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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第52話 好きな人の好きな人


 教室の扉が閉まった音が、妙に大きく残っていた。


 昼休み。


 いつもなら、もっと騒がしい時間だ。


 弁当を広げる音。


 購買のパンの袋を開ける音。


 三浦の大きな声。


 亜衣の笑い声。


 誰かの「消しゴム貸して」という気の抜けた声。


 全部がいつも通りのはずだった。


 けれど今だけは、十一組の教室に薄い膜が張ったように静かだった。


 大國春樹が、別のクラスの女子に呼び出された。


 ただ、それだけ。


 ただ、それだけのことなのに。


 教室中が、何となく察してしまっている。


 あれは、たぶん。


 そういう呼び出しだ。


 なつきは弁当箱の前で、箸を持ったまま動けずにいた。


 食べかけの卵焼き。


 少し冷めたご飯。


 開いたままの水筒。


 それらが急に遠く見える。


「なつき」


 亜衣が小さく呼んだ。


「……うん」


 返事はした。


 でも、声が自分のものじゃないみたいだった。


 亜衣は何か言おうとして、口を閉じた。


 珍しい。


 いつもの亜衣なら、すぐに励ますか、すぐに動くか、すぐに何かを言う。


 でも今は、何も言わない。


 茜も同じだった。


 なつきの隣で、静かにお茶を置く。


「大丈夫?」


 茜が聞いた。


 なつきは少しだけ笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


「分かんない」


 それが正直だった。


 大丈夫ではない。


 でも、何かが起きたわけでもない。


 春樹はまだ何も言っていない。


 あの女子生徒も、まだ何を言ったのか分からない。


 それなのに、不安だけが先に膨らんでいる。


「……こういうのって」


 なつきは小さく言った。


「嫌だって思っちゃだめだよね」


 亜衣の表情が少し変わる。


 茜は静かに聞いていた。


「大國くんは、私の彼氏じゃないし」


「うん」


「私、告白もしてないし」


「うん」


「だから、誰かが大國くんを好きになっても、何も悪くないのに」


 言葉にすると、余計に胸が苦しくなった。


「それでも、嫌だって思っちゃう」


 亜衣が少しだけ身を乗り出す。


「それ普通だよ」


「普通?」


「普通」


 亜衣はいつもの軽さではなく、はっきり言った。


「好きなんだから」


 その一言で、なつきは何も言えなくなった。


 好き。


 もう、その言葉から逃げられない。


 春樹が誰かに呼ばれただけで、こんなに不安になる。


 笑っていた朝が、嘘みたいに遠くなる。


 それは、好きだからだ。


 茜も静かに頷いた。


「嫌だと思うこと自体は、悪くないわ」


「でも……」


「相手に意地悪をするのとは違うもの」


 茜の言葉は、ゆっくり胸に入ってくる。


「感じるだけなら、なつきの気持ちよ」


 なつきは小さく息を吸った。


 そう言ってもらえて、少しだけ救われた気がした。


 けれど、不安が消えるわけではない。


 教室の向こう側では、三浦が落ち着かない様子で足を揺らしていた。


 田辺がそれを見ている。


「お前、貧乏ゆすりすんな」


「してない」


「してる」


「気になるだろ」


「気になるけど」


 田辺は一度、教室の扉を見る。


「でも島中の言う通り、茶化す話じゃねぇ」


 三浦は口を閉じた。


 島中は腕を組んで窓の外を見ていた。


 普段なら一番騒ぎそうなのに、今日は静かだった。


 紅秋は弁当箱の蓋を閉じ、眼鏡を押し上げる。


「戻るまで待つしかない」


「板倉は冷静だな」


 三浦が言う。


「冷静ではない」


「え?」


「気にはなる」


 紅秋のその一言に、三浦は少しだけ笑った。


「だよな」


 教室全体が、同じ方向を気にしている。


 春樹が出ていった扉。


 その向こう。


 今、何が起きているのか。


 誰も知らない。


   ◇


 春樹が連れてこられたのは、特別棟へ続く階段の踊り場だった。


 昼休みの時間帯でも、この辺りは人が少ない。


 開いた窓から湿った風が入ってくる。


 校庭の声が遠くに聞こえた。


 女子生徒は階段の途中で立ち止まり、春樹に向き直った。


 両手を前で握っている。


 緊張しているのが分かる。


 春樹は黙って待っていた。


 急かさない。


 何を言われるのか、何となく察してはいた。


 けれど、春樹は相手が言葉にするまで何も言わなかった。


「あの」


 女子生徒が口を開く。


「急に呼び出して、ごめんなさい」


「うん」


「迷惑、だったら……」


「大丈夫」


 春樹は短く答えた。


 その短さが、逆に女子生徒を少し落ち着かせたようだった。


 彼女は深く息を吸った。


「球技大会、見てました」


 春樹は少しだけ目を瞬かせる。


「フットサルの決勝です」


「ああ」


「すごく、かっこよかったです」


 言葉の最後が少し震えた。


「最初は、たまたま見てただけだったんです。でも、途中から目が離せなくなって」


 春樹は黙って聞いていた。


「怪我した人の代わりに出て、あんなにすごいプレーして、それなのに最後は自分で決めないでパスして」


 女子生徒は少しだけ笑った。


「何か、すごくいいなって思って」


 沈黙が落ちる。


 踊り場に、遠くのチャイム前のざわめきが薄く届く。


 彼女は握っていた手に少し力を込めた。


「好きです」


 はっきり言った。


「付き合ってください」


 風が吹いた。


 窓の外で木の葉が揺れる。


 春樹はその言葉を受け止めた。


 すぐには返事をしなかった。


 軽く返すことではないと思ったからだ。


 女子生徒も黙っていた。


 顔は赤い。


 でも、視線は逸らしていない。


 勇気を出したのだと分かる。


 春樹は静かに口を開いた。


「ごめん」


 女子生徒の肩が、小さく揺れた。


「今は、誰かと付き合うつもりはない」


 春樹の声は、冷たくはなかった。


 でも、曖昧でもなかった。


 女子生徒は唇を結んだ。


 数秒、何も言えないようだった。


「……好きな人がいるんですか?」


 春樹は少し考える。


 そして首を横に振った。


「分からない」


「分からない?」


「うん」


 春樹自身も、その答えを少し不思議に思った。


 好きな人がいる。


 そう言える相手はいない。


 でも、いない、と即答するのも少し違う気がした。


 なぜそう思ったのかまでは、春樹自身にも分からなかった。


「ただ」


 春樹は続けた。


「今は、誰かと付き合うことをちゃんと考えられない」


 女子生徒はその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。


「そっか」


 小さな声だった。


「ちゃんと言ってくれて、ありがとうございます」


「うん」


「ごめんなさい。急に」


「謝らなくていいと思う」


 春樹は言った。


 女子生徒が顔を上げる。


「言うの、勇気いると思うから」


 その一言で、女子生徒の目が少し潤んだ。


 でも、泣かなかった。


 必死に笑おうとしていた。


「大國くんって」


「うん」


「やっぱり、優しいですね」


 春樹は少し首を傾げた。


「そうかな」


「そうです」


 女子生徒は小さく笑った。


「だから、好きになったんだと思います」


 春樹は何も言えなかった。


 彼女は一歩下がる。


「ありがとうございました」


 そして頭を下げた。


 春樹も軽く頭を下げる。


 それで、告白は終わった。


   ◇


 春樹が教室に戻ってきたのは、それから少ししてからだった。


 扉が開いた瞬間、教室の空気がまた止まる。


 春樹はいつも通りだった。


 表情も変わらない。


 歩き方も変わらない。


 ただ席へ戻ってくる。


 それだけ。


 けれど、教室中の視線は春樹へ向いていた。


 三浦が口を開きかける。


 島中が肘で止める。


「まだ言うな」


「分かってる」


「顔が言う顔だった」


「俺そんな分かりやすい?」


「分かりやすい」


 田辺が即答した。


 春樹は席へ着く。


 弁当を再び開ける。


 普通に食べ始めた。


 その普通さに、逆に教室がざわつく。


 亜衣が耐えきれず立ち上がった。


 茜が止めようとする。


「亜衣」


「分かってる。茶化さない」


 亜衣は春樹の席へ向かう。


 なつきは息を止めた。


 春樹が顔を上げる。


「春樹くん」


 亜衣の呼び方に、今度は教室が朝ほど騒がなかった。


 それどころではなかったからだ。


「何?」


「聞いていい?」


「何を?」


「さっきの」


 教室中がさらに静かになる。


 亜衣はいつものにやにやを少しだけ抑えていた。


 真面目な声だった。


「告白?」


 春樹は少しだけ考える。


 そして頷いた。


「うん」


 教室がざわっと揺れた。


 なつきの胸が強く跳ねる。


 分かっていた。


 分かっていたけれど、本人の口から聞くと違う。


 亜衣は続ける。


「返事は?」


「断った」


 その瞬間。


 なつきは、自分でも分かるくらい息を吐いた。


 安心した。


 してしまった。


 それと同時に、罪悪感も少しだけ胸を刺す。


 誰かが勇気を出して告白した。


 それが断られた。


 そのことに安心している自分がいる。


 嫌な子みたいだ。


 でも。


 安心してしまった。


「そっか」


 亜衣は短く言った。


 それ以上、女子生徒のことは聞かなかった。


 そこは越えない。


 亜衣なりの線引きだった。


 代わりに、亜衣は少しだけ身を乗り出した。


「じゃあさ」


 教室の空気が変わる。


 亜衣の目が光った。


 茜が「あ」と小さく言う。


 なつきも嫌な予感がした。


「春樹くんって、どんな人が好きなの?」


 教室中が反応した。


 三浦が椅子から立ち上がる。


「おっ!」


 田辺が顔を上げる。


「始まった」


 島中が腕を組む。


「これは聞きたいな」


 紅秋が静かに言う。


「騒ぐな」


「お前も聞きたいだろ」


 三浦が突っ込む。


 紅秋は一拍置いて答える。


「少し」


「ほら!」


 教室が少し笑いに包まれる。


 さっきまでの重さが、亜衣の一言で少しずつ溶けていく。


 それは、無神経ではなかった。


 空気を変えるための、亜衣なりのやり方だった。


 春樹は少し困った顔をする。


「どんな人」


「好きなタイプ」


「タイプ……」


 春樹は考える。


 その沈黙が長かった。


 三浦が目を丸くする。


「おい、ガチで考えてるぞ」


 島中も少し身を乗り出す。


「初めて見た」


 田辺が笑う。


「大國でも悩むんだな」


 紅秋は静かに言う。


「恋愛だからだろ」


 なつきは自分の席で固まっていた。


 聞きたい。


 でも聞きたくない。


 春樹の好きなタイプ。


 知りたい。


 でも、自分と違ったらどうしよう。


 もし、はっきり自分とは違う人だったら。


 もし、美優さんみたいな人だったら。


 もし、祐衣さんみたいな人だったら。


 胸が苦しくなる。


 でも、耳は春樹の言葉を待っていた。


 春樹はようやく口を開いた。


「落ち着いてる人」


 教室が少し静かになる。


 春樹は続けた。


「一緒にいて安心できる人」


 なつきの心臓が強く鳴った。


「無理しなくていい人」


「話してて疲れない人」


 短い言葉だった。


 でも、一つ一つが重かった。


 春樹らしい。


 派手じゃない。


 見た目でもない。


 刺激でもない。


 安心。


 落ち着く。


 無理しなくていい。


 その言葉を、なつきは胸の中で何度も繰り返した。


 私は。


 春樹くんにとって、そういう人になれるのかな。


 今の自分は、春樹の前で緊張してばかりだ。


 メニューも逆に持つ。


 話しかけるだけで声が裏返る。


 春樹くん呼びだって、まだ心の中でしかできない。


 安心とは、少し遠い気がした。


 でも。


 なりたい。


 そう思った。


 亜衣はにやりと笑う。


「へぇ」


「何?」


「春樹くんらしい」


「そう?」


「うん」


 三浦がすぐに手を上げた。


「じゃあ俺も言っていい?」


「なぜ」


 紅秋が言う。


「流れだろ!」


「聞かれてない」


「聞いてほしい!」


 亜衣が笑った。


「聞く聞く。三浦くんの好きなタイプは?」


 三浦は立ち上がった。


 なぜか胸を張る。


「俺は明るい子!」


「ぽい」


 亜衣が即答する。


「まだ途中!」


 三浦は続けた。


「一緒に笑えて、くだらない話にも乗ってくれて、放課後に『今日マジで疲れたなー』って言ったら『分かるー』って笑ってくれる子!」


「具体的」


 茜が小さく呟く。


「あと、休みの日に急にアイス食べたいって言っても付き合ってくれる子!」


 田辺が呆れる。


「お前、相手を巻き込みたいだけだろ」


「違う! 一緒に楽しみたいんだよ!」


「三浦くんらしい」


 亜衣は笑った。


「髪型は?」


「似合ってれば何でも!」


「雑!」


「ショートもロングもポニテも全部いい!」


「欲張り」


 教室が笑う。


 次に田辺へ視線が集まった。


「田辺くんは?」


 亜衣が聞く。


「俺?」


 田辺は少し考える。


「気を遣わなくていい子かな」


 三浦が意外そうにする。


「お、まとも」


「うるせぇ」


「続けて」


「一緒にいて疲れない子。無言でも平気な子。あと、飯をうまそうに食う子」


 島中が笑う。


「最後なんだよ」


「大事だろ」


「まあ分からなくはない」


 三浦が頷く。


「髪型は?」


 亜衣が聞く。


 田辺は即答した。


「ポニーテール」


 教室が笑った。


「早っ!」


「迷いなし!」


「体育の時とか、いいだろ」


 田辺は真顔だった。


 三浦が大きく頷く。


「分かる!」


 島中も頷きかけて、慌てて腕を組む。


「まあ、分からんでもない」


「分かってるじゃん」


「うるせぇ」


 次は島中だった。


 亜衣がにやにやする。


「島中くんは?」


 島中は待ってましたと言わんばかりに背筋を伸ばした。


「まず顔」


 教室中が同時に突っ込んだ。


「出た!」


「最低!」


「正直すぎ!」


「お前なぁ!」


 島中は手を上げて反論する。


「いや大事だろ! 第一印象だぞ!」


 田辺が呆れる。


「言い方」


「でもな!」


 島中は続ける。


「顔だけじゃねぇよ。話して楽しい子。ノリいい子。一緒にいて退屈しない子。あと、ちゃんと笑ってくれる子」


 少しだけ教室が静かになる。


 思ったよりまともだったからだ。


 三浦が言う。


「お前、意外と普通」


「失礼だな!」


 紅秋が淡々と言う。


「言い方を最初からそうすればいい」


「うるせぇ」


「髪型は?」


 亜衣が聞く。


 島中は少し考えた。


「ロング」


「おお」


「さらさらのやつ」


「王道だね」


「王道は強い」


 島中は真面目な顔で言った。


 次に視線は紅秋へ向く。


 紅秋はため息を吐いた。


「俺も言うのか」


「言う流れ」


 三浦が言う。


「紅秋くんの好み気になる」


 亜衣が言った瞬間、紅秋は眼鏡を押し上げた。


「その呼び方はまだ慣れない」


「慣れて」


「努力はする」


 教室が笑う。


 紅秋は少し考えてから言った。


「常識がある人」


 三浦が即座に突っ込む。


「かたっ!」


 田辺も笑う。


「面接か」


 紅秋は動じない。


「約束を守る。相手を思いやる。話し合える。感情的になりすぎない」


 島中が腕を組む。


「真面目だな」


「真面目で何が悪い」


「悪くはない」


 茜が少しだけ反応した。


 なつきはそれを見逃さなかった。


 亜衣も見逃していないらしく、にやっと笑いかけたが、茜の視線で黙った。


「髪型は?」


 亜衣が続ける。


 紅秋は即答した。


「清潔感があれば何でもいい」


「面接だ!」


 三浦が叫ぶ。


「やっぱり面接だ!」


 教室が笑いに包まれる。


 なつきも笑った。


 さっきまで胸を締めつけていた不安が、少しずつ溶けていく。


 告白の話から始まったのに、今は男子達の好み発表会になっている。


 変な流れ。


 でも、十一組らしかった。


 そして最後に、亜衣はもう一度春樹を見た。


「じゃあ春樹くん」


「何?」


「髪型は?」


 春樹は少し考えた。


「特にない」


 全員が一斉に声を上げた。


「出た!」


「絶対言うと思った!」


「参考にならねぇ!」


 春樹は不思議そうにする。


「似合ってればいいと思う」


 三浦がすぐに詰め寄る。


「じゃあショートは?」


「似合ってれば」


「ロングは?」


「似合ってれば」


 田辺も聞く。


「ポニーテールは?」


「似合ってれば」


 島中が腕を組む。


「全部それじゃねぇか!」


「うん」


「うんじゃない!」


 亜衣は笑いをこらえながら言った。


「じゃあ見た目でこだわりは?」


「特にない」


「本当に?」


「うん」


 三浦が頭を抱える。


「強い」


 田辺が笑う。


「大國らしい」


 紅秋も頷いた。


「大國だな」


 なつきは自分の髪にそっと触れた。


 似合ってればいい。


 その言葉は安心するようで、少し困る。


 春樹は何を似合っていると思うのだろう。


 自分の髪型は。


 服は。


 雰囲気は。


 考え始めると、また胸が忙しくなる。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。


 教室の空気が少しずつ授業へ戻っていく。


 男子達はそれぞれ席へ戻り、亜衣もなつきのところへ戻ってきた。


「どうだった?」


 亜衣が小声で聞く。


「何が?」


「春樹くんの好み」


 なつきは少しだけ視線を落とした。


「……難しい」


「難しい?」


「落ち着いてて、一緒にいて安心できる人って」


「うん」


「私、春樹くんの前だと全然落ち着いてない」


 亜衣は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、優しく笑った。


「それは今だけでしょ」


「今だけ?」


「好きだから緊張するんだよ」


 茜も静かに言う。


「それに、なつきは落ち着いている方よ」


「そうかな」


「ええ。亜衣よりは」


「そこで私出す?」


「分かりやすい比較対象だから」


「ひどい!」


 なつきは少し笑った。


 笑えた。


 まだ胸は少しざわついている。


 でも、さっきよりずっと息がしやすい。


「安心できる人かぁ」


 なつきは小さく呟く。


 春樹にとって、そんな人になりたい。


 無理しなくていい人。


 話していて疲れない人。


 そう思ってもらえるようになりたい。


 まだ遠い。


 でも、目指したい。


 予鈴の後、本鈴が鳴る。


 先生が教室へ入ってくる。


 みんなが席に着く。


 なつきはノートを開きながら、そっと春樹の背中を見た。


 今日、春樹は告白された。


 そして断った。


 好きなタイプも知った。


 春樹くん呼びは、まだできない。


 でも。


 今日もまた、一つ知った。


 春樹のことを。


 そして、自分の気持ちのことも。


 君の隣は、まだ遠い。


 だけど。


 遠いからこそ、少しずつ目指していきたい。


 なつきはシャーペンを握る。


 胸の奥に残る言葉を、何度も繰り返しながら。


 落ち着いていて、一緒にいて安心できる人。


 いつか。


 春樹くんにとって、そんな人になれたらいい。


 そう願いながら、なつきは授業の最初の文字をノートに書き始めた。

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