第73話 誘う勇気と、夏の返事
その日の夜。
なつきは、机の前でスマホを握りしめていた。
画面には、まだ何も入力されていない。
ただ、連絡先の一覧だけが表示されている。
白石祐衣。
その名前を見つけた瞬間から、なつきの指は止まったままだった。
海へ行く予定。
みんなで行けたら楽しそう。
自分からそう言った。
祐衣にも聞いてみる、と自分から言った。
春樹も「ありがとう」と言ってくれた。
だから、送る。
送るだけ。
ただそれだけなのに、胸がずっと忙しい。
「……なんて送ればいいの」
なつきは小さく呟いた。
祐衣は優しい。
図書室でも、なつきにちゃんと話しかけてくれた。
本の感想も聞きたいと言ってくれた。
嫌な人ではない。
むしろ、いい人だ。
だからこそ、緊張する。
変な文面を送ってしまったらどうしよう。
距離感を間違えたらどうしよう。
いきなり海に誘うのは変じゃないだろうか。
なつきは一度スマホを置き、深呼吸した。
そして、茜と亜衣の個別チャットを開く。
『祐衣さんに送る文、変じゃないか見てほしい』
送ると、すぐに亜衣から返事が来た。
『任せて!』
続いて茜。
『落ち着いて書けば大丈夫よ』
なつきは少し考え、文章を打った。
『白石さん、こんばんは。横田です。夏休みにみんなで海へ行こうという話が出ていて、もし予定が合えば白石さんも一緒にどうかなと思って連絡しました。まだ日程は仮なんだけど、よかったら聞かせてください』
送信はせず、二人へスクリーンショットを送る。
亜衣。
『固い!』
なつきは肩を落とした。
茜。
『丁寧で悪くはないけれど、少し学校の連絡みたいね』
『やっぱり?』
亜衣。
『祐衣ちゃん相手なら、もう少し柔らかくていいと思う』
茜。
『「よかったら一緒に行けたら嬉しい」くらいを入れてもいいわ』
なつきは画面を見つめる。
一緒に行けたら嬉しい。
それは本心だった。
緊張はする。
でも、祐衣も一緒に来てくれたら楽しいと思う。
春樹の近くにいる人だから怖い、だけではもうない。
本の話ができる人。
優しく笑ってくれる人。
なつきにとっても、少しずつ大切な相手になり始めている。
なつきは文章を書き直した。
『白石さん、こんばんは。横田です。急にごめんね。夏休みにみんなで海へ行こうって話していて、もし予定が合えば白石さんも一緒にどうかなと思って連絡しました。まだ日程は仮なんだけど、一緒に行けたら嬉しいです』
もう一度、茜と亜衣へ送る。
亜衣。
『いい!』
茜。
『自然だと思うわ』
なつきはスマホを握る手に力を込めた。
送る。
送るだけ。
でも、これは自分から踏み出す一歩だ。
春樹に近づくためだけじゃない。
夏を、ちゃんと自分の足で歩くための一歩。
なつきは祐衣のチャット画面を開き、文章を貼り付けた。
数秒、指が止まる。
そして。
送信。
画面に自分のメッセージが表示された瞬間、なつきは机に突っ伏した。
「送った……」
心臓がうるさい。
返事が来るまで、何も手につかない気がした。
その時、グループチャットが動いた。
圭からだった。
『海、蓮くんと美優さんどう?』
春樹。
『蓮は行ける。美優もたぶん大丈夫』
亜衣。
『やった!』
圭。
『人数増えてきた!』
紅秋。
『集合場所を決める必要があるな』
茜。
『日程確定後に決めましょう』
圭。
『紅秋くんと茜、運営コンビ』
紅秋。
『くんはいらない』
圭。
『え、そこ?』
亜衣。
『紅秋くん、照れてる?』
紅秋。
『照れていない』
なつきは少し笑った。
圭くんと紅秋くん。
女子側は、まだそのくらいの距離感が自然だ。
男子同士は名前呼びになったけれど、全員が一気に変わるわけではない。
なつきも、圭くん、紅秋くん、と呼ぶ方がしっくりくる。
そして春樹は、まだ自分を横田さんと呼ぶ。
それが少し寂しいような、でも大事にしたいような、不思議な距離だった。
春樹くんがいつか、なつき、と呼んでくれる日が来るのだろうか。
考えただけで、顔が熱くなる。
その瞬間、スマホが震えた。
祐衣からだった。
『横田さん、こんばんは。誘ってくれてありがとうございます。海、楽しそうですね。日程が合えばぜひ参加したいです』
なつきは息を止めた。
返事が来た。
しかも、参加したいと言ってくれた。
胸の奥が、ほっと温かくなる。
なつきはすぐに返信を打つ。
『ありがとう。まだ仮だけど、日程決まったら連絡するね』
祐衣。
『はい。楽しみにしています。本の感想も、その時に聞けたら嬉しいです』
本。
なつきは思わず笑った。
『うん。今読んでるよ。まだ途中だけど、すごく好き』
祐衣。
『よかったです。大國くんも好きそうな本ですよね』
大國くん。
祐衣はそう呼ぶ。
美優は春樹。
なつきは春樹くん。
それぞれの呼び方が、それぞれの距離を表している。
なつきは少しだけ迷ってから打った。
『春樹くんも、最後まで読んだら話そうって言ってくれた』
送ってから、少し恥ずかしくなる。
でも、祐衣からの返事は柔らかかった。
『素敵ですね。感想会、楽しみです』
なつきは画面を見つめた。
素敵ですね。
祐衣はそう言ってくれた。
茶化さず、距離を詰めすぎず、でも温かく。
その優しさに、なつきの緊張は少しずつほどけていった。
グループチャットへ戻り、なつきは打つ。
『祐衣さん、予定が合えば参加したいって』
亜衣。
『やった!』
圭。
『全員集合に近づいてる!』
春樹。
『ありがとう、横田さん』
その文字を見て、なつきの胸がまた跳ねた。
ありがとう、横田さん。
春樹からの言葉。
たったそれだけで、今日勇気を出してよかったと思える。
なつきは返信する。
『うん』
それから少し迷って、もう一文。
『誘えてよかった』
送信。
春樹からすぐに返る。
『うん』
また二文字。
でも、今日はそれがとても優しく見えた。
◇
翌日。
第三回宿題会ではなく、今日は予定確認だけの集まりになった。
場所は駅前のフードコート。
参加できるメンバーだけで集まり、海の日程を確定するためだ。
なつき、茜、亜衣。
春樹、紅秋、圭。
蓮と美優は別予定で来られなかったが、春樹が確認済み。
祐衣も日程が合えば参加できる。
フードコートの一角に六人で座ると、圭がさっそく言った。
「いよいよ海だな!」
紅秋が資料のようにスマホを出す。
「まだ決定事項の確認だ」
「紅秋くん、しおり作る気満々?」
亜衣が聞く。
「簡単な持ち物リストは作る」
「本当に作るんだ」
「必要だろう」
茜が頷く。
「助かるわ。水辺だから準備は大事ね」
圭が小声で言う。
「運営コンビが強い」
「聞こえているぞ」
紅秋が返す。
「すみません」
なつきはそのやり取りを聞きながら、少しだけ緊張していた。
海の日程が決まる。
春樹も来る。
美優も来る。
祐衣も来る。
蓮も、圭も、紅秋も、茜も、亜衣も。
大人数だから安心できるはずなのに、胸はずっと忙しい。
水着。
夏服。
海辺。
春樹くん。
考えないようにしても、どうしても浮かんでしまう。
「なつき」
亜衣が小声で言う。
「今、水着考えた?」
「考えてない」
「考えた」
「考えてない」
「白花柄」
「亜衣ちゃん」
なつきは小声で抗議する。
そのやり取りを春樹が不思議そうに見る。
「何の話?」
「何でもない!」
なつきと亜衣の声が重なった。
圭がにやっとする。
「怪しい」
紅秋が即座に言う。
「深掘りするな」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
「信用ない!」
茜が淡々と日程を確認する。
「では、来週土曜日で仮決定。集合は水戸駅。時間は朝九時半。移動手段は電車とバスを確認。場所は日陰と休憩スペースがある海水浴場を優先」
紅秋が頷く。
「持ち物は、タオル、着替え、日焼け止め、飲み物、帽子、必要なら羽織るもの」
圭が手を上げる。
「お菓子は?」
「必要なら少量」
「少量か」
亜衣も手を上げる。
「写真は?」
「周りに配慮して」
茜が言う。
「水辺でははしゃぎすぎないこと」
紅秋も続ける。
「荷物管理も必要だな」
圭が両手を上げた。
「先生が二人いる!」
「必要なことよ」
茜が言う。
なつきは笑いながらも、少し安心していた。
茜と紅秋がいる。
計画はしっかり進む。
圭と亜衣がいる。
空気は明るくなる。
春樹がいる。
それだけで、胸が落ち着かなくなる。
けれど、楽しみでもある。
話し合いが一段落したところで、春樹がなつきへ声をかけた。
「横田さん」
「うん?」
「祐衣、来られそう?」
「うん。日程が合えばって。楽しみにしてるって言ってた」
「そう」
「あと、本の感想会も楽しみって」
「うん」
春樹は少しだけ頷いた。
「横田さん、誘ってくれてありがとう」
また。
ちゃんと言ってくれた。
なつきの胸がふわっと温かくなる。
「うん」
なつきは少しだけ勇気を出した。
「私も、誘えてよかった」
春樹はなつきを見る。
ほんの少しだけ。
そして頷いた。
「うん」
それだけ。
でも、なつきには十分だった。
亜衣が遠くから見守るようににやにやしている。
茜は気づかないふりをしてくれている。
圭は口を開きかけ、紅秋に肩を押さえられて止まった。
フードコートのざわめきの中で、なつきは静かに思った。
前なら、祐衣を誘うことも。
春樹に「誘えてよかった」と言うことも。
きっとできなかった。
でも今はできた。
怖いけれど。
緊張するけれど。
ちゃんと前に進めている。
海の日程は決まった。
来週の土曜日。
夏の大きな予定が、ついにカレンダーに書き込まれる。
圭が最後に大きく伸びをした。
「よし! 海だ!」
紅秋が言う。
「その前に宿題を進めろ」
「海の前に宿題!」
亜衣が叫ぶ。
「現実!」
茜が笑う。
「現実を越えた先に、海があるのよ」
圭が真剣な顔で頷く。
「名言っぽい」
なつきも笑った。
笑いながら、胸の奥でそっと思う。
海まで、あと少し。
君の隣を目指す夏は、少しずつ本番へ近づいている。




