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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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第7話 途中まで読んだ本



 月曜日の朝は、少しだけ重い。


 土曜日と日曜日の柔らかい時間が終わって、また制服に袖を通す朝。


 窓の外には、週明けらしい薄い曇り空が広がっていた。


 雨が降るほどではない。


 けれど、空全体が白い膜を張ったみたいにぼんやりしていて、春の空気もどこか眠たそうだった。


 横田なつきは、自分の部屋の机の前で、鞄の中身を確認していた。


 簿記の教科書。


 ノート。


 筆箱。


 提出用のプリント。


 そして。


 一冊の本。


 大國春樹にすすめられて、図書室で借りた短編集。


 土曜日の朝に一話だけ読んだあと、夜にもう一話読んだ。


 日曜日にも少し読んだ。


 まだ全部は読み終わっていない。


 けれど、もう感想はいくつか胸の中に生まれていた。


 静かな話。


 大きな事件が起きるわけではないのに、読み終わったあとに少しだけ息を吐きたくなる話。


 誰かを好きになる前の、言葉にできない揺れを、ゆっくり拾っていくような話。


 なつきは本の表紙を指でそっと撫でた。


 今日、言えるだろうか。


 春樹に。


 「まだ途中だけど、面白かった」と。


 それだけでいい。


 感想としては短い。


 でも、今のなつきにとっては、大きな一言だった。


 図書室で春樹は言ってくれた。


 読み終わったら、感想聞かせて。


 まだ読み終わっていない。


 だから、全部読み終わってからでもいい。


 でも、途中まで読んだことだけでも伝えたい。


 ちゃんと読んでいるよ、と。


 春樹が選んでくれた本を、大事に読んでいるよ、と。


 そんな気持ちがあった。


「……重いかな」


 なつきは小さく呟いた。


 本を大事に思いすぎている気がする。


 普通に借りた本。


 普通に読んで、普通に感想を言えばいい。


 それだけなのに、なつきの中では、春樹とつながる細い糸みたいになってしまっている。


 切れないように。


 強く引きすぎないように。


 けれど、離さないように。


 そんなふうに扱ってしまう。


 なつきは本を鞄に入れた。


 教科書の間に挟む。


 折れないように。


 角が潰れないように。


 それから、春に買った淡い桜色のしおりがちゃんと挟まっているかを確認した。


 水戸駅で茜と買ったしおり。


 それもまた、少し特別なものになっていた。


 スマホが震える。


 遠山茜からだった。


『出た?』


 なつきは慌てて時計を見る。


 少しだけ余裕がある。


『今出る』


 送信してから、すぐに追加でメッセージが来た。


『本、忘れてない?』


 なつきは思わず笑った。


『持った』


『ならよし』


『でも感想言えるか分からない』


『言える』


『なんで?』


『言わないと、なつきは今日一日そればかり考えるから』


 その通りだった。


 言えなければ、授業中も休み時間も、ずっと考えてしまう。


 言えばいい。


 言えば少し楽になる。


 それが分かっていても、勇気は別の話だった。


 なつきはスマホをしまい、鞄を持った。


 玄関を出ると、曇り空の下に少し湿った風が流れていた。


 月曜日。


 学校。


 二年十一組。


 斜め後ろの席。


 大國春樹。


 本の感想。


 なつきは一つずつ心の中で並べながら、自転車に乗った。


 私立梅桜高等学校の校門には、いつもの月曜の空気があった。


 眠そうな生徒。


 部活の朝練で既に疲れている生徒。


 週末の話で盛り上がる女子たち。


 月曜からテンションの高い男子たち。


 校舎へ向かう坂道の桜は、もうだいぶ散っていた。


 枝には青い葉が少しずつ増えている。


 春は、花だけでは終わらない。


 少しずつ色を変えて、次の季節へ進んでいく。


 なつきは自転車を押しながら、その桜を見上げた。


 自分の気持ちも、少しずつ変わっているのだろうか。


 去年の春は、春樹を見つけただけだった。


 去年の夏は、図書室の外から見ているだけだった。


 今年の春は、本を借りた。


 簿記を教えてもらった。


 体育で走る春樹を見た。


 少しずつ、知らない春樹を知っていく。


 そのたびに、気持ちは濃くなっている。


 でも、同時に不安も増えている。


 亜衣。


 蓮。


 美優。


 白石結衣。


 春樹の周りにいる人たち。


 なつきの知らない春樹を知っている人たち。


 週末、駅で見かけた美優と白石の姿が、ふと頭に浮かんだ。


 特に白石結衣。


 静かな雰囲気の黒髪の女の子。


 春樹と似ているわけではないのに、空気が少し重なった人。


 あの子が図書委員だと茜は言っていた。


 春樹と同じ、図書委員。


 そのことを思い出すと、胸がまた少しだけざわつく。


「なつき」


 隣から声がして、なつきは顔を上げた。


 いつの間にか、茜が横に並んでいた。


「おはよう、茜ちゃん」


「おはよう。今、また考えてたでしょ」


「うん」


「今日は石柱にぶつからなかったわね」


「成長しました」


「低い成長ね」


「でも大事」


「それはそう」


 茜は少しだけ笑った。


 なつきも笑う。


 週明けの重さが、少しだけ軽くなる。


「本、持ってきた?」


「持ってきた」


「感想、言う?」


「言いたい」


「言える?」


「言いたい」


「質問を変えても同じ答え?」


「うん」


「正直でよろしい」


 茜は校舎の方を見た。


「今日、簿記あるわよ」


「うん……」


「そこで話す機会があるかもね」


「簿記で?」


「前回も教えてもらったでしょ」


「うん」


「もしまた分からないところがあれば、聞けばいい」


「わざと分からなくなるのはだめだよね」


「当たり前」


「だよね」


 なつきは少しだけ苦笑した。


 分からないところがあれば聞ける。


 でも、分からないところがあるのは困る。


 春樹に話しかけたい。


 でも、簿記はちゃんとできるようになりたい。


 恋と勉強が同じ方向を向いているようで、微妙に違う。


 そこが難しい。


 二年十一組の教室に入ると、いつもの月曜日のざわめきが広がっていた。


 島中良は既に来ていて、中心グループの男子たちと週末の試合の話をしている。


 田辺守は机に突っ伏していた。


 レスリング部の朝練があったらしい。


 伊藤亜衣は女子数人と話しながら、スマホで何かを見せていた。


 紅秋は自分の席でノートを開いている。


 そして。


 春樹は斜め後ろの席にいた。


 本を読んでいた。


 なつきは、教室へ入った瞬間、そこを見てしまう。


 朝の光が窓から入って、春樹の机の上に落ちている。


 ページをめくる指。


 伏せた睫毛。


 静かな横顔。


 やっぱり、図書室で見た姿に近い。


 けれど、最近はその横顔に、別の春樹も重なるようになっていた。


 簿記を教えてくれた春樹。


 体育館で走っていた春樹。


 図書委員のカウンターで本を選んでくれた春樹。


 一つの横顔に、少しずついろんな姿が重なっていく。


 その分だけ、好きが増える。


 なつきは自分の席へ向かった。


 鞄を置く。


 椅子を引く。


 座る。


 背中の斜め後ろに、春樹の気配。


 今日は言う。


 まだ途中だけど、面白かった。


 どのタイミングで?


 朝?


 授業の前?


 休み時間?


 簿記で教えてもらった後?


 いや、最初から教えてもらう前提なのは変だ。


 どうしよう。


 なつきが机の上で教科書を整えていると、前方から声がした。


「なつき」


 田辺守だった。


 突っ伏していた顔だけを上げている。


「おはよう、田辺」


「おはよ。月曜ってやばいな」


「何が?」


「眠い」


「それは田辺が朝練だからじゃない?」


「朝練なくても眠い」


「それは寝不足だね」


「昨日、動画見てたら夜になってた」


「それは自業自得」


「遠山みたいなこと言うなよ」


 守はむっとした顔をした。


 なつきは少し笑う。


 守との会話は、いつも通りだ。


 気楽で、何も考えなくても返せる。


 でも、ふとした瞬間に春樹へ向かおうとした気持ちを遮られる。


 今日もそうだ。


 なつきは朝のうちに春樹へ声をかけようか迷っていた。


 でも、守に呼ばれた時点で、そのタイミングは少し遠のいた。


 守は何も気づいていない。


 だから責められない。


 でも、少しだけ口を尖らせたくなる。


「田辺、今日簿記あるよ」


「聞きたくなかった」


「現実を見よう」


「なつきに言われると傷つく」


「なんで?」


「お前も現実見ない側だろ」


「それは……」


 なつきが言い返せずにいると、横から茜が入ってきた。


「田辺くん」


「はい」


「横田さんを巻き込む前に、自分のノートを見なさい」


「まだ巻き込んでない」


「巻き込む前の顔をしてた」


「俺の顔、そんなに分かりやすい?」


「なつきほどではないけど」


「私、巻き込まれた?」


 なつきが聞くと、茜は即答した。


「巻き込まれる直前だった」


「助かった」


「え、俺そんな扱い?」


 守は少し不満そうにしたが、すぐに笑った。


 その笑い声に、島中が反応する。


「何、朝から盛り上がってんの」


 島中が近づいてきた。


 ネクタイを少し緩め、いつものように明るい顔をしている。


「簿記の話」


 守が答える。


「あー、今日簿記あるよな。横田、前回けっこうできたんだっけ?」


 島中の視線がなつきへ向く。


「うん。一か所だけ間違えたけど」


「すごいじゃん。大國に教えてもらったんだっけ?」


 その言い方は軽かった。


 でも、なつきの胸は少しだけ反応する。


「うん」


 正直に頷いた。


 島中は笑った。


「じゃあ今日分かんないところあったら、俺にも教えてよ」


「え?」


「横田、前よりできるようになってるんでしょ」


「そんなに自信はないよ」


「大丈夫大丈夫。俺も分かんないから」


「それ、大丈夫じゃないよね」


「二人で考えれば何とかなるって」


 島中は気軽に言う。


 周りの男子も笑う。


 なつきは少し困った。


 島中は自分と話したいのか、簿記を教えてほしいのか、よく分からない。


 たぶん、どちらも少しずつある。


 でも、その会話に巻き込まれると、春樹へ向かうタイミングがまた消えていく。


 茜が静かに口を挟んだ。


「島中くん」


「何?」


「分からないところを聞くなら、まず先生か分かる人に聞いた方がいいわよ」


「横田も分かる人になったかもしれないじゃん」


「まだ自分で不安だと言ってる」


「遠山、相変わらずガード固いな」


「ガードじゃなくて事実確認」


「事実確認って言えば何でも通ると思ってる?」


「少なくとも、雰囲気で簿記をやるよりは通ると思う」


 近くにいた女子がくすっと笑った。


 島中も笑った。


 でも、少しだけ笑顔が固い。


 前回、茜に「教えられないなら邪魔しないで」と切られたことが、まだ少し残っているのかもしれない。


 なつきは二人の間の空気を見て、少しだけ緊張した。


 自分のせいで茜と島中の間が悪くなるのは嫌だ。


 でも、茜が助けてくれなければ、自分は流されてしまう。


 そのことも分かっている。


「島中くん」


 なつきは少し勇気を出して言った。


「私もまだ全然自信ないから、教えるのはたぶん無理だと思う」


 島中はなつきを見た。


 なつきはできるだけ笑わず、でも強くなりすぎず、言葉を続けた。


「一緒に考えるくらいならできるけど、間違ってたら困るし」


「そっか」


 島中は少しだけ目を細めた。


 それから、いつもの笑顔に戻る。


「じゃあ一緒に考えようぜ」


「うん……必要なら」


「必要ならって、距離あるなー」


「そんなことないよ」


「あるって」


 島中が笑う。


 なつきも曖昧に笑う。


 愛想笑いになっていないか、少し不安だった。


 ホームルームが始まり、一時間目の授業へ移る。


 月曜日の一時間目は、やはり少し空気が重かった。


 生徒たちの集中力も、いつもより低い。


 先生が黒板に今日の範囲を書いている間も、どこかで小さなあくびが聞こえる。


 守は前方で必死に目を開けている。


 島中はノートを開きながら隣の男子と何か話している。


 茜は姿勢を正している。


 春樹は斜め後ろで、静かに教科書を開いた。


 なつきは今日こそちゃんと授業を聞こうと思った。


 本の感想は、休み時間に言えばいい。


 授業中は授業。


 簿記は簿記。


 そう決めて、ノートを開く。


 先生が説明を始めた。


「今日は売掛金、買掛金の復習に加えて、手形の処理をもう一度やる。前回、ここで間違えた者が多かったからな」


 なつきはどきっとした。


 前回、自分が迷ったところだ。


 春樹に教えてもらったところでもある。


 先生の説明を聞きながら、なつきは前回の春樹の言葉を思い出した。


 自分が払う側だから、支払手形。


 買掛金が減るから、借方。


 現金で払った分は貸方。


 短い説明。


 でも、分かりやすかった。


 先生の説明も丁寧なのに、なつきの頭には春樹の声が残っている。


 授業中なのに、春樹の声を思い出している。


 これは集中していると言えるのだろうか。


 微妙だ。


「横田」


 先生の声。


 なつきはびくっとした。


「はい!」


「今の説明、聞いてたか」


「き、聞いてました」


「じゃあ、買掛金の支払いに手形を振り出した場合、使う勘定科目は?」


 教室の視線が少し集まる。


 なつきは一瞬焦った。


 でも、すぐに答えが浮かんだ。


 春樹の声で。


 自分が払う側だから。


「支払手形です」


「そうだ。前回より反応が早くなったな」


「あ、ありがとうございます」


 先生が頷く。


 教室の何人かが「おー」と軽く声を上げた。


 守が前で振り返ろうとして、先生に「前を向け」と注意されている。


 なつきは頬が少し熱くなった。


 できた。


 ちゃんと答えられた。


 春樹に教えてもらったところだから。


 そう思うと、嬉しさと恥ずかしさが同時に来た。


 斜め後ろの春樹は、何か反応しただろうか。


 見たい。


 でも、今振り返るのは不自然だ。


 なつきはぐっと我慢した。


 授業の後半、確認プリントが配られた。


 前回と同じく、できた人から提出。


 提出した人は静かに自習。


 考え方の確認は小声なら可。


 そのルールを先生が説明すると、教室が少しだけざわついた。


「またかー」


「今日こそ終わらせる」


「支払手形やめてほしい」


「手形って響きがもう分からん」


 そんな声の中で、なつきはプリントを受け取った。


 今回は前回より少しだけ落ち着いている。


 最初の問題。


 現金売上。


 解ける。


 二問目。


 掛け仕入。


 解ける。


 三問目。


 売掛金回収。


 解ける。


 四問目。


 一部現金、一部掛け。


 少し考える。


 でも、前より怖くない。


 五問目。


 手形。


 ここで少し止まった。


 しかし、前回よりは分かる。


 なつきは問題文を指でなぞりながら、ゆっくり仕訳を書いた。


 そのとき。


「なつき」


 小声。


 前方から、守だった。


 なつきは少しだけ顔を上げる。


 守は前の席からプリントを少し掲げている。


「四問目、これ現金と売掛金、両方書くやつ?」


「たぶん」


「たぶんじゃ怖い」


「私も解いてる途中」


「じゃあ一緒に考えようぜ」


「田辺、先生に聞いた方が早いよ」


「先生、今島中のところ見てる」


 見ると、先生は島中の席の近くで何か説明していた。


 島中が少し困った顔をしている。


 なつきは守のプリントを見ようとしたが、距離が少しある。


 しかも授業中に身体を乗り出すと、また先生に注意される。


「田辺、借方に現金と売掛金、貸方に売上だと思う」


「お、さすが」


「でも金額ちゃんと合わせて」


「金額?」


「合計」


「そこが面倒なんだよな」


「そこが大事なんじゃないかな」


「遠山みたいなこと言うなよ」


「茜ちゃんに怒られるよ」


 守は少し笑いながら前を向いた。


 今のは、邪魔というほどではなかった。


 むしろ、なつきが少し教える側に回れた。


 それが少し嬉しい。


 前回は自分が止まっていた。


 今日は少しだけ分かる。


 春樹に教えてもらったことが、自分の中に残っている。


 それが嬉しかった。


 でも、次の問題でまた手が止まった。


 六問目。


 受取手形の決済。


 受取手形。


 支払手形とは逆。


 自分がお金をもらう側。


 手形がなくなって、現金が増える。


 借方、現金。


 貸方、受取手形。


 たぶん。


 でも、なんとなく自信がない。


 七問目。


 今度は手形を裏書譲渡。


 なつきは完全に止まった。


 裏書譲渡。


 授業で説明された。


 聞いた。


 ノートにも書いた。


 でも、どう仕訳するのか分からない。


 手形を誰かに渡す。


 自分の持っている受取手形が減る。


 代わりに何が増える?


 買掛金の支払いに充てる?


 問題文を読む。


 買掛金の支払いとして、受取手形を裏書譲渡した。


 買掛金が減る。


 受取手形も減る。


 借方、買掛金。


 貸方、受取手形。


 ……でいいのだろうか。


 なつきは悩んだ。


 ここで間違えたくない。


 でも、先生は別の生徒のところにいる。


 茜は自分のプリントに集中している。


 春樹に聞く?


 前回のように。


 でも、今日は自分から聞けるだろうか。


 なつきはほんの少し振り返ろうとした。


 その瞬間。


「横田ー」


 今度は島中だった。


 小声とはいえ、なつきにははっきり聞こえた。


 斜め前から島中がこちらを見ている。


「七問目、分かった?」


「えっと……今考えてる」


「マジ? 俺も止まってる」


「先生に聞いてたんじゃないの?」


「聞いたけど、聞いた上で止まってる」


「それは大変だね」


「だから横田と一緒に考えようかなって」


 島中は軽い口調だった。


 でも、視線はなつきから離れない。


 前より少しだけ、絡み方がしつこい気がする。


 なつきが春樹に聞こうとするタイミングを見計らっているわけではない。


 たぶん。


 でも、結果としてそのタイミングが潰れる。


 なつきは困ったように笑った。


「私もまだ分からないから」


「じゃあ二人で悩むか」


「授業中だよ」


「小声ならいいって先生言ってた」


「考え方の確認ならね」


「確認しようぜ」


 島中は椅子を少しずらそうとした。


 そのとき、茜の声が静かに割って入った。


「島中くん」


 島中は動きを止める。


「また?」


「また、と思うなら心当たりがあるんじゃない?」


「いや、そんなつもりじゃないって」


「横田さんも解いている途中。まず自分で考えなさい」


「遠山、厳しすぎ」


「授業中だから」


「勉強は助け合いだろ」


「助け合いは、相手が助けられる状態の時にするものよ」


 茜の言葉に、近くの女子が小さく頷いた。


 島中は少しだけ口を閉じる。


 なつきは慌てて言った。


「あ、でも茜ちゃん、私も七問目分からないから」


「なら先生か、解き終わった人に聞けばいい」


 茜はそう言って、少しだけ斜め後ろへ視線を向けた。


 春樹。


 なつきは心臓が跳ねた。


 茜は直接名前を出さなかった。


 でも、意味は分かる。


 聞きなさい。


 今度こそ。


 なつきはプリントを持つ手に力を入れた。


 島中はその視線の流れに気づいたのか、少しだけ表情を変えた。


「大國に聞くの?」


 軽い声。


 けれど、少しだけ硬い。


 なつきは一瞬迷った。


 ここで曖昧に笑えば、また流される。


 でも、今日はちゃんと言いたい。


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


「大國くん、前も分かりやすく教えてくれたから」


 言った。


 教室の空気が、ほんの少しだけ動いた気がした。


 島中は笑っている。


 でも、その笑顔は少し固い。


「そっか」


「うん」


「じゃあ、俺もあとで聞こ」


 島中はそう言って前を向いた。


 なつきは小さく息を吐いた。


 心臓が速い。


 たったそれだけのこと。


 春樹に聞く、と言っただけ。


 でも、自分にとっては大きかった。


 茜が小さく頷く。


 なつきはゆっくり後ろを向いた。


 春樹はすでにプリントを提出していた。


 机の上には本ではなく、簿記のノートが開かれている。


 なつきが振り返ると、春樹は顔を上げた。


「大國くん」


 声が少し震えた。


「うん」


「七問目、聞いてもいい?」


「いいよ」


 すぐに返ってきた。


 なつきはその即答に、少しだけ胸が温かくなる。


 迷惑そうではない。


 少なくとも、そうは見えない。


 なつきはプリントを少し後ろへ向けた。


「これ、受取手形を裏書譲渡っていうところなんだけど」


「うん」


「買掛金の支払いに使ったって書いてあるから、買掛金が減るのは分かるんだけど……受取手形が減るでいいのかなって」


「それで合ってる」


「本当?」


「うん。買掛金が減るから借方。受取手形が減るから貸方」


「じゃあ、借方が買掛金、貸方が受取手形?」


「そう」


「よかった……」


 なつきは思わずほっとした声を出した。


 春樹はその声を聞いて、少しだけ目を細めた。


「前回と同じ考え方」


「同じ?」


「増えるもの、減るものを見る。現金でも手形でも、考え方は同じ」


「増えるもの、減るもの……」


「最初にそこを分けると迷いにくい」


「なるほど」


 なつきはプリントへ書き込みながら頷いた。


 春樹の説明は、やっぱり短い。


 でも、必要なところだけが残る。


 なつきには、それがとても分かりやすかった。


「ありがとう」


「うん」


 会話はそこで終わりそうだった。


 終わらせてもいい。


 授業中だ。


 でも、なつきの胸には、朝から抱えていた本のことが残っている。


 今?


 今言う?


 授業中に本の話はおかしいかもしれない。


 でも、春樹が目の前にいる。


 いや、斜め後ろにいる。


 また休み時間にしよう。


 でも、休み時間になったら島中や守が来るかもしれない。


 亜衣が来るかもしれない。


 紅秋が来るかもしれない。


 タイミングは、待っていると逃げる。


 なつきは、プリントを少しだけ手元へ戻しながら、小さく言った。


「あの」


 春樹が見た。


「本」


 声が小さすぎた気がした。


 でも、春樹には届いたらしい。


「読んだ?」


「まだ途中だけど」


「うん」


「面白かった」


 言えた。


 本当に短い感想。


 でも、なつきにとっては、とても大きい一言だった。


 春樹は、すぐに「そう」と返すのだと思った。


 いつものように短く。


 でも、春樹は少しだけ間を置いた。


 そして聞いた。


「どの話?」


 なつきは、息を止めた。


 どの話。


 春樹が、会話を広げた。


 ただ受け取るだけではなく、聞き返してくれた。


 それだけで、胸の中が一気に騒がしくなる。


「え、えっと」


 なつきは慌てる。


 読んだ話。


 一話目。


 好きな人を見ている女の子の話。


 それをそのまま言うのは、あまりにも自分に重なりすぎる。


 どう説明すればいい。


 春樹は待っている。


 静かに。


 急かさずに。


 その沈黙が、逆に優しい。


「最初の話」


 なつきはやっと答えた。


「教室の話?」


「うん。女の子が、ずっと相手のこと見てる話」


 言ってから、しまったと思った。


 自分で言って、頬が熱くなる。


 見ている話。


 それは、自分も同じだ。


 気づかれたらどうしよう。


 でも、春樹は特に変な顔をしなかった。


「あれ、読みやすいと思った」


「うん。読みやすかった。でも、なんか……軽いだけじゃなくて」


「うん」


「読んだあと、少し静かになる感じがした」


 なつきは、言葉を探しながら話した。


 授業中だから小声。


 周りには聞こえないくらい。


 でも、春樹には届く距離。


「主人公の子が、何も言わないんだけど、いろいろ考えてるのが分かるというか。大きな事件があるわけじゃないのに、胸に残る感じがして……上手く言えないけど」


「分かる」


 春樹は短く言った。


 なつきは目を上げる。


「本当?」


「うん。俺もその話が一番好き」


 なつきは固まった。


 春樹が一番好きな話。


 それを、自分も読んだ。


 それを、面白いと思った。


 同じものを、少しだけ同じように感じられたのかもしれない。


 胸が、じんわり温かくなる。


「そっか」


 なつきは小さく笑った。


「じゃあ、最初に読めてよかった」


「うん」


「まだ全部読んでないけど、ちゃんと読むね」


「無理しなくていい」


「でも読みたい」


「なら、よかった」


 春樹はそう言った。


 なら、よかった。


 また短い言葉。


 でも、その短さの中に、少しだけ安心したような響きがあった気がした。


 なつきは胸がいっぱいになりそうだった。


 授業中なのに。


 簿記のプリントの途中なのに。


 こんなに幸せになっていいのだろうか。


 そのとき、先生の声が飛んだ。


「横田、プリントは進んでるか」


「は、はい!」


 なつきは慌てて前を向いた。


 春樹も静かにノートへ視線を戻す。


 教室の空気が現実へ戻る。


 プリント。


 簿記。


 七問目。


 なつきは慌てて続きを解き始めた。


 顔が熱い。


 手元が少し震える。


 でも、頭の中は不思議とすっきりしていた。


 春樹が会話を広げてくれた。


 どの話?


 俺もその話が一番好き。


 その言葉が、何度も胸の中で繰り返される。


 なつきは残りの問題を解き、なんとか提出した。


 先生はプリントを確認し、頷いた。


「横田、今回は全部合ってるぞ」


「本当ですか?」


「ああ。前回よりいい」


「ありがとうございます」


 なつきは思わず笑った。


 席へ戻る途中、茜と目が合う。


 茜は少しだけ眉を上げる。


 全部見ていたのだろう。


 いや、聞こえてはいなかったかもしれない。


 でも、なつきの顔を見れば分かるのだろう。


 席に戻ると、茜が小声で言った。


「言えた?」


 なつきは小さく頷く。


「言えた」


「本のこと?」


「うん」


「反応は?」


 なつきは少しだけ頬を赤くした。


「どの話って聞いてくれた」


 茜は目を少しだけ見開いた。


 それから、静かに笑った。


「よかったじゃない」


「うん」


「大國くんから会話を広げたのね」


「うん」


「進歩」


「すごい進歩」


「なつきの中ではかなりね」


「うん。かなり」


 なつきは机の下で、そっと手を握った。


 前方では、守がまだプリントに苦戦していた。


 島中は提出したらしく、何人かと小声で話している。


 でも、なつきはあまり気にならなかった。


 少なくとも今は。


 胸の中に春樹との短い会話が残っていたから。


 授業が終わるチャイムが鳴った。


 教室は一気にざわつく。


 守が机に倒れ込み、島中が「今日むずかった」と笑い、亜衣が「手形ほんと嫌い」と言いながら春樹の席へ近づく。


 なつきは少し身構えた。


 亜衣は春樹に気軽に話しかける。


 それはもう分かっている。


 でも今日は、不思議と前ほど胸が痛まなかった。


「大國、七問目合ってた?」


 亜衣が聞く。


「合ってた」


「やった。あたし天才?」


「それは別」


「そこ否定早くない?」


「早い方がいいかと思って」


「ひどい」


 亜衣が笑う。


 春樹も少しだけ返す。


 なつきはそれを見ながら、本を抱える時のような気持ちで胸を押さえた。


 亜衣と春樹の距離は、まだ遠い。


 なつきにとっては羨ましい。


 でも、自分にも自分の会話ができた。


 本の話。


 春樹が一番好きな話。


 それを聞けた。


 だから、今は大丈夫だった。


 少しだけ。


「なつき」


 守が後ろを振り返った。


「今日、できてたな」


「うん。全部合ってた」


「マジ? すげぇじゃん」


「田辺は?」


「聞くな」


「また?」


「先生に『田辺、惜しい以前に科目が違う』って言われた」


「それ、前より悪くなってない?」


「俺もそう思う」


 守は本気で落ち込んでいるようで、なつきは笑ってしまった。


 島中も近づいてくる。


「横田、全部合ってたんだ?」


「うん」


「すごいじゃん」


「ありがとう」


「大國効果?」


 その言葉に、なつきの表情が少し止まる。


 島中は笑っている。


 軽い言い方。


 でも、なつきには少し刺さった。


 大國効果。


 そう言われると、春樹に頼りすぎているみたいに聞こえる。


 実際、教えてもらった。


 助けてもらった。


 でも、今日は自分でも考えた。


 茜にも言われた。


 春樹にも前回と同じ考え方だと言われた。


 なつきは少しだけ迷ったあと、ゆっくり言った。


「教えてもらったところ、覚えてたから」


「へぇ」


「だから、私も少しは頑張ったよ」


 言い返した、というほど強い言葉ではなかった。


 でも、なつきにしては珍しく、曖昧に笑って流さなかった。


 島中は一瞬だけ目を丸くした。


 それから笑う。


「そっか。じゃあ横田効果だ」


「何それ」


「横田が頑張った効果」


「うん。それならいいかも」


 なつきが少し笑うと、島中も笑った。


 しかし、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ探るような色があった。


 なつきはまだ気づききれていない。


 でも、茜は見ていた。


 島中が春樹の名前を出す時だけ、笑い方が少し変わることを。


 守は何も気づかず、机に突っ伏している。


「俺にも横田効果くれ」


「田辺はまず寝ないことから」


「厳しい」


「茜ちゃんに言われたらもっと厳しいよ」


「じゃあなつきでいい」


「私も厳しくする」


「裏切り」


 守の大げさな声に、周囲が笑う。


 教室の空気はいつもの二年十一組に戻っていく。


 賑やかで、少し騒がしくて、いろんな気持ちが混ざっている教室。


 その中で、なつきは自分の席に座り直した。


 鞄の中には、春樹にすすめられた本が入っている。


 まだ途中。


 でも、今日、途中まで読んだことを伝えられた。


 春樹は聞いてくれた。


 どの話、と。


 そして言ってくれた。


 俺もその話が一番好き、と。


 なつきは机の上のノートを閉じながら、胸の奥でその言葉をそっと繰り返した。


 同じ話が好き。


 それだけ。


 でも、それだけで、月曜日の重い朝は少しだけ軽くなった。


 見ているだけだった春から、少しずつ言葉を交わす春へ。


 まだ遠い。


 まだ知らないことばかり。


 でも、今日は確かに一歩進んだ。


 なつきは斜め後ろの気配を感じながら、ほんの少しだけ笑った。


 次は、全部読み終わった感想を言おう。


 焦らず。


 でも、逃げずに。


 自分の言葉で。

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