第57話 戻ってくる場所
期末テストまで、あと十日。
教室の空気は、少しずつ変わり始めていた。
球技大会前のような浮ついた熱ではない。
休日回のような甘い余韻でもない。
もっと現実的で、もっと重たいもの。
提出物。
範囲表。
赤点。
補習。
夏休み。
その単語が、教室のあちこちで飛び交うようになっていた。
「夏休み補習だけは嫌だ」
三浦が朝から言った。
机に頬をつけ、範囲表を見ながらうなっている。
「じゃあ勉強しろ」
田辺が返す。
「してる」
「どこが」
「昨日、数学ワーク開いた」
「開いただけだろ」
「人は最初の一歩が大事なんだよ」
島中が横から言う。
「開いただけで一歩なら、俺はもう百歩くらい歩いてる」
「ページめくった?」
「めくった」
「じゃあ勝ちだな」
「何にだよ」
朝からよく分からない勝負が始まっている。
紅秋はその隣で、すでにノートを開いていた。
「お前ら」
「はい」
三浦と島中が同時に返事をする。
「朝から無駄な会話をする暇があるなら、昨日の復習をしろ」
三浦が静かに範囲表を閉じた。
「紅秋先生、朝から厳しいです」
「先生ではない」
「でも正論です」
「ならやれ」
「はい」
田辺が小声で笑った。
紅秋は田辺を見る。
「田辺もだ」
「俺も?」
「笑っている場合じゃない」
「はい」
男子達がそろって静かになる。
その様子を見て、亜衣がなつきの席へ身を乗り出した。
「紅秋くん、完全に先生化してる」
「確かに」
なつきは小さく笑う。
「でも助かるよね」
「助かる。逃げられないけど」
「亜衣ちゃんは逃げようとするから」
「逃げるんじゃなくて、一時撤退」
茜が即座に言う。
「同じよ」
「茜ちゃんも厳しい」
「今は厳しくする時期」
「うう……」
亜衣は机に突っ伏した。
なつきは苦笑しながら、鞄から昨日のノートを取り出す。
赤ペンの丸が目に入った。
春樹がつけてくれた丸。
その横には、自分で小さく書いたメモがある。
ここはもう一度解く。
昨日の帰宅後、なつきは言われた通りに一回だけ解き直した。
時間はかかった。
途中で何度も迷った。
でも、最後まで解けた。
答えも合っていた。
それが嬉しくて、夜に少しだけノートを見返した。
春樹に明日言えるだろうか。
昨日のところ、解けたよ。
それだけ。
でも、ちゃんと自分から言いたい。
そう思っている。
「なつき」
茜が声をかける。
「昨日やったのね」
「うん」
「偉いわ」
「春樹くんに言われたから?」
亜衣がすぐに顔を上げる。
なつきは少し赤くなる。
「それも……あるけど」
「正直」
「あるけど、ちゃんと分かりたかったから」
自分で言って、少し驚いた。
以前なら、ただ春樹に褒められたいだけだったかもしれない。
もちろん今も、褒められたら嬉しい。
ものすごく嬉しい。
でも、それだけではない。
ちゃんとできるようになりたい。
春樹に教えてもらったことを、自分の力にしたい。
そう思うようになっていた。
茜は少しだけ目を細める。
「いいことね」
「うん」
亜衣もにこっと笑った。
「じゃあ今日も頑張ろ」
「亜衣ちゃんもね」
「私は……頑張る予定」
「予定じゃなくて」
そんな会話をしながら、午前中の授業は進んだ。
期末前の授業は、どの教科も復習と範囲確認が中心だった。
先生達も少しだけ厳しくなる。
教室に向けられる言葉も、いつもより現実的だった。
「ここは出ます」
その一言で、クラス全体が一斉にペンを走らせる。
「ここは前回間違いが多かったところです」
その一言で、三浦が小さく悲鳴を上げる。
「提出物は来週最初の授業で集めます」
その一言で、亜衣が机に沈む。
授業中も、休み時間も、期末の影は消えなかった。
それでも、放課後になると少しだけ空気が変わる。
部活へ向かう生徒達が出ていき、教室には勉強会メンバーが残る。
机を寄せる音。
ノートを開く音。
赤ペンを出す音。
それが、最近の放課後の合図になりつつあった。
「今日は」
紅秋が言った。
「昨日より少し進める」
三浦が顔を上げる。
「昨日より?」
「数学ワーク五ページ」
「増えてる!」
「昨日三ページだったからな」
「成長を期待されてる!」
田辺が笑う。
「期待されてるならいいじゃん」
「お前も五ページな」
紅秋が言う。
田辺は黙った。
島中が笑う。
「巻き込まれてやんの」
茜が静かに顔を上げた。
「島中くんもよ」
「……はい」
亜衣がその様子を見て小さく拍手する。
「今日も茜ちゃんの刺しが鋭い」
「刺してないわ。現実を見せているだけ」
「現実って刺さるんだね」
「そうね」
なつきは笑いながら、自分のノートを開いた。
春樹はいつものように近くに座っている。
今日はなつきの斜め横。
教えやすく、でも近すぎない距離。
なつきにとっては、昨日より少しだけ落ち着ける位置だった。
「横田さん」
春樹が声をかける。
「はい」
今日は、昨日より少し落ち着いて返事ができた。
なつきはそれだけで心の中で小さくガッツポーズをした。
「昨日のところ、やった?」
「うん」
なつきはノートを開いて見せる。
「一回だけだけど、解けた」
春樹がノートを見る。
短い沈黙。
その沈黙にも少しずつ慣れてきた。
春樹は考えている時、すぐには言葉を出さない。
でも、それは責めている沈黙ではない。
ちゃんと見てくれている沈黙だ。
「合ってる」
春樹が言った。
「ほんと?」
「うん」
なつきの胸がふわっと軽くなる。
「ここも」
春樹は赤ペンを持ち、小さく丸をつけた。
「昨日よりきれいに書けてる」
「本当?」
「うん。あと、途中式残してるのもいい」
春樹の言葉は短い。
でも、ちゃんと見ている。
なつきはそれが嬉しくて、少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
「頑張ったから」
また。
何でもないように言う。
なつきの心臓が跳ねる。
亜衣が遠くから見ている気配がする。
でも、今日は見ない。
見たら余計に照れる。
春樹は次の問題を指差した。
「今日はこっち」
「うん」
「これは似てるけど、数字の見方が少し違う」
「うん」
なつきはペンを握る。
勉強会の空気は、相変わらず騒がしい。
三浦は紅秋に捕まり、田辺は数字と格闘し、島中は文句を言いながらも手を動かしている。
亜衣は茜に英単語を確認されている。
その中で、春樹となつきの周りだけは少し静かだった。
教わる声。
ペンの音。
ノートをめくる音。
時々、なつきが小さく「分かった」と言う。
春樹が「うん」と返す。
それだけ。
それだけなのに、なつきにはとても大切な時間だった。
しばらくして、春樹がふと鞄へ手を伸ばした。
「あ」
小さな声。
なつきは顔を上げる。
「どうしたの?」
「本」
「本?」
「図書室に返すの、今日までだった」
「今日まで?」
「うん」
春樹は少しだけ眉を動かした。
珍しく、ほんの少し困ったような顔だった。
なつきはその表情に胸が跳ねる。
春樹にもこういう顔がある。
それが少しだけ新鮮だった。
「行ってきたら?」
なつきが言う。
「でも」
春樹はノートを見る。
「続き」
「大丈夫。待ってる」
言ってから、なつきは自分で少し驚いた。
待ってる。
自然に出た。
春樹は一瞬だけなつきを見た。
そして頷く。
「すぐ戻る」
「うん」
その一言だけで、なつきの胸は少し温かくなった。
すぐ戻る。
別に特別な意味はない。
本を返しに行くだけ。
でも、戻ってくると言ってくれた。
それが嬉しい。
春樹は本を持って教室を出ていった。
その背中を見送っていると、亜衣がすっと隣へ来る。
「待ってる、だって」
「聞いてたの!?」
「聞こえた」
「忘れて」
「無理」
茜も少し微笑む。
「自然に言えたわね」
「うん……」
なつきは少しだけ頬を赤くする。
「自分でもびっくりした」
「いいことよ」
茜の言葉に、なつきは小さく頷いた。
一方、春樹がいなくなった教室では、すぐに三浦が顔を上げた。
「大國がいない」
紅秋が言う。
「だから何だ」
「今なら休憩」
「俺がいる」
「ですよね」
三浦は静かにワークへ戻った。
島中が笑う。
「秒で封じられてる」
茜が見る。
「島中くん」
「はい」
「笑う余裕」
「ないです」
「なら手を動かしましょう」
「はい」
田辺が小さく笑って、すぐに自分も視線を落とした。
勉強会は春樹がいなくても動いている。
けれど、なつきの中では少しだけ空白ができた。
春樹がいない席。
開いたままのノート。
途中で止まった問題。
すぐ戻ると言っていた。
だから大丈夫。
そう思いながらも、なつきは少しだけ教室の扉を気にしてしまう。
◇
図書室は、放課後らしくほどほどに人がいた。
テスト前だからか、自習している生徒も多い。
机には参考書やノートが広げられ、普段より少しだけ張り詰めた空気がある。
春樹はカウンターで本を返却した。
「返却お願いします」
図書委員が処理をする。
その時、奥のテーブルから声がした。
「春樹」
美優だった。
窓際のテーブルで、祐衣と向かい合って座っている。
二人の前には参考書とノートが広げられていた。
特進科の勉強会。
春樹はそう思った。
「美優」
春樹は近づく。
「白石さんも」
「こんにちは、大國くん」
祐衣が顔を上げる。
「本返しに?」
「うん」
美優がノートを閉じながら言う。
「商業科も期末で忙しそうだね」
「うん」
「どう?」
「賑やか」
春樹の即答に、美優が笑う。
「春樹らしい感想」
祐衣も少し笑った。
「商業科の勉強会ですか?」
「うん」
「大國くんが教えてるんですか?」
「少し」
春樹は短く答える。
「紅秋もいるし、遠山さんもいるから」
「楽しそうですね」
祐衣が言う。
春樹は少し考える。
「うん」
その「うん」は、いつもより少し柔らかかった。
美優はそれに気づいた。
祐衣も気づいた。
春樹は気づいていない。
美優はペンを指先で回しながら言う。
「最近、春樹さ」
「何?」
「商業科楽しそうだよね」
春樹は少し首を傾げる。
「そう?」
「そう」
美優は迷わず言った。
「前より、教室の話するし」
「する?」
「するよ。三浦くんがどうとか、島中くんがどうとか、伊藤さんがどうとか」
「そうかな」
「そう」
祐衣も静かに頷く。
「大國くん、図書室でも商業科の話を少しするようになりました」
「そう?」
春樹はまた首を傾げる。
美優と祐衣は目を合わせて、少し笑った。
春樹は本当に自覚がない。
それが春樹らしい。
「横田さんも勉強会に?」
祐衣が聞いた。
「うん」
「頑張ってますか?」
「頑張ってる」
春樹はすぐに答えた。
美優の指先が、ほんの少し止まった。
祐衣も静かに春樹を見る。
春樹の声はいつも通り短かった。
でも、その答えは早かった。
迷いがなかった。
「頑張ってるんですね」
祐衣が言う。
「うん」
「そっか」
美優は少しだけ笑った。
「横田さん、真面目そうだもんね」
「うん」
「春樹、ちゃんと教えてあげてる?」
「一緒にやってるだけ」
「それが教えてるってことだよ」
「そう?」
「そう」
美優は少しだけ目を細める。
春樹が横田なつきをどう見ているのか。
まだ分からない。
でも、少なくとも春樹の中で、横田なつきはもうただのクラスメイトではない。
そう感じた。
祐衣も同じように、何かを感じているようだった。
けれど、祐衣はそれを表には出さない。
「大國くん」
祐衣が言う。
「横田さんが読んでいる本、進んでいるでしょうか」
「分からない」
「感想、楽しみですね」
「うん」
春樹は頷く。
その短い返事にも、少しだけ温度があった。
美優はそれを見て、胸の奥に小さな波を感じる。
嫌ではない。
でも、何も感じないわけでもない。
祐衣は静かにノートへ視線を落とした。
「大國くん、戻らなくて大丈夫ですか?」
「あ」
春樹は時計を見る。
「戻る」
美優が笑う。
「待たせてる?」
「うん」
即答だった。
美優はまた少しだけ目を細める。
「そっか」
春樹は本を返した手続きを確認し、二人へ軽く頷いた。
「じゃあ」
「うん。またね、春樹」
「またね、大國くん」
春樹は図書室を出ていく。
その背中を、美優と祐衣は少しだけ見送った。
図書室の静けさが戻る。
窓の外では、夕方の光が薄く広がっていた。
美優が小さく言う。
「商業科、楽しそうだね」
祐衣はノートを閉じる。
「そうですね」
「春樹も、楽しそう」
「はい」
二人の間に短い沈黙が落ちる。
美優はペンを机に置いた。
「横田さん、いい子だよね」
「はい」
祐衣は迷わず頷いた。
「いい人です」
「うん」
美優は少しだけ笑う。
「だから、ちょっと困るね」
祐衣はその言葉にすぐ答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
図書室の静かな空気の中で、二人はそれぞれ別のことを考えていた。
◇
春樹が教室へ戻ると、勉強会はまだ続いていた。
三浦は紅秋に見張られながら数学ワークを進めている。
田辺は簿記の問題で唸っている。
島中は英単語を書き写しているが、明らかに字が荒い。
亜衣は茜に小テスト形式で確認されている。
なつきは、自分のノートを見つめながら、春樹が出ていった扉の方を時々見ていた。
春樹が入ってきた瞬間。
なつきの表情が少しだけ明るくなる。
本人は気づいていない。
でも、亜衣は気づいた。
茜も気づいた。
春樹は自分の席へ戻り、鞄を置く。
「ごめん」
なつきへ言った。
「待った?」
なつきは首を横に振る。
「大丈夫」
そして少しだけ笑った。
「待ってた」
言ってから、また少し顔が赤くなる。
でも、今度は言い直さなかった。
春樹は小さく頷く。
「続きやろう」
「うん」
その一言で、なつきの胸が落ち着いた。
図書室で誰と会ったのか。
美優と話したのか。
祐衣と話したのか。
気にならないわけではない。
でも、春樹は戻ってきた。
自分のノートの前へ。
昨日の続きへ。
それだけで、今は十分だった。
春樹はなつきのワークを見る。
「ここまでやった?」
「うん。でもここで止まってて」
「ここは」
春樹がペンを持つ。
説明が始まる。
なつきは真剣に聞いた。
さっきよりも集中できる。
春樹が戻ってきたから。
そう思うと、少しだけ恥ずかしかった。
でも本当だった。
「ここ」
春樹が指差す。
「前と同じ考え方」
「同じ?」
「うん。数字を分ける」
「あ……そっか」
なつきは手を動かす。
昨日より少し早く解ける。
春樹は黙って見ている。
その沈黙は、もう怖くなかった。
見守られている感じがした。
「できた」
春樹が確認する。
「合ってる」
「よかった」
「もう一問いける?」
「いける」
自然に答えられた。
春樹は少しだけ頷く。
「じゃあ次」
それだけ。
でも、なつきには嬉しかった。
勉強会はその後も続いた。
三浦がまた休憩を要求し、紅秋に却下される。
亜衣が英単語を一つ間違えて、「惜しい!」と自分で言い張り、茜に「惜しくない」と切られる。
田辺が島中に答えを聞こうとして、島中が自信満々に間違った答えを教え、二人まとめて紅秋に訂正される。
笑いが何度も起きた。
それでも、昨日より進んだ。
教室の空気が少し変わっていた。
焦りはある。
でも、少しずつやれば進む。
その感覚が、みんなの中に生まれ始めていた。
夕方。
茜が時計を見る。
「今日はここまでにしましょう」
三浦が机に伏せる。
「生還」
「まだテスト前だ」
紅秋が言う。
「生還じゃなくて途中経過だ」
「言い方が怖い」
亜衣が伸びをする。
「でも昨日より進んだ気がする」
「実際進んでるわ」
茜がチェック表を見る。
「英単語、昨日より覚えてる」
「やった!」
「忘れないように復習」
「はい……」
なつきもノートを閉じる。
今日は昨日より解けた。
春樹に教えてもらったところも、自分で少し進められた。
それが嬉しい。
片付けをしていると、春樹が声をかけた。
「横田さん」
「はい」
「今日、進んだね」
「うん」
「昨日より、考えるの早くなってる」
なつきは胸が温かくなる。
「本当?」
「うん」
「春樹くんが教えてくれたから」
言ってから、なつきは固まった。
春樹くん。
言った。
今。
自然に。
口から出た。
教室の空気が一瞬止まった気がした。
亜衣が振り返る。
茜も目を瞬かせる。
三浦が「お」と声を出しかけ、紅秋が視線だけで止める。
島中と田辺も気づいている。
春樹は。
少しだけ首を傾げた。
「うん」
普通だった。
本当に普通に受け取った。
それが救いだった。
なつきの顔は一気に熱くなる。
「ご、ごめん」
「何が?」
「今、名前……」
「呼びやすいなら」
春樹はいつものように言った。
「それでいい」
なつきは何も言えなくなった。
心臓がうるさい。
でも、不思議と嫌ではない。
亜衣が口元を押さえている。
茜は静かに微笑んでいる。
三浦は何か言いたそうだが、紅秋に止められている。
島中はにやっとしたが、田辺に肘でつつかれて黙った。
なつきは小さく息を吸う。
「……ありがとう」
春樹は頷いた。
「うん」
その後の片付けは、なつきの記憶にあまり残らなかった。
鞄にノートを入れたこと。
亜衣に肩を叩かれたこと。
茜に「よかったわね」と小さく言われたこと。
三浦が何か言いかけて紅秋に止められたこと。
全部、少し遠く感じた。
教室を出る頃、外はすっかり夕方だった。
梅雨の雲の隙間から、薄い橙色の光が差している。
なつきは鞄を持ちながら、胸の中で何度も繰り返していた。
春樹くん。
言えた。
自然に。
偶然みたいに。
でも確かに。
春樹くん。
君の隣はまだ遠い。
でも今日は。
ほんの少しだけ。
呼び方の距離が、縮まった気がした。




