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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第56話 逃亡未遂と、赤ペンの距離


 期末テストまで二週間。


 その言葉は、翌日になっても教室の空気に残っていた。


 朝の十一組は、いつもより少しだけ静かだった。


 静かといっても、完全に落ち着いているわけではない。


 むしろその逆だ。


 諦めたように静かな者。


 範囲表を見て固まっている者。


 提出物のページ数を数えて顔色を悪くしている者。


 そして、現実逃避で異様に元気な者。


「おはようございまーす!」


 三浦が教室に入ってきた。


 声だけは元気だった。


 だが顔は死んでいる。


 田辺が振り返る。


「声と顔が合ってねぇぞ」


「声だけでも生きていたい」


「何その名言っぽい絶望」


 島中が机に突っ伏したまま言う。


「俺はもう声も出ねぇ」


「出てるじゃん」


「これは魂の叫びだ」


「朝から重いな」


 三浦は自分の席へ鞄を置き、範囲表を取り出した。


 そして三秒で閉じた。


「見なかったことにしよう」


 紅秋が隣の席から静かに言った。


「見なかったことにしても範囲は減らない」


「板倉、お前は朝から正論を振りかざすな」


「事実だ」


「事実が一番痛いんだよ」


 そのやり取りに、教室の何人かが笑う。


 なつきも席で小さく笑っていた。


 昨日から始まった勉強会。


 まだ範囲を整理しただけなのに、すでに不安は大きい。


 けれど、ひとりで抱える不安ではなかった。


 茜がいる。


 亜衣がいる。


 春樹がいる。


 紅秋がいる。


 三浦も田辺も島中もいる。


 みんなで騒ぎながらでも、少しずつ進めていく。


 そう思うと、期末テストという現実も少しだけ柔らかく見えた。


「なつき」


 亜衣が前の席から振り返る。


「昨日、帰ってから勉強した?」


「少し」


「裏切り者」


「何で!?」


「私は机に座って、範囲表開いて、三分後に寝てた」


「早い」


「机に座っただけ偉い」


 茜が横から言う。


「偉くはないわ。始めなさい」


「茜ちゃん厳しい」


「今厳しくしないと、後で泣くのは亜衣よ」


「もう泣きそう」


「まだ早い」


 亜衣は机に突っ伏した。


 なつきは苦笑しながら、鞄から簿記のノートを取り出す。


 昨日、春樹に言われた。


 ――ここ、一緒にやる?


 その言葉を思い出すだけで、胸が少し温かくなる。


 昨日は隣で教えてもらった。


 問題の解き方。


 仕訳の見方。


 数字の追い方。


 春樹の説明は短いけれど、分かりやすい。


 そして、ちゃんと見てくれている。


 なつきのノートが前より整理できていることにも気づいてくれた。


 それが嬉しかった。


「なつき、顔」


 亜衣が言う。


「え?」


「今、春樹くん思い出した顔」


「してない」


「してた」


「してない」


 茜がノートを開きながら静かに言った。


「していたわね」


「茜ちゃんまで」


 なつきは顔を赤くした。


 でも、否定しきれなかった。


 一時間目は簿記だった。


 期末範囲の復習に入ると先生は言い、黒板に問題を書き始めた。


 教室の空気が一気に現実へ戻される。


「では、まずこの仕訳を各自で考えてください。五分後に確認します」


 チョークの音が止む。


 生徒達がノートへ向かう。


 なつきもシャーペンを握った。


 落ち着いて。


 数字を見る。


 借方。


 貸方。


 勘定科目。


 以前よりは分かる。


 春樹に教えてもらったところだ。


 なつきはゆっくり書き始めた。


 隣の茜は静かに手を動かしている。


 前の亜衣は眉間に皺を寄せている。


 教室の反対側では、春樹がすでに解き終えているようだった。


 紅秋も同じ。


 三浦は。


 白紙だった。


「三浦くん」


 先生が歩いてきて言う。


「はい」


「何も書いていませんね」


 三浦は真剣な顔で答えた。


「心では書きました」


 教室がざわっと笑う。


 先生はにこりともせず言った。


「点数にはなりません」


「ですよね」


「書きましょう」


「はい」


 田辺が肩を震わせて笑っている。


 島中も口元を押さえていた。


 先生はそのまま田辺の机を見る。


「田辺くん」


「はい」


「途中で止まっていますね」


「心は最後まで行きました」


「三浦くんの真似をしない」


「はい」


 さらに笑いが広がる。


 先生は島中の机を見る。


「島中くん」


「はい」


「字が荒れています」


「気持ちが荒れてます」


「落ち着いて書きましょう」


「はい」


 教室中が笑いをこらえている。


 なつきも思わず笑ってしまった。


 期末前の重苦しさが、少しだけ軽くなる。


 でも問題は消えない。


 先生は黒板へ戻ると、解説を始めた。


 なつきは自分の答えと照らし合わせる。


 少し間違っていた。


 でも、全部ではない。


 以前なら何が違うのか分からなかったかもしれない。


 今は、どこで間違えたのかが少し分かる。


 それが嬉しかった。


 授業が終わると、春樹が通りがかりになつきの机へ視線を落とした。


「横田さん」


「はい」


「さっきの、惜しかった」


「見えてたの?」


「少し」


 また少し。


 春樹の「少し」は、たぶんちゃんと見ている。


 なつきは胸が跳ねる。


「借方と貸方、逆にしちゃって」


「でも科目は合ってた」


「うん」


「次はできると思う」


 その言葉だけで、なつきの背中が少し伸びた。


「ありがとう」


「うん」


 春樹は自分の席へ戻っていく。


 なつきはノートを見つめた。


 次はできると思う。


 その言葉を、何度も心の中で繰り返した。


 亜衣がにやにやしながら振り返る。


「なつき、今ので午後まで生きられるね」


「何それ」


「春樹くん栄養」


「言い方!」


 茜が静かに言う。


「でも、励みになるのはいいことよ」


「茜ちゃんまで……」


 なつきは赤くなりながらも、少しだけ笑った。


 放課後。


 勉強会は昨日と同じように教室で始まった。


 外は曇っている。


 雨は降っていないが、窓の外の空は重い。


 部活へ向かう生徒達の声が廊下から少しずつ遠ざかる。


 教室には勉強会メンバーだけが残った。


 机を寄せる。


 範囲表を広げる。


 ノート。


 ワーク。


 プリント。


 赤ペン。


 消しゴム。


 飲み物。


 勉強会というより、ちょっとした作戦会議みたいだった。


「今日の目標」


 茜が言う。


「数学のワークを最低三ページ。簿記の復習問題を二問。英単語の確認」


 三浦が手を上げる。


「先生」


「何?」


「目標が高いです」


「低い方よ」


「これで?」


「これで」


 三浦は絶望した。


 亜衣も同じ顔をしている。


「英単語も?」


「やる」


「明日じゃだめ?」


「だめ」


「明後日」


「だめ」


「来世」


「今世でやりなさい」


 教室に笑いが起きる。


 紅秋がすでに数学ワークを開いていた。


「笑っている時間が惜しい。始めるぞ」


「紅秋先生が厳しい!」


 三浦が叫ぶ。


「先生ではない」


「でも教えて」


「それはする」


「優しい!」


「騒がないなら」


「はい」


 春樹はなつきの隣ではなく、少し斜め前に座った。


 昨日より少し距離はある。


 でも、ノートを見せ合える距離。


 なつきは少しだけ安心した。


 近すぎると緊張する。


 でも遠すぎると寂しい。


 この距離は、ちょうどいい。


「横田さん」


 春樹が言う。


「昨日の続きからでいい?」


「うん」


 なつきはノートを開く。


 昨日教えてもらったところに付箋を貼っていた。


 春樹はそれを見る。


「付箋」


「あ、復習しやすいかなって」


「いいと思う」


 短い一言。


 でも嬉しい。


 なつきは少しだけ口元が緩みそうになり、慌てて引き締めた。


 落ち着く。


 勉強。


 勉強会。


 春樹の隣を目指す前に、赤点を回避する。


 それも大事。


 春樹は問題を指差した。


「ここ、まず数字を分ける」


「うん」


「全部一気に見ようとすると混乱するから」


「うん」


「この金額がどこに入るかを先に考える」


 春樹の説明は、やっぱり分かりやすかった。


 言葉は短い。


 でも、余計なことがない。


 なつきが少し迷うと、春樹はすぐに気づく。


「そこ?」


「あ、うん。ここで迷って」


「これはこっち」


「そっか」


「理由は」


 春樹はノートの端に簡単な図を書いた。


 その手元を、なつきは見てしまう。


 指が長い。


 字は整っている。


 赤ペンで丸をつける動きも落ち着いている。


 駄目だ。


 手元を見ている場合じゃない。


 問題を見る。


 問題。


 簿記。


 仕訳。


「横田さん」


「はい」


「聞いてる?」


「聞いてる!」


 声が少し大きい。


 亜衣が向こうで吹き出した。


 なつきは赤くなる。


 春樹は特に気にしていない。


「ならいい」


 ならいい。


 本当にそれで終わるのが春樹だった。


 なつきは少し笑いそうになった。


 その頃、三浦と亜衣は数学ワークの前で顔を見合わせていた。


「……無理じゃない?」


 三浦が小声で言う。


「無理だね」


 亜衣も小声で返す。


「これは人類には早い」


「分かる」


「一回休憩する?」


「開始何分?」


「十分」


「休憩には早いね」


「でも心は休憩を求めてる」


「私の心も」


 二人は静かに頷き合った。


 紅秋が隣で数学の解説をしている。


 茜は英単語のチェック表を作っている。


 島中と田辺は簿記の問題で苦戦している。


 春樹となつきは真面目に取り組んでいる。


 今なら。


 三浦と亜衣は同時に席を立った。


 そっと。


 本当にそっと。


 だが。


「どこへ行く」


 紅秋の声が落ちた。


 二人は同時に止まった。


 まるで廊下で先生に見つかった生徒のようだった。


 三浦がゆっくり振り返る。


「トイレ」


 亜衣も言う。


「トイレ」


 紅秋は二人を見た。


 そして言った。


「二人で?」


 沈黙。


 次の瞬間、教室が爆笑した。


「いや違う!」


 三浦が慌てる。


「そういう意味じゃない!」


 亜衣も顔を赤くする。


「違うから!」


 島中が腹を抱えて笑う。


「お前ら何してんだよ!」


 田辺も笑っている。


「逃亡失敗早すぎ」


 紅秋は静かに眼鏡を押し上げた。


「開始十分で逃げようとするな」


 三浦が必死に言う。


「人は自由であるべきだと思うんだ」


「期末二週間前だ」


「名言みたいに現実を突きつけるな!」


 亜衣も手を上げる。


「紅秋くん、私たちは少しだけ外の空気を」


「窓を開ける」


「そうじゃなくて」


「座れ」


「はい」


 二人は素直に座った。


 教室中が笑っている。


 なつきも笑ってしまった。


 笑いすぎて、シャーペンを落としそうになる。


 春樹も少しだけ口元を緩めていた。


「紅秋強ぇ」


 三浦が小声で言う。


「逃亡を許さない男」


 亜衣が続ける。


 紅秋は無表情で答えた。


「許す理由がない」


 その一言でまた笑いが起きる。


 島中と田辺はまだ笑っていた。


「いやー、捕まってやんの」


 島中が言う。


「馬鹿だな」


 田辺も笑う。


 その瞬間。


 茜が静かに顔を上げた。


「島中くん」


「……はい」


 なぜか島中の背筋が伸びた。


「数学ワーク、終わったの?」


「……終わってません」


「田辺くん」


「はい」


「英語のプリントは?」


「……まだです」


「簿記は?」


 二人が同時に黙った。


 茜はにこりともせず言った。


「笑う余裕があるのね」


 教室が再び爆笑に包まれる。


 島中は机に突っ伏した。


「刺された……」


 田辺も項垂れる。


「遠山、強ぇ……」


 三浦が震える声で言う。


「委員長怖い」


 亜衣も頷く。


「茜ちゃん、味方でよかった」


 茜は淡々と返す。


「味方だから言っているの」


「正論が痛い!」


 紅秋が静かに頷く。


「正論だからな」


 春樹も短く言う。


「うん」


「大國まで!」


 三浦が叫ぶ。


 また笑いが起きる。


 勉強会は、真面目なのか不真面目なのか分からない空気になっていた。


 でも不思議と、全員の手は少しずつ動き始めていた。


 三浦は紅秋に見張られながら数学を解く。


 亜衣は茜に英単語を確認される。


 島中と田辺は文句を言いながら簿記の問題に向かう。


 春樹はなつきの隣で、静かに説明を続ける。


「ここ、もう一回」


「うん」


 なつきは問題を見る。


 さっきより分かる。


 数字を分けて考える。


 どの金額がどこに入るか。


 借方。


 貸方。


 勘定科目。


 ゆっくり書く。


「できた」


 なつきは小さく言った。


 春樹がノートを見る。


 少し沈黙。


 その沈黙に、なつきの心臓が跳ねる。


 間違えたかな。


 どこか違うかな。


 春樹は赤ペンを持ち、答えの横に小さく丸をつけた。


「合ってる」


「ほんと?」


「うん」


 春樹は続けて言った。


「昨日より早い」


 胸が熱くなる。


 たったそれだけ。


 でも、なつきにとっては大きかった。


「よかった」


「頑張ったね」


 時間が止まった。


 なつきは春樹を見る。


 春樹は普通だった。


 何でもないように言った。


 でも、その言葉はなつきの胸にまっすぐ入った。


 頑張ったね。


 春樹が。


 自分に。


 言ってくれた。


「……ありがとう」


 声が小さくなる。


 顔が熱い。


 でも、嬉しい。


 亜衣が遠くから見ている。


 茜も気づいている。


 でも今は何も言わないでくれた。


 それがありがたかった。


 なつきはノートを見つめる。


 赤ペンの丸が、小さく光って見えた。


 夕方が近づくにつれ、教室の外の音は少しずつ減っていった。


 部活の声は遠くなり、廊下を通る生徒も少なくなる。


 窓の外は薄暗く、梅雨の雲の向こうに少しだけ夕焼けが滲んでいる。


 勉強会は予定より少し長く続いた。


 逃亡未遂はあった。


 説教もあった。


 笑いもあった。


 でも、全員が少しずつ進んでいた。


「今日はここまで」


 茜が言うと、三浦が机に倒れ込んだ。


「生き延びた」


「まだ一日目に近いぞ」


 田辺が言う。


「言うな」


 島中も肩を回す。


「でも、ちょっと分かった気がする」


「それはよかった」


 紅秋が言う。


「明日忘れるなよ」


「怖いこと言うな」


 亜衣は英単語プリントを見つめながら言った。


「私、十個覚えた」


「偉い」


 なつきが言うと、亜衣は胸を張った。


「褒められた」


 茜も頷く。


「今日は逃げなかった分、偉いわ」


「逃げようとはした」


「捕まったから結果的に逃げてない」


「判定が厳しい」


 また笑いが起きる。


 片付けをしながら、なつきは自分のノートをそっと閉じた。


 赤ペンの丸。


 春樹の言葉。


 頑張ったね。


 それだけで、今日の勉強会は忘れられないものになった。


 帰り支度をしていると、春樹が声をかけてきた。


「横田さん」


「はい」


「今日のところ、家で一回だけ解いておくといい」


「うん。やってみる」


「分からなかったら明日」


「聞いていい?」


「うん」


 短いやり取り。


 でも、次に話す理由ができた。


 それが嬉しかった。


「ありがとう」


「うん」


 春樹は鞄を持って教室を出ていく。


 その背中を見送るなつきの隣で、亜衣が小さく言った。


「頑張ったね、だって」


「聞いてたの!?」


「聞こえた」


「忘れて」


「無理」


 茜も微笑む。


「よかったわね」


「……うん」


 なつきは小さく頷いた。


「嬉しかった」


 素直に言えた。


 その自分にも少し驚く。


 亜衣は優しく笑った。


「じゃあ明日も頑張ろ」


「うん」


 教室を出る時、なつきはもう一度ノートを鞄の中で確認した。


 今日の丸。


 今日の一歩。


 期末テストはまだ遠く、提出物も山ほどある。


 でも。


 同じ机を囲んで、笑って、教えてもらって、少しずつできるようになっていく。


 その時間は、悪くなかった。


 君の隣は、まだ遠い。


 でも今日は。


 赤ペンの丸一つ分だけ、近づけた気がした。

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