第68話 夏休み初日、女子会は暴走する
夏休み初日の朝。
なつきは、いつもより少し遅く目を覚ました。
目覚ましは鳴っていた。
けれど、学校へ行かなくていい朝は、音の聞こえ方まで違う。
制服に着替えなくていい。
時間割を確認しなくていい。
提出物を鞄へ入れ忘れていないか、焦って確認しなくていい。
その事実だけで、体の力がふっと抜ける。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ梅雨明け前らしく少し白く濁っていた。
けれど、空気の中には夏の気配がある。
湿った暑さ。
遠くから聞こえる蝉の声。
家の中の生活音。
全部が、昨日までとは違って感じられた。
夏休み。
本当に始まったんだ。
なつきは布団の中で小さく息を吐いた。
昨日、終業式が終わった。
図書室で春樹に本を選んでもらった。
祐衣と美優も来て、四人で本の話をした。
そして、夏の予定の話も少しだけ出た。
海。
祭り。
花火。
みんなでどこかへ行く話。
考えるだけで、胸の奥が少し熱くなる。
春樹くんと、夏休みに会えるかもしれない。
学校ではない場所で。
制服ではない服で。
そう思った瞬間、なつきは布団を顔まで引き上げた。
「……無理」
小さく呟く。
まだ何も決まっていない。
ただ予定の話が出ただけ。
それなのに、想像だけで心臓が忙しい。
夏休み初日からこんな調子で大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えていると、スマホが震えた。
亜衣からだった。
『起きてる?』
なつきは少し迷ってから返信する。
『起きてるよ』
すぐに返事が来る。
『女子会するよ』
続けて。
『茜にも連絡済み』
さらに。
『逃げられません』
なつきは思わず笑った。
夏休み初日。
亜衣はもう動いている。
『どこ行くの?』
『駅前。服見る。雑貨見る。カフェ行く。夏の作戦会議』
作戦会議。
その文字を見ただけで嫌な予感がした。
でも、少し楽しみでもあった。
『何時?』
『十時半』
『分かった』
『あと、春樹くん対策もする』
なつきはスマホを落としかけた。
『しない』
『する』
『しない』
『茜も必要って言ってた』
数秒後、茜からもメッセージが来た。
『亜衣の暴走を止めるためにも来なさい』
なつきは布団の中で笑ってしまった。
行かない選択肢は、最初からなかった。
◇
駅前に着くと、すでに亜衣が待っていた。
夏らしい明るい色のトップスに、動きやすそうなスカート。
髪も少しだけいつもより整えている。
完全に休日の亜衣だった。
「なつきー!」
亜衣が手を振る。
「おはよう」
「おはよ! 私服かわいいじゃん!」
「えっ、そう?」
なつきは自分の服を見下ろす。
薄い色のブラウスに、シンプルなスカート。
派手ではない。
でも、昨日の夜少し迷って選んだ服だった。
「うん。夏っぽい。清楚。春樹くんが見たら静かに褒めそう」
「朝からやめて」
「静かに『似合う』って言いそう」
「やめて!」
なつきの顔が一瞬で熱くなる。
亜衣は満足そうに笑った。
「よし、今日も赤くなった」
「何の確認?」
「健康確認」
「違うと思う」
少し遅れて茜が来た。
落ち着いた色のワンピースに、薄手のカーディガン。
茜らしく、きちんとしているのに涼しげだった。
「おはよう」
「茜ちゃん、おはよう」
「おはよー! 茜、今日も大人っぽい」
「ありがとう」
「春樹くんの好みっぽい」
「亜衣」
茜の声が低くなる。
「朝から余計な火種を投げない」
「はい」
なつきは赤い顔のまま俯いた。
春樹の好きなタイプ。
落ち着いていて、一緒にいて安心できる人。
その言葉を思い出すと、どうしても茜や祐衣や美優が浮かぶ。
自分はまだ、春樹の前で落ち着いているとは言えない。
でも最近は、前より少し自然に話せるようになってきた。
春樹くん、と呼べるようにもなった。
少しずつ。
少しずつでいい。
「なつき」
茜が優しく声をかける。
「考えすぎ」
「え?」
「顔に出ていたわ」
「そんなに?」
「かなり」
亜衣が頷く。
「なつきは顔に字幕出るタイプ」
「出ないよ」
「出てる。今は『春樹くんの好きなタイプ……』って出てた」
「読まないで!」
三人は笑いながら駅ビルへ入った。
夏休み初日の駅前は、学生が多かった。
同じように終業式を終えたばかりなのだろう。
友達同士で歩く女子高生。
部活帰りの男子。
買い物袋を持つ人。
フードコートへ向かう家族連れ。
その中にいるだけで、なつきの胸も少し弾んだ。
学校ではない。
休日。
夏休み。
その響きが、足取りを軽くする。
「まず服!」
亜衣が宣言した。
「その後、雑貨」
「カフェは?」
なつきが聞く。
「もちろん行く」
茜が言う。
「時間配分を考えましょう」
「茜ちゃん、今日は完全に予定係」
「亜衣に任せると全部勢いになるから」
「否定できない」
三人はまず服屋へ入った。
店内には夏服が並んでいる。
薄いブラウス。
ワンピース。
涼しげなスカート。
カジュアルなTシャツ。
帽子。
サンダル。
鏡に映る自分達の姿も、学校の制服とは全然違って見える。
「なつき、これ」
亜衣が淡い水色のトップスを持ってきた。
「似合いそう」
「かわいいけど……」
「着てみよ」
「え、今?」
「今」
茜も見て頷いた。
「いいと思うわ。色も涼しげ」
「茜ちゃんまで」
「試着だけなら自由よ」
結局、なつきは試着室へ押し込まれた。
カーテンの向こうで着替えながら、なつきは少しだけ緊張する。
夏服。
もしこれを着て春樹に会ったら。
そんなことを考えた瞬間、顔が熱くなる。
まだ会う予定もない。
でも夏休みだ。
どこかで会うかもしれない。
海かもしれない。
祭りかもしれない。
図書館かもしれない。
春樹くんは、こういう服を見てどう思うのだろう。
「なつきー? 溶けてる?」
外から亜衣の声。
「溶けてない」
「春樹くん想像してない?」
「してない!」
「声がしてる」
「してないから!」
カーテンを開けると、亜衣がにやりと笑った。
茜はなつきを見て、目を少し細める。
「似合ってるわ」
「本当?」
「ええ。柔らかい雰囲気で、なつきらしい」
亜衣も大きく頷く。
「いい! これは春樹くんに見せたい」
「見せない!」
「何でよ」
「恥ずかしいから」
「じゃあ偶然見せよう」
「偶然って何」
「夏休みは偶然が起きるもの」
亜衣は意味ありげに言った。
なつきは試着室の鏡を見る。
たしかに、悪くない。
いつもの自分より少しだけ明るく見える。
夏らしい。
でも、少しだけ背伸びしているような気もする。
「買う?」
茜が聞く。
「迷う」
「迷ったら?」
亜衣が聞く。
「買わない?」
「違う。春樹くんが見たらどう言うか考える」
「亜衣ちゃん!」
なつきは思わず抗議した。
けれど、もう考えてしまっていた。
春樹がこれを見たら。
似合う。
そう短く言うかもしれない。
美優に言っていたように。
そう思うと、胸がきゅっとなった。
なつきは少し迷ってから、小さく言った。
「……買おうかな」
亜衣が両手を上げた。
「勝った!」
「何に?」
「なつきの夏に」
「意味分からない」
茜は笑っていた。
その後も三人は服を見た。
亜衣は派手めのTシャツやアクセサリーに目を輝かせ、茜は落ち着いた服を手に取る。
なつきは何度も亜衣にからかわれながら、少しずつ夏服を見ていった。
不思議だった。
服を選ぶだけなのに、春樹のことを考えてしまう。
似合うと思ってもらえるだろうか。
変じゃないだろうか。
でも、全部を春樹のために選んでいるわけではない。
自分が少しだけ前を向ける服。
自分が少しだけ好きになれる服。
そう思えるものを選びたい。
それも、今のなつきにとっては大事なことだった。
服屋を出た後は、雑貨店へ向かった。
髪留め。
ハンカチ。
小さなポーチ。
日焼け止め。
夏らしい小物が並んでいる。
「海行くなら日焼け止め必須」
茜が言う。
「茜ちゃん、完全に現実担当」
「大事よ」
「水着の上に羽織るやつもいるよね」
亜衣が言う。
なつきはまた顔が熱くなる。
「まだ海って決まってないよ」
「でも行くでしょ」
「分からないけど」
「行く流れでしょ」
亜衣は楽しそうだった。
「春樹くんも来るよ、たぶん」
「だから」
「なつき、海で春樹くんに何て呼ぶの?」
「え?」
「学校じゃない場所でも、春樹くんって呼べる?」
なつきは固まった。
学校では、少しずつ呼べるようになった。
でも、私服で。
学校ではない場所で。
海や祭りで。
春樹くん、と呼ぶ。
想像しただけで心臓が跳ねる。
「……呼べる、かな」
なつきは小さく言った。
亜衣は少しだけ目を丸くした。
茜も静かに見ている。
「お」
亜衣が笑う。
「前なら即『無理』だったのに」
「無理かもしれないけど」
「でも、呼びたい?」
なつきは少しだけ黙った。
そして頷いた。
「呼びたい」
言葉にすると、胸が熱くなる。
春樹くん。
学校でも、夏休みでも。
自然に呼べるようになりたい。
隣にいる時に。
慌てずに。
笑って。
茜が優しく言う。
「なら、少しずつね」
「うん」
亜衣はにこっと笑った。
「いいね。なつき、ちゃんと前進してる」
「そうかな」
「してる」
「ええ」
茜も頷いた。
なつきは少しだけ照れながら、小さな髪留めを手に取った。
淡い花の飾りがついている。
派手すぎない。
でも、少し可愛い。
「これも似合いそう」
茜が言う。
「本当?」
「うん」
亜衣がすぐに言う。
「夏祭り用!」
「気が早い」
「早くない。夏はすぐ来る」
「もう来てるけどね」
三人で笑った。
買い物を終えた頃には、少し歩き疲れていた。
駅ビル内のカフェへ入る。
昼前の時間帯で、店内はほどよく混んでいた。
窓際の席に座り、飲み物と軽食を頼む。
亜衣は甘いドリンク。
茜は紅茶。
なつきはアイスティーと小さなケーキ。
「夏休み初日から充実してる」
亜衣がストローを回しながら言う。
「まだ午前中だけど」
茜が返す。
「午前中で服も雑貨も見た。優秀」
「勉強は?」
「今日はしない」
「宿題は?」
「今日はしない」
「明日は?」
「未来の私と相談」
茜は黙って亜衣を見た。
亜衣はすぐに目を逸らした。
「……明後日くらいからやります」
「よろしい」
なつきは笑った。
夏休みの宿題。
たしかに、早めにやった方がいい。
でも今日は、少しだけ夏休みを味わいたかった。
「なつきは宿題やる派?」
亜衣が聞く。
「早めに終わらせたい気持ちはある」
「気持ちは?」
「実際は分からない」
「仲間」
茜が言う。
「三人で図書館に行けばいいわ」
「また?」
亜衣が少し嫌そうな顔をする。
「夏休みの宿題会」
「えー」
「春樹くん達も呼べば?」
亜衣が一瞬で顔を上げた。
なつきの心臓も跳ねた。
「春樹くん達?」
茜が静かに言う。
「勉強会の延長なら自然でしょう」
「茜ちゃん、今すごくいいこと言った」
亜衣が身を乗り出す。
「宿題会! あり!」
「亜衣ちゃん、春樹くんが絡むと急にやる気出すのやめて」
「なつきのため」
「本当?」
「半分」
「残り半分は?」
「紅秋くんに見張ってもらうため」
「本音」
茜が笑う。
「でも、宿題会はいいと思うわ。早めに終わらせれば、後が楽になる」
「後で海とか祭りとか行けるしね」
亜衣が言う。
なつきは頷いた。
「うん」
夏休みの予定が、少しずつ形になっていく。
買い物。
宿題会。
海。
祭り。
花火。
そして、その中に春樹がいるかもしれない。
そう思うと、夏休みはただの休みではなくなった。
何かが始まる時間に思えた。
「なつき」
亜衣が急に真面目な声を出した。
「何?」
「夏休み中の目標を発表してください」
「えっ」
「はい、どうぞ」
「急すぎる」
「恋愛目標」
「言わない!」
なつきは顔を赤くする。
亜衣は楽しそうに笑った。
「じゃあ私が代わりに言う」
「言わないで」
「春樹くんと二人で話す時間を増やす」
「う……」
「春樹くんって自然に呼ぶ」
「それは……」
「夏服を見てもらう」
「亜衣ちゃん!」
「海で赤くならない」
「無理!」
即答してしまった。
亜衣と茜が同時に笑う。
「無理なんだ」
「無理だよ!」
「素直」
茜が優しく言う。
「全部を一気にやろうとしなくていいわ」
「うん」
「でも、目標を一つ持つなら」
茜は少し考える。
「自分から話しかける回数を増やす、くらいがいいんじゃない?」
なつきはその言葉を受け止めた。
自分から話しかける。
春樹くん、と呼ぶ。
何かを聞く。
ありがとうと言う。
またねと言う。
それなら、少しずつできるかもしれない。
「それなら……頑張れるかも」
「いいじゃん!」
亜衣が笑う。
「夏休み目標、決定」
「勝手に決めないで」
「でも決定」
なつきは困ったように笑った。
でも、嫌ではなかった。
春樹の隣を目指す夏。
その最初の目標。
自分から話しかける。
小さなことかもしれない。
でも、なつきにとっては大きな一歩だった。
カフェでの時間は、ゆっくり流れた。
夏服の話。
宿題の話。
海の話。
春樹の話。
美優と祐衣の話も少し出た。
「美優ちゃんも誘うんだよね」
亜衣が言う。
「うん」
なつきは頷いた。
「祐衣さんも」
「大丈夫?」
茜が聞く。
「うん。少し緊張するけど」
なつきはアイスティーのグラスを見つめる。
「でも、二人とも一緒にいたら楽しいと思う」
「なつき、強くなったね」
亜衣が言った。
「強くはないよ」
「前なら、名前出ただけで沈んでた」
「それは……そうかも」
「今も揺れる?」
なつきは正直に頷いた。
「揺れる。でも、嫌じゃない」
美優も祐衣もいい人だ。
春樹の近くにいる。
でも、なつきも少しずつ近づいている。
そのことを、最近はちゃんと思えるようになっていた。
茜が微笑む。
「それでいいと思うわ」
「うん」
カフェを出る頃には、外の空気が少しだけ暑くなっていた。
駅前には夏休み初日の浮ついた空気がある。
学生達の笑い声。
親子連れの会話。
遠くから聞こえる電車の音。
なつきは買った服の入った袋を持ち、少しだけ胸を弾ませていた。
「次は宿題会だね」
亜衣が言う。
「本当にやる?」
なつきが聞く。
「やる。未来の私を救うために」
「偉い」
茜が頷く。
「早めに日程を決めましょう」
「春樹くん達にも声かける?」
亜衣がわざとらしくなつきを見る。
なつきは少し赤くなりながらも、逃げなかった。
「……うん」
小さく言う。
「声、かけたい」
亜衣は満足そうに笑った。
「よし」
茜も優しく頷く。
「一歩ね」
なつきは駅前の空を見上げた。
雲の向こうに、夏の光が少しずつ強くなっている。
夏休み初日。
女子会。
買い物。
カフェ。
笑い声。
春樹くんへの目標。
まだ何も大きなことは起きていない。
でも、確かに始まった。
君の隣を目指す夏が。
なつきは買ったばかりの服の袋をそっと持ち直した。
いつか、この服を着て春樹くんに会えたら。
似合う、と言ってくれたら。
そんな想像だけで、また顔が熱くなる。
亜衣が横から覗き込む。
「今、また想像した」
「してない」
「した」
「してない」
「春樹くん?」
「亜衣ちゃん!」
三人の笑い声が、夏休み初日の駅前に重なった。
暑くて、少し眩しくて。
でも、心が軽い。
夏は、始まったばかりだった。
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