第77話 海辺の昼休憩と、二人分の飲み物
波打ち際で遊んだ後の休憩は、思っていたより体に染みた。
シートの上に戻ると、なつきはふっと息を吐いた。
足にはまだ波の冷たさが残っている。
腕には、さっき春樹に支えられた感覚がほんの少しだけ残っている気がした。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
「なつき」
亜衣がすぐ横から覗き込んできた。
「今、思い出したでしょ」
「何を?」
「春樹くんの手」
「亜衣ちゃん!」
なつきは慌てて声を抑えた。
海辺とはいえ、周りには人がいる。
それに、春樹も近くにいる。
聞こえたらどうするのだ。
亜衣は楽しそうに笑いながら、ペットボトルを開けた。
「いやー、青春だね」
「からかわないで」
「からかってない。応援」
「その顔はからかってる」
「半分ね」
「半分もあるんだ」
茜がタオルで髪の水気を押さえながら言った。
「亜衣、休憩中くらいなつきを落ち着かせてあげなさい」
「はーい」
でも亜衣の目はまだ笑っていた。
なつきは飲み物を手に取り、ゆっくり飲む。
冷たいお茶が喉を通って、体の内側に広がる。
少し落ち着いた。
少しだけ。
シートの反対側では、圭がすでに腹を押さえていた。
「腹減った!」
紅秋が時計を見る。
「まだ昼には少し早い」
「海で遊ぶと腹が減る」
「それは分かる」
蓮が笑う。
「じゃあ少し早めに食べる?」
美優が荷物の中を見ながら言った。
「軽く食べてもいいんじゃない? 午後も遊ぶなら」
圭がぱっと顔を上げる。
「美優さん、神!」
紅秋がすかさず言う。
「大げさだ」
「でも腹減った」
「それはさっき聞いた」
祐衣も小さく笑っている。
普段は控えめな祐衣も、海の空気の中では少し柔らかく見えた。
髪をまとめ、薄い羽織りを肩にかけている姿が、夏の光によく馴染んでいる。
なつきはふと、祐衣の隣に座った。
「祐衣さん」
「はい」
「楽しい?」
聞いてから、少しだけ緊張した。
でも祐衣はすぐに柔らかく笑った。
「はい。すごく」
「よかった」
「誘ってくれてありがとうございます、横田さん」
「ううん。来てくれて嬉しい」
そう言えた。
自分から。
素直に。
祐衣は少し驚いたように目を細め、それから嬉しそうに頷いた。
「私も嬉しいです」
その言葉が、なつきの胸に優しく入ってきた。
祐衣は春樹に近い人。
最初は、少し怖かった。
でも今は違う。
こうして隣で話せる。
本の話もできる。
海に誘えてよかったと、本当に思える。
「本」
祐衣が言った。
「進みましたか?」
「あ、うん。けっこう読んだよ」
「どうですか?」
「好き。静かだけど、登場人物の気持ちが少しずつ変わっていくのが……なんか、自分にも少し近い気がして」
言ってから、なつきは少し照れた。
自分のことを話しすぎただろうか。
でも祐衣は、茶化さずに聞いてくれた。
「分かります」
「本当?」
「はい。あの本は、大きな変化ではなくて、小さな変化を丁寧に拾っているところがいいですよね」
「うん」
「横田さんも、少しずつ変わっているんですね」
なつきは息を止めた。
祐衣はすぐに慌てたように言う。
「あ、ごめんなさい。偉そうに聞こえたら」
「違うの」
なつきは首を横に振った。
「嬉しかった」
祐衣はほっとしたように笑った。
「よかったです」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
でも気まずくはなかった。
波の音。
圭と亜衣の声。
紅秋と茜の注意。
春樹と蓮、美優の穏やかな会話。
その全部が周囲にあって、沈黙も自然だった。
「私」
なつきは小さく言った。
「前は、春樹くんの近くにいる人を見ると、すぐ不安になってた」
言ってしまってから、胸が跳ねる。
でも止まらなかった。
「祐衣さんのことも、少し緊張してた」
祐衣は黙って聞いていた。
なつきは続ける。
「でも今は、一緒に来られてよかったって思ってる」
祐衣の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「ありがとうございます」
「うん」
「私も、横田さんと話せて嬉しいです」
その言葉は、海風のように優しかった。
なつきは胸の中で、何かがまた少しほどけるのを感じた。
その頃、昼食の準備が始まっていた。
買ってきた軽食やおにぎり、サンドイッチ、飲み物を広げる。
圭はすでに完全に食べる気満々だった。
「いただきます!」
「まだ全員座ってない」
紅秋が止める。
「目の前に食べ物がある」
「待て」
「犬みたいに言うな!」
亜衣も横でサンドイッチを手にしていた。
「私も待ってる」
茜が見る。
「それ、もう袋開いてるわよ」
「開けただけ」
「食べていない?」
「まだ」
「ならよし」
蓮が笑う。
「紅秋くんと茜さん、完全に監督だね」
「必要だからな」
紅秋が言う。
「必要ね」
茜も頷く。
圭と亜衣が同時に肩を落とした。
「自由がない」
「ない」
美優が笑って言う。
「でも二人とも楽しそう」
「楽しい!」
圭と亜衣の声が重なる。
その瞬間、みんなが笑った。
昼食は賑やかだった。
砂浜のシートの上で食べるだけなのに、なぜか特別に感じる。
海の音。
潮風。
日差し。
日陰の涼しさ。
食べ物の匂い。
みんなの笑い声。
学校の昼休みとは全然違う。
でも、どこか同じ空気もある。
圭が騒ぎ、亜衣が乗り、紅秋と茜が止める。
蓮が笑い、美優が自然に場を整え、祐衣が柔らかく参加する。
春樹は静かに食べながら、時々短く言葉を返す。
なつきはその輪の中にいて、何度も笑った。
「春樹」
圭がサンドイッチを食べながら言う。
「午後は何する?」
「泳ぐ?」
「泳ぐ!」
「即答」
春樹は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、なつきの胸がまた跳ねる。
今日は、春樹がよく笑っている。
大きな笑いではない。
でも、確かに楽しそうだ。
それを見るだけで嬉しくなる。
蓮が言う。
「午後は少し歩いてもいいんじゃない? 砂浜の端の方、景色よさそうだった」
美優が頷く。
「写真も撮りたい」
亜衣が手を上げる。
「写真! 撮りたい!」
圭も乗る。
「集合写真!」
紅秋が言う。
「周囲に迷惑にならない場所でな」
「分かってる!」
茜がスマホを確認する。
「午後は、少し休んでから写真。その後、浅瀬で遊ぶ。無理はしない」
「完璧」
圭が言う。
「茜ちゃんと紅秋、海でも運営」
「助かってるでしょ?」
亜衣が言う。
「めちゃくちゃ助かってる」
「なら感謝」
「ありがとうございます!」
圭と亜衣が同時に頭を下げた。
紅秋と茜が少し呆れながらも笑う。
昼食が一段落した頃、飲み物が少なくなっていることに気づいた。
人数が多い上、暑い。
持ってきた分はまだあるが、午後を考えると追加で買っておいた方がいい。
「自販機、あっちにあったよね」
美優が言う。
「私、買ってこようか?」
春樹が立ち上がった。
「俺行く」
なつきの心臓が跳ねた。
行く。
自販機へ。
春樹が。
その時、亜衣がなつきを見た。
視線だけで言っている。
行け。
今。
なつきは一瞬迷った。
でも、夏休みの目標を思い出す。
自分から話しかける。
一緒に行きたいと言う。
怖い。
緊張する。
でも、ここで逃げたらきっと後悔する。
なつきは小さく手を上げた。
「私も行く」
声は少し小さかった。
でも、ちゃんと届いた。
春樹が見る。
「飲み物?」
「うん。持つの手伝う」
「ありがとう」
春樹は普通に頷いた。
それだけなのに、なつきの胸はいっぱいになる。
亜衣が後ろで小さくガッツポーズをしているのが見えた。
茜は優しく頷いてくれた。
圭は口を開きかけ、紅秋に肩を押さえられた。
「何も言ってない!」
「言いそうだった」
「今日はそればっかり!」
みんなの笑い声を背に、なつきは春樹と並んで歩き出した。
◇
自販機は、海の家の近くにあった。
砂浜から少し上がった通路。
人の流れはあるが、シートの周りよりは少し静かだった。
なつきは春樹の横を歩く。
風が吹く。
羽織りの裾が揺れる。
足元のサンダルに、砂が少し入る。
隣に春樹がいる。
二人きり、というほどではない。
周りには人がいる。
でも、グループから少し離れて、春樹と二人で歩いている。
それだけで、なつきの胸はずっと忙しかった。
「横田さん」
「うん?」
「今日、楽しそうだね」
突然の言葉に、なつきは足を止めそうになった。
春樹は前を見ている。
何気なく言っただけなのだろう。
でも、なつきには大きな言葉だった。
「そう、かな」
「うん」
「……楽しいよ」
なつきは少しだけ笑った。
「すごく」
「よかった」
春樹は短く言う。
なつきは勇気を出した。
「春樹くんも、楽しそう」
言えた。
自分から。
春樹は少しだけなつきを見た。
「そう?」
「うん。いつもより、笑ってる」
「そうかな」
「うん」
春樹は少し考えた。
それから、海の方を見る。
「楽しい」
短い。
でも、ちゃんとそう言った。
なつきの胸が温かくなる。
「よかった」
なつきは小さく言った。
春樹が自分に言ってくれた言葉を、自分も返せた気がした。
自販機の前に着き、飲み物を選ぶ。
人数分を考えると、何本か必要だった。
「お茶とスポドリ?」
春樹が聞く。
「うん。あと亜衣ちゃんと圭くんは甘いのも飲みそう」
「確かに」
春樹が少しだけ笑った。
なつきも笑う。
「二人、似てるよね」
「うん」
「紅秋くんと茜ちゃんも、ちょっと似てる」
「先生」
「そう」
なつきは笑いながら頷いた。
「先生コンビ」
春樹は自販機にお金を入れながら言った。
「助かる」
「うん」
飲み物が一本ずつ落ちてくる音。
春樹が取り出し、なつきが袋に入れる。
その作業が、なぜかとても特別に感じた。
二人で買い出し。
ただそれだけ。
でも、なつきにとっては大切な時間だった。
「重い?」
春樹が聞く。
「大丈夫」
「半分持つ」
「うん。ありがとう」
二人で袋を分けて持つ。
帰り道。
なつきは少しだけ勇気を出した。
「春樹くん」
「何?」
「今日、来られてよかった」
「海?」
「うん。それもだけど」
なつきは少し言葉を探す。
海風が頬を撫でる。
胸の中の言葉を、少しずつ形にする。
「みんなで来られてよかった」
「うん」
「祐衣さんも、美優さんも、蓮くんも来てくれてよかったし」
「うん」
「春樹くんとも……話せてるから」
言った瞬間、顔が熱くなる。
でも、言えた。
春樹は少しだけ黙った。
なつきの心臓が跳ねる。
変だったかな。
言いすぎたかな。
でも、春樹は静かに言った。
「俺も、横田さんと話せてる」
なつきは顔を上げた。
春樹はいつも通りだった。
でも、その言葉は、なつきの胸にまっすぐ入った。
「うん」
声が少し震えた。
「嬉しい」
また言えた。
嬉しい。
自分の気持ち。
春樹へ向けた言葉。
春樹は頷いた。
「うん」
短い返事。
でも、今はそれで十分だった。
戻る道のりが、行きよりも少しだけ短く感じた。
◇
シートへ戻ると、亜衣がすぐに反応した。
「おかえりー」
「ただいま」
なつきは飲み物の袋を置く。
圭が手を伸ばす。
「甘いやつある?」
「あるよ」
「なつき、神!」
紅秋が言う。
「礼を言う前に確認するな」
「ありがとうございます!」
亜衣も甘い飲み物を受け取る。
「なつき、ありがとう。春樹くんも」
「うん」
春樹が頷く。
亜衣はなつきの顔を見て、小声で言った。
「何かあった?」
「何も」
「嘘」
「……少し話した」
「内容は?」
「あとで」
亜衣の目が輝く。
「あとで聞く」
「ほどほどに」
茜が横から言う。
「はーい」
飲み物を配り終えると、午後の写真タイムが始まった。
まずは全員で一枚。
通りがかった親切な人にお願いして、海を背景に並ぶ。
圭が真ん中に行こうとして紅秋に端へ移動させられる。
亜衣が笑いながらなつきの隣に立つ。
春樹はなつきの少し近く。
近すぎない。
でも、同じ写真の中にいる。
「はい、撮りますね」
声がかかる。
なつきは少し緊張しながら笑った。
シャッター音。
一枚。
また一枚。
夏の海で、みんなで撮った写真。
その中に、春樹と自分がいる。
それだけで、胸がいっぱいだった。
その後、女子だけ、男子だけ、いくつか写真を撮った。
女子五人の写真では、亜衣が全力でポーズを取り、美優が笑い、祐衣が少し照れ、茜が落ち着いていて、なつきは少しぎこちなく笑った。
男子四人の写真では、圭が大きくピースし、紅秋が控えめに立ち、蓮が穏やかに笑い、春樹が少しだけ口元を緩めていた。
「春樹、笑ってる!」
圭が写真を見て言った。
「笑ってる?」
「笑ってる!」
美優が覗き込む。
「本当だ。春樹、楽しそう」
春樹は少し首を傾げる。
「そう?」
「そう」
蓮も笑う。
「いい写真だね」
なつきはその写真を見て、また胸が温かくなった。
春樹が楽しそう。
今日、何度もそう思う。
そして、その場に自分もいる。
それが嬉しかった。
午後の海は、午前より少し眩しかった。
でも、休憩を挟んだおかげで体は軽い。
また浅瀬へ向かうことになり、圭と亜衣が先頭を歩く。
紅秋と茜が後ろから注意を飛ばす。
蓮と美優が並び、祐衣が少し後ろを歩く。
春樹となつきは、自然に少し近い位置になった。
波の音が近づいてくる。
なつきはふと思った。
今日、自分は何度も春樹と話せている。
似合ってると言ってもらった。
楽しいと言えた。
話せて嬉しいと言えた。
それだけで、十分すぎるくらいだ。
でも、まだ一日は終わっていない。
夏の海は、まだ続いている。
「横田さん」
春樹が言う。
「うん?」
「午後も無理しないように」
「うん」
なつきは笑った。
「春樹くんもね」
「うん」
波が足元へ寄せてきた。
なつきはその冷たさを感じながら、空を見上げる。
青と白。
海と砂。
笑い声と波音。
その中で、春樹の隣を歩いている。
君の隣は、まだ遠い。
でも今日は。
何度も、少し近い。
その一歩一歩を、なつきは大切に胸へしまった。




