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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第76話 白い花柄と、波打ち際の一歩


 更衣室の中は、外より少しだけ涼しかった。


 けれど、なつきの体温は全然下がらなかった。


 むしろ、心臓の音が近くなった気がする。


 ロッカーの前に立ち、なつきは袋から水着を取り出した。


 白地に、小さな花柄。


 派手すぎない。


 けれど、いつもの自分よりは少しだけ明るい。


 以前、茜と亜衣と一緒に選んだ水着。


 その時は、まだ遠い未来のようだった。


 でも今は。


 これを着て、外へ出る。


 砂浜へ。


 みんなのところへ。


 春樹の前へ。


「……無理」


 小さく漏らすと、隣の亜衣がすぐ反応した。


「大丈夫。無理じゃない」


「まだ何も言ってない」


「顔が全部言ってる」


 茜もロッカーの向こうから穏やかに言った。


「なつき、落ち着いて。似合っていたわよ」


「でも、あの時は試着室だったし」


「今日は海よ。海で着るためのものなんだから」


「そうだけど……」


 美優が少し離れたところで笑う。


「横田さん、緊張してる?」


「は、はい……」


「分かるよ。最初はみんな気になるよね」


 祐衣も柔らかく頷いた。


「でも、横田さんの雰囲気に合っていると思います」


「ありがとう……」


 五人で着替える空間は、思っていたよりも不思議な空気だった。


 恥ずかしい。


 でも、一人じゃないから少し安心する。


 亜衣は明るい色の水着で、彼女らしく元気な印象。


 茜は落ち着いた色で、上品で大人っぽい。


 美優は自然に華やかで、祐衣は清楚で柔らかい。


 それぞれ違うのに、みんなちゃんと似合っていた。


 なつきは最後に羽織りを手に取り、鏡の前に立った。


 白い花柄。


 肩にかかる羽織り。


 髪には、朝つけてきた淡い花の髪留め。


 鏡の中の自分は、いつもの教室の自分ではなかった。


「なつき」


 亜衣が背後から顔を出す。


「かわいい」


 茜も微笑む。


「ええ。ちゃんと似合ってる」


 美優も言う。


「春樹、たぶん普通に褒めると思う」


「えっ」


 その名前で、なつきの顔が一瞬で熱くなる。


 祐衣がくすっと笑った。


「大國くんは、思ったことをそのまま言いますよね」


「そうそう」


 美優が頷く。


「短く、急に」


 亜衣が手を合わせる。


「『似合ってる』って言われたら、なつき倒れるかも」


「倒れない!」


「本当に?」


「……分からない」


 自分で言ってしまい、全員が笑った。


 その笑いで、少し緊張がほどけた。


 なつきは深呼吸した。


 楽しむ。


 今日は、楽しむ。


 春樹にどう見られるかだけじゃない。


 みんなで来た海を、ちゃんと楽しむ。


 それでも。


 もし春樹が何か言ってくれたら。


 そう思ってしまう自分も、もう否定しなかった。


   ◇


 砂浜へ戻ると、男子達はすでに着替えていた。


 圭は海に向かって今にも走り出しそうで、紅秋に肩を掴まれている。


 蓮は涼しげに飲み物を持ち、春樹は日陰側で荷物を確認していた。


 春樹の水着姿を見た瞬間、なつきは思わず足を止めた。


 学校の制服でもない。


 休日の服でもない。


 海の春樹。


 腕や足が見えていて、普段よりずっと夏らしい。


 なつきの心臓が、さっきとは違う跳ね方をした。


「なつき」


 亜衣が小声で言う。


「見すぎ」


「見てない」


「見てた」


「……見た」


「素直」


 茜が横で小さく笑った。


 男子達もこちらに気づく。


 圭がぱっと顔を明るくした。


「おー! 女子組戻ってきた!」


 紅秋がすぐに言う。


「声を抑えろ」


「海だぞ!?」


「周りに人がいる」


「はい」


 圭はそれでも楽しそうだった。


「みんな似合ってるな!」


 その素直すぎる言葉に、亜衣が笑う。


「圭くん、そういうとこいいね」


「そうか?」


「うん。雑だけど褒めてる」


「雑って言うな!」


 蓮も穏やかに言う。


「本当に、みんな夏らしくていいね」


 美優が笑う。


「蓮は言い方が大人」


 圭が胸を押さえる。


「差を感じる」


 紅秋は少し視線を逸らしながら言った。


「似合っていると思う」


 亜衣がすかさず反応する。


「紅秋くん、照れてる?」


「照れていない」


「絶対ちょっと照れてる」


「海でもそれを言うのか」


 みんなが笑った。


 なつきはその空気に少し救われた。


 大人数だから、注目が一人に集まらない。


 けれど。


 春樹はまだ、なつきを見ていなかった。


 いや、見ていないように見えた。


 荷物を確認していた春樹が、ふと顔を上げる。


 なつきと目が合った。


 一瞬。


 なつきの呼吸が止まりそうになる。


 春樹の視線が、髪留めから羽織り、そして水着へとほんの少し動いた。


 それだけで、体中が熱くなる。


「横田さん」


「は、はい」


 声が裏返りそうになった。


 春樹はいつもの調子で言った。


「似合ってる」


 世界が止まった。


 朝、髪留めを褒められた。


 それだけでも十分だった。


 でも今。


 水着姿で。


 海で。


 春樹に。


 似合ってる、と言われた。


 なつきは何も言えなくなった。


 顔が熱い。


 胸が苦しい。


 でも、嫌じゃない。


 嬉しすぎて、言葉が出ない。


「……ありがとう」


 やっとのことで言う。


 春樹は頷く。


「うん」


 たったそれだけ。


 でも、なつきには大事件だった。


 亜衣は口元を押さえて肩を震わせている。


 茜は優しく見守っている。


 美優は少しだけ目を細めて、でも笑っていた。


 祐衣も柔らかく微笑んでいる。


 圭は何か叫びかけたが、紅秋に完全に肩を押さえられていた。


「圭」


「何も言ってない!」


「言う顔だった」


「言う顔って何!?」


 蓮が笑う。


「でも、今のは確かに春樹らしいね」


 美優が頷く。


「うん。急に言う」


 春樹は不思議そうにしている。


「何が?」


 圭が小さく叫ぶ。


「それだよ!」


 また笑いが起きた。


 なつきは笑いながらも、まだ胸がいっぱいだった。


 似合ってる。


 その一言だけで、今日の海に来てよかったと思ってしまう。


 単純だ。


 でも、それでいい。


 今日だけは、少しだけ浮かれてもいい気がした。


   ◇


 日焼け止めを塗り、荷物をまとめ、ようやく海へ向かう準備が整った。


 圭はすでに足元で砂を蹴っている。


「行っていい?」


 紅秋が言う。


「走るな」


「走らない!」


 茜も言う。


「浅いところからね」


「分かってる!」


 亜衣が隣で同じようにうずうずしている。


「海! 海!」


「亜衣ちゃん、子どもみたい」


 なつきが笑う。


「今日は子どもでいいの」


「いいんだ」


「夏だから」


 圭と亜衣は、注意された直後にもかかわらず、結局小走りで波打ち際へ向かった。


 紅秋と茜が同時にため息を吐く。


「本当に似てる」


 蓮が笑った。


 波打ち際。


 水が足元へ寄せては返す。


 なつきは少しだけ緊張しながら砂浜を歩いた。


 水に足を入れる瞬間、思わず息を止める。


 冷たい。


 でも気持ちいい。


「わ……」


 小さく声が出た。


 隣で春樹が足を水に入れる。


「冷たい」


「うん」


「気持ちいいね」


 なつきが言うと、春樹は頷いた。


「うん」


 波がまた来る。


 なつきの足首を濡らして戻っていく。


 春樹と同じ波に触れている。


 そんなことを考えてしまい、なつきはまた顔が熱くなった。


 でも、海風がそれを少し冷ましてくれる。


「横田さん」


「うん?」


「楽しい?」


 春樹が聞いた。


 なつきは海を見た。


 圭と亜衣が少し先で騒いでいる。


 紅秋が注意している。


 茜が笑っている。


 美優と蓮が波打ち際を歩いている。


 祐衣が砂浜に残った貝殻を見つけている。


 そして、隣に春樹がいる。


「楽しい」


 なつきは素直に言った。


「すごく」


 春樹は少しだけ頷いた。


「よかった」


 その言葉が、また胸に残る。


 よかった。


 春樹がそう言ってくれることが嬉しい。


 なつきは少し勇気を出した。


「春樹くんは?」


「楽しい」


「本当?」


「うん」


 春樹は海を見ながら言った。


「みんなで来るの、思ったよりいい」


 なつきは笑った。


「私も」


「うん」


 その時、圭が波打ち際から叫んだ。


「春樹! こっち来いよ!」


 紅秋がすぐに言う。


「叫ぶな!」


「海だぞ!」


「何度目だ」


 蓮も手を振る。


「春樹、少し遊ぼう」


 春樹はなつきを見た。


「行く?」


 なつきは少し驚いた。


 自分に聞いてくれた。


 一緒に。


 圭達の方へ。


「うん」


 なつきは頷いた。


「行く」


 春樹と並んで、波打ち際を歩く。


 水が足元を濡らす。


 砂が少し沈む。


 風が髪を揺らす。


 なつきは胸の奥で、静かに思った。


 君の隣は、まだ遠い。


 でも今。


 夏の海で、同じ波へ向かって歩いている。


 それだけで、今までのどの一歩よりも、少しだけ近く感じた。


   ◇


 圭と亜衣は、すでに水のかけ合いを始めていた。


「圭くん、覚悟!」


「亜衣こそ!」


 二人が同時に水をすくい、同時にかけ合う。


 結果、両方濡れる。


「冷たっ!」


「自爆してるじゃん!」


「そっちもだろ!」


 紅秋が額を押さえる。


「始まった」


 茜も苦笑する。


「でも楽しそうね」


「止めるべきか?」


「危なくなければ少しはいいんじゃない?」


 紅秋は少し考え、頷いた。


「浅いところなら」


 蓮が春樹に言う。


「春樹もやる?」


「水かけ?」


「うん」


 春樹は少し考えた。


「少しなら」


 圭の目が光る。


「よし! 春樹参戦!」


「待って」


 春樹が言う前に、圭が軽く水をかける。


 春樹は少しだけ濡れた。


 無言。


 圭が一歩下がる。


「……怒った?」


 春樹は水をすくった。


「返す」


 そして、圭に水をかけた。


「冷てぇ!」


 全員が笑った。


 なつきも笑った。


 春樹が水をかける姿なんて、学校では絶対に見られない。


 少しだけ少年っぽくて、普段より楽しそうで。


 その姿を見るだけで、胸がきゅっとなる。


 亜衣がなつきの隣に来て、小声で言った。


「なつき、今の顔やばい」


「何が?」


「完全に春樹くん見てきゅんしてた」


「してない」


「してた」


「……してたかも」


 亜衣は満足そうに笑った。


「素直でよろしい」


 なつきは恥ずかしくて水面を見る。


 でも否定しなかった。


 きゅんとした。


 それは本当だった。


 春樹が楽しそうにしているのを見るのが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。


 その後、浅瀬でしばらく遊んだ。


 圭と亜衣が中心になって騒ぐ。


 蓮は笑いながら付き合う。


 美優も時々水をかけ返して、圭を驚かせる。


 祐衣は控えめだけれど、亜衣に誘われて少しずつ輪に入る。


 紅秋と茜は見守りつつ、結局巻き込まれる。


 春樹は無理にはしゃぐわけではない。


 けれど、確かに楽しんでいた。


 なつきはその中で、何度も笑った。


 緊張していた水着姿のことも、少しずつ忘れていった。


 海は広くて。


 空は明るくて。


 波は冷たくて。


 みんなの声が重なって。


 その中心に、自分もいる。


 それが嬉しかった。


 少し遊んだ後、休憩することになった。


 紅秋が時間を見て言ったのだ。


「一度戻ろう。水分補給」


 圭が言う。


「まだいける!」


 紅秋が見る。


「戻るぞ」


「はい」


 亜衣も茜に見られて素直に頷く。


「戻ります」


 シートへ戻る途中、なつきは少しだけ足元を取られた。


 濡れた砂に足が沈み、バランスを崩しかける。


「わっ」


 その瞬間、春樹が手を伸ばした。


 なつきの腕を軽く支える。


「大丈夫?」


 近い。


 手。


 春樹の手。


 支えられている。


 なつきは一瞬、言葉を失った。


「だ、大丈夫」


「気をつけて」


「うん」


 春樹の手はすぐ離れた。


 でも、触れられた腕の感覚だけが残る。


 なつきは俯きながら歩いた。


 顔が熱い。


 海のせいではない。


 絶対に違う。


 亜衣が少し前から振り返り、にやにやしている。


 なつきは小さく首を横に振った。


 何も言わないで。


 亜衣は口を押さえて頷いた。


 言わない。


 今は。


 シートへ戻ると、全員で飲み物を取った。


 冷たいお茶が喉を通る。


 体に染みる。


 なつきは少し落ち着いて、海を見た。


 波打ち際で遊ぶ人達。


 遠くの水平線。


 風に揺れるパラソル。


 隣には、春樹が座っている。


 少し距離はある。


 でも、隣だ。


「横田さん」


 春樹が言う。


「うん?」


「さっき、転ばなくてよかった」


「ありがとう。支えてくれて」


「うん」


 なつきは少しだけ勇気を出して笑った。


「春樹くん、反応早いね」


「そう?」


「うん」


「危なかったから」


「……ありがとう」


 また感謝してしまう。


 でも、何度でも言いたかった。


 春樹はいつもみたいに頷くだけだった。


 その横顔を見ながら、なつきは思った。


 今日は、ちゃんと話せている。


 似合ってると言ってもらえた。


 楽しいと言えた。


 ありがとうと言えた。


 少しずつだけれど、逃げずに言葉にできている。


 夏の海は、まだ始まったばかり。


 でも、なつきにとってはもう、忘れられない一日になり始めていた。


 白い花柄の水着も。


 波打ち際の冷たさも。


 春樹の「似合ってる」も。


 支えてくれた手も。


 全部が胸の中に残っていく。


 君の隣を目指す夏。


 その海辺で、なつきはまた一歩、確かに近づいた気がした。

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