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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第74話 海の前日は、落ち着けない



 海まで、あと一日。


 その文字だけで、なつきの心臓は朝からずっと忙しかった。


 スマホのカレンダーに入れた予定。


『海』


 ただそれだけ。


 けれど、その一文字を見るたびに、胸の奥がそわそわする。


 春樹くんも来る。


 美優さんも。


 祐衣さんも。


 蓮くんも、圭くんも、紅秋くんも。


 茜ちゃんと亜衣ちゃんも。


 みんなで行く。


 大人数だから、落ち着いていればいい。


 そう思う。


 でも、海だ。


 水着だ。


 制服ではない。


 学校でも図書館でもない。


 夏の空の下で、春樹と会う。


 考えないようにしても、考えてしまう。


「……無理」


 なつきは自室の床に広げた荷物を前に、小さく呟いた。


 タオル。


 日焼け止め。


 着替え。


 飲み物。


 ビニール袋。


 羽織るもの。


 スマホ用の防水ケース。


 そして、袋に入れた水着。


 以前、茜と亜衣と選んだ白い花柄の水着。


 それを見ただけで、顔が熱くなる。


 買った時は、まだ少し先の話だった。


 いつか海へ行けたら。


 そんなくらいだった。


 でも今は違う。


 明日。


 本当に着るかもしれない。


 春樹くんに見られるかもしれない。


 なつきは慌てて水着の袋をタオルの下に隠した。


 隠したところで、現実は変わらない。


 スマホが震えた。


 亜衣からだった。


『準備してる?』


 なつきは少し迷ってから返す。


『してる』


 すぐに返事。


『水着見て赤くなってる?』


『なってない』


『絶対なってる』


『なってない』


『写真送って』


『送らない!』


 数秒後、茜からもメッセージが来た。


『持ち物リスト確認した?』


 なつきは少し安心した。


 茜の現実的な連絡は、今のなつきにはありがたい。


『今確認してる』


 茜。


『日焼け止め、タオル、着替え、飲み物、帽子か羽織り、交通費。忘れないように』


『うん』


 亜衣。


『あと恋心』


 なつきはスマホを落としかけた。


『いらない』


『いる』


『いらない』


『むしろ一番大事』


 茜。


『亜衣、なつきの準備を邪魔しない』


 亜衣。


『はーい』


 なつきは思わず笑った。


 緊張しているのに、二人がいると少し気持ちがほどける。


 この夏、何度もそうだった。


 春樹に近づこうとするたびに、亜衣が背中を押して、茜が支えてくれる。


 明日もきっと、二人がいる。


 だから大丈夫。


 大丈夫なはず。


 なつきは深呼吸して、もう一度荷物を確認した。


 それでもやっぱり、水着の袋を見ると胸が跳ねた。


   ◇


 一方、男子側のグループチャットも朝から動いていた。


 春樹は自室で鞄を開き、紅秋が送ってきた持ち物リストを見ていた。


『海 持ち物』

・タオル

・着替え

・飲み物

・日焼け止め

・交通費

・スマホ防水対策

・帽子または羽織り

・ゴミ袋

・保険証のコピーがあれば安心


 かなりしっかりしている。


 春樹は素直に思った。


 紅秋らしい。


 その下に圭の返信がある。


『紅秋しおり係ありがとう!』


 紅秋。


『しおりではない。持ち物リストだ』


 圭。


『ほぼしおり』


 蓮。


『助かるよ、紅秋』


 紅秋。


『必要なことをまとめただけだ』


 圭。


『照れてる?』


 紅秋。


『照れていない』


 春樹は少しだけ口元を緩めた。


 圭と紅秋。


 蓮。


 そして自分。


 名前呼びにも少し慣れてきた。


 最初は圭が一番騒いでいた。


 紅秋は照れていないと言いながら少し間があった。


 蓮は自然だった。


 春樹自身は、呼び方が変わることに大きな抵抗はなかった。


 ただ、以前より距離が近くなったことは分かる。


 それは悪くない。


 スマホが震える。


 美優からだった。


『明日、ちゃんと日焼け止め持った?』


 春樹は少し考えて返す。


『持った』


 美優。


『本当に?』


『持った』


『塗る?』


『たぶん』


『たぶんじゃだめ。焼けるよ』


『分かった』


 続けて美優。


『横田さん達も来るんだよね』


『うん』


『楽しみだね』


 春樹は少しだけ考えた。


 明日は海。


 みんなで行く。


 横田さんも来る。


 なつきは最近、春樹くんと呼ぶようになった。


 最初は少し驚いたような気もする。


 でも、今はもう自然になっている。


 春樹は返信した。


『うん』


 美優からすぐ返る。


『春樹のうんは短い』


『そう?』


『そう』


 春樹は首を傾げた。


 いつも通り返しているつもりだった。


   ◇


 昼過ぎ。


 なつきは茜と亜衣に呼ばれて、駅前のカフェにいた。


 前日最終確認。


 そう亜衣が言った。


 茜は「持ち物確認なら必要ね」と納得した。


 なつきは、緊張を一人で抱え続けるよりはいいと思い、参加した。


「はい、持ち物チェック!」


 亜衣がカフェの席で小さく宣言する。


「ここカフェだよ」


 なつきが言う。


「前日会議です」


 茜がノートを開く。


「実際、確認はしておきましょう」


「茜ちゃんまで本気」


「海は忘れ物をすると困るから」


 亜衣はスマホを見ながら読み上げた。


「タオル」


「ある」


 なつきが答える。


「日焼け止め」


「ある」


「着替え」


「ある」


「飲み物」


「明日買う」


「羽織るもの」


「ある」


「水着」


 なつきは固まった。


 亜衣がにやりとする。


「ある?」


「……ある」


「どんなの?」


「知ってるでしょ」


「言わせたい」


「言わない」


 茜が静かに言う。


「亜衣、やめなさい」


「はーい」


 でも亜衣はにやにやしていた。


「なつき、明日大丈夫?」


「何が?」


「春樹くんに見られるの」


 なつきはアイスティーを持つ手を止めた。


 明日。


 春樹に。


 水着姿を。


 想像しかけて、すぐに頭を振る。


「無理」


「即答」


「無理だよ」


「でも着るんでしょ?」


「海だから」


「春樹くんもいるよ?」


「知ってる」


「どうする?」


「どうするって……」


 なつきはグラスを見つめた。


 水面に自分の赤い顔が少し映っている気がした。


「普通にする」


 亜衣が目を丸くする。


「普通にできる?」


「できないかもしれないけど、普通にしたい」


 茜が優しく微笑む。


「それでいいと思うわ」


「うん」


「無理にアピールしようとしなくていい。なつきが楽しむことが一番よ」


「楽しむ……」


 海へ行く。


 春樹に見られるかどうかばかり考えていた。


 でも本当は、みんなで楽しむために行く。


 茜や亜衣と。


 春樹や蓮や美優や祐衣と。


 圭や紅秋と。


 夏の思い出を作るために。


 それを忘れてはいけない。


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


「楽しみたい」


 亜衣が嬉しそうに笑う。


「いいじゃん」


「それに」


 なつきは少しだけ勇気を出して言った。


「春樹くんとも、ちゃんと話したい」


 言った瞬間、顔が熱くなる。


 でも、二人は茶化さなかった。


 茜は静かに頷く。


「夏休みの目標ね」


 亜衣も優しく笑った。


「自分から話しかける」


「うん」


「明日、まず一回ね」


「一回?」


「水着見て固まる前に」


「亜衣ちゃん」


「冗談半分」


「半分は本気?」


「うん」


 三人で笑った。


 カフェの窓の外では、夏休みの学生達が歩いている。


 明日は自分達も、その中で海へ行く。


 なつきは少しずつ、緊張の中に楽しみが混ざっていくのを感じていた。


   ◇


 同じ頃、春樹、蓮、圭、紅秋も駅前で集まっていた。


 理由は、圭のサンダルが壊れかけていることが判明したからだった。


「前日に気づくのが圭らしい」


 紅秋が言う。


「壊れかけてるだけで、まだ壊れてない」


「海で壊れたら困る」


「それは困る」


 蓮が笑う。


「買えてよかったね」


「蓮、優しい」


 圭は新しいサンダルの袋を持っていた。


 春樹は隣でお茶を飲んでいる。


「春樹」


 圭が言う。


「明日、楽しみか?」


「うん」


「お、即答」


「海、久しぶり」


「そういう楽しみか」


 蓮が少し笑う。


「みんなで行くのも楽しみなんじゃない?」


 春樹は少し考えて頷いた。


「うん」


 圭がにやにやする。


「横田さんもいるしな」


 紅秋が圭の肩を掴む。


「余計なことを言うな」


「まだ何も!」


「言った」


「ちょっとだけ!」


 蓮は苦笑しながら春樹を見る。


 春樹は不思議そうだった。


「横田さん?」


「うん」


 蓮は少しだけ言葉を選んだ。


「最近、仲いいよね」


「勉強会でよく話す」


「それだけ?」


「本の話もする」


「そっか」


 蓮はそれ以上言わなかった。


 春樹は鈍い。


 でも、ちゃんと見ている。


 横田なつきが頑張っていることも、話したいと思っていることも、少しずつ受け取っている。


 それがいつ恋だと気づくのかは分からない。


 でも、急がなくてもいいのかもしれない。


 圭が新しいサンダルを持ち上げる。


「よし、これで明日は完璧!」


 紅秋が言う。


「持ち物は?」


「タオル、着替え、飲み物、財布、スマホ、サンダル」


「日焼け止め」


「あ」


「帽子」


「あ」


「ゴミ袋」


「あ」


「完璧とは」


 蓮が笑った。


「圭、明日忘れ物しそう」


「紅秋がリスト送ってくれたから大丈夫!」


「見ろ」


「はい」


 男子側も、前日から騒がしかった。


   ◇


 夕方。


 なつきは帰宅してから、もう一度荷物を確認した。


 カフェで茜と確認した。


 それでも不安で、もう一度。


 タオル。


 着替え。


 日焼け止め。


 羽織るもの。


 飲み物は明日。


 財布。


 スマホ。


 防水ケース。


 そして、水着。


 白い花柄の水着を、なつきはそっと手に取った。


 明日、これを着る。


 自分で選んだ。


 茜と亜衣に似合うと言ってもらった。


 でも、まだ少し不安だ。


 似合うだろうか。


 変じゃないだろうか。


 春樹は、どう思うだろう。


 なつきは鏡の前に立ち、袋の上から水着を抱える。


「楽しむ」


 小さく言った。


 明日は、春樹に見られるためだけの日じゃない。


 みんなで楽しむ日。


 自分の夏を楽しむ日。


 それでも、春樹とちゃんと話したい。


 一回でもいい。


 自分から。


 スマホが震えた。


 春樹からだった。


 個別メッセージ。


『明日、駅集合で大丈夫?』


 なつきの心臓が跳ねた。


 グループでも確認していた。


 でも、個別で来た。


 なつきは少し深呼吸して返信する。


『うん。大丈夫』


 春樹。


『忘れ物ない?』


 なつきは思わず笑った。


 春樹らしい。


『たぶん大丈夫』


 少し待って、春樹。


『たぶん』


 なつきは小さく笑った。


『ちゃんと確認したよ』


『なら大丈夫』


 それだけ。


 でも、胸が温かくなる。


 なつきは少し迷ってから、今日の目標を思い出した。


 自分から話しかける。


 自分の気持ちを少し言葉にする。


 明日は楽しみ。


 それを伝えるくらいなら。


 なつきは文字を打った。


『明日、楽しみだね』


 送信。


 心臓が鳴る。


 数秒。


 春樹から返事。


『うん。楽しみ』


 なつきはスマホを胸に抱えた。


 楽しみ。


 春樹も。


 同じように。


 たったそれだけで、明日への緊張が少しだけ楽しみに変わった気がした。


   ◇


 夜。


 グループチャットには、紅秋から最終確認のメッセージが届いた。


『明日集合は水戸駅九時半。遅れそうな場合は連絡。持ち物は各自確認。水辺では無理をしないこと』


 圭。


『紅秋しおり、ありがとー!』


 紅秋。


『しおりではない』


 亜衣。


『しおり係助かる!』


 紅秋。


『しおりではない』


 茜。


『確認ありがとう。助かります』


 紅秋。


『どういたしまして』


 圭。


『茜には素直!』


 紅秋。


『圭には言い方の問題がある』


 蓮。


『明日よろしく』


 美優。


『よろしくね。日焼け止め忘れないように』


 祐衣。


『よろしくお願いします。楽しみにしています』


 春樹。


『よろしく』


 なつきは画面を見ながら、少しだけ胸がいっぱいになった。


 みんながいる。


 明日、本当に海へ行く。


 なつきも返信した。


『よろしくお願いします。楽しみです』


 亜衣からすぐにスタンプが来た。


 圭からも、無駄に元気なスタンプが来た。


 グループチャットが笑いで埋まっていく。


 なつきはスマホを置き、荷物の横に座った。


 明日の服も決めた。


 水着も入れた。


 持ち物も確認した。


 あとは寝るだけ。


 でも、眠れるだろうか。


 胸がずっと忙しい。


 緊張している。


 楽しみでもある。


 不安もある。


 でも、行きたい。


 春樹くんと。


 みんなと。


 夏の海へ。


 なつきは部屋の明かりを落とす前に、もう一度だけスマホを見た。


 春樹との個別メッセージ。


『明日、楽しみだね』


『うん。楽しみ』


 その二行を見て、なつきは小さく笑った。


 君の隣を目指す夏。


 明日は、その中でもきっと特別な一日になる。


 なつきは布団に入り、目を閉じた。


 心臓はまだ少し速い。


 けれど、その速さは嫌じゃなかった。


 海の前日は、落ち着けない。


 でも、それすらも夏の一部みたいだった。

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