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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第58話 図書館と、甘い休憩


 休日の図書館は、学校の図書室とは違う静けさがあった。


 広い窓。


 高い天井。


 並んだ机。


 本棚の奥から漂う紙の匂い。


 空調の低い音。


 ページをめくる小さな音。


 そして、時々聞こえる椅子を引く音。


 それらが全部混ざって、ゆっくりとした時間を作っている。


 なつきは参考書とノートを広げながら、小さく息を吐いた。


 期末テストまで、あと少し。


 家でも勉強はできる。


 できるはずだ。


 けれど家にいると、ついスマホを見てしまう。


 鞄の中に入れている本を読みたくなってしまう。


 そして気づけば、春樹のことを考えてしまう。


 だから今日は、茜と亜衣と三人で市立図書館に来た。


 午前中は勉強。


 午後に少し休憩して、近くのカフェで息抜き。


 それが今日の予定だった。


「なつき」


 向かいの亜衣が小声で言う。


「もう帰りたい」


「早い」


「図書館着いて何分?」


 なつきが時計を見る。


「十五分」


「十五分も頑張った」


「も?」


 隣の茜が顔を上げる。


「亜衣」


「はい」


「ワークを開いて五分、シャーペンを探して三分、消しゴムを落として二分、今まで問題を解いた時間は?」


「……五分」


「頑張ったとは言わないわ」


「厳しい」


「事実よ」


 亜衣は小さくうなだれる。


 なつきは笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。


 図書館だから、大きな声で笑えない。


 その制限が、逆に三人の会話を少しだけ特別にしていた。


 学校の教室なら亜衣はもっと大きな声で騒ぐ。


 茜ももっとはっきり注意する。


 でもここでは、全部が小声になる。


 秘密の会話みたいだった。


「なつきは進んでる?」


 亜衣が聞く。


「少し」


「裏切り者」


「昨日も言ってた」


「頑張るなつきは尊いけど、置いていかれる私がつらい」


「亜衣ちゃんもやればいいだけだよ」


「正論が二方向から来る」


 茜が静かに言う。


「三方向にしましょうか」


「勘弁してください」


 亜衣は素直にノートへ向かった。


 なつきも自分の問題に戻る。


 簿記。


 数学。


 英語。


 どれも簡単ではない。


 けれど、前より少しだけ手が動く。


 分からないところはまだある。


 間違えることもある。


 それでも、前みたいに最初から全部分からないわけではない。


 春樹に教えてもらったところ。


 紅秋が説明していたところ。


 茜が整理してくれたところ。


 亜衣と一緒に覚えた英単語。


 それらが少しずつ繋がっていく。


 勉強は嫌いではない。


 でも得意でもない。


 それでも、分かる瞬間は少し楽しい。


 なつきはそのことに最近気づいた。


 たぶん、誰かと一緒だからだ。


 一人で分からない問題を見ていると苦しい。


 でも、誰かと同じ机に向かっていると、少しだけ頑張れる。


 そして。


 春樹が言ってくれた言葉がある。


 ――頑張ったね。


 思い出すだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。


 その言葉が、なつきの中で小さな灯りになっていた。


「なつき」


 茜が小声で呼んだ。


「はい」


「今、問題じゃなくて別のことを考えていたわね」


「えっ」


「顔が少し緩んでいた」


 亜衣がすぐに顔を上げる。


「春樹くん?」


 心臓が跳ねた。


 図書館なのに、なつきは思わず大きめの声を出しそうになる。


「ち、違う」


「声大きくなりそうだった」


「違うから」


「じゃあ何?」


「勉強のこと」


「春樹くんに褒められた勉強のこと?」


「亜衣ちゃん」


 亜衣はにやにやしている。


 茜も少しだけ笑っていた。


 なつきは顔を赤くしてノートへ視線を戻す。


 でも、否定しきれなかった。


 春樹くん。


 その呼び方が、少しずつ自分の中で形になっている。


 まだ口に出すたびに胸が跳ねる。


 でも、前ほど遠くはない。


 あの勉強会の日、自然に言えた。


 春樹は、普通に受け止めてくれた。


 呼びやすいなら、それでいい。


 その言葉が、なつきにとっては大きかった。


「春樹くん呼び」


 亜衣が小声で言う。


「定着しそう?」


「……分かんない」


「でも昨日も言ってたじゃん」


「勢いで」


「勢い大事」


「亜衣ちゃんはいつも勢い」


「褒めてる?」


「少し」


 茜が言う。


「無理に戻す必要はないと思うわ」


 なつきは顔を上げる。


「大國くんに?」


「ええ」


「でも、急に春樹くんって呼んで変じゃないかな」


「本人がいいと言ったのでしょう?」


「うん」


「なら大丈夫」


 茜の言葉はいつも落ち着いている。


 春樹の好きなタイプ。


 落ち着いていて、安心できる人。


 茜はまさにそういう人だと、なつきは思う。


 自分とは違う。


 でも、茜はなつきに無理に変われとは言わない。


 ただ、できる範囲で背中を押してくれる。


「なつき」


 亜衣がペンをくるくる回しながら言う。


「春樹くんって呼んだ時、どうだった?」


「どうって」


「心臓」


「うるさかった」


「顔」


「熱かった」


「でも嫌じゃなかった?」


 なつきは少しだけ黙った。


 図書館の静けさが、答えを待っているみたいだった。


「嫌じゃなかった」


 小さく言う。


「むしろ……嬉しかった」


 亜衣がにやっとする。


 でも茶化さなかった。


 茜も静かに頷く。


「なら、それでいいと思うわ」


「うん」


 なつきはノートの端を見つめる。


 春樹くん。


 まだ照れる。


 でも、もう心の中だけの呼び方ではなくなった。


 それが嬉しい。


 午前中の勉強は、予定より少し長く続いた。


 亜衣は何度も限界を迎えかけたが、そのたびに茜に戻された。


「休憩しようよ」


「この問題が終わったら」


「終わらない」


「終わらせるの」


「茜ちゃん、鬼」


「鬼ではなく友達よ」


「友達って厳しい」


「あなたのため」


「それが一番逃げられない」


 なつきは二人のやり取りを聞きながら、少しずつ問題を進めた。


 分からないところは茜に聞く。


 亜衣と一緒に英単語を確認する。


 時々三人で小さく笑う。


 図書館の勉強は、思ったより悪くなかった。


 昼を少し過ぎた頃、亜衣が机に額をつけた。


「もう無理」


 今度は本気の声だった。


 茜が時計を見る。


「確かに、そろそろ休憩にしましょう」


「やった」


 亜衣が顔を上げる。


「カフェ!」


「声」


 茜が注意する。


「ごめん」


 亜衣は慌てて口を押さえた。


 三人は荷物をまとめ、図書館を出た。


 外へ出ると、曇り空の下でも少し蒸し暑かった。


 図書館の冷房に慣れた体には、外の湿った空気が重く感じる。


 それでも、勉強から解放された亜衣は一気に元気になった。


「甘いもの食べたい」


「お昼は?」


 なつきが聞く。


「軽く食べて、甘いもの」


「両方なんだ」


「勉強したから」


 茜が言う。


「勉強時間と糖分摂取量が釣り合っていないわ」


「茜ちゃん、細かい」


「事実よ」


 三人で歩き、近くのカフェへ入った。


 駅周辺ほど混んでいない、少し落ち着いた店だった。


 木目調のテーブル。


 窓際の席。


 小さな観葉植物。


 コーヒーの香り。


 図書館とは違う静けさがある。


 なつき達は窓際の三人席に座った。


 亜衣は迷わず甘いドリンクとケーキを選び、茜は紅茶となるべく軽いサンドイッチ、なつきはアイスティーと小さなチーズケーキにした。


「なつき、控えめ」


 亜衣が言う。


「そう?」


「もっと食べていいのに」


「チーズケーキ食べるよ」


「かわいい量」


「量にかわいいとかある?」


「ある」


 亜衣は自信満々だった。


 注文を済ませると、三人の空気は一気に緩んだ。


 勉強の話から、少しずつ別の話へ移っていく。


 夏服。


 期末が終わった後の予定。


 球技大会の写真。


 家庭科のクッキー。


 そして、春樹。


 結局、そこへ戻ってくる。


「で」


 亜衣がストローを回しながら言った。


「なつき的に、最近どうなの?」


「どうって」


「春樹くん」


 名前を出されただけで、まだ胸が跳ねる。


 なつきはグラスを両手で持った。


「前よりは……話せるようになったと思う」


「うん」


 亜衣は頷く。


「確実に」


 茜も言う。


「最初の頃を考えると、かなり進んでいるわ」


「最初の頃……」


 なつきは思い出す。


 図書室で遠くから見ていた。


 話しかける勇気もなくて、ただ本を読む春樹を見つめていた。


 委員会で一緒になれなくて落ち込んだ。


 簿記で教えてもらう時も、緊張しすぎて何度も言葉に詰まった。


 それが今は。


 春樹くん、と呼べた。


 勉強を教えてもらえる。


 本の感想を聞かせてと言われた。


 同じ机を囲んで、笑える時間もある。


「少しは進んでるのかな」


 なつきが言うと、亜衣が大きく頷いた。


「進んでるどころじゃないよ」


「そう?」


「だって春樹くん呼びだよ?」


「それは……」


「なつきにとっては大事件じゃん」


 それは本当にそうだった。


 なつきは小さく笑う。


「うん。大事件」


「しかも春樹くん、普通に受け入れたし」


「うん」


「よかったじゃん」


「うん」


 嬉しい。


 改めてそう思う。


 春樹にとっては何でもないことかもしれない。


 でも、なつきにとっては違う。


 呼び方が変わるだけで、距離が少し変わった気がする。


 近づきすぎではない。


 でも、前より遠くない。


 その感覚が、胸の中でふわふわしていた。


 茜が紅茶を一口飲んでから言う。


「ただ、焦らないこと」


「うん」


「呼び方が変わったからといって、一気に関係が変わるわけではないわ」


「分かってる」


「でも、積み重ねにはなる」


「積み重ね……」


 なつきはその言葉をゆっくり受け止めた。


 春樹の隣を目指す。


 それは一気に走ることではない。


 一歩ずつ。


 呼び方。


 会話。


 勉強。


 本の感想。


 また明日。


 その全部が、積み重なっていく。


 亜衣がふと真面目な顔をした。


「なつきさ」


「うん」


「最近、笑うようになったよね」


「え?」


「前から笑ってたけど、何ていうか……楽しそうに笑うこと増えた」


 なつきは少し驚いた。


 自分では分からなかった。


 茜も頷く。


「私も思っていたわ」


「本当に?」


「ええ。前は春樹くんを見ている時、嬉しそうというより苦しそうな顔をすることも多かった」


「……そうだったかも」


「今は、悩んではいるけれど、前より前向き」


 茜の言葉に、なつきは少しだけ目を伏せた。


 確かにそうかもしれない。


 前は、春樹を見ているだけで苦しかった。


 遠くて。


 届かなくて。


 自分には無理だと思っていた。


 でも今は違う。


 まだ遠いけれど、少しずつ近づけていると思える。


 だから苦しさだけじゃない。


 嬉しさもある。


 楽しいと思える瞬間もある。


「二人のおかげだよ」


 なつきは小さく言った。


「茜ちゃんと亜衣ちゃんがいなかったら、たぶん私、まだずっと見てるだけだった」


 亜衣は少しだけ目を丸くした。


 茜も静かになった。


 なつきは続ける。


「亜衣ちゃんが背中押してくれて、茜ちゃんが止めるところは止めてくれて」


「うん」


「だから、少しずつ話せるようになった」


 言葉にすると、胸が温かくなる。


 自分だけではここまで来られなかった。


 それは本当だった。


 亜衣は少し照れたように笑う。


「やめてよ、急にいい話」


「え?」


「泣きそうになるじゃん」


「亜衣ちゃんが?」


「私だって泣くよ」


 茜は微笑む。


「亜衣は意外と涙もろいものね」


「意外って何」


 三人で笑った。


 カフェの窓の外では、休日の人通りがゆっくり流れている。


 親子連れ。


 学生。


 買い物袋を持つ人。


 傘を持っている人。


 梅雨の空は曇っているのに、店の中の時間は少し明るかった。


「夏休み」


 亜衣がふと思い出したように言った。


「テスト終わったら、ちゃんと遊びたい」


「まずテスト」


 茜が即座に言う。


「分かってる。でも希望は必要」


「それは分かる」


「海とかさ」


 亜衣の言葉に、なつきの手が止まる。


 水着売り場。


 白い花柄の水着。


 鏡の前で見た自分。


 亜衣と茜に似合ってると言われたこと。


 そして、春樹を想像して一人で真っ赤になったこと。


 全部思い出す。


「なつき、今想像した」


 亜衣が言う。


「してない」


「した」


「してない」


「春樹くんの水着?」


「亜衣ちゃん!」


 カフェなので大声は出せない。


 なつきは小声で強く抗議する。


 亜衣は楽しそうに笑っている。


 茜も少しだけ頬を緩めた。


「海はともかく、夏休みに一度くらいみんなで出かけるのはいいかもしれないわね」


「でしょ!」


 亜衣が身を乗り出す。


「花火とか、夏祭りとか、プールとか!」


「予定を立てるならテスト後」


「分かってます」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんじゃない」


 なつきは二人のやり取りを聞きながら、少しだけ未来を想像した。


 夏休み。


 今より少し暑い日。


 制服ではない服。


 もしかしたら、春樹もいるかもしれない。


 茜と亜衣もいて。


 美優や蓮や祐衣もいるかもしれない。


 三浦が騒いで、紅秋が呆れて、島中と田辺が笑っている。


 そんな夏。


 想像すると、胸が少し弾んだ。


 でも、その前に期末テスト。


 現実は消えない。


「まず頑張らなきゃね」


 なつきが言うと、亜衣は少しだけ驚いた顔をした。


「なつきが真面目」


「いつも真面目だよ」


「そうだけど、何か前向き」


「うん」


 なつきはチーズケーキを一口食べる。


 甘い。


 少しだけ酸味もある。


 疲れた頭にしみる味だった。


「テスト終わったら、ちゃんと笑って遊びたいから」


 その言葉に、茜が頷いた。


「そのためにも、今はやることをやりましょう」


「はい」


 亜衣も渋々頷く。


「はい……」


 それから三人は、もう少しだけカフェで話した。


 春樹のこと。


 美優のこと。


 祐衣のこと。


 期末のこと。


 夏休みのこと。


 亜衣は相変わらず勢いで話を広げ、茜は現実に戻し、なつきはその間で笑ったり照れたりした。


 その時間は、勉強の休憩であり、友達との大切な時間でもあった。


 帰る頃には、空は少しだけ明るくなっていた。


 雨は降らなかった。


 曇り空のままだけれど、雲の隙間から薄い光が差している。


 駅へ向かう道で、亜衣が伸びをした。


「今日は頑張った!」


「午前中はね」


 茜が言う。


「午後も精神的に頑張った」


「何を?」


「恋バナ」


「それは勉強ではないわ」


「心の勉強」


「都合のいい言葉ね」


 なつきは笑った。


「でも、楽しかった」


「うん」


 亜衣が頷く。


「またやろうね」


「テスト前に?」


「テスト後でも」


「それなら大歓迎」


 茜も微笑む。


「テスト後なら、少しゆっくりできるわね」


 三人は駅前で別れる。


 亜衣が手を振る。


「なつき、今日帰ったらちゃんと復習ね!」


「亜衣ちゃんもね」


「私は……善処します」


「しなさい」


 茜が言うと、亜衣は笑いながら走っていった。


 茜も別方向へ歩き出す。


「なつき」


「うん?」


「春樹くん呼び、無理に意識しすぎないようにね」


「うん」


「自然に出たなら、それが一番いいわ」


「……ありがとう」


 茜は小さく頷き、手を振って去っていった。


 一人になった帰り道。


 なつきは鞄の中のノートを思い出す。


 今日解いた問題。


 今日話したこと。


 カフェの甘い匂い。


 亜衣の笑い声。


 茜の言葉。


 そして、春樹くんという呼び方。


 少しずつ。


 本当に少しずつだけれど、自分の中で何かが変わっている。


 前は、好きな人を見ているだけで精いっぱいだった。


 今は、話したいと思う。


 呼びたいと思う。


 隣に立てる自分になりたいと思う。


 そのために、勉強も頑張りたいと思える。


 なつきは空を見上げた。


 梅雨の雲の向こうに、夏が待っている気がした。


 期末テストが終わったら。


 きっとまた、何かが始まる。


 その時、自分は今より少しだけ前に進んでいたい。


 君の隣を目指して。


 今日も一歩。


 小さくても、確かに。

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