第61話 期末前夜の教室
期末テストまで、あと三日。
その数字は、朝の教室から笑い声を少しだけ奪っていた。
完全に静かではない。
けれど、いつもの十一組とは少し違う。
誰かが単語帳をめくっている。
誰かが提出物のページを数えている。
誰かが「ここ出る?」と隣に聞いている。
そして誰かが、机に突っ伏している。
「終わった」
三浦が言った。
「まだ始まってない」
田辺が返す。
「何回この会話するんだよ」
島中が呆れる。
「何回でもする。終わったものは終わった」
「だから始まってねぇって」
紅秋がノートから顔を上げずに言った。
「三浦、昨日の数学ワークは?」
三浦は黙った。
「沈黙で答えるな」
「……半分」
「半分終わったのか」
「半分見た」
「終わってないな」
「はい」
教室の何人かが笑った。
けれどその笑いも、どこか疲れている。
期末前の空気だった。
なつきは席でノートを開いていた。
昨日の夜、春樹に教えてもらった問題をもう一度解いた。
間違えたところもあった。
でも、前よりは分かる。
そのことが、少しだけ自信になっていた。
「なつき」
亜衣が振り返る。
「英単語、確認して」
「いいよ」
「優しい」
「覚えてきた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「心では覚えた」
なつきは思わず笑った。
「三浦くんみたいなこと言ってる」
「感染した」
茜が横から単語帳を差し出す。
「なら私が確認するわ」
「なつきがいい」
「逃げられない相手を選んだわね」
「茜ちゃん怖い」
「覚えなさい」
亜衣は観念して単語帳を受け取った。
その時、春樹が教室に入ってきた。
なつきは自然に顔を上げる。
春樹と目が合った。
「おはよう」
春樹が言う。
なつきは少しだけ胸を跳ねさせながらも、前より落ち着いて返せた。
「おはよう、春樹くん」
教室はざわつかなかった。
誰も大きく反応しない。
三浦が一瞬だけ口を開きかけたが、紅秋に視線で止められた。
亜衣はにやりとしたけれど、何も言わなかった。
茜は小さく微笑んだ。
春樹はいつも通り頷いて、自分の席へ向かう。
それだけ。
それだけのことなのに、なつきの胸は温かかった。
春樹くん。
もう、心の中だけの呼び方ではない。
ちゃんと声に出せる。
まだ少し照れる。
でも、前ほど怖くない。
呼んでも、春樹は普通に返してくれる。
それが嬉しかった。
午前の授業は、すべて期末前の確認で埋まっていった。
数学では先生が黒板に類題を書き、簿記では仕訳の確認、英語では単語と文法の総復習。
教室の空気は重い。
でも、誰も完全には投げ出していなかった。
三浦も文句を言いながらペンを動かしている。
田辺も島中も、前より真面目にノートを取っている。
紅秋と茜は相変わらず安定していて、春樹は静かに問題を解いている。
亜衣は時々小さく呻きながらも、前より逃げなくなった。
そしてなつきも、少しずつ問題に向き合えていた。
昼休み。
教室はいつもより早く勉強モードに入った。
「ご飯食べながら勉強とか、青春じゃない」
亜衣が言う。
「赤点回避も青春よ」
茜が返す。
「重い青春」
三浦がパンをかじりながら言った。
「でも補習よりはいい」
島中が真顔で言う。
「それな」
田辺も頷く。
なつきは弁当箱を閉じながら、春樹の席の方を見た。
春樹は紅秋と範囲表を見ている。
その横顔は落ち着いている。
焦っていない。
でも、油断もしていない。
その姿を見ると、なつきも少し落ち着いた。
「なつき」
亜衣が小声で言う。
「見すぎ」
「見てない」
「見てた」
「少し」
「正直」
茜が静かに言った。
「聞きたいところがあるなら、今聞けばいいわ」
「今?」
「放課後でもいいけれど、分からないところは早めに」
「うん」
なつきはノートを抱えて、少しだけ迷う。
でも、立ち上がった。
以前なら、ここでかなり時間がかかった。
行くかどうか悩んで、亜衣に押されて、茜に見守られて、それでも足が止まった。
今も緊張はする。
でも、行ける。
なつきは春樹の席へ向かった。
「春樹くん」
声は少し小さかった。
でも、ちゃんと届いた。
春樹が顔を上げる。
「何?」
「ここ、教えてほしいんだけど」
「うん」
春樹は自然に席を少し空けた。
なつきは隣に立ち、ノートを開く。
「この問題、昨日の応用だと思うんだけど、途中で分からなくなって」
「ここ?」
「うん」
春樹は赤ペンを持って、なつきのノートの端に小さく線を引いた。
「ここの数字、先に分ける」
「あ、そっか」
「昨日と同じ」
「同じなんだ」
「うん。形が少し違うだけ」
説明を聞いていると、少しずつ見える。
春樹の言葉は短い。
でも、なつきがどこでつまずいているかをちゃんと見つけてくれる。
「分かったかも」
「やってみる?」
「うん」
なつきはその場で少し解いてみた。
春樹は黙って見ている。
その沈黙にも、もう少し慣れた。
責める沈黙ではない。
待ってくれている沈黙。
なつきは最後まで書き、春樹を見る。
「どう?」
春樹はノートを確認して、頷いた。
「合ってる」
胸が弾む。
「よかった」
「うん。できてる」
「ありがとう、春樹くん」
また、自然に呼べた。
春樹は普通に頷く。
「うん」
それを少し離れた席で見ていた三浦が、口元を押さえていた。
亜衣が同じようににやにやしている。
島中はちらりと見て、何も言わずに自分のワークへ戻った。
田辺も同じだった。
紅秋が静かに言う。
「三浦、口を動かす前に手を動かせ」
「はい」
教室に小さな笑いが起きる。
なつきは少し赤くなったが、前ほど慌てなかった。
放課後。
最後の追い込み勉強会が始まった。
机を寄せる音も、もう慣れたものだった。
範囲表を広げる。
ワークを開く。
英単語帳を置く。
赤ペンを出す。
誰がどこに座るかも、何となく決まってきていた。
なつきの近くには春樹。
亜衣の近くには茜。
三浦の正面には紅秋。
田辺と島中は、逃げないように茜と紅秋の視界に入る位置。
「配置に悪意がある」
島中が言った。
「善意よ」
茜が即答する。
「逃げないための?」
「そう」
「やっぱ悪意じゃん」
「善意です」
田辺が笑う。
「諦めろ」
「お前も同じ配置だぞ」
「俺はもう諦めてる」
三浦が手を上げる。
「先生、休憩は?」
紅秋が答える。
「一時間後」
「長い!」
「期末は三日後」
「短い!」
「なら勉強しろ」
「はい!」
教室が笑う。
でも、すぐにペンの音が始まった。
今日ばかりは、みんな本気だった。
笑いながらも、焦っている。
焦りながらも、前より少し分かるようになっている。
その空気が教室にあった。
なつきもノートへ向かう。
春樹が隣で言う。
「今日は確認中心でいいと思う」
「うん」
「新しいことを詰めすぎない方がいい」
「そうなんだ」
「混乱するから」
「分かった」
春樹の言葉を素直に聞ける。
それが不思議だった。
前は、春樹に教えてもらうというだけで頭が真っ白になった。
今も緊張はする。
でも、ちゃんと勉強の内容が入ってくる。
それだけで、少し前進した気がする。
「春樹くん」
「うん」
「この問題、もう一回だけ見てもらっていい?」
「いいよ」
自然に会話が続く。
なつきは自分でそれに気づいて、少しだけ胸が熱くなった。
春樹くんと呼ぶ。
質問する。
答えてもらう。
ありがとうと言う。
それが、少しずつ当たり前になっていく。
その当たり前が、嬉しい。
勉強会は進んだ。
三浦は途中で魂が抜けかけたが、紅秋に戻された。
「三浦」
「はい」
「目が泳いでいる」
「英単語が海に見えて」
「溺れる前に覚えろ」
「厳しい!」
亜衣も英単語で苦戦していた。
「茜ちゃん、これ似た単語多すぎない?」
「似ているから区別するの」
「区別したくない」
「しなさい」
「はい」
島中と田辺は数学の問題で同じところを間違え、同時に頭を抱えた。
「俺ら同じミスしてる」
「仲いいな」
「嬉しくねぇ」
茜が横から言う。
「同じミスなら、一緒に直せるわね」
「前向きな刺し方」
田辺が呟く。
笑いが起きる。
重い空気になりすぎない。
それが、この勉強会の良いところだった。
夕方になり、窓の外が少しずつ暗くなっていく。
部活の声も遠くなり、廊下の人通りも減った。
教室には、ペンの音と小さな会話だけが残る。
最後の一時間は、さすがにみんな疲れていた。
三浦は顔色が悪い。
亜衣も背中を丸めている。
田辺と島中は無言で問題を解いている。
紅秋も少しだけ疲れた顔をしていた。
茜は変わらないように見えるが、紅茶のペットボトルが空になっている。
春樹もノートを閉じて、時計を見た。
「今日はここまでにしよう」
その言葉に、全員がほぼ同時に息を吐いた。
「助かった……」
三浦が机に倒れる。
「生きてる?」
亜衣が聞く。
「かろうじて」
「私も」
紅秋が言う。
「帰ったら今日の確認だけはしろ」
「追撃!」
「確認しないと忘れる」
「分かってるけど!」
茜も頷く。
「今日は新しい範囲を増やさず、確認だけでいいと思うわ」
「茜ちゃんが言うなら」
亜衣が弱々しく答える。
なつきもノートを閉じた。
頭は疲れている。
でも、不思議と心地よい疲れだった。
前より分かるところが増えた。
春樹に質問できた。
みんなで最後まで残った。
期末テストは怖い。
でも、何もしていないわけじゃない。
それが大きかった。
片付けを始める。
椅子を戻し、ノートを鞄に入れる。
範囲表を折りたたむ。
教室の空気が、少しずつ放課後の終わりへ向かっていく。
なつきはノートをしまいながら、春樹へ声をかけた。
「春樹くん」
春樹が振り返る。
「何?」
呼んだだけで、ちゃんと振り返ってくれる。
それが嬉しい。
なつきは少しだけ照れながらも、きちんと言った。
「ありがとう」
「うん」
「たくさん教えてくれて」
「横田さんが頑張ってるから」
胸がぎゅっとなる。
春樹は何気なく言う。
でも、その何気なさが一番響く。
「テスト」
春樹は続けた。
「頑張ろう」
なつきは小さく頷いた。
「うん。頑張る」
その言葉を聞いていた亜衣が、にやにやしながらも何も言わなかった。
茜も静かに見守っていた。
三浦は何か言いかけたが、紅秋に肩を押さえられて黙った。
島中と田辺は、少しだけ笑って自分達の鞄を持った。
教室を出る頃には、廊下は薄暗かった。
電灯の白い光が床に落ちている。
窓の外には、梅雨の夜の気配があった。
校門へ向かう途中、三浦が大きく伸びをした。
「テスト終わったら!」
突然の声に、全員が振り返る。
三浦は拳を握っていた。
「絶対遊ぶぞ!」
亜衣がすぐに反応する。
「賛成!」
田辺も頷く。
「それはあり」
島中も言う。
「補習なかったらな」
「言うな!」
三浦が叫ぶ。
茜が少し笑う。
「まずはテストを乗り越えてからね」
「分かってる!」
紅秋も静かに言う。
「全員、補習回避が条件だな」
「重い条件」
亜衣が言う。
「でも頑張る」
なつきはその会話を聞きながら、少しだけ夏を想像した。
海。
花火。
夏祭り。
水着。
カフェ。
図書館ではない場所。
制服ではない時間。
そして、春樹くん。
胸が少し弾む。
でも、その前に期末テスト。
なつきは鞄の紐を握り直した。
校門でそれぞれの帰る方向へ分かれる。
春樹は駅の方へ向かう。
なつきは地元側へ。
いつもの距離。
でも、今日は少しだけ満たされていた。
「横田さん」
春樹が振り返る。
「うん?」
「また明日」
明日はテスト前最後の通常日。
そして、その先には本番がある。
なつきは笑った。
「うん」
少しだけ勇気を込めて。
「また明日、春樹くん」
春樹は普通に頷いた。
その普通が、今のなつきには何より嬉しい。
駅へ向かう春樹の背中を見送りながら、なつきは思った。
期末テストは怖い。
でも、ひとりではない。
勉強会で笑って、教えてもらって、少しずつできるようになって。
そして、名前を呼べるようになった。
君の隣は、まだ遠い。
だけど今日。
その距離は、また少しだけ日常になった気がした。
夏はまだ先。
でも、確かに近づいている。
その前に、まずは期末テスト。
なつきは鞄を持ち直し、家へ向かって歩き出した。
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