第62話 期末テスト初日
期末テスト初日の朝は、いつもの朝より少しだけ音が少なかった。
教室に入ったなつきは、すぐにその違いに気づいた。
誰も騒いでいないわけではない。
三浦は今日も机に突っ伏しているし、亜衣は単語帳を握りしめているし、島中と田辺は範囲表を見ながら何やら低い声で話している。
それでも、空気が違った。
笑い声が少し小さい。
椅子を引く音が少し硬い。
ページをめくる音がやけに目立つ。
教室全体が、これから始まるものに向けて息を詰めているみたいだった。
「おはよう、なつき」
茜が声をかけてきた。
「おはよう」
「眠れた?」
「少し」
「少し?」
「途中で、簿記の仕訳が夢に出てきた」
茜は少しだけ笑った。
「それは勉強した証拠ね」
「怖かったよ」
「夢で済んでよかったわ」
前の席の亜衣が振り返る。
「私は英単語が空飛んで逃げる夢見た」
「何それ」
「捕まえようとしたけど全部逃げた」
「不吉すぎる」
「だから今、必死に捕まえてる」
亜衣は単語帳を開く。
その目は真剣だった。
なつきは思わず笑った。
けれど、自分も笑っている余裕があるわけではない。
机に座ると、鞄からノートを取り出す。
昨日まで何度も見返した簿記のページ。
赤ペンの丸。
春樹に教えてもらった問題。
その一つ一つを目で追う。
できる。
たぶん。
いや、できるところはできる。
分からないところもあるかもしれない。
でも、何もしていないわけじゃない。
なつきは小さく息を吸った。
教室の扉が開く。
春樹が入ってきた。
いつも通りの表情。
いつも通りの歩き方。
その姿を見ただけで、なつきの胸は少し落ち着いた。
「おはよう、春樹くん」
なつきは自然に言えた。
春樹が顔を向ける。
「おはよう」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
「今日、簿記だね」
「うん」
「緊張する」
「横田さん、昨日できてたから大丈夫」
春樹は普通に言った。
何気なく。
本当に何気なく。
でも、なつきにとっては大きな言葉だった。
「……うん」
なつきは小さく頷く。
「頑張る」
「うん」
春樹は自分の席へ向かった。
それだけの会話。
でも、胸の奥にあった不安が少しだけほどけた。
亜衣が横から小声で言う。
「朝から栄養補給」
「亜衣ちゃん」
「春樹くん栄養」
「やめて」
茜が単語帳を閉じながら言う。
「でも、落ち着いたでしょう?」
「……うん」
否定できなかった。
春樹の言葉は、なつきの中でちゃんと効いていた。
チャイムが鳴る。
朝のざわめきがすっと消えた。
担任が入ってくる。
「今日から期末テストです。机の中を空にして、筆記用具以外は鞄へしまってください」
その言葉で、教室が一気に試験の空気になる。
机の中を確認する音。
鞄を閉める音。
椅子の足が床を擦る音。
三浦が天井を見上げた。
「終わった」
紅秋が静かに言う。
「始まる」
「それが怖いんだよ」
田辺が小声で笑う。
「三浦、まだ言ってる」
「言わないと落ち着かない」
島中がペンケースを置きながら言った。
「お前が一番落ち着いてない」
「全員だろ」
先生が咳払いをする。
教室が静かになる。
一時間目。
簿記。
問題用紙が配られる。
紙が机に置かれる音。
裏返しのまま待つ時間。
その数秒が、やけに長く感じた。
「始め」
先生の声。
なつきは問題用紙をめくった。
まず全体を見る。
春樹に言われた通り。
全部を一気に見て慌てない。
解けるところから。
数字を分ける。
借方。
貸方。
勘定科目。
最初の問題。
見覚えがある。
勉強会でやった形式だ。
なつきはシャーペンを握り直し、ゆっくり書き始めた。
隣の席からは、誰かのペンの音が聞こえる。
前の方では、三浦が一瞬固まっている気配がした。
でも今は、周りを気にしている余裕はない。
自分の問題。
自分の答え。
焦らない。
春樹の声を思い出す。
――数字を分ける。
――前と同じ考え方。
――横田さん、できてる。
できてる。
その言葉を胸の中で繰り返しながら、なつきは次の問題へ進んだ。
分からない問題もあった。
途中で手が止まる。
焦る。
けれど、完全に真っ白にはならなかった。
飛ばす。
後で戻る。
勉強会で何度も言われたこと。
なつきは空欄に小さく印をつけ、次へ進んだ。
時間はゆっくり進むようで、早くもあった。
最後の十分。
見直し。
書き間違い。
数字の桁。
借方と貸方の逆。
何度も見た。
チャイムが鳴る。
「やめ」
先生の声と同時に、教室中から小さな息が漏れた。
なつきもシャーペンを置く。
終わった。
一科目目が。
答案用紙が回収される。
その間、誰も大きく話さない。
ただ、回収が終わった瞬間。
三浦が机に倒れた。
「生きた」
田辺が言う。
「生きてるだけでえらい」
島中が顔を上げる。
「いや、思ったよりできたかも」
「マジ?」
「たぶん」
「そのたぶん信用できねぇ」
亜衣がなつきの方を振り返る。
「なつき、どうだった?」
「分かるところはできたと思う」
「大人の感想」
「亜衣ちゃんは?」
「英単語よりは逃げなかった」
「簿記だからね」
茜が落ち着いた声で言う。
「答え合わせは今しない方がいいわ」
「えー」
三浦が反応する。
「気になる」
「気にしても答案は戻らないわ」
「正論」
「次の科目に響くから、今は休憩」
茜の言葉に、みんなが渋々頷く。
それでも教室のあちこちでは、小さな答え合わせが始まりかけていた。
「問三の二ってさ」
「やめて」
「いや気になるじゃん」
「やめてって!」
悲鳴に近い声も聞こえる。
なつきも少し気になった。
でも、茜の言う通り、今はやめた方がいい。
次の科目がある。
ここで不安になっても仕方ない。
そう思っていると、春樹が席の近くに来た。
「横田さん」
「うん?」
「どうだった?」
「分からないところもあったけど……前よりは落ち着いてできたと思う」
「ならいいと思う」
「春樹くんは?」
「普通」
「普通」
なつきは少し笑った。
「春樹くんの普通は信用ならないって、美優さんが言ってた」
「美優が?」
「うん」
「そうかな」
「そうかも」
春樹は少しだけ考えてから、頷いた。
「次、英語?」
「うん」
「単語、見ておくといい」
「そうする」
短い会話。
でも、試験の合間に春樹と話せたことが、なつきには小さな安心になった。
二時間目。
英語。
亜衣は直前まで単語帳を握っていた。
「なつき、最後にこれだけ」
「うん」
「これ意味何だっけ」
「それは――」
なつきが答える前に、茜が言った。
「昨日も聞いたわ」
「覚えたい気持ちはある」
「気持ちだけでは点にならないわ」
「今日それ何回聞くんだろう」
チャイムが鳴る。
また教室が静かになる。
英語の問題用紙が配られる。
なつきは深呼吸をした。
簿記ほど手応えはない。
けれど、亜衣と一緒に確認した単語がいくつか出た。
見た瞬間、少し嬉しくなる。
亜衣もきっと気づいているだろうか。
そんなことを考えながら、なつきは問題を解いた。
長文。
文法。
単語。
時間配分。
焦らない。
読めるところから読む。
全部完璧ではない。
でも、最後まで諦めない。
チャイムが鳴った時、なつきはまた大きく息を吐いた。
二科目目も終わった。
午前中のテストが終わると、教室の空気は少しだけ緩んだ。
まだ終わったわけではない。
期末は数日続く。
けれど、初日の山を一つ越えたという感覚があった。
「終わったー!」
三浦が叫ぼうとして、先生に見られて声を小さくした。
「……終わった」
田辺が笑う。
「弱くなった」
「先生の視線が強かった」
島中が椅子にもたれる。
「英語、思ったよりできねぇ」
「お前、昨日もそう言ってた」
「昨日より現実感ある」
亜衣は単語帳を見つめていた。
「出た……」
「何が?」
なつきが聞く。
「昨日なつきと確認したやつ」
「あ、出たね」
「ありがとう、なつき」
「どういたしまして」
亜衣は本当に嬉しそうだった。
茜も少しだけ微笑む。
「やった分はちゃんと出るものね」
「茜ちゃん、たまに先生みたい」
「褒め言葉として受け取るわ」
「褒めてる」
昼休み。
テスト期間中だから、普段より早く帰る生徒もいれば、残って次の科目を確認する生徒もいる。
十一組の勉強会メンバーは、自然に教室に残っていた。
「明日の科目確認するぞ」
紅秋が言う。
三浦が机に倒れる。
「今日くらい休ませて」
「明日もテストだ」
「知ってる!」
「なら起きろ」
「はい」
田辺と島中もノートを開く。
昨日までより、少しだけ文句が減っている。
テストが始まったことで、逃げ場がなくなったのだ。
なつきも明日の科目のノートを出した。
春樹が隣へ来る。
「明日は数学ある」
「うん。不安」
「今日みたいに解けるところから」
「うん」
「難しい問題で止まらない」
「分かった」
なつきは頷く。
春樹の言葉が、試験前の自分にちゃんと入ってくる。
「春樹くん」
「何?」
「明日も、分からないところ聞いていい?」
「うん」
普通に返ってくる。
その普通が嬉しい。
「ありがとう」
「うん」
三浦が少し離れた場所で小声で言う。
「もう完全に春樹くん定着したな」
亜衣がにやにやしながら頷く。
「ね」
なつきは聞こえていた。
聞こえていたけれど、今日は慌てて否定しなかった。
少しだけ赤くなっただけだった。
それを見て、亜衣がさらににやにやする。
茜が小声で言う。
「亜衣、ほどほどに」
「はーい」
午後の教室には、テスト初日を終えた独特の疲れがあった。
全員が少しだけ眠そうで、少しだけ達成感があって、でも明日の不安も抱えている。
なつきは窓の外を見る。
梅雨の空。
少しだけ明るい。
夏はまだ見えない。
でも、確かに近づいている。
期末テストが始まった。
逃げられない現実。
でも、ひとりではなかった。
茜がいて。
亜衣がいて。
春樹くんがいて。
クラスのみんながいる。
なつきはノートを開き、明日の数学の問題に目を落とした。
まだ遠い。
春樹の隣も。
夏休みも。
テスト最終日も。
でも今日、一科目ずつ進んだ。
ちゃんと一歩進んだ。
「横田さん」
春樹の声。
「ここからやろう」
なつきは顔を上げる。
「うん」
そして、少し笑った。
「お願いします、春樹くん」
春樹はいつも通り頷く。
その何気ないやり取りが、今のなつきにはとても大切だった。
期末テスト初日。
緊張と不安と、少しの手応え。
そして、名前を呼ぶ日常。
それらを抱えながら、なつき達のテスト期間は静かに始まった。
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