第54話 昼休みの距離感
翌日の昼休み。
教室はいつも通り騒がしかった。
購買から戻ってきた男子がパンの袋を開ける音。
弁当箱の蓋を外す音。
三浦が「今日の焼きそばパン、当たりだ」と意味の分からない報告をする声。
田辺が「焼きそばパンに当たり外れあるのかよ」と返す声。
島中がそれを聞きながら、「あるだろ」となぜか真面目に頷いている声。
いつもの昼休み。
少し前までは、それだけだった。
でも最近のなつきにとって、昼休みは少しだけ特別な時間になりつつあった。
春樹がいる。
クラスメイトがいる。
亜衣が何かを仕掛けるかもしれない。
茜がそれを止めるかもしれない。
そして時々、予想もしないことが起きる。
昨日は春樹が女子生徒に告白された。
その後、春樹の好きなタイプを知った。
落ち着いていて、一緒にいて安心できる人。
その言葉は、今日もなつきの胸に残っている。
「なつき」
亜衣が弁当を開けながら言った。
「今日は落ち着いてる?」
「それ聞かれると落ち着かない」
「昨日よりは?」
「昨日よりは……たぶん」
なつきは少しだけ頷く。
昨日の図書室では、最初こそ空回りした。
でも、最後には少しだけ自然に話せた気がする。
春樹に本をおすすめしてもらった。
祐衣とも話せた。
感想を聞きたいと言ってもらえた。
その本は、今も鞄の中に入っている。
まだ半分も読めていない。
けれど、読むたびに春樹の声を思い出してしまう。
――読んだら感想聞かせて。
それだけでページをめくる手が少し緊張する。
「今日のなつきは本抱えて寝そうな顔してる」
亜衣が言う。
「どんな顔?」
「大事なものを守ってる顔」
「本は大事だよ」
「本だけ?」
「……うるさい」
亜衣はにやりと笑った。
茜が静かに弁当を置く。
「本の感想を伝えるのも、いい練習になるわね」
「練習?」
「春樹くんと自然に話す練習」
なつきは箸を持つ手を止めた。
自然に話す。
それが今のなつきの目標だった。
隣にいても変じゃないくらい。
話していて疲れないくらい。
安心できる人に少しでも近づくために。
「でも、感想って難しいよね」
なつきは小さく言った。
「面白かった、だけじゃだめかな」
「だめではないわ」
茜が言う。
「でも、自分がどこを好きだったか言えるといいかもしれない」
「どこを好きだったか……」
なつきは考える。
春樹なら、そういう話をちゃんと聞いてくれそうだ。
祐衣も、きっと同じように聞いてくれる。
祐衣。
その名前を思い出すと、少し胸がざわつく。
昨日の図書室で、祐衣は優しかった。
なつきにも話を振ってくれた。
感想を聞かせてと言ってくれた。
嫌な子ではない。
むしろ、良い人だ。
だからこそ、強い。
春樹の好きなタイプに近い気がする。
落ち着いていて、本の話ができて、安心感がある。
なつきは少しだけ弁当箱を見る。
「なつき」
茜が声をかける。
「また考えすぎてる」
「あ」
「顔に出ているわ」
「ごめん」
「謝ることじゃないけど」
亜衣が卵焼きを口に入れながら言う。
「祐衣ちゃんのこと?」
「亜衣ちゃん、当てないで」
「分かりやすいんだもん」
なつきは困ったように笑った。
「祐衣さん、いい人だよね」
「うん」
亜衣は頷く。
「いい人」
「それが少し困る」
「分かる」
亜衣は珍しく茶化さずに言った。
「嫌な子なら楽なのにね」
「うん……」
小さく頷いてから、なつきは慌てて首を振る。
「いや、嫌な子がいいわけじゃないけど」
「分かってる」
茜が優しく言う。
「いい人だから、比べてしまうのよね」
「うん」
美優もそうだ。
祐衣もそうだ。
どちらも嫌な子ではない。
春樹の近くにいる理由がある。
それが、なつきには少し怖かった。
その時だった。
教室の入口が軽くざわついた。
なつきは顔を上げる。
「春樹ー」
聞き慣れた声。
美優だった。
教室の扉のところに立って、春樹の席へ向かって手を振っている。
商業科の教室に特進の美優が来るのは、もう珍しくなくなってきていた。
けれど、それでも少しざわつく。
「篠崎さんだ」
「美優さんまた来た」
「大國呼びに来た?」
小さな声が教室のあちこちから漏れる。
春樹は弁当箱を閉じかけていた手を止め、顔を上げた。
「何?」
「図書室行かない?」
「昼休みに?」
「うん。昨日借りた本、返すの忘れてた」
「昨日?」
「朝鞄見たら入ってた」
「忘れすぎ」
「だから今行くの」
美優は悪びれずに笑った。
その自然なやり取りに、なつきの胸はまた少しだけ揺れる。
幼馴染。
気軽に教室まで来られる関係。
春樹を昼休みに誘える距離。
羨ましい。
でも、前より少しだけ見慣れてきた自分もいる。
春樹は少し考えた後、立ち上がった。
「行く」
その瞬間、亜衣がなつきの腕を軽くつついた。
「行く?」
「え?」
「図書室」
「え、でも」
「本返すとか借りるとか理由あるでしょ」
「あるけど」
「じゃあ行こう」
亜衣は立ち上がった。
茜も静かに弁当箱を片付け始める。
「茜ちゃんも?」
「少しだけなら」
「でも昼休み」
「まだ時間はあるわ」
なつきは少し迷った。
行きたい。
でも、追いかけるみたいで恥ずかしい。
美優と春樹が二人で図書室へ行く。
そこへ自分達が行く。
不自然ではない。
本を借りたいから。
昨日借りた本の続きを探したいから。
理由はある。
でも、心の中の理由はそれだけではない。
「なつき」
亜衣が小声で言う。
「行かなかったら気になって午後ずっと落ち着かないよ」
「……行く」
「よし」
亜衣は満足そうに笑った。
三人は教室を出る。
少し前を、春樹と美優が歩いていた。
春樹はいつもの歩幅。
美優はその横で、何か話している。
近すぎるわけではない。
でも、自然に並んでいる。
なつきはその背中を見ながら、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
追いかけるだけじゃなくて。
いつか自分も、ああやって自然に隣を歩けるようになりたい。
図書室に着くと、昼休みらしく人は少なかった。
放課後ほど利用者はいない。
静かな空気。
本の匂い。
窓から入る薄い光。
美優はカウンターで本を返却する。
「返却お願いします」
図書委員の生徒が処理をする。
その横で春樹は新刊コーナーを見ていた。
なつき達は少し離れた場所へ入る。
亜衣が小声で言う。
「図書室って昼休みだとまた雰囲気違うね」
「静か」
なつきが答える。
「眠くなりそう」
茜が本棚を見ながら言う。
「亜衣は静かな場所で大声を出さないように」
「分かってるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃない」
そんなやり取りをしていると、図書室の奥から別の声が聞こえた。
「美優?」
祐衣だった。
なつきの心臓が小さく跳ねる。
祐衣は本を数冊抱えて、奥の棚から出てきたところだった。
昼休みも図書室にいる。
それが自然に見える人だった。
美優が振り向く。
「祐衣」
「今日は昼休みに?」
「返し忘れた本があって」
「ああ」
祐衣は納得したように笑った。
「美優らしい」
「祐衣までそれ言う?」
「言います」
二人は互いに名前で呼び合う。
昨日の校門でも聞いた。
でも、図書室で聞くとまた少し違う。
祐衣と美優。
二人が並ぶと、なつきは少しだけ眩しく感じた。
美優は幼馴染として春樹の近くにいる。
祐衣は本の世界で春樹の近くにいる。
どちらも自然で、どちらも強い。
春樹が顔を上げる。
「白石さん」
「大國くん」
祐衣が春樹へ微笑む。
「昨日の本、もう借りました?」
「まだ」
「面白そうでしたよ」
「そう」
「大國くん、好きそうだと思いました」
美優がそのやり取りを見る。
少しだけ、目を細める。
「祐衣、大國くんと本の話よくするの?」
「最近少し」
「へぇ」
美優の声は柔らかい。
けれど、その「へぇ」は何かを確認するようでもあった。
祐衣は気づいたのか、気づいていないのか、変わらずに答える。
「図書室で会うことが多いので」
「そっか」
春樹は特に気にしていない。
ただ本棚を見ている。
この人は本当に、周りの空気に鈍い。
なつきは少しだけ苦笑しそうになる。
でも、笑えなかった。
目の前で、美優と祐衣が初めてちゃんと絡んでいる。
春樹を挟んで。
しかも、どちらも自然だ。
それがすごい。
亜衣がなつきの隣で小声で言った。
「強いね」
「うん」
「両方」
「うん……」
茜も静かに見ていた。
なつきは本棚の影から、少しだけ距離を置いてその場を見ている。
逃げているわけではない。
でも、すぐに入れる空気でもない。
その時、祐衣がこちらに気づいた。
「横田さん」
なつきは少し驚く。
「こんにちは」
「こんにちは」
祐衣は笑った。
「昨日の本、読み始めました?」
「少しだけ」
「どうですか?」
「まだ途中だけど……静かで、でも何か残る感じがする」
言ってから、なつきは少しだけ春樹を見る。
春樹が昨日言っていた言葉を借りたような気がして、恥ずかしくなった。
春樹は少しだけ頷いた。
「うん」
その頷きだけで、なつきは胸が温かくなる。
祐衣も嬉しそうに笑った。
「読み終わったら、また話しましょう」
「うん」
美優がそれを聞いて言う。
「横田さんも本読むんだね」
「あ、うん。最近少し」
「恋愛小説?」
美優の言葉に、なつきは少し赤くなる。
「そ、そういうのが多いかな」
「似合う」
「え?」
「横田さん、恋愛小説似合う」
美優は自然に言った。
亜衣が小さく吹き出しそうになる。
茜は少しだけ視線を伏せた。
なつきは真っ赤になる。
「似合うって何ですか」
「雰囲気」
「美優さんまで雰囲気で言う……」
「まで?」
美優が不思議そうにする。
亜衣が手を上げた。
「私もよく言う」
「なるほど」
美優が笑う。
その笑顔に、なつきは少しだけ力が抜けた。
美優も祐衣も強い。
でも、二人ともなつきを除け者にしようとはしていない。
むしろ、ちゃんと話を振ってくれる。
それが嬉しい。
そして、少しだけ困る。
嫌いになれないから。
祐衣が美優へ言った。
「美優はどんな本読むの?」
「私はあんまり小説読まないかな。雑誌とか、勉強系の本とか」
「美優らしい」
「祐衣に言われると不思議」
「そう?」
「祐衣は何でも読んでそう」
「何でもではないよ」
「料理本は?」
「読む」
「やっぱり」
美優と祐衣の会話は、思ったより自然だった。
昔からの友達ではない。
けれど、変に遠慮しすぎてもいない。
美優は距離を詰めるのが上手い。
祐衣は受け止めるのが上手い。
なつきはそれを見て、少しだけ感心した。
亜衣が小声で言う。
「美優ちゃんと祐衣ちゃん、普通に仲良くなりそう」
「うん」
「なつき、大丈夫?」
「何が?」
「強敵同盟」
「言い方」
なつきは小さく抗議する。
でも、少しだけ分かる。
美優と祐衣が仲良くなる。
それは嬉しいようで、怖いようで、不思議な感じだった。
春樹は新刊を一冊手に取っていた。
その本を見た祐衣が言う。
「それ、私も気になってました」
「読む?」
「大國くんが先でいいですよ」
「じゃあ読み終わったら」
「はい」
美優が少しだけ首を傾げる。
「春樹、祐衣と貸し借りしてるの?」
「まだしてない」
「これから?」
「たぶん」
「ふーん」
美優の声は軽い。
でも、なつきはそこに小さな揺れを感じた。
自分だけではないのかもしれない。
美優も、祐衣の距離感を少し意識している。
そう思うと、なつきの胸はまた複雑になった。
安心したような。
怖いような。
不思議な感覚だった。
昼休みの残り時間が少なくなってきた。
図書室の時計を見た茜が言う。
「そろそろ戻らないと」
「あ、ほんとだ」
亜衣が慌てる。
「次何だっけ?」
「簿記」
「現実に戻された」
「現実よ」
美優も時計を見る。
「私たちも戻らなきゃ」
「うん」
祐衣は借りる本をカウンターへ持っていく。
春樹も一冊だけ借りた。
なつきは今日は借りず、昨日の本の続きを読むことにした。
図書室を出る時、祐衣がなつきへ声をかけた。
「横田さん」
「はい」
「本の感想、楽しみにしてます」
「うん」
なつきは少し笑えた。
「ちゃんと読んでくる」
「はい」
美優が横から言う。
「私も聞いていい?」
「え?」
「横田さんの感想」
なつきは少し驚いた。
「私の?」
「うん。何か楽しそうだから」
美優は自然に笑った。
なつきは一瞬だけ言葉を失う。
でも、すぐに頷いた。
「うん。いいよ」
「じゃあ今度聞かせて」
「うん」
亜衣が後ろで小声で言う。
「なつき、読書会じゃん」
「言わないで」
でも、嫌ではなかった。
春樹。
祐衣。
美優。
三人が自分の感想を聞きたいと言ってくれた。
それは緊張する。
でも、少し嬉しい。
廊下へ出ると、昼休み終わり前のざわめきが戻ってきた。
それぞれの教室へ向かう生徒達。
急いで購買から帰ってくる男子。
先生に注意される生徒。
図書室の静けさから一気に現実へ戻る。
商業科の教室へ戻る途中、亜衣がなつきの隣に並んだ。
「どうだった?」
「何が?」
「美優ちゃんと祐衣ちゃん」
「……強かった」
「素直」
「でも、嫌じゃなかった」
「うん」
「どっちもいい人だった」
「うん」
「だから困る」
亜衣は笑った。
「なつきらしい」
茜も後ろから言う。
「でも、今日のなつきもちゃんと会話に入れていたわよ」
「そうかな」
「ええ」
「本の感想、聞かせてって言われた」
「それは大きいわね」
「大きい?」
「次に話す理由ができたから」
なつきは目を瞬かせた。
次に話す理由。
そうだ。
感想を伝える。
それは次の会話になる。
春樹だけじゃない。
祐衣とも。
美優とも。
なつきは鞄の中の本を思い出す。
ただの本ではなくなった。
次へ繋がる本。
そう思うと、少しだけ胸が高鳴った。
教室へ戻ると、三浦がすぐに反応した。
「お、帰ってきた」
「何を待ってたの?」
亜衣が聞く。
「いや、何か面白いことあったかなって」
「三浦くん、期待が雑」
「で、あった?」
なつきは苦笑する。
「普通だよ」
「普通かー」
田辺が横から言う。
「図書室に普通以外あるのか?」
「あるだろ。大國がいる」
「それだけでイベント扱いかよ」
島中が笑う。
「最近は割とそうだろ」
なつきは反応しかけて、慌てて席に着いた。
茜がその様子を見て少し笑う。
亜衣もにやにやしている。
午後の授業が始まる。
簿記の教科書を開く。
先生の声。
シャーペンの音。
いつもの授業。
でも、なつきの心は少しだけ前を向いていた。
美優と祐衣が話した。
春樹を中心に、また少し人間関係が広がった。
自分はその中で不安になった。
でも、ちゃんと会話にも入れた。
感想を聞きたいと言ってもらえた。
それは小さいけれど、確かな一歩だと思う。
放課後。
なつきは鞄の中から借りた本を取り出した。
表紙をそっと撫でる。
この本を読んで、自分の言葉で感想を言う。
春樹に。
祐衣に。
美優に。
考えるだけで緊張する。
でも、少し楽しみでもある。
亜衣が横から覗き込んだ。
「今日読むの?」
「うん」
「感想会、頑張れ」
「感想会って言わないで」
「読書女子なつき」
「それも恥ずかしい」
茜が鞄を持ちながら言う。
「焦らなくていいわ。自分の言葉で言えばいい」
「うん」
なつきは頷いた。
窓の外では、少しだけ雲が薄くなっていた。
梅雨の空。
晴れきらないけれど、少し光が差している。
なつきはその空を見て、胸の中でそっと思う。
美優さんも。
祐衣さんも。
春樹くんの近くにいる。
でも、私も少しずつ近づいている。
まだ遠い。
でも、昨日よりは近い。
たぶん。
ほんの少しだけ。
君の隣を目指して。
今日もまた、次に話す理由ができた。




