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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第59話 負けた男たちの帰り道



 放課後のグラウンドには、湿った土の匂いが残っていた。


 梅雨の合間の曇り空。


 雨は降っていない。


 けれど地面は少し柔らかく、走るたびにスパイクの裏へ細かな土が絡みつく。


「島中!」


「はい!」


 サッカー部の顧問の声が飛ぶ。


 島中良は短く返事をし、右サイドへ走った。


 体は重い。


 期末テスト前で部活時間は短縮されているとはいえ、練習は練習だった。


 パスを受ける。


 相手が詰める。


 島中は一瞬だけ足裏でボールを止め、体を開いて横へ流す。


 相手の重心がずれた瞬間、縦へ抜けた。


「よし!」


 チームメイトの声が飛ぶ。


 島中はゴール前へ低いクロスを入れる。


 ボールは少しずれた。


 中にいた一年が足を伸ばすが、わずかに届かない。


「悪い!」


 島中が声を出す。


「次合わせろ!」


 先輩が言う。


「はい!」


 息が上がる。


 汗が背中を伝う。


 それでも、走っている間は余計なことを考えずに済んだ。


 期末テストのこと。


 勉強会のこと。


 大國春樹のこと。


 横田なつきのこと。


 考えたくなくても、最近はふとした瞬間に思い出してしまう。


 球技大会。


 春樹のフットサル。


 自分が怪我をして、代わりに春樹が出た。


 あいつは、全部持っていった。


 悔しいくらいに。


 でも、それだけではなかった。


 春樹は自分のために出たわけじゃない。


 クラスのために動いた。


 そして最後には、ちゃんと周りも使った。


 むかつく。


 むかつくくらい、ちゃんとしていた。


「島中、集中!」


「はい!」


 顧問の声で意識を戻す。


 今は部活。


 サッカー。


 目の前のボール。


 島中は奥歯を噛み、再び走った。


   ◇


 一方、体育館の端では、田辺守がマットの上に膝をついていた。


 レスリング部の練習場。


 空気は熱い。


 窓を開けていても、湿気がこもっている。


 マットの匂い。


 汗の匂い。


 床を踏む音。


 体がぶつかる音。


「田辺、腰高い!」


「はい!」


 先輩の声に返事をし、田辺は構え直す。


 相手の腕を取る。


 踏み込む。


 崩す。


 だが、相手も粘る。


 じりじりと押し合う。


 膝がきしむ。


 肩に力が入る。


 息が荒くなる。


 それでも田辺は笑いそうになった。


 こういう方が楽だ。


 勉強よりずっと分かりやすい。


 押す。


 耐える。


 崩す。


 投げる。


 自分の体で答えが返ってくる。


 恋愛みたいに、何をどうしたらいいか分からないものより、ずっとましだ。


「くっ……!」


 相手が少し体勢を崩した。


 田辺はその隙を逃さず、腰を入れて押し込む。


 マットに相手の背中が落ちる。


「よし!」


 先輩が声を上げる。


「今のいいぞ」


「ありがとうございます」


 田辺は息を吐きながら立ち上がった。


 汗が額から落ちる。


 タオルで拭う。


 その時、ふと頭に浮かぶ。


 横田なつき。


 中学から知っている。


 昔から何となく近くにいた。


 なつき、と普通に呼んでいた。


 だから、自分は少し特別だと思っていたのかもしれない。


 でも今は。


 なつきは春樹を見ている。


 自分を見る時とは違う顔で。


 それを何度も見た。


 見たくなくても、見えてしまった。


「田辺、次!」


「はい!」


 田辺はマットへ戻る。


 考えるのは後でいい。


 今は、体を動かす。


 余計なことを汗と一緒に流す。


 そう思いながら、田辺はもう一度構えた。


   ◇


 部活が終わる頃には、空は少しだけ暗くなっていた。


 雨は降らなかった。


 けれど雲は厚く、夕焼けは薄く滲む程度だった。


 島中は部室で着替え、濡れた髪をタオルで雑に拭いた。


「お疲れ」


「お疲れっす」


 先輩達へ挨拶をして、鞄を肩にかける。


 足首にはまだ少し球技大会の時の違和感が残っている。


 けれど、もう走れないほどではない。


 グラウンドを抜けると、体育館の方から田辺が出てきた。


 ジャージ姿。


 肩にタオル。


 同じように汗で髪が少し濡れている。


「お」


 田辺が気づく。


「島中」


「田辺」


「部活終わり?」


「見りゃ分かるだろ」


「まあな」


 二人は自然に並んで歩き出した。


 学校の敷地内。


 夕方の空気。


 部活帰りの生徒達がちらほらいる。


 テスト前だから、いつもより人は少ない。


 校舎の窓にはまだ灯りがあり、どこかの教室では勉強会でもしているのだろう。


 島中はその窓をちらりと見た。


「今日、勉強会行くの?」


 田辺が聞く。


「行く」


「意外と真面目」


「補習嫌なんだよ」


「それな」


 二人は同時にため息をついた。


 校門近くの自販機まで来ると、島中が立ち止まった。


「飲む?」


「飲む」


 島中はスポーツドリンクを買い、田辺も同じものを買った。


 缶ではなくペットボトル。


 蓋を開ける音が二つ重なる。


 ごくごくと喉を鳴らして飲む。


「はぁ」


 田辺が息を吐く。


「生き返る」


「じじいかよ」


「部活後のこれが一番うまいんだよ」


「分かるけど」


 二人は自販機横の低い柵に腰を下ろした。


 少し離れたところでは、野球部の数人が帰り支度をしている。


 グラウンドからはまだボールを片付ける音が聞こえる。


 夕方の学校は、昼間とは違う。


 騒がしいのに、どこか寂しい。


 そんな時間だった。


 しばらく、二人は黙って飲んでいた。


 沈黙は気まずくなかった。


 部活後の疲れがある。


 汗をかいた体。


 重い鞄。


 迫る期末テスト。


 言葉にしなくても、同じようなものを抱えている。


 先に口を開いたのは田辺だった。


「なぁ」


「何」


「俺ら、負けたよな」


 島中はペットボトルを口から離した。


「何に」


「分かってるくせに」


 島中は少し黙る。


 それから鼻で笑った。


「横田か」


「うん」


 田辺は前を見たまま頷く。


「負けたな」


 島中は言った。


 思ったよりすんなり出た。


 言葉にした瞬間、胸の中で何かが少しだけ軽くなる。


 田辺も笑った。


「だよな」


「何回邪魔したっけ」


「覚えてねぇ」


「結構したよな」


「したな」


 二人は顔を見合わせる。


 そして、同時に笑った。


 大きな笑いではない。


 でも、乾いた笑いではなかった。


 少しだけ悔しくて。


 少しだけ情けなくて。


 でも、もうどうしようもなくて笑うしかない。


 そんな笑いだった。


「全部無駄だったな」


 島中が言う。


「無駄だった」


 田辺が頷く。


「あいつ、全然ブレねぇし」


「あいつ?」


「大國」


「ああ」


 田辺はペットボトルを軽く振った。


「ブレねぇな」


「横田のこと、ちゃんと見てるし」


「そうなんだよな」


「優しいし」


「勉強できるし」


「運動もできるし」


「顔もいいし」


 島中は顔をしかめた。


「なんなんあいつ」


 田辺が笑う。


「チート」


「だよな」


「でも、むかつくけど悪口出てこないんだよな」


 田辺の言葉に、島中は少しだけ黙った。


 そして、認めるように息を吐く。


「そこが一番むかつく」


「分かる」


「嫌な奴ならよかったのにな」


「ほんとそれ」


 島中は自販機の横に背中を預けた。


「大國が嫌な奴だったらさ」


「うん」


「横田が見る目ねぇって思えた」


「だな」


「でも、あいつ普通にいい奴じゃん」


「いい奴だな」


「球技大会の時も、俺の代わりに出て、文句も言わねぇし」


「うん」


「最後も自分で決めようと思えば決められたのに、パスしたし」


「あれかっこよかったな」


「言うな」


「事実だろ」


「分かってるよ」


 島中は少し乱暴にスポーツドリンクを飲んだ。


 喉が冷える。


 胸の中の熱は、まだ少し残っている。


「俺さ」


 島中が言った。


「横田のこと、好きだったんだと思う」


 田辺は驚かなかった。


「知ってた」


「は?」


「見てりゃ分かる」


「お前に言われたくねぇ」


「俺も分かりやすかった?」


「分かりやすかった」


 二人はまた笑う。


 夕方の空気が少しだけ湿っている。


 笑っても、どこか胸に残るものがあった。


「俺はさ」


 田辺が言った。


「中学から知ってるから、ちょっと油断してた」


「油断?」


「なつきって呼べるし、昔から知ってるし」


「ああ」


「だから何となく、近いと思ってた」


「実際近かったんじゃね?」


「距離だけな」


 田辺は少しだけ寂しそうに笑った。


「でも、見てる方向が違った」


 島中は何も言わなかった。


 田辺の言葉は、変に飾られていなかった。


 だから刺さった。


 なつきは春樹を見ている。


 それはもう、誰が見ても分かる。


 朝、亜衣が春樹を名前で呼んだ時に、クラス全員がなつきを見た。


 あれが答えみたいなものだった。


 みんな薄々知っている。


 なつきの視線の先を。


「大國もさ」


 田辺が言う。


「気づいてねぇのがまたな」


「ほんとそれ」


 島中が笑う。


「あいつだけ分かってねぇ」


「クラス全員分かってるのに」


「本人だけ『何が?』って顔」


 二人は春樹の真似をするように、同時に首を傾げた。


「何が?」


 声が重なり、二人で吹き出した。


「似てねぇ!」


「お前もな!」


 笑い声が夕方の校門近くに響く。


 近くを通った一年生が少し驚いた顔をした。


 島中はそれに気づいて少しだけ咳払いする。


「でもさ」


 田辺がペットボトルを見つめる。


「横田、最近楽しそうだよな」


 島中は前を見る。


「だな」


「前より笑ってる」


「それは思う」


「大國と話すようになってから」


「うん」


 認めたくない。


 でも、認めるしかない。


 なつきは最近、よく笑うようになった。


 照れて、慌てて、顔を赤くして、それでも前より楽しそうに笑っている。


 それを見ると、胸が少しだけ痛む。


 でも同時に、邪魔する気にはならなくなる。


「負けたな」


 島中がもう一度言った。


 今度は少しだけ柔らかい声だった。


「負けた」


 田辺も頷く。


「でも、まだ告ってもねぇんだけどな」


「俺ら?」


「うん」


「告る前から負けるって、なかなかだな」


「それな」


 二人はまた笑った。


 笑ってしまえば、少しだけ楽になる。


 悔しい。


 でも、惨めではない。


 ちゃんと悔しがれるくらいには、本気だったのかもしれない。


「島中」


「何」


「まだ邪魔する?」


 島中は少しだけ考えた。


 そして首を横に振る。


「しねぇよ」


「だよな」


「さすがにダサい」


「うん」


「これ以上やったら、ただの嫌な奴じゃん」


「今までは?」


 田辺が茶化す。


 島中は軽く蹴る真似をした。


「うるせぇ」


「痛くない」


「当ててねぇし」


 二人はまた笑う。


 男同士の会話は、少し乱暴で、少し雑で、少し照れ隠しが多い。


 でも、だから言えることもあった。


 島中はペットボトルの残りを飲み干した。


「俺、部活ちゃんとやるわ」


「急に?」


「いや、何かさ」


 島中はグラウンドの方を見る。


「球技大会で怪我して、大國に持ってかれて、ちょっと思ったんだよ」


「何を」


「俺、何やってんだろって」


 田辺は黙って聞いていた。


「横田のことばっか見て、邪魔して、変に張り合って」


「うん」


「でも結局、俺がちゃんとしてねぇから勝てねぇんだよな」


「ちゃんと?」


「部活とか、勉強とか、そういうの」


 島中は少し照れくさそうに笑う。


「大國って、別に誰かに見せるためにやってる感じじゃねぇじゃん」


「うん」


「普通にやることやってるだけ」


「それが強いんだよな」


「そう」


 島中はペットボトルを軽く握りつぶす。


「だから俺も、まず自分のことやる」


 田辺は少しだけ目を細めた。


「いいじゃん」


「何その上から」


「いや、普通に」


「お前は?」


「俺も部活」


 田辺は肩を回す。


「レスリング、ちゃんとやる」


「やってるだろ」


「もっと」


「おお」


「あと勉強も」


「それは俺もだな」


「補習嫌だし」


「結局そこかよ」


 二人は笑う。


 でも、笑いながらも少しだけ前を向いていた。


 恋に負けた。


 まだ始まってもいなかったのかもしれない。


 でも、負けたから終わりではない。


 別の場所で頑張る。


 自分の場所で。


 そう思えるくらいには、夕方の空気は少し優しかった。


「田辺」


「何」


「横田のこと、なつきって呼ぶのやめんの?」


 田辺は少し黙った。


 中学からの呼び方。


 ずっと自然に呼んでいた名前。


 でも最近、その呼び方が少しだけ自分の中で引っかかるようになっていた。


「いきなりは変だろ」


「まあな」


「でも、ちょっと考える」


「そうか」


「なつきが嫌がってるわけじゃないけどさ」


「うん」


「大國の前で呼ぶと、何か俺がしがみついてるみたいでダサい」


 島中は少し笑った。


「分かる」


「だろ」


「でもお前、急に横田って呼んだらあいつ驚くぞ」


「だよな」


「クラスもざわつく」


「それは嫌だな」


 二人はまた笑った。


 その笑いはさっきより軽かった。


 田辺は空を見上げる。


「でも、そのうち自然に変えるかもな」


「そうしろ」


「お前は?」


「俺は普通に横田だし」


「だな」


 島中は腕を伸ばした。


「大國は春樹くんになったけどな」


 田辺が吹き出す。


「あれな」


「伊藤が言って、横田も言って」


「クラス死んだよな」


「三浦の顔やばかった」


「島中も見てただろ」


「見た」


「俺も見た」


 二人は思い出して笑った。


 あの瞬間の教室。


 なつきの真っ赤な顔。


 春樹の何も分かっていない顔。


 亜衣のにやにや。


 茜の呆れ。


 クラス全体が一つの空気になった。


 その中心に、なつきと春樹がいた。


 もう、そういうことなのだと思う。


「応援する?」


 田辺が言った。


 島中は顔をしかめる。


「そこまではまだ無理」


「だよな」


「でも邪魔はしねぇ」


「俺も」


「あと、三浦みたいに騒がない」


「三浦は騒ぐだろうな」


「あいつは騒ぐ」


 二人は三浦の顔を思い浮かべて、また笑った。


 夕方の学校は、少しずつ暗くなっていく。


 校舎の窓の灯りが目立ち始める。


 勉強会をしている教室も、まだいくつかある。


 もしかしたら春樹達も残っているかもしれない。


 なつきも、茜も、亜衣も。


 紅秋も三浦も。


 それぞれの場所で、期末へ向かっている。


「行くか」


 島中が立ち上がる。


「勉強会?」


「うん」


「部活後に勉強とか地獄だな」


「でも行く」


「偉い」


「お前も来いよ」


「行くよ」


 田辺も立ち上がる。


 二人はペットボトルをゴミ箱へ捨てた。


 軽い音がした。


 それだけで、何か一つ区切りがついたような気がした。


 校舎へ向かって歩き出す。


 部活帰りの汗はまだ残っている。


 足は重い。


 肩も疲れている。


 それでも、歩く。


 教室へ戻るために。


 勉強会へ行くために。


 そして、自分達の青春を少しだけ前へ進めるために。


「島中」


「何」


「俺ら、意外と青春してね?」


 島中は少し考えた。


 それから、笑った。


「してるかもな」


「だよな」


「負けて、部活して、勉強して」


「スポドリ飲んで」


「愚痴って」


「笑って」


「青春っぽいな」


「だろ」


 二人は並んで校舎へ入る。


 廊下の空気は少しひんやりしていた。


 外の湿気と汗の熱が、少しずつ冷えていく。


 階段を上がる。


 商業科二年十一組の教室へ向かう。


 扉の向こうから、かすかに声が聞こえた。


 三浦の声。


 亜衣の声。


 茜の注意する声。


 紅秋の淡々とした声。


 そして、春樹の短い声。


 島中と田辺は顔を見合わせた。


「騒がしいな」


「いつも通りだ」


「行くか」


「おう」


 扉を開ける。


 教室の中から、三浦が振り返った。


「お、来た!」


「遅い」


 紅秋が言う。


 島中は鞄を下ろしながら答えた。


「部活だよ」


 田辺も席へ向かう。


「俺らもやるわ」


 茜が少しだけ驚いた顔をした。


「ちゃんと来たのね」


「何その信用のなさ」


 島中が言う。


 亜衣が笑う。


「えらいえらい」


「子ども扱いすんな」


 三浦がにやにやする。


「二人で何話してたんだよ」


 島中と田辺は一瞬だけ顔を見合わせた。


 それから、同時に言った。


「別に」


「何でもねぇ」


 三浦が目を細める。


「あやしい」


「うるせぇ。勉強すんぞ」


 島中がワークを開く。


 田辺もノートを出した。


 紅秋が少しだけ頷く。


「なら、まず昨日の続きから」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 教室にまた笑いが起きる。


 なつきはその様子を少し不思議そうに見ていた。


 島中と田辺の空気が、いつもより少しだけ違う気がした。


 でも、何が違うのかまでは分からない。


 ただ、二人とも以前より少しだけすっきりした顔をしていた。


 春樹はいつも通り、なつきのノートを見ている。


「横田さん」


「うん」


「ここ、昨日のやり方でできる」


「やってみる」


 なつきはペンを握る。


 その横で、島中がちらりと二人を見る。


 田辺も少しだけ見た。


 なつきは気づかない。


 春樹も気づかない。


 二人は何も言わず、それぞれ自分のワークへ視線を戻した。


 邪魔はしない。


 まだ心から応援できるほど大人ではない。


 でも。


 もう、足を引っ張るのは違う。


 島中はシャーペンを握り直した。


 田辺も問題文を読み始めた。


 期末テストまで、あと少し。


 恋に負けた男達も、自分達の場所で戦い始めていた。

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