第71話 夏の予定は、通知音から始まる
宿題会の翌日。
なつきは自分の部屋で、机の上に本を開いていた。
昨日の図書館で少し進めた読書感想文用の本。
春樹が選んでくれた本。
祐衣が「いい本ですよ」と言ってくれた本。
美優も感想を聞くと言ってくれた本。
ページをめくるたびに、図書室での時間と、図書館での会話が少しずつ思い出される。
物語は静かだった。
大きな事件が起きるわけではない。
でも、登場人物の心の動きがゆっくり描かれていて、読み終えた後に胸の奥へ残るような話だった。
春樹くんが好きそう。
そう思った瞬間、なつきはページの上に視線を落としたまま頬を赤くした。
最近、何かにつけて春樹を思い出してしまう。
本。
宿題。
図書館。
夏服。
昨日のグレーのシャツ。
似合ってる、と言えたこと。
その時の春樹の「ありがとう」。
思い出すだけで、胸の奥がふわっと熱くなる。
なつきはノートの端に、感想文用のメモを書いた。
『静かな話だけど、登場人物の気持ちが少しずつ変わっていくところが印象に残った』
書いてから、少しだけ止まる。
少しずつ変わっていく。
それは、自分のことにも少し似ている気がした。
春樹を遠くから見ているだけだった頃。
話しかけるだけで精一杯だった頃。
春樹くん、と呼べるようになった今。
まだ大きく変わったわけではない。
でも、少しずつ。
本当に少しずつ。
なつきは変わっている。
そう思えるようになってきた。
その時、スマホが震えた。
画面を見る。
グループチャットだった。
名前は、亜衣が勝手につけた。
『夏休み生還組』
最初に見た時、なつきは笑った。
茜は「もう少しまともな名前にしなさい」と言った。
紅秋は「意味は分かる」とだけ返した。
圭は「最高」と返した。
春樹は「うん」と返した。
それで決定してしまった。
通知の主は圭だった。
『宿題会おつ!』
続けて。
『次は遊びの予定決めようぜ!』
すぐに亜衣が反応する。
『待ってました!!』
圭。
『海!』
亜衣。
『祭り!』
圭。
『花火!』
亜衣。
『全部!』
なつきは思わず笑った。
この二人は、チャットでも勢いが変わらない。
茜が返信する。
『まず日程を決めましょう』
紅秋。
『宿題の進み具合も確認してからだな』
圭。
『紅秋、夏にも厳しい』
紅秋。
『未来の圭を救うためだ』
亜衣。
『未来の亜衣も救ってください』
茜。
『まず今日の分をやりなさい』
なつきはスマホを見ながら笑っていた。
すると、春樹から通知が来た。
『海なら日陰がある場所がいい』
圭。
『春樹、そこ!?』
亜衣。
『春樹くんらしい笑』
なつきはその文字を見て、胸が少し跳ねた。
春樹くん。
チャットの中でも、亜衣は自然にそう呼ぶ。
自分も、もう普通に呼べるようになってきた。
なつきは少し迷ってから、文字を打った。
『日陰、大事だと思う』
送信。
数秒後、春樹から返信。
『うん』
たった二文字。
でも、なつきはスマホを両手で持ったまま、少しだけ固まった。
同意された。
それだけなのに嬉しい。
亜衣からすぐに個別メッセージが来た。
『なつき、今にやけたでしょ』
なつきは慌てる。
『にやけてない』
『絶対にやけた』
『してない』
『春樹くんの「うん」で幸せになる女』
『亜衣ちゃん!』
すぐに茜からも個別メッセージが来る。
『亜衣に振り回されすぎないように』
なつきは笑いながら返信する。
『うん。でも楽しい』
茜。
『ならいいわ』
グループチャットはさらに盛り上がっていた。
圭。
『海ならいつ?』
茜。
『全員の予定を確認しましょう。部活や家の用事もあるでしょう』
圭。
『俺はダンスある日以外!』
紅秋。
『ざっくりしすぎだ』
亜衣。
『私は基本いける!』
茜。
『宿題が終わっていればね』
亜衣。
『条件がついた』
春樹。
『蓮と美優にも聞く?』
なつきの指が止まる。
美優。
蓮。
当然、誘う流れだ。
嫌ではない。
でも、名前を見ると少しだけ胸が揺れる。
続けて、春樹。
『祐衣にも』
祐衣。
胸の揺れがもう一つ増える。
けれど、なつきは以前ほど沈まなかった。
この前の図書室で、祐衣と美優と一緒に本の話をした。
夏休みの予定も、一緒に行けたら嬉しいと言えた。
だから大丈夫。
少し緊張するけれど。
なつきは文字を打った。
『みんなで行けたら楽しそう』
送ってから、少しだけ息を止める。
亜衣。
『なつきが前向き!』
圭。
『いいじゃん!大人数!』
茜。
『人数が増えるなら、なおさら計画が必要ね』
紅秋。
『集合場所と時間、持ち物も決めないとな』
圭。
『紅秋、遠足のしおり作れそう』
紅秋。
『必要なら作る』
亜衣。
『作るんだ笑』
春樹。
『助かる』
紅秋。
『検討する』
チャットはしばらく続いた。
海。
祭り。
花火。
どれを最初にするか。
宿題会をもう一回挟むか。
美優と蓮と祐衣の予定をどう確認するか。
なつきはそのやり取りを見ながら、夏休みが本当に動き出しているのを感じていた。
夏休みは、ただ家で過ごすだけの時間ではなくなった。
友達と会う。
春樹と会う。
みんなで予定を立てる。
その一つ一つが、胸を少しずつ弾ませる。
スマホがまた震える。
今度は春樹から個別だった。
なつきの心臓が大きく跳ねた。
『本、進んでる?』
なつきは画面を見つめる。
春樹から。
個別。
本の話。
ただそれだけなのに、指が少し震えた。
深呼吸して返信する。
『少し読んだよ』
『どう?』
すぐ返ってきた。
なつきはノートを見る。
自分のメモ。
静かな話。
少しずつ変わる気持ち。
そのまま送るのは少し恥ずかしい。
でも、ちゃんと伝えたい。
『静かな話だけど、気持ちが少しずつ変わっていくところが好きかも』
送信。
しばらくして、春樹。
『分かる』
たった三文字。
でも、なつきはその画面を見て、胸の奥がじんわり温かくなった。
分かる。
春樹が、自分の感想にそう言ってくれた。
それが嬉しかった。
さらに春樹から続く。
『最後まで読むと、もう少し残ると思う』
『楽しみ』
『読んだら話そう』
なつきはスマホを胸に抱えた。
読んだら話そう。
次に話す約束。
また一つ増えた。
『うん。話したい』
送ってから、なつきは自分の返信を見て固まった。
話したい。
送ってしまった。
思ったより素直な言葉。
消したい。
でももう送った。
心臓がうるさい。
春樹から返信。
『うん』
それだけ。
でも、否定されなかった。
いつもの春樹の「うん」。
なつきは小さく息を吐き、机に突っ伏した。
「……無理」
でも、嫌じゃない。
むしろ嬉しい。
夏休みの目標。
自分から話しかける。
昨日は服を褒められた。
今日は「話したい」と言えた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
◇
その日の午後。
なつきは亜衣と茜に呼び出され、駅前のカフェにいた。
午前中のチャットで予定の話が進みすぎた結果、女子側で一度整理しようということになったのだ。
「なつき」
席に着くなり、亜衣が真剣な顔で言った。
「春樹くんと個別でやり取りしたでしょ」
なつきは飲み物を落としかけた。
「な、何で」
「顔」
「まだ何も言ってない」
「顔が『しました』って言ってる」
茜が静かに言う。
「実際、したのね」
「……本の話だけ」
「だけ?」
亜衣がにやにやする。
「本の話は大事だよ」
「うん」
なつきは少し照れながらも、スマホを見せた。
春樹とのやり取り。
読んだら話そう。
話したい。
その文字を見た亜衣は、口元を押さえた。
「なつき……」
「何?」
「成長しすぎて、私は泣きそう」
「泣かないで」
「前なら絶対送れなかったよ、これ」
「うん……自分でもびっくりした」
茜も優しく微笑む。
「いいと思うわ。素直で」
「変じゃない?」
「変ではないわ」
亜衣が頷く。
「むしろ春樹くんにはこれくらい分かりやすくていい」
「分かりやすい?」
「春樹くん、鈍いから」
「それは……」
否定できない。
春樹は優しい。
ちゃんと見てくれる。
でも恋愛的な空気には、かなり鈍い。
クラス中が気づいていても、春樹だけ気づいていないようなことも多い。
「だからさ」
亜衣はストローを回しながら言う。
「夏休みは、なつきがちょっとずつ分かりやすくいくの大事」
「分かりやすく……」
「好きです! までは言わなくていいよ?」
「言えるわけない!」
「でも、話したい、とか、一緒に行きたい、とか、嬉しい、とか」
亜衣は指を折る。
「そういうのは言っていい」
茜も頷く。
「自分の気持ちを少しずつ言葉にする練習ね」
「練習」
「ええ」
なつきはアイスティーのグラスを見つめた。
自分の気持ちを言葉にする。
嬉しい。
話したい。
一緒に行きたい。
そんな言葉を、春樹に向けて少しずつ言えるようになったら。
春樹との距離も、また少し変わるのだろうか。
「頑張ってみる」
なつきは小さく言った。
亜衣が嬉しそうに笑う。
「よし!」
茜も頷く。
「無理はしない範囲でね」
「うん」
それから三人は、夏の予定を具体的に整理し始めた。
茜がノートを開く。
「候補は、海、夏祭り、花火、もう一回宿題会」
「宿題会が混ざってる」
亜衣が言う。
「必要でしょう」
「まあ、未来の私のためには必要」
「まずは宿題会をもう一回。その後、海の予定を決めるのが現実的ね」
「海!」
亜衣の目が輝く。
なつきの胸も跳ねる。
「海……」
「なつき、水着準備済みだもんね」
「亜衣ちゃん!」
「白花柄」
「言わないで!」
「春樹くんが見たらどうなるかな」
「無理!」
「まだ何もしてないのに無理って言った」
茜が少し笑う。
「海へ行くなら、持ち物はしっかり決めないとね」
「茜ちゃん、そこ?」
「日焼け止め、タオル、着替え、飲み物。あと集合場所」
「助かる」
亜衣は笑う。
「茜ちゃんと紅秋くんがいれば、絶対迷子にならないね」
「圭くんが迷子になりそう」
なつきが言うと、亜衣が吹き出した。
「分かる!」
茜も少しだけ口元を緩める。
「圭くんは目を離すと屋台や面白そうなものへ行きそうね」
「紅秋くんが首根っこ掴んでそう」
「想像できる」
三人で笑う。
夏の予定を話すだけで、楽しかった。
まだ日付も場所も決まっていない。
それでも、みんなで行く光景が少しずつ浮かんでくる。
春樹。
蓮。
美優。
祐衣。
圭。
紅秋。
亜衣。
茜。
そして自分。
その中で、自分は春樹とどれだけ話せるだろう。
どれだけ隣に近づけるだろう。
考えるだけで緊張する。
でも、楽しみでもある。
夕方前にカフェを出ると、空は少しだけ晴れていた。
雲の間から薄い青が見える。
夏はまだ始まったばかり。
でも、予定は少しずつ形になっていた。
駅前で別れる前、亜衣が言った。
「なつき」
「うん?」
「今日の目標達成じゃない?」
「目標?」
「自分から気持ちを言葉にする」
なつきは少し考える。
春樹へのメッセージ。
話したい。
確かに、言えた。
「……うん」
なつきは小さく笑った。
「達成かも」
茜が優しく言う。
「いい一歩ね」
「うん」
なつきは鞄の中の本を思い出す。
まだ読み終わっていない本。
春樹と話すための本。
感想文を書くための本。
そして、自分の気持ちを少しずつ言葉にするための本。
夏休みは、通知音から動き出した。
グループチャット。
個別メッセージ。
女子会。
海の予定。
まだ何も大きなイベントは始まっていない。
でも、確かに次へ進んでいる。
君の隣を目指す夏。
その予定表は、少しずつ埋まり始めていた。
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