第8話 同じ班になれた日
水曜日の六時間目。
二年十一組の教室には、いつもの授業とは違うざわめきが広がっていた。
黒板には、担任の大きな字でこう書かれている。
『全日ホームルーム クラス交流会』
その下に、さらに大きく。
『ひたちなか海浜公園 バーベキュー』
その文字を見た瞬間から、教室の空気はずっと落ち着かない。
「え、マジでバーベキュー?」
「海浜公園って遠足じゃん」
「プレジャーガーデン行ける?」
「肉ある? 肉」
「先生、自由行動ありますかー?」
声があちこちから飛び交う。
商業科唯一のクラス、二年十一組。
去年からほとんど変わらない顔ぶれの教室は、行事の話になると一気に騒がしくなる。
窓の外は、薄い春の曇り空だった。
雨の気配はない。
けれど、湿った風が校庭の土の匂いを運んできて、教室のカーテンをわずかに揺らしている。
横田なつきは、自分の席でプリントを両手に持ったまま、じっと黒板を見ていた。
ひたちなか海浜公園。
バーベキュー。
全日ホームルーム。
クラス交流会。
楽しそう。
すごく楽しそう。
でも、なつきの頭の中に最初に浮かんだのは、肉でも遊園地でもなかった。
班。
誰と同じ班になるか。
それだけだった。
なつきはそっと斜め後ろを意識する。
大國春樹。
窓側の一番後ろの席で、配られたプリントを静かに読んでいる。
周りがどれだけ盛り上がっていても、春樹は大きな反応を見せない。
けれど、まったく興味がないわけではなさそうだった。
プリントの文字を目で追い、集合時間や持ち物の欄をきちんと確認している。
その落ち着いた姿を見ていると、なつきの胸はまた少しだけ落ち着かなくなる。
春樹と同じ班になれたら。
バーベキューの準備を一緒にしたり。
食材を運んだり。
同じテーブルで食べたり。
午後の自由行動で、少しだけ一緒に歩けたり。
そんなことを考えてしまう。
考えた瞬間、なつきは自分の頬が熱くなるのを感じた。
まだ何も決まっていない。
そもそも、同じ班になれる可能性だって分からない。
なのに、頭だけが勝手に先へ行ってしまう。
「なつき」
隣ではないけれど、少し離れた席から遠山茜が小声で呼んだ。
委員長になってから、茜はこういう時の動きが少し早い。
配られたプリントも、すでに綺麗に折り目をつけて読んでいた。
「顔」
「え?」
「班のこと考えてる顔」
「そ、そんな顔ある?」
「ある。今日だけで三回目」
「三回も?」
「黒板を見て、プリントを見て、大國くんを見た」
「最後言わないで」
なつきは慌ててプリントで口元を隠した。
茜は小さくため息をつく。
「まだ班決め始まってないわよ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「だって……」
なつきは小さく言葉を切った。
だって、同じ班になりたい。
言うのは簡単だ。
でも、それを口にすると、胸の中の気持ちが教室中に広がってしまいそうで怖い。
春樹と同じ班になりたい。
ただそれだけなのに。
その「ただ」が、なつきには大きすぎる。
茜はなつきの表情を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「同じ班になれるといいわね」
「……うん」
「でも、なれなくても交流会は交流会よ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるけど、落ち込むと思う」
「正直ね」
「うん……」
なつきはプリントへ視線を落とした。
そこには当日の予定が書かれている。
朝、学校集合。
バスで移動。
ひたちなか海浜公園到着。
午前中は班ごとにバーベキュー。
午後は園内自由行動。
夕方、学校へ戻る。
その下に、持ち物。
飲み物。
タオル。
雨具。
動きやすい服装。
班ごとに役割分担をすること。
読めば読むほど、胸が落ち着かない。
普通の授業回とは違う。
教室だけではない。
学校の外。
普段とは違う服装。
普段とは違う距離。
そういうイベントは、何かが起きそうで怖くて、でも少しだけ期待してしまう。
「はい、静かに」
担任が教卓を軽く叩いた。
ざわめきが少しだけ収まる。
けれど、完全には静かにならない。
担任もそれは分かっているのか、少し笑いながら黒板の前に立った。
「もう見ての通りだが、来週の全日ホームルームはクラス交流会として、ひたちなか海浜公園でバーベキューをする。午前は班ごとに行動、午後は範囲を決めて自由行動だ」
「先生、遊園地ありですか?」
島中良がすぐに手を上げた。
教室の中心から声が飛ぶ。
島中はこういう時、真っ先に場を動かす。
クラスの中心。
サッカー部。
明るくて、声が大きくて、自然と周りを巻き込む男子。
担任は島中を見て、やれやれという顔をした。
「範囲内なら可。ただし時間厳守。集合に遅れた班は、次の行事で自由行動なしにする」
「厳しっ」
「お前らを信用してないわけじゃない。経験上だ」
「過去に何があったんですか」
「語ると長い」
教室が笑う。
島中も笑っている。
なつきはその空気に少しだけつられて笑った。
けれど、すぐに黒板へ視線を戻す。
班決め。
まだ先生はそこまで言っていない。
でも、全員が分かっている。
この時間の本番は、そこだ。
「で、班だ」
担任がチョークを持ち直した。
教室の空気が、また一段変わった。
さっきまでの笑い声が少し引き、代わりに期待と緊張が混ざったざわめきが広がる。
なつきの指先も、プリントの端をぎゅっと掴んだ。
「今回は五人一組。人数の関係で一部だけ六人になるかもしれんが、基本は五人。男女混合。班ごとにバーベキューの食材管理、片付け、午後の自由行動の報告までやってもらう」
「先生、自由に決めていいんですかー?」
女子の一人が聞いた。
担任はすぐに首を振った。
「完全自由にすると固まりすぎるから、こちらである程度調整する。ただ、最初に希望は取る。五人組を作って、偏りがあれば調整だ」
「えー」
「調整って何?」
「先生が解体するやつ?」
「怖っ」
教室がざわつく。
担任は平然としている。
「男子だけ、女子だけは禁止。班に最低一人は男子、一人は女子を入れること。あと、委員長と副委員長には最終確認を手伝ってもらう」
茜が少しだけ姿勢を正した。
紅秋も中央付近の席で静かに頷く。
なつきは、その紅秋の方をちらりと見た。
板倉紅秋。
副委員長。
春樹の友達。
春樹と自然に話せる人。
紅秋と同じ班になれば、春樹とも近くなれるかもしれない。
いや、春樹本人と同じ班が一番いい。
でも、それを自分から言えるだろうか。
なつきはプリントを見つめた。
希望班。
五人。
誰と組むか。
頭の中で何度も名前が浮かぶ。
横田なつき。
遠山茜。
大國春樹。
板倉紅秋。
伊藤亜衣。
この五人なら。
すごくいい。
茜がいるから安心できる。
紅秋がいれば春樹も話しやすそう。
亜衣がいれば場が明るくなる。
そして春樹がいる。
でも、そんな都合よくいくだろうか。
なつきが自分から「大國くんも一緒に」と言えるだろうか。
無理だ。
かなり無理だ。
「はい、じゃあまず自由に動いていいぞ。五人組を考えろ。十五分後に黒板へ書く」
担任の合図と同時に、教室が一気に動いた。
椅子が引かれる。
机の間を生徒たちが移動する。
「一緒に組もう!」
「誰入れる?」
「男子どうする?」
「島中たち固まるんじゃね?」
「女子足りなくない?」
声が重なる。
なつきは座ったまま、少し固まっていた。
動かなきゃ。
でも、どう動けばいいか分からない。
茜がすぐに近づいてくる。
「なつき」
「はい」
「まず私とは組む?」
「組みたい!」
なつきは即答した。
茜は少しだけ笑う。
「そこは早いのね」
「茜ちゃんとは絶対」
「なら、あと三人」
あと三人。
なつきの胸がまた跳ねる。
春樹。
言いたい。
でも言えない。
なつきが黙っていると、茜は小さくため息をついた。
「大國くんを入れたいんでしょ」
「声が大きい」
「小声よ」
「でも心臓に大きい」
「何それ」
茜は呆れながらも、教室の後ろへ視線を向けた。
春樹はまだ席に座っていた。
周囲の生徒たちが動いている中で、春樹はプリントを見ている。
焦って誰かと組もうとする様子はない。
その近くに紅秋が立っていた。
紅秋も周囲を観察している。
この二人は、慌てて動かなくても誰かが声をかけると思っているのだろうか。
それとも、余ったら余ったでいいと思っているのだろうか。
なつきには分からない。
分からないけれど、春樹が他の誰かに誘われる前に動かなければいけないことだけは分かった。
けれど、足が動かない。
「なつき」
茜が言った。
「今よ」
「今?」
「今声をかけないと、他の班に決まるかもしれない」
「分かってる」
「分かってるなら」
「でも」
「でも?」
「何て言えばいいの?」
茜は少しだけ考えた。
それから、簡潔に言った。
「同じ班にならない? でいい」
「それが言えないから困ってるの」
「じゃあ私が言う?」
「それは……嬉しいけど、ちょっと情けない」
「なら自分で」
「うぅ……」
なつきは机の端を握った。
その時、横から明るい声が飛んできた。
「なつき、茜、班決まった?」
伊藤亜衣だった。
明るめの茶髪を軽くまとめ、プリントを片手に持っている。
いつも通り、場にすっと入ってくる。
「まだ」
茜が答える。
「じゃあ、あたし入っていい? 仲いい子たち、もう女子だけで固まりそうだったからさ。先生に崩される前に、ちゃんと男女混合で作った方が楽かなって」
「私は構わないけど」
茜がなつきを見る。
なつきはすぐに頷いた。
「私も。亜衣ちゃん一緒だと心強い」
「やった。じゃあ女子三人ね」
亜衣はにっと笑った。
女子三人。
あと男子二人。
なつきの頭に、また名前が浮かぶ。
大國春樹。
板倉紅秋。
まるで、そこへ導かれているみたいだった。
でも、言葉は出ない。
亜衣はなつきの顔を見て、少し目を細めた。
「で、男子どうする?」
「えっと……」
「なつき、誰か希望ある?」
「き、希望?」
「ある顔してる」
なつきは固まった。
亜衣もなかなか鋭い。
茜ほど真っ直ぐではないけれど、空気を読むのがうまい。
なつきが答えられずにいると、亜衣は少しだけ視線を動かした。
その先には、春樹と紅秋がいる。
亜衣は小さく「あー」と言った。
「大國と板倉?」
「えっ」
なつきの声が裏返った。
茜が額に手を当てる。
亜衣は声を少し落としながら笑った。
「そんな分かりやすい反応する?」
「ち、違うよ」
「違うなら別の男子にする?」
「……」
「違わないじゃん」
亜衣は楽しそうだった。
けれど、からかいすぎる感じではない。
むしろ、少し面白がりながらも助けてくれそうな雰囲気だった。
「いいんじゃない? 大國、こういうの自分から動かないし。板倉もまとめ役できるし。バランス良さそう」
「でも、大國くんに迷惑じゃないかな」
「なんで?」
「女子三人だし」
「大國、そういうの気にしないと思うよ」
「そうかな」
「少なくとも、島中たちと組むよりは静かでいいんじゃない?」
亜衣の言葉に、なつきは少しだけ笑いそうになった。
確かに。
春樹からすれば、島中や守の賑やかな班より、茜や紅秋がいる班の方が落ち着くかもしれない。
そう考えると、少しだけ勇気が出る。
「じゃあ」
亜衣が軽く手を上げた。
「あたしが聞いてくる?」
なつきは一瞬迷った。
ありがたい。
とてもありがたい。
でも、また人に頼ってしまう。
茜に押してもらい、亜衣に聞いてもらう。
それで同じ班になれても、嬉しいけれど、少しだけ自分が情けない。
なつきは小さく首を横に振った。
「私が……言ってみる」
自分で言ってから、心臓が跳ねた。
茜が静かに頷く。
「うん」
亜衣も笑った。
「お、なつき頑張れ」
「大きい声で応援しないで」
「小声小声」
なつきは深呼吸した。
一歩。
春樹の席へ向かう。
たった数メートル。
でも、すごく遠い。
教室はざわざわしている。
誰もなつきだけを見ているわけではない。
それなのに、なつきには全員が自分を見ているように感じた。
春樹の席の近くまで来る。
紅秋が先に気づいた。
「横田さん」
「あ、板倉くん」
春樹も顔を上げる。
なつきは一瞬、言葉を失いそうになった。
春樹の目。
落ち着いた黒い瞳。
ただ見られているだけなのに、胸がきゅっと縮む。
でも、ここで逃げたら何も変わらない。
なつきはプリントを胸の前で握った。
「あの」
「うん」
春樹が短く返す。
それだけで、少し安心する。
「交流会の班なんだけど……」
「うん」
「まだ、決まってない?」
なつきが聞くと、春樹は紅秋を見た。
紅秋は肩をすくめる。
「俺たちはまだ。春樹が動く気ゼロだったから」
「別にゼロではない」
「では何パーセント?」
「二十」
「低い」
紅秋が少し笑う。
なつきもつられて小さく笑った。
その会話のおかげで、少しだけ緊張がほどける。
「えっと」
なつきはもう一度言葉を探した。
「私と、茜ちゃんと、亜衣ちゃんで組もうって話してて。男子がまだ決まってなくて」
ここまで言って、少し息を吸う。
肝心な言葉。
同じ班になりませんか。
それを言うだけ。
「もしよかったら、大國くんと板倉くんも……一緒にどうかなって」
言えた。
声は小さかった。
でも、ちゃんと最後まで言えた。
なつきは春樹の反応を見るのが怖くて、少しだけ視線を下げた。
沈黙。
ほんの一秒か二秒。
でも、長く感じる。
迷惑だったかな。
断られたらどうしよう。
もう他に組む人がいると言われたら。
なつきの指が、プリントの端をくしゃっと握った。
「俺はいい」
春樹が言った。
なつきは顔を上げた。
「え?」
「その班で」
春樹はいつも通り静かだった。
大きく頷くわけでもない。
嬉しそうに笑うわけでもない。
ただ、普通に受け入れた。
それだけなのに、なつきの胸の中では大きな音が鳴った。
いい。
同じ班でいい。
春樹が、そう言った。
「俺も問題ないよ」
紅秋が続けた。
「遠山さんがいるなら班として安定するし、伊藤さんがいれば場も回る。横田さんは……」
「私?」
「たぶん、平和」
「それ褒めてる?」
「かなり」
「本当かな」
「本当」
紅秋は柔らかく笑った。
なつきは少しだけ頬を赤くしながらも、ほっと息を吐いた。
「ありがとう」
言葉が自然に出た。
春樹へ。
紅秋へ。
自分から声をかけて、受け入れてもらえた。
それが嬉しかった。
戻ると、茜と亜衣が待っていた。
なつきの顔を見た瞬間、亜衣がにやっと笑う。
「決まった?」
なつきは小さく頷いた。
「うん」
「おめでとう」
「何が!?」
「いや、班が」
「絶対それだけじゃない言い方だった」
「気のせい気のせい」
亜衣は笑っている。
茜も少しだけ安心したように頷いた。
「よかったわね」
「うん」
なつきは胸の前でプリントを抱いた。
同じ班。
春樹と同じ班。
茜もいる。
亜衣もいる。
紅秋もいる。
この五人で、ひたちなか海浜公園へ行く。
バーベキューをする。
信じられない。
嬉しさが少し遅れてじわじわ広がってくる。
でも、その直後。
「え、なつき決まったの?」
田辺守の声がした。
なつきは振り返った。
守が島中たちの近くからこちらを見ている。
守はまだ班が完全には決まっていないらしい。
島中良も、その横にいた。
島中の視線が、なつきの班へ向く。
春樹。
紅秋。
茜。
亜衣。
そして、なつき。
その組み合わせを見た瞬間、島中の笑顔が少しだけ固まった。
けれど、すぐにいつもの明るい顔になる。
「横田、もう班決めたんだ?」
「うん」
「誰と?」
聞かなくても見えているはずなのに、島中はそう聞いた。
なつきは少しだけ言葉に詰まりながら答える。
「茜ちゃんと、亜衣ちゃんと、板倉くんと、大國くん」
「へぇ」
島中は笑った。
「大國と同じなんだ」
その言い方に、なつきの胸が少しだけ揺れた。
嬉しいことのはずなのに、島中に言われると、少しだけ落ち着かない。
「うん」
「いいじゃん。静かそうな班で」
島中は軽く言った。
けれど、その声には少しだけ棘があった。
亜衣がすぐに反応する。
「静かって、あたしいるんだけど」
「伊藤はうるさそう」
「ひど」
「褒めてる」
「絶対褒めてない」
亜衣が軽く返したことで、場は笑いに流れた。
けれど、島中の視線はまだなつきへ残っている。
守が横から割り込んできた。
「なつき、俺と組まねぇの?」
「田辺、もう島中くんたちと組むんじゃないの?」
「まあ、流れ的にはそうだけど」
「じゃあいいじゃん」
「いや、なんかお前が大國と同じ班って変な感じ」
「変?」
「なつきが図書室メンバーっぽい」
「図書室メンバーって何」
「本読みそうな人たち」
「私、まだそんなに読まないよ」
「だろ? だから変」
守は悪気なく笑った。
なつきは少しだけ唇を尖らせる。
まただ。
守は何も知らない。
なつきが春樹と同じ班になれてどれだけ嬉しいか。
自分から声をかけるのにどれだけ勇気が必要だったか。
その全部を知らずに、いつもの調子で茶化す。
怒るほどではない。
でも、少しだけ胸が引っかかる。
茜が静かに言った。
「田辺くん」
「はい」
「横田さんがどの班に入っても変ではないわよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「なら、どういう意味?」
「えっと……」
守は言葉に詰まった。
茜は続ける。
「本人が決めた班なら、それでいいでしょう」
「まあ、そうだけど」
「それに、あなたは自分の班を決める方が先じゃない?」
「あ、そうだった」
守は本気で思い出したような顔をした。
なつきは少し笑ってしまう。
茜の切り方はいつも的確だ。
守は無自覚だから、強く言いすぎると本気で困る。
でも、茜は必要なところで止めてくれる。
「守、こっちでいいだろ」
島中が言った。
「俺ら、男子三人いるから女子探さねぇと」
「おう」
守は島中の方へ戻りかける。
その途中で、なつきへ振り返った。
「なつき、当日肉余ったらもらいに行くわ」
「なんで?」
「お前、あんま食わなそうだし」
「食べるよ」
「嘘だ」
「食べるってば」
「じゃあ焼きそば余ったら」
「余らないよ」
「大國たち静かに食ってそうだから、余るだろ」
その言葉に、春樹の方が少しだけ反応した。
春樹は席に座ったままだったが、こちらを見た。
「余らない」
短く言った。
守が驚いたように目を丸くする。
「お、大國が反応した」
「食べるから」
「意外と食うの?」
「普通」
「その普通が分かんねぇ」
守が笑う。
亜衣も笑った。
「大國、意外とちゃんと食べるよ。図書委員の日、購買のパン二つ食べてた」
「伊藤、見てたの?」
「カウンターで食べてたら目に入るでしょ」
「図書室でパン食べていいのかよ」
「休憩室」
「休憩室なんてあんの?」
「ある」
春樹が答える。
守は「へぇ」と感心していた。
なつきはその会話を聞きながら、また少しだけ胸がざわつく。
亜衣は春樹のことを自然に知っている。
購買のパンを二つ食べていたこと。
図書委員の日の休憩室のこと。
なつきの知らない小さな春樹を、亜衣は知っている。
でも、今日はそのざわつきよりも、同じ班になれた嬉しさの方が少しだけ勝っていた。
当日、同じ班なら。
自分もまた、春樹の小さな一面を知れるかもしれない。
「島中くんたちも早く決めなよ」
亜衣が言った。
「先生に調整されるよ」
「分かってるって」
島中は軽く手を振った。
けれど、その視線はなつきの班に残ったままだった。
その後、教室では班決めが進んでいった。
黒板には担任が班番号を書き、そこへ生徒たちが名前を申告していく。
一班。
二班。
三班。
少しずつ埋まっていく。
なつきたちは、四班になった。
黒板に名前が書かれる。
四班。
横田なつき。
遠山茜。
伊藤亜衣。
大國春樹。
板倉紅秋。
自分の名前と春樹の名前が、同じ枠の中にある。
それを見るだけで、なつきは胸がいっぱいになった。
同じ黒板に名前が並ぶことは、これまでにもあった。
委員会決めの時もそうだった。
でも、今回はもっと近い。
同じ班。
同じ行動。
当日、一緒に動くことが決まっている。
それだけで、世界が少し明るくなる。
「なつき、顔」
茜が小声で言った。
「え?」
「嬉しそう」
「だって……嬉しい」
なつきは小さく答えた。
隠しきれなかった。
茜は少しだけ笑った。
「よかったわね」
「うん」
亜衣が横からひょいと顔を出す。
「なつき、当日楽しみだね」
「うん」
「大國、バーベキューでちゃんと働くかな」
「働くと思う」
「即答じゃん」
「大國くん、そういうのちゃんとやりそう」
「分かる。静かに野菜切ってそう」
「包丁使うのかな」
「使えそうじゃない?」
亜衣が言うと、紅秋が近づいてきた。
「春樹は料理できるよ」
なつきは驚いて顔を上げる。
「そうなの?」
「最低限は。少なくとも、野菜を黒焦げにするタイプではない」
「黒焦げにする人いるの?」
「田辺くんあたり」
紅秋がさらっと言う。
少し離れた場所で守が「なんか今俺の名前出た?」と反応した。
亜衣が笑う。
「田辺ならやりそう」
「肉を勢いで焼くタイプ」
「バーベキューで勢いは大事じゃね?」
守が会話に入ろうとする。
茜がすぐに言った。
「田辺くん、自分の班へ戻りなさい」
「遠山、俺への当たり強くない?」
「班決め中だから」
「はいはい」
守は笑いながら戻っていく。
その様子に、なつきも少し笑った。
教室全体が、だんだん当日の話で盛り上がっていく。
「何持ってく?」
「私、お菓子持っていこうかな」
「バスで酔う人いる?」
「自由行動どこ行く?」
「観覧車乗りたい」
「遊園地行くなら班で行く?」
「写真撮ろうよ」
声が広がる。
その中で、なつきはまだ黒板の四班の名前を見ていた。
春樹の名前。
自分の名前。
同じ枠。
ただそれだけ。
でも、なつきにとっては、何度見ても胸が温かくなる光景だった。
担任が全ての班を確認し、軽く手を叩いた。
「よし、班はこれで確定。変更は原則なし。当日までに班で役割を決めておくこと。食材受け取り、火起こし、調理、片付け、午後の自由行動の行き先。全部班で相談しておけ」
「火起こしって先生がやるんじゃないんですかー?」
誰かが聞く。
「安全確認は先生がするが、基本は自分たちでやる。もちろん危ないことはするな」
「火起こし、大國できそう」
男子の一人が冗談っぽく言った。
春樹は少しだけ顔を上げた。
「やったことはある」
教室が少しざわついた。
「あるんだ」
「意外」
「大國、何でもできんじゃん」
「キャンプとか行くの?」
春樹は少しだけ考えるようにした。
「家でバーベキューしたことがあるだけ」
短い説明。
でも、なつきには新鮮だった。
春樹の家。
バーベキュー。
家族。
知らない春樹の生活。
また少しだけ見えた気がして、胸がくすぐったくなる。
「じゃあ四班、火起こし大國ね」
亜衣が即決した。
「勝手に決めない」
春樹が返す。
「でもできるんでしょ?」
「できるけど」
「じゃあお願い」
「……分かった」
春樹が少しだけ諦めたように答えた。
亜衣は満足そうに笑う。
紅秋が横で言う。
「俺は食材管理でもやろうか」
「板倉くん、きっちりしてそう」
なつきが言うと、紅秋は軽く笑った。
「きっちりしないと、伊藤さんが肉を全部焼きそうだから」
「え、焼くよ?」
「野菜も焼いて」
「野菜は大國が切るんじゃない?」
「俺の負担が増えてる」
春樹が静かに言う。
その会話に、なつきは思わず笑った。
春樹が班の会話に入っている。
亜衣が軽く振って、紅秋が整えて、春樹が短く返す。
そこに茜がいて、自分もいる。
この空気。
思っていたよりずっと自然だった。
なつきは少しだけ勇気を出して言った。
「あの、私も何かやるよ」
全員の視線がなつきに向く。
なつきは少し緊張したが、続けた。
「野菜切るのは……ちょっと不安だけど、食器配ったり、片付けとかならできると思う」
亜衣がすぐに笑った。
「なつき、包丁不安なの?」
「うん。家でたまにやるけど、遅い」
「遅いなら大丈夫じゃない? 勢いで指切るより」
「それは怖い」
紅秋が言う。
「横田さんは記録係でもいいかも」
「記録?」
「写真とか、班の行動報告。書記だし」
「あ、そっか」
茜が頷く。
「それは合ってるかもしれない。なつき、写真撮るの好きでしょ」
「うん。好き」
「じゃあ、班の写真と行動メモはなつきにお願いしようか」
茜が言うと、なつきは少し嬉しくなった。
役割ができた。
自分にも、この班の中でできることがある。
「うん。やる」
なつきは頷いた。
そのとき、春樹が短く言った。
「助かる」
なつきの胸が跳ねた。
助かる。
春樹が、自分に言った。
たった三文字。
でも、なつきには十分だった。
「うん」
返事が少し小さくなる。
頬が熱い。
亜衣が横でにやにやしている気配がしたが、なつきは見ないようにした。
班決めが終わる頃には、教室中が交流会の話でいっぱいになっていた。
当日の服装。
バスの席。
自由行動の行き先。
バーベキューで焼きたいもの。
誰が写真を撮るか。
誰が一番食べるか。
普通のホームルームが、まるで行事前日のような雰囲気になっている。
けれど、実際にはまだ一週間近くある。
それなのに、なつきの心はもう当日へ飛んでいた。
ひたちなか海浜公園。
広い空。
バーベキューの煙。
同じ班の春樹。
火起こしをする春樹。
野菜を切る春樹。
写真を撮る自分。
午後の自由行動。
もしかしたら、少しだけ二人で話す時間があるかもしれない。
考えすぎだ。
分かっている。
でも、止められない。
ホームルーム終了のチャイムが鳴った。
担任が「今日はここまで」と言うと、生徒たちが一気に立ち上がる。
部活へ向かう者。
班の相談を続ける者。
さっそくスマホで海浜公園の地図を調べる者。
二年十一組はいつも以上に騒がしかった。
なつきは席に座ったまま、黒板の四班の名前をもう一度見た。
横田なつき。
遠山茜。
伊藤亜衣。
大國春樹。
板倉紅秋。
同じ枠の中にいる。
それだけで、今日一日が特別になった気がした。
「なつき」
茜が隣に来た。
「うん」
「帰る?」
「うん……あ、でも」
なつきは黒板を見た。
もう少し見ていたい。
そう思ってしまった。
茜はその視線を追って、小さく笑った。
「写真撮れば?」
「えっ」
「班表。忘れないように」
「それ、変じゃない?」
「班の記録係なんでしょ」
「あ、そっか」
なつきはスマホを取り出した。
黒板へ向ける。
四班の名前が画面に映る。
春樹の名前と、自分の名前。
同じ枠。
シャッター音が小さく鳴った。
ただの班表。
でも、なつきにとっては、今日の宝物みたいな一枚だった。
その時、後ろから声がした。
「横田さん」
なつきは驚いて振り返った。
春樹だった。
鞄を持ち、席の横に立っている。
「な、なに?」
声が少し上ずる。
春樹は黒板を少し見てから、なつきへ視線を戻した。
「当日、写真撮るなら」
「うん」
「俺、写真あまり撮らないから、任せる」
なつきは一瞬、言葉を失った。
任せる。
春樹が、自分に。
班の中で、役割を。
大きなことではない。
ただ写真を撮るだけ。
でも、なつきにはとても大きかった。
「うん」
なつきは本当に小さく、でもはっきり頷いた。
「任せて」
言ってから、少しだけ驚いた。
自分で「任せて」と言えた。
春樹に向かって。
春樹は静かに頷く。
「よろしく」
「うん」
それだけの会話。
でも、今日のなつきには十分すぎた。
春樹が教室を出ていく。
紅秋がその後を追う。
亜衣が「当日、いっぱい撮ってねー」と手を振る。
なつきは小さく手を振り返した。
茜が隣で言う。
「任せて、だって」
「言わないで」
「言えたわね」
「うん」
「よかったじゃない」
「……うん」
なつきはスマホの画面を見た。
班表の写真。
四班の名前。
その中に、春樹と自分が並んでいる。
胸の奥が、まだふわふわしていた。
教室の外では、島中と守の声が聞こえる。
「なつき班、肉奪いに行くか」
「やめてよ」
「冗談だって」
「大國いるから、静かに追い返されそう」
「それはそれでムカつくな」
そんな会話が廊下から流れてきた。
これからきっと、島中や守は当日も絡んでくる。
うざ絡みもあるだろう。
邪魔されるかもしれない。
でも、今はそれよりも嬉しさが大きかった。
同じ班になれた。
自分から声をかけた。
春樹が頷いてくれた。
当日、同じ場所に立てる。
なつきはスマホを胸に抱きしめるように持った。
ひたちなか海浜公園の空は、どんな色をしているだろう。
バーベキューの煙の向こうで、春樹はどんな顔をするだろう。
自由行動で、何を話せるだろう。
まだ何も始まっていない。
けれど、もう物語は少し動き始めている。
そんな気がした。
春の教室。
黒板に残った班表の文字。
消される前のその名前を、なつきはもう一度だけ見つめた。
そして、胸の中でそっと思った。
当日まで、きっと落ち着けない。
でも。
それでも。
楽しみだ。
大國くんと、同じ班で行けることが。




