ってから、グループに打った。
『夏祭り、行けたら楽しそう』
送信。
すぐに春樹から反応。
『うん』
また、いつもの二文字。
でも、今はその二文字だけで嬉しい。
続けて春樹から個別メッセージが来た。
『写真、見た』
なつきの心臓が跳ねた。
『うん。たくさんあったね』
『集合写真、よかった』
『うん。いい写真だった』
少し間が空く。
春樹。
『飲み物買いに行った時の写真もあった』
なつきはスマホを落としそうになった。
見た。
春樹も見た。
あの写真を。
何と返せばいいのか分からない。
でも、変にごまかしたくなかった。
『亜衣ちゃんが撮ってたみたい』
『自然だった』
なつきは固まった。
自然。
春樹も、そう言った。
茜と同じように。
なつきは胸がいっぱいになった。
『そうかな』
『うん』
また二文字。
そして、もう一通。
『横田さん、昨日楽しそうだった』
なつきはしばらく画面を見つめた。
春樹は、ちゃんと見てくれていた。
自分が楽しそうだったこと。
笑っていたこと。
それを覚えてくれていた。
『楽しかったよ』
なつきはゆっくり打った。
『春樹くんも楽しそうだった』
送信。
少し怖かった。
でも、昨日も言えた言葉だ。
春樹から返る。
『楽しかった』
なつきの胸が静かに満たされる。
短い。
でも、はっきりした言葉。
楽しかった。
春樹も。
同じ海で。
同じ時間を。
『また行きたいね』
なつきは勇気を出して送った。
すぐに既読がつく。
数秒。
春樹。
『うん。また行きたい』
なつきはスマホを胸に抱いた。
昨日、海で言った言葉。
それがメッセージの中でもう一度返ってきた。
約束ではない。
でも、次があるかもしれないと思える言葉。
なつきは小さく息を吐いた。
嬉しい。
その一言が、胸の中に広がっていく。
◇
夜。
なつきは机に向かい、読書感想文用のノートを開いた。
昨日と今日の余韻で、宿題どころではない気もした。
でも、紅秋と茜の「宿題会を挟んでから」という言葉が頭に残っている。
未来の自分を救うため。
そして、夏祭りへ気持ちよく行くため。
少しだけでも進めようと思った。
本のページを開く。
静かな物語。
少しずつ変わる登場人物の気持ち。
なつきはメモを書いた。
『変化は、あとから写真を見返した時に気づくこともある』
書いてから、昨日の写真を思い出す。
春樹の隣を歩く自分。
笑っている自分。
自然だと言ってもらえた自分。
写真の中の距離は、まだ恋人の距離ではない。
でも、遠くから見ているだけだった頃より、ずっと近い。
なつきはペンを止め、窓の外を見た。
夜の空。
夏の匂い。
遠くで聞こえる虫の声。
海はもう遠い。
でも、写真の中に残っている。
そして、心の中にも残っている。
次は夏祭りかもしれない。
浴衣。
夜の屋台。
花火。
春樹くん。
考えただけで、また胸が忙しくなる。
でも、もう逃げたくはなかった。
君の隣を目指す夏。
海で一歩近づいた距離を、次の場所でも大切にしたい。
なつきはノートにもう一行書いた。
『私は、少しずつでも自分から近づける人になりたい』
それは感想文のメモなのか、自分への言葉なのか分からなかった。
でも、今のなつきには必要な一文だった。
スマホがまた震える。
春樹からだった。
『本、進んだ?』
なつきは少し笑った。
海の翌日でも、春樹は本の話をする。
それが春樹らしい。
『少し。感想文のメモも書いたよ』
『見たい』
なつきの心臓が跳ねた。
『恥ずかしい』
『そう?』
『うん。でも、今度少しだけなら』
送ってから、また顔が熱くなる。
春樹から返る。
『うん。楽しみにしてる』
楽しみにしてる。
その文字を見て、なつきはそっと笑った。
海の写真。
夏祭りの予定。
本の感想。
全部が繋がっていく。
夏はまだ続く。
そして、なつきの一歩もまだ続く。
写真の中の距離を、本当の日常の距離にできるように。
なつきはペンを持ち直し、もう少しだけ宿題を進めることにした。




