第55話 期末テストという現実
六月の終わり。
梅雨の雲は、今日も校舎の上に低く垂れ込めていた。
朝から空気は重い。
窓を開けても、入ってくるのは涼しい風ではなく、少し湿った匂いだった。
教室の中にも、どこかだらりとした空気が漂っている。
球技大会が終わった。
打ち上げもした。
家庭科でクッキーも作った。
図書室で本も借りた。
休日に偶然春樹と美優に会って、一緒に昼食も食べた。
春樹が告白される事件もあった。
春樹の好きなタイプも知った。
美優と祐衣が図書室で自然に話すところも見た。
この数週間で、なつきの心は何度も忙しく揺れた。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど、春樹との距離が変わっている気がする。
まだ隣には遠い。
でも、以前よりは近い。
そう思える瞬間が増えていた。
だからこそ、なつきは油断していた。
学校生活には、恋愛以外にも現実がある。
それを忘れていた。
「はい、注目」
朝のホームルーム。
担任が教卓にプリントの束を置いた。
その音が、妙に重く響いた。
教室の空気が少し変わる。
三浦が嫌な予感を察知した顔で前を向いた。
田辺も眉をひそめる。
島中はすでに机へ突っ伏しかけている。
亜衣はなつきの方をちらっと見た。
茜は落ち着いてノートを閉じる。
春樹は、いつも通りだった。
紅秋も、いつも通りだった。
担任は一呼吸置いてから言った。
「期末テストの日程が出ました」
その瞬間。
教室のあちこちから、低い悲鳴が上がった。
「終わった」
三浦が言った。
「まだ始まってない」
田辺が返す。
「終わった」
島中も言った。
「だから始まってない」
「始まる前に終わってるんだよ」
「哲学?」
亜衣が両手で顔を覆う。
「私も終わった……」
「亜衣ちゃんまで」
なつきは苦笑する。
でも他人事ではない。
期末テスト。
中間テストの時も大変だった。
簿記。
数学。
英語。
国語。
商業科目。
覚えることも、計算も、提出物もある。
球技大会や恋愛で頭がいっぱいになっていた分、現実が急に目の前へ置かれた感じだった。
担任がプリントを配り始める。
「テストは二週間後からです。範囲表は今日中に各教科で配られます。提出物は早めに進めること。特に簿記と数学は溜めないように」
三浦が机に額をつけた。
「溜めてます」
田辺が言う。
「宣言するな」
「溜まってるもんは溜まってる」
島中もぼそっと言う。
「俺も」
「お前もか」
「仲間だな」
「嫌な仲間だな」
教室に少し笑いが起きる。
だが、笑いながらも全員の顔には焦りがあった。
中間とは違う。
期末は範囲が広い。
しかも、夏休み前の成績に関わる。
担任は黒板に大きく書いた。
『期末テスト 二週間後』
その文字は、やけに強かった。
逃げられない。
そんな感じがした。
「なお、赤点を取った場合、夏休み中に補習があります」
教室が再びざわつく。
「夏休み補習!?」
「最悪!」
「海が!」
「まだ海決まってないでしょ」
亜衣が叫び、茜が冷静に止める。
なつきは「海」という言葉に少しだけ反応した。
水着売り場。
亜衣の「みんなで海行こうよ」。
春樹の「日陰あるところがいい」。
思い出すだけで胸が跳ねる。
でも、その前に期末テスト。
現実は強い。
担任は続けた。
「遊ぶ予定を立てるのは自由ですが、その前にやることはやるように」
三浦が小声で言う。
「先生、心読んだ?」
紅秋が淡々と返す。
「声に出ていた」
「マジか」
「ほぼ全員に聞こえていた」
三浦は静かに沈んだ。
ホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなった。
範囲表を確認する者。
提出物の量を数えて絶望する者。
諦めたように笑う者。
何も見なかったことにしようとする者。
「ねぇ」
亜衣がなつきの机へ身を乗り出した。
「勉強会しよ」
「早い」
「早くしないと死ぬ」
「言い方」
「私は本気」
亜衣の目は真剣だった。
茜もプリントを確認しながら頷く。
「今回は早めに始めた方がいいわね」
「茜ちゃんまで言うなら本当にやばい」
「中間より範囲が広いもの」
「う……」
なつきはプリントを見る。
簿記の範囲が思ったより広い。
苦手ではない。
けれど、得意とも言い切れない。
前に春樹に教えてもらった時のことを思い出す。
隣でノートを見てもらい、分からないところを指摘してもらった。
あの時は緊張した。
でも、分かりやすかった。
今回も教えてもらえたら。
そう考えた瞬間、なつきは顔が熱くなった。
勉強会。
春樹。
隣。
だめだ。
テスト前なのに、すぐそっちへ行ってしまう。
「なつき」
茜が言う。
「今、勉強以外のことを考えたでしょう」
「考えてない」
「考えたわね」
「少し」
亜衣がにやにやする。
「春樹くん先生?」
「言わないで」
「当たりじゃん」
なつきはプリントで顔を隠した。
春樹の好きなタイプ。
落ち着いていて、一緒にいて安心できる人。
勉強を教わる時に、また慌てたらどうしよう。
安心どころか、落ち着きゼロだ。
でも。
勉強会は必要だ。
それは恋愛抜きでも、本当に必要だった。
教室の反対側では、三浦が春樹と紅秋の席へ突撃していた。
「大國!」
「何?」
「助けてくれ」
「何を?」
「俺の期末」
「範囲広いね」
「感想じゃなくて助けて!」
春樹はプリントを見ている。
紅秋も隣で範囲表を確認していた。
三浦は二人の机に両手をつく。
「勉強会しよう」
紅秋が言う。
「机に手をつくな」
「ごめん」
「勉強会自体は必要だろうな」
「よし!」
田辺も近づいてくる。
「俺も入れて」
島中も少し遅れて来た。
「俺も」
三浦が目を丸くする。
「島中、お前も?」
「悪いかよ」
「いや、意外」
「補習嫌なんだよ」
「分かる!」
田辺が大きく頷く。
「夏休み潰れるのは無理」
「それな」
紅秋が冷静に言う。
「なら今からやれ」
三人が同時に黙った。
春樹は範囲表を見ながら言う。
「分からないところを持ってきた方がいい」
三浦が即答する。
「全部分からない」
田辺も言う。
「俺も」
島中が少し悔しそうに言う。
「簿記はまだしも、数学がだるい」
紅秋がため息を吐く。
「全員、最初から整理が必要だな」
「紅秋先生!」
三浦が両手を合わせる。
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ板倉先生」
「もっとやめろ」
教室が笑いに包まれる。
その流れを見ていた亜衣が立ち上がった。
「春樹くーん!」
教室が少しだけ反応した。
もう朝ほどではない。
けれど「春樹くん」呼びはまだ新鮮だった。
三浦がにやりとする。
「出た、春樹くん」
「何?」
春樹は普通に返す。
それがまた周囲をざわつかせる。
亜衣は気にしない。
「勉強会、女子も混ぜて」
「うん」
春樹は即答した。
「軽っ」
三浦が言う。
「いいんだ?」
「勉強するなら」
「勉強するなら」
亜衣がなつきの方を振り返る。
「聞いた? 参加許可出たよ」
「何の許可なの」
なつきは小さく抗議した。
でも、胸は少し高鳴っている。
勉強会。
また春樹に教えてもらえるかもしれない。
でも、今度は前より落ち着いていたい。
安心できる人にはまだ遠くても。
少しでも、自然に。
茜が立ち上がって春樹達の方へ向かった。
「人数が増えるなら、場所を決めた方がいいわ」
紅秋が頷く。
「放課後の教室が無難だな」
「図書室は?」
亜衣が聞く。
春樹が答える。
「静かにできるなら」
三浦が胸を張る。
「無理かもしれん」
「自覚はあるのね」
茜が言う。
「あります」
島中が笑う。
「こいつ図書室出禁になるぞ」
「なってねぇわ!」
田辺が言う。
「教室の方がよくね? 多少喋れるし」
「最初は教室ね」
茜がまとめる。
「分からないところの確認、提出物の進み具合、範囲の整理。それを今日の放課後にしましょう」
三浦が感動したように言う。
「遠山委員長、頼れる」
「褒めても提出物は減らないわ」
「現実!」
教室のあちこちで笑いが起きる。
こうして、自然と勉強会が決まっていく。
メンバーは、なつき、茜、亜衣、春樹、紅秋、三浦、田辺、島中。
なつきは少し驚いた。
球技大会前なら、こんなメンバーで勉強会をするなんて想像できなかった。
島中もいる。
田辺もいる。
三浦は当然騒ぐ。
紅秋がまとめる。
春樹が教える。
茜が管理する。
亜衣が空気を動かす。
そして自分も、その中にいる。
クラスの関係が、少しずつ変わっている。
球技大会を越えて。
告白騒動を越えて。
日常が、前とは違う形になっていた。
昼休み。
話題は期末一色になった。
「簿記の範囲、ここまで?」
「仕訳多すぎない?」
「英単語もあるよ」
「殺しに来てる」
「先生に失礼」
「でも殺意は感じる」
亜衣がプリントを見ながら項垂れる。
なつきも苦笑するしかなかった。
春樹は静かに範囲表へ線を引いている。
紅秋もノートに予定を書き込んでいる。
その姿があまりにも落ち着いていて、三浦が叫んだ。
「なんでお前らそんな平気なんだよ!」
紅秋が答える。
「早めにやればいいから」
「それができないから困ってるんだよ!」
春樹も言う。
「今日からやれば間に合う」
「正論!」
田辺が頭を抱える。
「正論が痛い」
島中が範囲表を見ながら舌打ちした。
「数学、マジで嫌いなんだけど」
「島中くん、前も言ってたね」
なつきが思わず言う。
島中がこちらを見る。
「あ?」
言ってから、なつきは少し身構えた。
でも島中は以前のように突っかかってこなかった。
「嫌いなもんは嫌いだろ」
「うん。それは分かる」
「横田は数学どうなんだよ」
「普通……かな」
「普通が一番信用ならねぇ」
三浦が笑う。
「分かる! 普通って言うやつ大体そこそこできる!」
「そんなことないよ」
亜衣がすぐに言う。
「なつきは教えてもらうと伸びるタイプ」
「亜衣ちゃん、何その解説」
「見てるから分かる」
春樹がふと顔を上げる。
「横田さん、簿記は前よりできてる」
なつきの心臓が跳ねた。
「え?」
「前に聞いてきた時より、ノート整理できてる」
「見てたの?」
「少し」
春樹は普通に言う。
なつきは顔が熱くなる。
見ていた。
春樹が。
自分のノートを。
前よりできていると言ってくれた。
それだけで、テストへの不安が少しだけ薄れた気がした。
亜衣がにやにやしている。
茜も少しだけ微笑んでいる。
島中がぼそっと言った。
「大國、そういうとこだぞ」
春樹は首を傾げる。
「何が?」
「もういい」
三浦が笑う。
「出た、何が」
教室にまた笑いが起きた。
放課後。
帰りのホームルームが終わると、勉強会メンバーは教室に残った。
外では部活へ向かう生徒達の声が聞こえる。
廊下を走る足音。
先生に注意される声。
夕方の湿った空気。
教室の中では、机を寄せて簡単な勉強スペースを作る。
「とりあえず提出物確認」
茜が言う。
「各教科のワーク、ノート、プリント。今日中に何がどれだけあるか把握すること」
三浦が手を上げる。
「先生、把握したら絶望する場合は?」
「絶望してから始めなさい」
「厳しい!」
紅秋がプリントを並べる。
「三浦はまず数学のワークを出せ」
「はい」
「田辺は英語」
「了解」
「島中は簿記」
「なんで俺だけ簿記」
「数学から逃げそうだから」
「読まれてる」
島中は渋々鞄からワークを出した。
なつきは自分の簿記ノートと数学のワークを出す。
亜衣は英語のプリント束を出しながら青ざめていた。
「こんなにあった?」
「配られてたわよ」
茜が言う。
「記憶にない」
「記憶から消したのね」
「たぶん」
春樹は隣で静かに範囲表を見ながら、教える順番を考えているようだった。
なつきはその横顔を見る。
落ち着いている。
やっぱり春樹は落ち着いている。
一緒にいて安心できる人。
春樹自身も、そういう人のように見える。
だからこそ、春樹はそういう相手を求めるのだろうか。
なつきは少しだけ考えてしまう。
「横田さん」
春樹の声。
「はいっ」
声が少し大きくなった。
教室の何人かが振り向く。
亜衣が口元を押さえる。
茜が目を閉じる。
なつきは赤くなる。
まただ。
落ち着きたいのに。
「ここ」
春樹は気にせず、なつきのノートを指差した。
「この整理、分かりやすい」
「え?」
「ここ。科目ごとに分けてるから」
「あ、うん。茜ちゃんに教えてもらって」
「いいと思う」
その一言で、なつきの胸がふわっと温かくなった。
安心する。
春樹の短い言葉。
褒められると、やっぱり嬉しい。
でも同時に、もっと頑張りたいと思える。
「ありがとう」
「うん」
春樹はすぐに他のプリントへ視線を戻した。
なつきは小さく息を吐く。
落ち着いて。
少しずつ。
今は勉強。
恋も大事だけど、期末も現実だ。
三浦が突然叫んだ。
「分からん!」
紅秋が即座に言う。
「早い」
「開始五分!」
「だから早い」
「問題文がもう分からん!」
田辺が笑う。
「それは重症」
島中が自分のワークを見ながら言う。
「俺も重症」
「お前もか」
亜衣が英語プリントを持ち上げる。
「私も重症」
なつきは思わず笑った。
春樹も少しだけ口元を緩める。
紅秋がため息を吐き、茜が予定表を書き始める。
期末テスト編。
それは恋愛のきゅんとは少し違う。
もっと現実的で、面倒で、逃げたいもの。
でも。
このメンバーで机を囲むと、不思議と少し楽しい。
なつきはそう思った。
窓の外では、梅雨空の向こうに薄い夕焼けが滲んでいた。
湿った空気。
重いテスト範囲。
山のような提出物。
それでも教室には笑い声がある。
春樹がいて。
茜がいて。
亜衣がいて。
三浦が騒いで。
島中が文句を言って。
田辺が笑って。
紅秋がまとめている。
この時間も、きっと大切な日常になる。
なつきはシャーペンを握り直した。
春樹の隣はまだ遠い。
でも、同じ机を囲んで勉強する距離には来られた。
それだけで、少しだけ前へ進めた気がした。
「横田さん」
春樹がまた声をかける。
「はい」
今度は少しだけ落ち着いて返事ができた。
春樹はなつきのワークを指差す。
「ここ、一緒にやる?」
なつきの心臓が跳ねる。
でも、逃げなかった。
「うん」
小さく頷く。
「お願いします」
春樹は頷いて、ノートを少しこちらへ寄せた。
その距離に、なつきは少しだけ息を止める。
でも。
今度はちゃんと、問題を見る。
落ち着いて。
ゆっくり。
一緒にいて安心できる人には、まだ遠い。
でも、勉強を教わるこの時間を、ちゃんと大切にしたい。
なつきはそう思いながら、春樹の説明に耳を傾けた。
期末テストまで、あと二週間。
梅雨の教室で始まった勉強会は、笑いと焦りと少しのきゅんを含みながら、ゆっくり動き出した。




