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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第66話 終業式前日、浮かれるにはまだ早い


 答案返却が終わった翌日。


 教室には、明らかに前日までとは違う空気が流れていた。


 期末テストが終わった。


 答案も返ってきた。


 補習が確定した者は顔色を失い、回避した者は世界を取り戻したような顔をしている。


 そして、商業科二年十一組の勉強会メンバーは、全員が夏休みを守った。


 それは、本人達にとってはかなり大きな勝利だった。


「俺は自由だ」


 三浦が朝から窓際に立っていた。


 窓の外を見つめ、まるで何かから解放された人間のような顔をしている。


「まだ終業式前日だぞ」


 田辺が言う。


「心はもう夏休み」


「体は学校」


「そこがつらい」


 島中が椅子にもたれながら笑った。


「三浦、今日一日耐えろ」


「無理かもしれん」


「何でだよ」


「自由を知ってしまったから」


 紅秋がノートを閉じる。


「自由には責任が伴う」


 三浦が振り返る。


「紅秋、終業式前日にそれ言う?」


「宿題がある」


「やめろ!」


 亜衣が机に突っ伏した。


「宿題って言葉、聞こえない」


 茜がすぐに言う。


「聞こえているわ」


「聞こえない」


「耳を塞いでも宿題は消えない」


「茜ちゃんもやめて!」


 なつきはそのやり取りを聞きながら笑った。


 期末前の重苦しい空気は、もうない。


 もちろん、終業式が終わるまではまだ学校だ。


 宿題もある。


 通知表もある。


 先生の話もある。


 でも、それでも。


 夏休みがすぐそこまで来ている。


 その事実が、教室全体を少し浮かせていた。


「なつき」


 亜衣が顔だけこちらへ向ける。


「夏休み、何したい?」


「急だね」


「大事」


「うーん……」


 なつきは少し考える。


 すぐに浮かんだのは、海だった。


 水着売り場。


 亜衣と茜と試着した日のこと。


 白い花柄の水着。


 春樹を想像して真っ赤になった自分。


 思い出した瞬間、顔が熱くなりそうになる。


「今、海想像した」


 亜衣が言う。


「してない」


「した」


「してない」


「春樹くんもいた?」


「亜衣ちゃん!」


 なつきの声が少し大きくなった。


 周囲の数人がちらりと見る。


 なつきは慌てて口を押さえる。


 亜衣はにやにやしていた。


 茜がため息をつく。


「亜衣、朝からなつきを赤くしない」


「赤くなったのはなつきの想像力のせい」


「亜衣ちゃんのせいだよ」


「半々」


「違う」


 その時、教室の扉が開き、春樹が入ってきた。


 なつきの背筋が自然に伸びる。


「おはよう、春樹くん」


「おはよう」


 もう、周囲はほとんど反応しなかった。


 最初の頃なら、教室中が一斉に固まっていた呼び方。


 今は、それが当たり前になり始めている。


 三浦だけが一瞬にやりとしたが、紅秋に無言で見られて口を閉じた。


 島中と田辺も、少しだけ笑って終わった。


 なつきはその変化に気づいて、胸の奥が少し温かくなる。


 春樹くん。


 この呼び方が、自分の中だけでなく、クラスの中にも馴染んできている。


「春樹くん」


 なつきは少し勇気を出して続けた。


「明日、終業式だね」


「うん」


「長いかな」


「校長先生?」


「うん」


 春樹は少しだけ考えた。


「長いと思う」


「やっぱり」


「去年も長かった」


「覚えてるんだ」


「少し」


 なつきは笑った。


 こんな何気ない会話が、今はできる。


 それが嬉しい。


 春樹は自分の席へ向かい、本を机に置いた。


 その様子を見て、三浦が突然手を上げる。


「なぁ、大國」


「何?」


「終業式中に眠くなったらどうすればいい?」


「寝ない」


「正論!」


 島中が笑う。


「大國に聞くなよ」


「いや、眠そうじゃん」


 春樹は首を傾げる。


「俺?」


「本読んでる時、静かすぎて寝てるのかと思う時ある」


「起きてる」


「知ってるけど」


 紅秋が言う。


「眠くなったら姿勢を正せ」


 三浦が真顔になる。


「紅秋、絶対寝ないタイプだろ」


「式中に寝るな」


「強い」


 田辺が言う。


「俺はたぶん寝ないけど、校長先生の話が長いと危ない」


 島中も頷く。


「体育館暑いしな」


 亜衣が手を上げる。


「私も危ない」


 茜が即座に言う。


「寝たら起こすわ」


「優しい」


「場合によっては強めに」


「怖い」


 教室に笑いが起きた。


 その日の授業は、ほとんど夏休み前の整理だった。


 各教科の先生から宿題の説明があり、提出日を確認され、注意事項を聞かされる。


 生徒達の反応は分かりやすかった。


「このプリント、夏休み明け提出です」


 先生が言う。


 教室が沈む。


「ワークは丸つけまで」


 さらに沈む。


「読書感想文もあります」


 三浦が小さく崩れ落ちる。


「三浦くん、まだ授業中です」


「はい……」


 亜衣は横で真っ白になっていた。


「読書感想文……」


「亜衣ちゃん、本読まないの?」


「漫画なら読む」


「小説は?」


「なつきと春樹くんにおすすめ聞く」


 なつきは少し驚く。


「私?」


「うん。なつき最近読書女子だし」


「読書女子って」


 春樹が少し離れた席から言う。


「短い話から読めばいいと思う」


 亜衣が振り返る。


「春樹くん、おすすめして」


「いいよ」


「やった!」


 なつきはそのやり取りを見て、少しだけ胸が揺れた。


 亜衣は自然に春樹へ頼める。


 でも、不思議と嫌な感じはしない。


 亜衣は亜衣だ。


 自分を何度も助けてくれた友達。


 むしろ、春樹の本の話を自分も一緒に聞けるなら嬉しい。


「私も」


 なつきは小さく言った。


 春樹が顔を向ける。


「何?」


「私も、感想文用にもう一冊読もうかな」


「じゃあ一緒に探す?」


 時間が止まった。


 なつきの中だけで。


「え」


「図書室か本屋で」


 春樹は普通に言った。


 普通に。


 何でもないように。


 でも、なつきには十分すぎた。


「う、うん」


「夏休み前に借りるなら明日かな」


「うん」


 亜衣がゆっくりと口元を押さえた。


 茜もわずかに目を細めた。


 三浦は反応しかけたが、紅秋が無言で机を指差した。


 授業中だ。


 三浦は黙った。


 なつきはノートに視線を落としたまま、心臓がうるさく鳴るのを感じていた。


 一緒に探す。


 本を。


 春樹くんと。


 それはただの本選びだ。


 読書感想文用の本。


 けれど、なつきにはそれ以上の意味があった。


 夏休み前に、また話す理由ができた。


 昼休みになると、教室は一気に騒がしくなった。


 宿題の量に文句を言う者。


 終業式の話をする者。


 部活の予定を確認する者。


 夏休みの遊びの計画を早くも立て始める者。


 十一組は完全に夏休み前の教室になっていた。


「宿題多くね?」


 島中がプリントを見ながら言う。


「多い」


 田辺が頷く。


「でも期末よりまし」


「まあな」


 三浦がパンを片手に叫ぶ。


「宿題は未来の俺に任せる!」


 紅秋が冷静に言った。


「未来の三浦は困る」


「今の俺は助かる」


「未来の自分を裏切るな」


「名言っぽい!」


 亜衣が笑う。


「私も未来の私に任せたい」


 茜が即座に言う。


「未来の亜衣は泣くわ」


「茜ちゃん、未来見えるの?」


「見えるわ。毎年同じことをしているもの」


「ぐうの音も出ない」


 なつきは笑いながら、お弁当を開けた。


 明日で終業式。


 今日が普通授業の最後。


 その事実が、少しずつ現実になってくる。


「夏休み」


 亜衣が呟く。


「ちゃんと遊ぶよね?」


 三浦が即座に反応した。


「遊ぶ!」


「まず何?」


「飯!」


「飯から離れて」


「じゃあ海!」


 なつきの箸が止まる。


 亜衣が見逃さない。


「なつき、反応した」


「してない」


「した」


「してない」


「海だよ? 水着だよ?」


「亜衣ちゃん!」


 三浦が首を傾げる。


「水着?」


 紅秋が三浦の肩を掴んだ。


「その先を言うな」


「まだ何も言ってない!」


「言いそうだった」


「信用ない!」


 田辺と島中が笑う。


「三浦、止められてやんの」


「日頃の行いだな」


 三浦は不満そうにしながらも、紅秋の視線に負けて黙った。


 茜が話を戻す。


「本当に海へ行くなら、日程と人数を決めないと」


「茜ちゃん、もう計画モード」


「必要でしょう」


「美優ちゃんとか蓮くんとか、祐衣ちゃんも誘う?」


 亜衣が言った瞬間、なつきの胸が少し揺れた。


 美優。


 祐衣。


 その名前に、以前ほど沈まなくなったとはいえ、完全に平気なわけではない。


 春樹の近くにいる二人。


 夏のイベントで一緒になれば、きっとまた意識してしまう。


 でも。


 嫌ではなかった。


 みんなで行くなら、きっと楽しい。


 それに、自分も少しずつ変わってきた。


 見ているだけではなく、話せるようになってきた。


「誘ってもいいと思う」


 なつきは言った。


 亜衣が少し驚いた顔をする。


「なつきが言うんだ」


「うん」


「大丈夫?」


「ちょっと緊張するけど」


 なつきは小さく笑った。


「でも、みんなで行けたら楽しそうだから」


 茜が静かに微笑んだ。


「いいと思うわ」


 春樹も近くで聞いていたのか、短く言った。


「蓮には言っておく」


 美優ではなく、まず蓮。


 そこが春樹らしかった。


 亜衣が笑う。


「じゃあ美優ちゃんは?」


「美優にも」


「祐衣ちゃんは図書室で?」


「たぶん」


 春樹は普通に答える。


 その流れが、夏休みの予定を少しずつ現実にしていく。


 まだ何も決まっていない。


 でも、話題に出た。


 誘う相手が浮かんだ。


 それだけで、胸が少し高鳴る。


 午後の授業も、どこか浮ついていた。


 先生達もそれを分かっているのか、いつもより少しだけ注意が多かった。


「まだ夏休みではありません」


 その言葉が、午後だけで何回も聞こえた。


 三浦はそのたびに小さく肩を落とした。


「先生達、心読むよな」


 田辺が笑う。


「お前は顔に出すぎ」


「そんなに?」


「夏休みって額に書いてある」


「書いてない!」


 島中が言う。


「いや、見える」


「お前まで!」


 終礼前、担任が大きな封筒を持って入ってきた。


 教室が一瞬ざわつく。


「明日は終業式です。体育館で式を行った後、教室でホームルームをします。通知表、夏休みの課題、各種プリントを配ります。忘れ物のないように」


「通知表……」


 亜衣が青ざめる。


「答案返った後なのにまだ攻撃してくる」


 三浦も呟く。


「通知表はラスボス第二形態」


「いや、最終確認だろ」


 田辺が言う。


「現実感強いな」


 担任は話を続ける。


「明日は制服をきちんと着てくること。式中に寝ないこと。校長先生の話をしっかり聞くこと」


 教室の何人かが三浦を見る。


 三浦が立ち上がりかける。


「何で俺を見る!」


 担任が言う。


「三浦くん、あなたもです」


「先生まで!」


 教室が爆笑した。


 担任も少しだけ笑っている。


「それから、夏休み中は事故に気をつけること。遊ぶ予定を立てるのは構いませんが、無理はしないように。特に水辺、夜間外出、交通事故。高校生として節度ある行動を」


「海行く前に釘刺された」


 亜衣が小声で言う。


 茜が小声で返す。


「大事なことよ」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんじゃない」


 終礼が終わると、教室はまた一気に騒がしくなった。


 明日は終業式。


 その言葉が、全員の背中を押している。


 三浦が立ち上がり、黒板の横に立った。


「みんな!」


 紅秋がすぐに言う。


「何を始める」


「明日、俺は宣言する」


「嫌な予感しかしない」


「終業式が終わったら」


 三浦は拳を握った。


「夏休み開幕宣言をする!」


 亜衣が拍手した。


「いいね!」


 茜が呆れる。


「先生に怒られない程度に」


「そこ大事」


 田辺が言う。


「叫びすぎると怒られるぞ」


 島中も笑う。


「窓開けて叫ぶなよ」


「何で分かった?」


「やる顔してた」


 教室がまた笑う。


 なつきも笑いながら、ふと春樹を見る。


 春樹も少しだけ笑っていた。


 最近、春樹が教室で笑うところを見る機会が増えた気がする。


 小さな笑い。


 本当に少しだけ。


 でも、それが嬉しかった。


 放課後、帰り支度をしていると、春樹が声をかけてきた。


「横田さん」


「うん?」


「明日、図書室行く?」


 なつきの心臓が跳ねた。


「本?」


「うん。感想文用」


「あ、うん。行きたい」


「終業式の後?」


「うん」


「じゃあ」


 春樹は少しだけ頷いた。


「一緒に行こう」


 なつきは一瞬、言葉を忘れた。


 一緒に。


 図書室へ。


 終業式の後。


 ただの本選び。


 でも、なつきにとっては特別だった。


「うん」


 どうにか声を出す。


「お願いします、春樹くん」


「うん」


 春樹はいつも通りだった。


 なつきは鞄を持つ手に少しだけ力を込める。


 終業式。


 通知表。


 ホームルーム。


 夏休み。


 そして、春樹くんと図書室。


 明日は、きっと慌ただしい一日になる。


 でも、それが楽しみだった。


 校門へ向かう途中、亜衣がなつきの隣に並んだ。


「聞いたよ」


「何を?」


「一緒に図書室」


「聞いてたの!?」


「聞こえた」


「亜衣ちゃん、最近そればっかり」


「聞こえる距離で話してるから」


 茜も後ろから言う。


「よかったわね」


「……うん」


 なつきは素直に頷いた。


「嬉しい」


 そう言うと、亜衣が少しだけ優しく笑った。


「なつき、最近それ言えるようになったよね」


「そうかな」


「うん。いいこと」


 茜も頷く。


「自分の嬉しいを大切にしなさい」


「うん」


 なつきは校門の先に広がる曇り空を見上げた。


 梅雨の雲はまだ残っている。


 けれど、空の向こうには確かに夏がある。


 明日で、一学期が終わる。


 その先に、夏休みが始まる。


 君の隣を目指して。


 まだ遠い。


 でも、明日また一緒に歩ける理由ができた。


 それだけで、なつきの胸は少しだけ軽かった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


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これからも、一歩ずつ距離を縮めていくなつきたちを温かく見守っていただけたら嬉しいです。


次回も、ぜひお付き合いください!

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