第64話 終わった、その先に
期末テスト最終日の朝。
教室の空気は、昨日までとは少し違っていた。
緊張はある。
不安もある。
眠気もある。
それでも、どこかに微かな高揚が混ざっていた。
今日で終わる。
その事実だけが、十一組の生徒達をかろうじて立たせていた。
「今日で終わり……今日で終わり……」
三浦が机に額をつけながら呟いている。
田辺が隣で言った。
「呪文かよ」
「呪文だよ。精神を保つための」
「効いてる?」
「ギリギリ」
島中が範囲表を見ながら笑う。
「顔死んでるぞ」
「お前もな」
「俺はまだ生きてる」
「目が死んでる」
「うるせぇ」
いつも通りのやり取り。
でも、全員どこか疲れていた。
期末テストは、心も体も削る。
それでも、今日が最後。
それだけで、笑い声にも少しだけ力が戻っていた。
なつきは席に座り、最後のノートを開いた。
昨日の夜、何度も見返したページ。
春樹に教えてもらったところ。
茜にまとめ方を教わったところ。
亜衣と一緒に覚えた単語。
全部がこの数日間の積み重ねだった。
「なつき」
亜衣が振り返る。
「今日終わったら、私、甘いもの食べる」
「昨日も言ってた」
「昨日より本気」
「いつも本気じゃない?」
「今日は人生をかけてる」
茜が静かに言う。
「人生はかけないで。まずテストに集中」
「はい……」
亜衣は素直に前を向いた。
教室の扉が開く。
春樹が入ってくる。
なつきは自然に顔を上げた。
「おはよう、春樹くん」
「おはよう」
「今日で終わりだね」
「うん」
「頑張ろうね」
「うん」
春樹は短く頷いた。
それだけ。
でも、今のなつきには十分だった。
春樹くんと呼ぶ。
普通に返ってくる。
その日常が、もう少しずつ自分の中に馴染んできている。
チャイムが鳴った。
担任が入ってきて、いつものように言う。
「机の中を空にしてください。筆記用具以外は鞄へ」
最後のテストが始まる。
一時間目。
教室の空気が静まり返った。
問題用紙が配られる。
紙の擦れる音。
誰かが小さく息を吸う音。
先生の足音。
「始め」
その声で、一斉に紙がめくられた。
なつきは問題を見る。
分かるところから。
止まらない。
焦らない。
この数日で何度も自分に言い聞かせた言葉。
ペンを動かす。
少し迷う。
でも、書く。
空欄を恐れすぎない。
最後まで目を通す。
時計の針が進む。
外では、雲の隙間から少し光が差していた。
梅雨の終わりが近いような、そんな空だった。
チャイムが鳴る。
「やめ」
先生の声。
答案用紙が回収される。
なつきは静かに息を吐いた。
あと一つ。
次で、本当に終わる。
休み時間。
教室は少しだけざわついた。
「今の問四、何?」
三浦が言いかける。
茜が即座に止める。
「答え合わせ禁止」
「早い!」
「今確認しても次に響くわ」
「でも気になる」
「終わってから」
「はい」
亜衣が単語帳を閉じながら言う。
「もう脳みそ入らない」
「あと一科目」
なつきが言う。
「あと一科目が遠い」
田辺が笑う。
「ここまで来たら気合いだろ」
島中も頷く。
「気合いで乗り切る」
紅秋が静かに言う。
「気合いだけでは点にならないが、最後まで諦めないのは大事だ」
「紅秋先生、最後まで正論」
三浦が両手を合わせた。
紅秋はため息を吐く。
「だから先生ではない」
笑いが起きた。
最終日、最後の休み時間。
その笑いは、少しだけ軽かった。
二時間目。
最後の科目。
問題用紙が配られる。
なつきは机の上に置かれた紙を見つめた。
これで終わる。
終わったら、みんなで笑える。
そう思うと、少しだけ手が震えた。
「始め」
先生の声。
なつきは問題用紙をめくった。
最後だからといって、急に簡単になるわけではない。
当然、分からない問題もある。
それでも、なつきは最後まで向き合った。
勉強会で積み上げたもの。
春樹の言葉。
茜の支え。
亜衣と笑いながら覚えたこと。
それを一つずつ思い出しながら、ペンを動かした。
最後の五分。
見直し。
名前。
番号。
空欄。
書き間違い。
時計を見る。
あと少し。
チャイムが鳴った。
「やめ」
その瞬間、教室中から、ほとんど同時に息が漏れた。
長い長い息。
張り詰めていた糸が切れるような音。
答案用紙が回収される。
先生が枚数を確認する。
教室中が、まだ動けない。
そして先生が言った。
「はい、お疲れさまでした。期末テストはこれで終了です」
一拍。
次の瞬間。
教室が爆発した。
「終わったああああ!」
三浦が叫ぶ。
「声!」
茜が注意する。
「でも終わった!」
「終わった!」
亜衣も両手を上げる。
「生きてる!」
田辺が椅子にもたれる。
「終わったな」
島中も深く息を吐く。
「マジで疲れた」
紅秋も珍しく肩の力を抜いた。
「お疲れ」
その一言に、三浦が反応する。
「紅秋が優しい!」
「いつも優しい」
「自分で言う!?」
教室に笑いが広がる。
なつきも笑った。
胸の奥が一気に軽くなる。
終わった。
本当に終わった。
期末テストが終わった。
完璧だったかは分からない。
返却が怖くないわけではない。
でも今だけは、終わったことを喜びたかった。
「なつき!」
亜衣が振り返る。
「終わった!」
「終わったね」
「甘いもの!」
「早い」
「約束してないけど、心では約束してた」
茜が微笑む。
「少しならいいんじゃないかしら」
「茜ちゃん!」
亜衣が感動した顔になる。
「今日の茜ちゃん優しい!」
「テストが終わったからね」
三浦が立ち上がる。
「じゃあみんなで行こうぜ!」
「どこへ?」
田辺が聞く。
「駅ビル? フードコート? ファミレス?」
「選択肢が食べ物しかない」
島中が笑う。
「テスト後だからな」
亜衣も頷く。
「甘いものあるところ!」
茜が少し考える。
「人数が多いならフードコートが無難ね」
「決まり!」
三浦が拳を上げる。
教室のあちこちから「いいな」「行くの?」という声が聞こえる。
全員ではない。
用事がある生徒もいる。
部活へ向かう者もいる。
でも、勉強会メンバーは自然と集まった。
なつき。
茜。
亜衣。
春樹。
紅秋。
三浦。
田辺。
島中。
いつの間にか、この組み合わせに違和感がなくなっていた。
「春樹くん」
なつきは春樹へ声をかけた。
「行く?」
春樹は少し考えた。
「うん」
それだけで、なつきの胸が弾む。
亜衣が横でにやにやする。
でも、もう慌てて否定しない。
春樹くんと呼ぶことも、こうして誘うことも、少しずつ自分の中で自然になってきている。
昼前の学校は、テスト終了の解放感で満ちていた。
廊下には笑い声が溢れている。
階段では、友達同士で問題の話をする生徒達。
「終わった」「無理」「でも終わった」と同じ言葉があちこちから聞こえる。
校舎の外へ出ると、空は少しだけ晴れ間を見せていた。
完全な青空ではない。
でも、雲の隙間から差す光が、今の気持ちに少し似ていた。
駅へ向かう道を、八人で歩く。
三浦が先頭で騒ぎ、田辺がそれに返し、島中が笑う。
亜衣が茜に甘いものの候補を話し、茜が現実的な予算を指摘する。
紅秋は少し後ろから全体を見ている。
春樹はなつきの少し横を歩いていた。
近すぎない。
でも、遠くない。
その距離に、なつきは少しだけ胸が温かくなった。
「テスト」
春樹が言う。
「どうだった?」
「分からないところもあったけど、最後まで書けた」
「ならいいと思う」
「春樹くんは?」
「普通」
「また普通」
「うん」
なつきは笑った。
「美優さんに言われるよ」
「何を?」
「春樹くんの普通は信用ならないって」
「また」
「うん」
春樹は少しだけ考えた。
「美優、よく言う」
「昔から?」
「うん」
美優の名前が出ても、なつきの胸は前ほど沈まなかった。
もちろん、少しだけ意識はする。
春樹の幼なじみ。
自然な距離。
自分にはない時間。
でも、今の自分にも積み重ねてきた時間がある。
勉強会。
図書室。
春樹くん呼び。
今日こうして一緒に歩いている時間。
それは美優とは違う。
比べるものではない。
なつきは少しずつ、そう思えるようになっていた。
水戸駅に着き、フードコートへ向かう。
休日ではないが、昼前の駅ビルにはそれなりに人がいた。
学生も多い。
同じようにテスト終わりらしい高校生達が、あちこちで解放感を漂わせている。
「席取ろう!」
三浦が走り出そうとする。
紅秋が即座に言う。
「走るな」
「はい」
「フードコートで走るな」
「はい」
田辺が笑う。
「完全に保護者」
「紅秋は保護者枠」
島中が言う。
紅秋は眼鏡を押し上げた。
「誰の保護者でもない」
「でも助かってる」
三浦が言うと、紅秋は少しだけ黙った。
「……ならいい」
「照れた?」
「照れてない」
みんなが笑う。
席を確保し、それぞれ食べたいものを買いに行く。
亜衣は宣言通り甘いもの。
なつきはアイスティーと小さなクレープ。
茜は紅茶。
三浦はハンバーガーとポテト。
田辺と島中はがっつりした丼もの。
紅秋は軽食。
春樹は飲み物と軽いサンドイッチ。
「春樹くん、少なくない?」
亜衣が聞く。
「昼だから」
「三浦くん見て」
三浦は大きな口でハンバーガーを食べている。
「食べすぎ」
春樹が言う。
三浦が口を押さえながら反論する。
「テストで脳使ったから!」
紅秋が静かに言う。
「使ったなら補給は必要だな」
「紅秋が認めた!」
「ただし食べながら喋るな」
「はい」
笑いながらの昼食。
テストの答え合わせは禁止と言いつつ、少しずつ話題はテストへ向かう。
「問二どうだった?」
「それ言うな!」
「もう終わったからいいだろ」
「よくない!」
茜が手を上げる。
「今日は細かい答え合わせは禁止」
「まだ?」
三浦が言う。
「今日は解放感を優先しましょう」
「委員長が優しい!」
亜衣も感動した顔をする。
「茜ちゃん、今日本当に優しい」
「あなた達が壊れかけているからよ」
「理由が怖い」
なつきは笑いながらクレープを一口食べる。
甘い。
テスト終わりの甘さは、いつもよりずっと体に染みた。
春樹が横で飲み物を置く。
「横田さん」
「うん?」
「疲れてる?」
「少し。でも嬉しい」
「終わったから?」
「うん」
なつきは少しだけ笑った。
「春樹くんに教えてもらったところ、書けたよ」
「そう」
「ありがとう」
「横田さんがやったから」
また。
春樹はそう言う。
なつきはその言葉を静かに受け取った。
教えてもらったからだけではない。
自分がやったから。
それを春樹が言ってくれるのが嬉しい。
「うん」
なつきは頷いた。
「頑張った」
自分でそう言えた。
春樹は小さく頷く。
「うん」
その短い肯定が、なつきの胸を満たした。
しばらく食べながら話していると、三浦が突然立ち上がった。
「夏!」
「急」
田辺が言う。
「テスト終わったら夏だろ!」
「まだ終業式あるけど」
茜が冷静に返す。
「気分は夏!」
亜衣が乗る。
「分かる!」
「海!」
三浦が言う。
「花火!」
亜衣が続ける。
「祭り!」
田辺が言う。
「プール!」
島中も言う。
「勉強以外!」
三浦が叫ぶ。
紅秋が静かに言った。
「成績が返ってからだ」
「現実!」
全員が笑う。
でも、夏の話題が出た瞬間、空気が一気に明るくなった。
なつきの胸も少し弾む。
海。
水着。
花火。
夏祭り。
春樹くん。
考えただけで顔が熱くなりそうになる。
亜衣がそれを見逃すはずがなかった。
「なつき」
「何?」
「今、何想像した?」
「何も」
「海?」
「何も」
「春樹くん?」
「亜衣ちゃん」
なつきが小声で抗議すると、亜衣はにやにやした。
茜が助け船を出す。
「予定を立てるなら、まず日程調整ね」
「茜ちゃん、現実的」
「必要でしょう」
「でもそういうの大事」
三浦が言う。
「俺、夏休み中もダンスあるけど予定合わせる」
「三浦くん、ダンスかっこよかったらしいね」
亜衣が言う。
三浦が固まる。
「誰から聞いた?」
春樹が普通に答える。
「俺」
「大國!」
「すごかったから」
三浦の顔が赤くなる。
「やめろ!」
「褒めてる」
「分かってるけど照れる!」
島中と田辺が笑う。
「三浦が照れてる」
「珍しい」
「うるせぇ!」
そのやり取りに、なつきも笑った。
みんな、それぞれ違う顔を持っている。
三浦のダンス。
島中と田辺の部活。
紅秋の真面目さ。
亜衣の明るさ。
茜の優しさ。
春樹の静かな強さ。
テスト期間を越えて、それぞれが少しずつ見えてきた気がした。
夏の予定は、まだ何も決まらなかった。
でも話すだけで楽しかった。
海がいい。
祭りがいい。
花火もしたい。
プールはどうする。
人数は。
蓮や美優、祐衣も誘うのか。
話題は広がっていく。
なつきはその中で、少しだけ胸が忙しくなった。
美優。
祐衣。
きっと夏のイベントにも関わってくる。
不安がないわけではない。
でも、前ほど怖くなかった。
みんなで過ごす夏。
その中で、また一歩近づけるかもしれない。
そう思えた。
フードコートでの時間は、思っていたより長く続いた。
テストから解放された反動で、誰もすぐに帰りたがらなかった。
ただ話す。
ただ笑う。
それだけなのに、楽しかった。
やがて、少しずつ帰る流れになった。
「今日はここまで」
茜が言う。
「帰ったら寝る」
亜衣が言う。
「私は寝る」
「復習は?」
「今日は許して」
茜は少し考えて、笑った。
「今日だけね」
「やった!」
三浦も伸びをする。
「俺も寝る。いや、ゲームする」
紅秋が見る。
「寝ろ」
「はい」
駅でそれぞれの帰る方向へ分かれる。
春樹達駅組と、なつき達地元組。
いつもの別れ。
でも、今日の別れは少し明るかった。
「横田さん」
春樹が声をかける。
「うん?」
「お疲れ」
それだけ。
でも、なつきの胸には十分だった。
「春樹くんも、お疲れさま」
「うん」
「また明日」
「また明日」
春樹は頷き、駅の改札の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、なつきは小さく息を吐く。
期末テストが終わった。
長かった。
不安だった。
でも、楽しかった時間もあった。
勉強会で笑った。
春樹くんと話した。
名前を呼べるようになった。
みんなでフードコートに行った。
夏の話をした。
君の隣は、まだ遠い。
でも。
テストが終わった今日、その先に広がる夏が、少しだけ明るく見えた。
なつきは鞄を持ち直し、茜と亜衣のいる方へ歩き出した。
梅雨の雲の向こう側で、夏が静かに待っていた。




