第78話 夕方の海と、また来たい場所
午後の海は、午前よりも少しだけ眩しかった。
太陽は高い位置から少し傾き始めているのに、砂浜に反射する光はまだ強く、波打ち際はきらきらと白く揺れている。
風が吹くたびに、潮の匂いがふわりと流れてきた。
なつきは足元に寄せてくる波を見ながら、そっと息を吐いた。
朝からずっと胸が忙しかった。
集合場所で春樹に髪留めを褒められた。
海に着いて、水着姿も「似合ってる」と言ってもらえた。
浅瀬で遊んで、転びかけたところを支えてもらった。
昼休憩では一緒に飲み物を買いに行って、少しだけ二人で話せた。
嬉しいことが多すぎて、ひとつひとつがまだ胸の中で落ち着いていない。
今日一日だけで、何日分も前へ進んだ気がする。
「なつき!」
亜衣の声がして、なつきは顔を上げた。
亜衣は波打ち際で両手を広げている。
「ぼーっとしてると、圭くんに水かけられるよ!」
「えっ」
「言うなよ、亜衣!」
圭がすでに水をすくっていた。
「圭くん!」
「違う! これは確認!」
「何の確認!?」
次の瞬間、圭が軽く水をかけた。
なつきの足元に水しぶきが飛ぶ。
直接かかったわけではない。
でも冷たい水が跳ねて、なつきは思わず声を上げた。
「冷たっ」
「ほら、やった!」
亜衣が笑いながら圭に水をかけ返す。
「うわっ、亜衣、本気!」
「先にやったの圭くん!」
「俺は軽くだった!」
「私も軽くだよ!」
「嘘だ!」
圭と亜衣の水のかけ合いが再び始まった。
紅秋が少し離れたところから言う。
「深い方へ行くなよ」
「分かってる!」
「分かってるー!」
二人の返事が重なる。
茜が隣で苦笑した。
「本当に元気ね」
「うん」
なつきは笑った。
さっきまで胸の中でぐるぐるしていたものが、二人の騒がしさで少しほどけていく。
こういう空気が、今はありがたかった。
蓮と美優は少し先で波を眺めていた。
美優が足元に寄せる波へ少しだけ水を蹴り、蓮がそれを見て笑っている。
祐衣は貝殻を見つけたらしく、砂浜の方でしゃがみ込んでいた。
春樹はその近くで、祐衣が拾ったものを見ている。
なつきは一瞬だけその姿を見つめた。
春樹と祐衣。
本の話ができる二人。
以前なら胸がぎゅっとしたかもしれない。
でも今は、その気持ちよりも、祐衣とちゃんと話せたことの方が浮かんだ。
誘ってよかった。
一緒に来られてよかった。
そう思える自分が、少し誇らしかった。
「横田さん」
春樹が顔を上げて、なつきに声をかけた。
「うん?」
「貝殻」
春樹の手のひらには、小さな白い貝殻が乗っていた。
祐衣が見つけたものらしい。
なつきは近づいて覗き込む。
「きれい」
「うん」
祐衣が微笑む。
「割れていないもの、意外と少ないですね」
「そうなんだ」
「波で削られるので」
春樹が言う。
「これ、形が残ってる」
「うん」
なつきはその小さな貝殻を見つめた。
海に来て、泳いだり騒いだりするだけではない。
こうして足元に落ちているものを見つける時間もある。
祐衣らしいと思った。
「祐衣さん、こういうの見つけるの上手だね」
なつきが言うと、祐衣は少し照れたように笑った。
「本を探すのと少し似ているかもしれません」
「本?」
「たくさんある中から、気になるものを見つける感じです」
なつきは小さく頷いた。
「分かる気がする」
春樹も頷いた。
「似てるかも」
その短い同意に、祐衣が嬉しそうに笑う。
なつきも、自然に笑えた。
すると、美優がこちらへ歩いてきた。
「何見てるの?」
「貝殻」
春樹が答える。
「へぇ、きれい」
美優は祐衣の手元を見て笑った。
「祐衣らしいね」
「そうですか?」
「うん。ちゃんと見つけるところが」
美優の言葉は自然だった。
祐衣も柔らかく笑う。
なつきはその輪の中で、少しだけ不思議な気持ちになった。
春樹、美優、祐衣。
自分にとって、少し特別に意識してしまう三人。
その中に、今は自分もいる。
緊張はある。
でも、居心地は悪くない。
それが嬉しかった。
圭と亜衣の声が、また波打ち際から響く。
「紅秋! 助けて!」
「自業自得だ」
「亜衣が強い!」
「圭くんが弱い!」
「何だと!」
紅秋がため息を吐き、茜が笑いながら二人の方へ向かう。
蓮も「行こうか」と言って歩き出した。
春樹がなつきを見る。
「戻る?」
「うん」
また、自然に並んで歩く。
その距離が、朝より少しだけ近い気がした。
たぶん気のせいではない。
なつきがそう思いたいだけかもしれない。
でも今日は、そう思ってもいい気がした。
◇
午後の浅瀬遊びは、午前よりも少しだけまとまりが出ていた。
圭と亜衣が勢いよく動き、紅秋と茜が止める。
蓮がその間をうまく調整し、美優が笑って場を明るくする。
祐衣は最初こそ控えめだったが、亜衣に誘われて少しずつ水をかけ返すようになった。
「祐衣ちゃん、意外とやる!」
亜衣が笑う。
「少しだけです」
祐衣も笑っている。
「少しじゃない!」
圭が言う。
「今、俺に水来た!」
「それは亜衣さんです」
「亜衣か!」
「私だよ!」
美優が笑いながら圭へ水をかける。
「美優さんまで!」
「楽しいね」
「強い!」
圭は逃げるふりをして、結局また戻ってくる。
その様子に、なつきは声を出して笑った。
こんなふうに笑う自分を、少し前は想像できなかった。
春樹を遠くから見ているだけだった時。
美優や祐衣を見て勝手に苦しくなっていた時。
島中や田辺に振り回されていた時。
その頃の自分に言っても、信じないかもしれない。
夏休みに、こんな大人数で海へ来て。
春樹と話して。
みんなで笑っているなんて。
「横田さん」
春樹が隣で言った。
「うん?」
「笑ってる」
「え?」
「楽しそう」
なつきは少しだけ驚いて、それから笑った。
「うん。楽しい」
今度は迷わなかった。
「すごく楽しい」
春樹は頷いた。
「よかった」
また、その言葉。
なつきは胸の奥が温かくなる。
「春樹くんも」
「うん?」
「楽しそうで、よかった」
自分から言えた。
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
そして、海の方を見た。
「うん」
短い返事。
でも、その横顔は柔らかかった。
圭が少し離れたところから叫ぶ。
「春樹! 蓮! こっち!」
蓮が笑う。
「また呼ばれてるよ」
春樹はなつきを見た。
「行く?」
「うん」
なつきは頷いた。
「行こう」
自分で言って、また少し嬉しくなる。
行こう。
春樹と同じ方向へ。
波打ち際へ。
その言葉を自然に言えたことが、また一歩のように思えた。
◇
しばらく遊んだ後、紅秋が時間を確認した。
「そろそろ上がった方がいい」
「えー!」
圭と亜衣が同時に声を上げる。
「帰り支度もある。シャワーも混む」
茜も頷く。
「少し早めに動きましょう」
「正論コンビが強い」
圭が言う。
「でも、まだ遊びたい」
亜衣も頷く。
「分かる」
美優が笑って言う。
「また来ればいいんじゃない?」
その一言で、全員が少しだけ静かになった。
また来る。
その発想が、なつきの胸にすっと入ってきた。
今日で終わりじゃなくていい。
夏はまだある。
また、みんなで来られるかもしれない。
圭がすぐに顔を上げた。
「それだ!」
「次回開催!」
亜衣も乗る。
紅秋がため息を吐く。
「まず今日の帰り支度」
「紅秋、現実!」
茜が笑う。
「でも、また来られたらいいわね」
蓮も頷く。
「うん。楽しかったし」
祐衣が柔らかく言う。
「私も、また来たいです」
春樹が静かに海を見る。
「うん」
なつきは、その春樹の横顔を見た。
春樹もまた来たいと思っているのだろうか。
聞いてみたい。
でも、少し怖い。
それでも、今日のなつきは前より少し勇気があった。
「春樹くん」
「何?」
「また、来たい?」
聞いた。
言えた。
春樹は少しだけ考えた。
そして、頷く。
「来たい」
なつきの胸が、静かに弾んだ。
「私も」
すぐに言えた。
「また来たい」
「うん」
波が足元へ寄せて、また戻っていく。
その小さな音が、二人の会話の間に優しく流れた。
また来たい。
それは約束ではない。
予定でもない。
でも、今日が楽しかったという証拠だった。
なつきはその言葉を、大切に胸へしまった。
◇
シャワーと着替えは、少し慌ただしかった。
海水浴場の更衣室は混んでいて、女子組は順番に荷物を整理しながら着替えることになった。
水着から私服へ戻ると、少しだけ現実へ戻った気がする。
けれど髪にはまだ潮風の匂いが残っている。
肌には日差しの熱が残っている。
足には砂の感覚が残っている。
なつきは鏡の前で髪を整えながら、ふと白い花柄の水着を見た。
朝はあんなに緊張していた。
着るのが怖かった。
春樹に見られることばかり考えていた。
でも今は、この水着を選んでよかったと思えた。
春樹に似合ってると言ってもらえたから。
もちろん、それも大きい。
でもそれだけじゃない。
この水着で、海を楽しめた。
みんなと笑えた。
少しだけ、自分に自信が持てた。
「なつき」
亜衣が隣で髪をまとめながら言う。
「今日、めちゃくちゃ良かったね」
「うん」
なつきは素直に頷いた。
「楽しかった」
「春樹くんとも話せたし」
「……うん」
もう否定しなかった。
茜が微笑む。
「ちゃんと自分からも話しかけられていたわ」
「うん」
「大きな一歩ね」
なつきは少しだけ照れた。
「まだ、緊張するけど」
「それでいいのよ」
美優が少し離れたところから言った。
「横田さん、今日すごく楽しそうだった」
「えっ」
「春樹も楽しそうだったし」
なつきは一瞬、言葉に詰まる。
美優は柔らかく笑った。
「いい一日だったね」
「……うん」
なつきは小さく頷いた。
「うん。いい一日だった」
祐衣も荷物を整えながら言う。
「また感想会もしましょうね」
「うん」
「海の感想会もできそうです」
「それ、楽しそう」
亜衣が笑った。
「今日のなつきの感想文、タイトルは『春樹くんが似合ってるって言った日』」
「亜衣ちゃん!」
更衣室の中で、五人の笑い声が小さく重なった。
◇
外へ出ると、男子達もすでに着替え終えていた。
圭は少し眠そうな顔をしている。
「圭くん、疲れた?」
亜衣が聞く。
「全力で遊んだからな」
紅秋が言う。
「帰りの電車で寝るなよ」
「寝るかもしれない」
「荷物を忘れるな」
「はい」
蓮はまだ涼しげだったが、少しだけ疲れた表情もあった。
美優がそれを見て笑う。
「蓮も疲れてる」
「少しね」
「春樹は?」
美優が聞く。
春樹は短く答えた。
「少し」
「少しって顔じゃないよ」
蓮が笑う。
「春樹もけっこう遊んでたしね」
「うん」
春樹は否定しなかった。
それが少し珍しくて、なつきは笑いそうになった。
荷物をまとめ、忘れ物がないか確認する。
紅秋と茜が中心になってチェックした。
「ゴミは?」
「まとめた!」
圭が答える。
「飲み物の空き容器は?」
「捨てた!」
亜衣も答える。
「タオル」
「ある!」
「スマホ」
「ある!」
まるで遠足の帰りみたいだった。
でも、それが楽しかった。
休憩スペースを後にする前に、圭が海を振り返った。
「また来ような」
いつもの明るい声だった。
でも、少しだけ名残惜しさが混ざっていた。
亜衣が頷く。
「来よう!」
茜も笑う。
「予定が合えばね」
紅秋が言う。
「宿題が終わっていればな」
「海の最後に宿題!?」
圭と亜衣が同時に叫ぶ。
みんなが笑った。
なつきも笑いながら、海を見た。
青い水面。
白い波。
少し傾いた太陽。
朝よりも柔らかくなった光。
この景色を、きっと忘れない。
春樹が隣に立った。
「横田さん」
「うん?」
「楽しかったね」
春樹がそう言った。
なつきは胸がいっぱいになった。
春樹から。
楽しかったね、と。
共有する言葉。
今日一日を一緒に振り返る言葉。
「うん」
なつきは笑った。
「楽しかった」
少しだけ勇気を出して、続ける。
「また来たいね」
春樹は海を見ながら頷いた。
「うん」
その「うん」は、いつもより少し穏やかだった。
◇
帰りのバスは、行きよりも静かだった。
全員が疲れていた。
圭は宣言通り、乗ってしばらくすると眠そうに揺れ始めた。
紅秋が何度か肩を支え、最終的に圭は窓側にもたれて眠った。
「寝るなって言ったのに」
紅秋が小さく言う。
蓮が笑う。
「荷物は紅秋が見てるから大丈夫だね」
「俺は保護者じゃない」
「でも助かってる」
紅秋は少しだけ黙った。
「……まあ、今日くらいは」
亜衣も眠そうにしていた。
茜の肩に少し寄りかかり、茜が静かに支えている。
「亜衣も寝そう」
なつきが小声で言う。
「たぶん寝るわね」
茜が答える。
その声も少し優しい。
美優と祐衣は小さな声で今日の写真を見ていた。
春樹はなつきの少し前の席に座っている。
窓の外を見ていた。
なつきも窓の外を見る。
海が少しずつ遠ざかっていく。
胸の中に、楽しかった時間が静かに残る。
騒がしくて、恥ずかしくて、嬉しくて、眩しい一日。
全部が混ざって、少し眠くなる。
駅に着く頃には、空は少し夕方の色を含み始めていた。
水戸駅へ戻ると、行きとは違う疲れた空気が全員にあった。
でも、その疲れは満足感に近かった。
「今日はお疲れ!」
圭が少し眠そうな声で言った。
「お前が一番疲れてる」
紅秋が返す。
「全力だったからな」
「それは認める」
亜衣も伸びをする。
「楽しかったー」
美優が頷く。
「また行きたいね」
祐衣も笑う。
「はい」
蓮が言う。
「次は祭りとかもいいかもね」
その言葉に、圭と亜衣が同時に反応した。
「祭り!」
「花火!」
紅秋と茜が同時に言う。
「まず休め」
「まず休みましょう」
また笑いが起きた。
駅でそれぞれの方向へ分かれる。
春樹は蓮、美優、祐衣と同じ駅方面。
なつきは茜と亜衣と地元側へ。
別れる前、春樹がなつきを見た。
「横田さん」
「うん?」
「今日はありがとう」
なつきは少し驚いた。
「私?」
「うん」
「私は何も」
「誘ってくれたから。祐衣も来られたし」
「あ……」
祐衣を誘ったこと。
春樹はそれをちゃんと覚えてくれていた。
なつきの胸が温かくなる。
「うん」
なつきは笑った。
「来てくれてよかった」
「うん」
春樹は少しだけ頷いた。
「また」
「またね、春樹くん」
今度は自然に言えた。
春樹は頷き、駅の方へ歩いていく。
その背中を見送る。
今日は寂しさよりも、温かさの方が大きかった。
隣に亜衣が来る。
「なつき」
「うん?」
「今日、すごくよかったね」
「うん」
なつきは海でのことを思い出した。
似合ってる。
楽しい。
また来たい。
ありがとう。
その全部が、胸の中に残っている。
「忘れられない日になった」
なつきが言うと、茜が優しく頷いた。
「いい夏の思い出ね」
「うん」
夏休みはまだ続く。
宿題も残っている。
祭りも、花火も、まだ先にあるかもしれない。
でも今日の海は、確かに特別だった。
君の隣を目指す夏。
その中で、なつきはまたひとつ、春樹の隣に近づけた気がした。
駅前の夕方の風は、少しだけ潮の匂いを残しているように感じた。




