第63話 あと一日
期末テスト二日目の朝、教室の空気は初日よりも少し重かった。
一日目を越えた安心感はある。
けれど、同時に疲れも残っている。
昨日の夜、最後の確認をした者。
眠気に負けた者。
朝になってから慌ててノートを開く者。
それぞれの表情に、同じような焦りがにじんでいた。
「眠い」
亜衣が机に突っ伏して言った。
「昨日、何時までやったの?」
なつきが聞く。
「十一時」
「頑張ったじゃん」
「その後、スマホ見ちゃった」
「亜衣ちゃん」
「五分だけのつもりだった」
茜が静かに言う。
「五分で済まなかったのね」
「……はい」
「今日は帰ったらすぐ寝る準備をしてから勉強しなさい」
「茜ちゃん、お母さんみたい」
「友達よ」
「友達が一番逃げられない」
なつきは小さく笑った。
笑いながらも、自分の胸も少し重い。
今日の一時間目は数学。
得意とは言えない。
でも、春樹に何度も教えてもらった。
昨日も、最後まで確認した。
だから大丈夫。
そう思いたい。
教室の扉が開く。
春樹が入ってくる。
なつきは自然に顔を上げた。
「おはよう、春樹くん」
「おはよう」
春樹は短く返す。
「数学、緊張する」
「昨日やったところはできると思う」
「うん」
「難しいところで止まらない」
「解けるところから」
「うん」
短いやり取り。
でも、それだけでなつきは少し落ち着いた。
自分でも驚くくらい、春樹の言葉が効く。
前は、春樹と話すだけで緊張が増えていた。
今も緊張はする。
けれど、最近はその緊張の中に安心が混ざるようになっていた。
チャイムが鳴る。
机の中を空にする。
問題用紙が配られる。
教室の音が消えていく。
「始め」
先生の声と同時に、紙をめくる音が一斉に響いた。
なつきは問題を見た。
最初の問題。
分かる。
手が動く。
二問目。
少し迷う。
でも、途中式を書けば見える。
春樹の声を思い出す。
――形が少し違うだけ。
――止まらない。
――解けるところから。
なつきはペンを動かした。
途中で分からない問題もあった。
でも、そこで固まらなかった。
飛ばして、戻る。
最後まで目を通す。
それだけで、前よりずっと落ち着いていた。
チャイムが鳴る。
数学が終わった。
答案用紙が回収される。
なつきは小さく息を吐いた。
完璧ではない。
でも、できるところはできた。
「数学……」
三浦が呟いた。
「どうしたの?」
田辺が聞く。
「俺、途中で宇宙見えた」
「戻ってこい」
「戻ってきたら時間終わってた」
「だめじゃん」
島中が頭を抱える。
「俺も最後の問題、意味分かんなかった」
紅秋が静かに言う。
「あれは難しい。取れなくても仕方ない」
三浦が顔を上げる。
「マジ?」
「基礎が取れていれば大丈夫だ」
「基礎……」
「そこは祈るな。確認しろ」
「はい」
亜衣がなつきの方を見る。
「なつきは?」
「前よりは落ち着いてできたと思う」
「強い」
「強くないよ」
茜が微笑む。
「十分よ。焦らなかったのは大きいわ」
「うん」
なつきは頷いた。
そこへ春樹が来る。
「横田さん」
「うん?」
「どうだった?」
「最後の問題は難しかったけど、途中までは書けた」
「ならいいと思う」
「春樹くんは?」
「普通」
「また普通」
「うん」
なつきは少し笑った。
その笑いに、春樹もほんの少しだけ口元を緩めた。
その一瞬で、なつきの胸は静かに温かくなる。
二時間目。
商業科目。
三時間目。
国語。
テストは続いた。
一科目終わるたびに、教室の空気が少しずつ変わる。
疲れは増える。
でも、終わった科目も増えていく。
その分だけ、終わりが見えてくる。
昼前には、三浦が机に突っ伏していた。
「あと何科目?」
亜衣が聞く。
「数えたら負け」
三浦が答える。
「いや数えようよ」
「現実を見るな」
茜が範囲表を見ながら言う。
「今日の分は終わり。残りは明日ね」
「明日……」
島中が低い声で言う。
「最終日か」
田辺が大きく伸びをする。
「あと一日」
その言葉に、教室の何人かが反応した。
あと一日。
長かった期末テストも、明日で終わる。
夏休みはまだ少し先だけれど、テストが終われば一つ大きな山を越える。
三浦が急に顔を上げた。
「明日終わったら、絶対なんか食いに行こうぜ」
「また急ね」
亜衣が言う。
「俺には希望が必要なんだ」
島中が頷く。
「分かる」
田辺も言う。
「テスト後の飯はあり」
茜が少し考える。
「明日の予定次第ね。まずは最後まで終わらせてから」
「委員長、厳しいけど許可の余地あり!」
三浦が小さくガッツポーズをする。
紅秋が言う。
「浮かれすぎるな。明日が一番危ない」
「分かってる!」
「分かってない声だ」
教室に笑いが起きる。
なつきも笑った。
でも、笑いながらも胸の中では少しだけ緊張が続いている。
明日。
最終日。
それが終わったら。
解放。
夏。
そして、春樹くんと過ごす時間も、また何か変わるのだろうか。
放課後ではないけれど、テスト期間のため昼過ぎには学校が終わった。
それでも勉強会メンバーは、少しだけ教室に残ることにした。
明日の確認。
最後の追い込み。
疲れていても、ここまで来たらやるしかない。
「今日は短め」
茜が言う。
「明日に響くから、二時間以内」
「二時間以内って長くない?」
亜衣が言う。
「いつもより短いわ」
「感覚が壊れてきた」
三浦も頷く。
「俺も二時間が短く感じる自分が怖い」
「成長だな」
田辺が言う。
「違う気がする」
机を寄せる。
ノートを開く。
最後の確認。
もう新しいことを詰め込む段階ではない。
できるところを確実にする。
春樹はなつきのノートを見ながら言った。
「今日は見直しだけでいい」
「うん」
「ここ、昨日できてたからもう一回」
「分かった」
なつきは問題を解く。
疲れているせいか、少し手が遅い。
でも、春樹は急かさない。
黙って待ってくれる。
その沈黙が、今は安心できる。
「できた」
春樹が見る。
「合ってる」
「よかった」
「疲れてる?」
「少し」
「今日は無理しない方がいい」
「春樹くんも?」
「俺も早めに寝る」
「そっか」
普通の会話。
でも、それが嬉しい。
なつきは少しだけ笑った。
「明日、終わったら何する?」
春樹は少し考える。
「寝るかも」
「春樹くんらしい」
「そう?」
「うん」
春樹は首を傾げる。
その反応に、なつきはまた少し笑ってしまう。
横では、亜衣が英単語帳を閉じて叫びかけた。
「もう無理――」
茜が即座に人差し指を立てる。
「声」
「……もう無理」
「小さくしたわね」
「えらい?」
「えらいけど、あと五個」
「五個が遠い」
三浦は紅秋に最後の確認を受けていた。
「ここは?」
「えーっと……」
「昨日もやった」
「昨日の俺は覚えてた」
「今日の三浦も覚えろ」
「はい」
島中と田辺は、珍しく静かに問題を解いている。
その様子を見て、なつきは少し不思議に思った。
最近、二人の雰囲気が少し変わった気がする。
前ほど春樹に突っかからない。
なつきに絡むことも少し減った。
嫌な感じではない。
むしろ、前より自然だった。
何があったのかは分からない。
でも、クラスの空気は確実に変わっている。
最後の勉強会は、静かに進んだ。
笑いはある。
でも、昨日までより少し落ち着いている。
みんな疲れている。
それでも、最後までやろうとしている。
それが教室全体にあった。
二時間弱が過ぎ、茜がノートを閉じた。
「今日はここまで」
全員が一斉に息を吐いた。
「終わった……」
三浦が言う。
「今日の分はね」
紅秋が返す。
「明日終わったら本当に終わり?」
「期末は終わる」
「人生は?」
「続く」
「深い」
「深くない」
亜衣が机に突っ伏す。
「明日終わったら甘いもの食べたい」
「それはいいね」
なつきが言う。
「カフェ?」
「フードコート?」
「購買じゃない何か」
島中が笑う。
「購買じゃだめなのかよ」
「テスト後は特別感欲しいじゃん」
田辺が頷く。
「分かる」
茜が少しだけ笑う。
「まず明日ね」
「はーい」
片付けが始まる。
ノートをしまう音。
椅子を戻す音。
鞄を閉める音。
なつきは最後に、自分のノートを見返した。
赤ペンの丸。
春樹に教えてもらった跡。
茜にチェックしてもらったメモ。
亜衣と一緒に覚えた単語。
全部がここ数日の積み重ねだった。
春樹が隣で鞄を持つ。
「横田さん」
「うん?」
「明日、頑張ろう」
短い言葉。
でも、胸に届く。
「うん」
なつきは頷いた。
「頑張ろう、春樹くん」
もう、その呼び方は自然だった。
まだ少し照れる。
けれど、ちゃんと自分の言葉になってきている。
教室を出ると、廊下はいつもより静かだった。
テスト期間の学校は、放課後の部活の音も少し少ない。
窓の外は曇り。
でも遠くの空に、薄い光が見えた。
校門へ向かう途中、三浦が大きく伸びをした。
「明日終わったら自由だ!」
紅秋が言う。
「答案が返るまでは油断するな」
「それ今言う!?」
亜衣が耳をふさぐ。
「聞きたくない!」
田辺が笑う。
「でもまず終われば勝ちだろ」
島中も頷く。
「補習なければな」
「だからそれ言うな!」
三浦と亜衣が同時に叫び、みんなが笑った。
なつきも笑う。
その笑い声の中で、ふと春樹を見る。
春樹も少しだけ笑っていた。
ほんの少し。
でも、確かに。
その顔を見て、なつきは胸が温かくなった。
春樹くんが楽しそう。
そう思えた。
校門で別れる時、春樹がいつものように言った。
「また明日」
なつきは笑って返した。
「また明日」
少しだけ間を置いて。
「明日で終わりだね」
「うん」
「頑張ろうね」
「うん」
春樹は頷き、駅の方へ歩いていった。
なつきはその背中を見送る。
期末テストはあと一日。
明日が終われば、きっと何かが変わる。
夏が近づく。
遊ぶ予定も、きっと動き出す。
でも今は、その前の最後の一歩。
なつきは鞄の紐を握り直した。
君の隣は、まだ遠い。
でも、テスト期間の教室で、同じ机を囲んで、同じ不安を抱えて、同じ明日を見ている。
それだけで、少しだけ近く感じる。
あと一日。
その言葉を胸の中で繰り返しながら、なつきは家へ向かって歩き出した。




