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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第51話 春樹くん事件



 月曜日の朝。


 教室には、いつもの音があった。


 椅子を引く音。


 鞄を机へ置く音。


 朝の小テストを忘れた誰かの悲鳴。


 購買で買ったパンを朝から食べている男子への女子の呆れ声。


 窓の外では、湿った風がゆっくりと校庭の木を揺らしていた。


 六月の終わり。


 梅雨の合間の曇り空。


 けれど、商業科二年十一組の教室は朝から妙に騒がしかった。


「なつき、おはよ」


 茜が席に着きながら声をかける。


「お、おはよう」


「……どうしたの?」


「え?」


「顔が決意してる」


 なつきは固まった。


 そんなに出ているのだろうか。


 出ているのだろう。


 茜が言うなら、たぶん間違いない。


 昨日の帰り道。


 なつきは決めた。


 明日、学校で春樹に会ったら、自分から「おはよう」と言う。


 たったそれだけ。


 でも、今のなつきにとっては大きな一歩だった。


 休日の本屋。


 偶然の昼食。


 隣に座った時間。


 また明日。


 それを思い出すたびに胸が温かくなる。


 だから今日こそ。


 自分から。


 春樹に。


 おはよう。


 言う。


 はずだった。


「なつき」


 亜衣が勢いよく教室へ入ってくる。


「おはよー!」


「おはよう、亜衣ちゃん」


「茜もおはよ」


「おはよう」


 亜衣は自分の席へ鞄を置くと、すぐに教室を見回した。


 そして、窓際の席にいる春樹を見つける。


 春樹はいつも通り本を読んでいた。


 朝の教室の騒がしさの中でも、そこだけ少し静かに見える。


 なつきは息を吸った。


 今だ。


 言うなら今。


 おはよう。


 大國くん。


 いや。


 春樹くん。


 まだ無理。


 大國くんでいい。


 大國くん、おはよう。


 そう言おうとした。


 その瞬間。


「春樹くーん!」


 亜衣の声が、教室の空気を真っ直ぐ切った。


 時間が止まった。


 本当に、止まった気がした。


 教室のあちこちで動きが止まる。


 パンをかじっていた男子の口が開いたまま止まる。


 黒板の前で話していた女子二人が同時に振り返る。


 三浦が椅子から半分立ち上がったまま固まる。


 田辺が眉を上げる。


 島中が「は?」という顔をする。


 紅秋まで、眼鏡の奥の目を少しだけ動かした。


 そして。


 次の瞬間。


 教室中の視線が、一斉になつきへ向いた。


「……え?」


 なつきは固まった。


 何が起きたのか分からない。


 いや、分かる。


 分かるけど分からない。


 亜衣が春樹を「春樹くん」と呼んだ。


 それは昨日、休日の昼食で決まったことだ。


 亜衣は距離を詰めるのが早い。


 だから呼ぶ。


 それは分かる。


 でも。


 なぜ。


 なぜ全員。


 私を見るの。


「……なんで私見るの!?」


 なつきの声が裏返った。


 一拍。


 そして。


 教室が爆発した。


「いや別に?」


 三浦が目を逸らす。


「見てねぇし」


 島中も目を逸らす。


「俺は見てた」


 田辺が正直に言った。


「田辺、お前黙れ」


 島中が即座に突っ込む。


 女子達が笑い出す。


「いや、今のは見るでしょ」


「横田さんの反応込みで完成してた」


「かわいい」


「かわいくない!」


 なつきは真っ赤になった。


 机に突っ伏したい。


 今すぐ消えたい。


 でも逃げられない。


 茜は隣で額を押さえている。


「亜衣……」


「ん?」


 亜衣はきょとんとしている。


 本当に悪気がない顔だった。


 その顔がさらに厄介だった。


「何か変だった?」


「変というか」


 三浦が立ち上がる。


「伊藤!」


「何?」


「今なんて呼んだ?」


「春樹くん」


 教室がまたざわつく。


「うおおおお!」


「名前呼び!」


「いつの間に!?」


「昨日何があった!」


 島中が春樹を見る。


「おい大國」


「何?」


 春樹は本から顔を上げていた。


 状況は分かっていない顔だった。


「お前、いつから伊藤とそんな仲になった」


「そんな仲?」


「春樹くんって呼ばれてるだろ」


「呼びやすいならいいと思って」


 春樹は普通に答えた。


 教室中が沈黙する。


 次に、三浦が頭を抱えた。


「出たよ」


 田辺が頷く。


「出たな」


 島中も顔をしかめる。


「そういうとこだぞ」


 春樹は首を傾げる。


「何が?」


「それだよ!」


 三浦が叫ぶ。


 笑いが起きる。


 なつきは机の端を握っていた。


 春樹くん。


 亜衣が自然に呼んだ名前。


 春樹は自然に受け入れた。


 それだけのこと。


 でも、胸がきゅっとした。


 羨ましい。


 そう思った。


 自分も、いつか。


 自然に。


 春樹くん、と呼べるようになりたい。


 まだ、口に出すだけで心臓が止まりそうだけど。


「というか」


 亜衣がようやく周囲の空気を理解したように、にやりと笑った。


「あー」


「何よ」


 なつきは嫌な予感がした。


「そういうこと?」


「違う!」


 即答。


 しかし即答しすぎた。


 教室がまた笑う。


「横田、反応早い!」


 三浦が楽しそうに言う。


「違うから!」


「何が?」


 島中が意地悪く聞く。


「何って……!」


「俺まだ何も言ってないけどな」


「う……」


 なつきは言葉に詰まる。


 茜が立ち上がった。


「はい、そこまで」


 委員長の声だった。


 教室の笑いが少し落ち着く。


「朝から騒ぎすぎ。先生が来る前に席につきなさい」


「遠山先生!」


 三浦が敬礼する。


「三浦くん」


「はい」


「静かに」


「はい」


 すぐ座った。


 教室にまた笑いが起きる。


 茜はなつきの方を見る。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「でしょうね」


「茜ちゃん、助けて……」


「助けたわ」


「もっと早く」


「無理だったわ。面白すぎて」


「茜ちゃん!?」


 茜まで少し笑っていた。


 なつきは完全に逃げ場を失った。


 朝のホームルームが始まっても、教室にはまだ少しだけその余韻が残っていた。


 先生が出欠を取り、連絡事項を話す。


 期末テストの日程が近いうちに配られるという話。


 進路希望調査の話。


 夏服完全移行の話。


 なつきは聞いているつもりだった。


 でも、頭の中ではずっと同じ言葉が回っていた。


 春樹くん。


 亜衣は言えた。


 春樹は受け入れた。


 自分はまだ言えない。


 その差が、少しだけ悔しかった。


 でも。


 悔しいだけじゃない。


 目標ができた気がした。


 いつか。


 自然に呼びたい。


 心の中だけじゃなくて。


 ちゃんと声に出して。


 春樹くん、と。


 ホームルームが終わると、三浦がすぐに春樹の席へ向かった。


「なぁ、大國」


「何?」


「俺も春樹くんって呼んでいい?」


 春樹は少し考えた。


「呼びたいなら」


「え、いいのかよ」


「うん」


「じゃあ春樹くん」


「何?」


 三浦が自分で言っておきながら吹き出した。


「無理だわ!」


「何が?」


「俺が無理!」


 田辺が横から言う。


「圭くんって呼んでやろうか?」


「やめろ!」


 島中が笑う。


「じゃあ俺は良くんか?」


「誰が呼ぶか!」


「呼ばれたいのか?」


「違う!」


 朝から男子たちは騒がしい。


 紅秋はその様子を見ながら静かに言った。


「平和だな」


「板倉くんも参加しなよ」


 亜衣が言う。


「何に?」


「名前呼び大会」


「遠慮する」


「じゃあ紅秋くん?」


 紅秋の手が止まった。


 教室が静かになる。


 三浦が身を乗り出す。


「お?」


 田辺も笑う。


「板倉、照れてる?」


「照れてない」


「今ちょっと止まったぞ」


「止まってない」


「紅秋くん」


 亜衣がもう一度言う。


 紅秋は眼鏡を押し上げた。


「伊藤さん」


「はい」


「やめよう」


 教室が笑った。


 なつきもつられて笑う。


 さっきまでの恥ずかしさが、少しだけ薄れていく。


 こういう時、亜衣は本当にすごい。


 空気を壊さずに、むしろ広げていく。


 自分にはできない。


 でも、羨ましいだけではない。


 なつきは、亜衣を見ていると少し勇気が湧く。


 自分もいつか、少しずつでいいから距離を縮められるかもしれない。


 一時間目。


 二時間目。


 授業はいつも通り進んだ。


 けれど、休み時間になるたびに、誰かが春樹くん事件を蒸し返した。


「伊藤さん、もう一回呼んで」


「春樹くん?」


「うおお!」


「反応しすぎ」


 なつきはそのたびに顔を赤くする。


 そしてそのたびに、なぜか誰かがなつきを見る。


「だからなんで私を見るの!」


 その言葉も、今日だけで何回言ったか分からない。


 茜は途中から完全に諦めた顔になっていた。


「今日は仕方ないわね」


「何が?」


「なつきが可愛い日」


「やめて!」


 亜衣は楽しそうだった。


「いいじゃん。みんな応援してるんだよ」


「応援?」


「たぶん」


「たぶん?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「面白がってる」


「最悪!」


 でも、嫌な感じではなかった。


 クラスのからかいには、温度があった。


 球技大会を経て、クラス全体の空気が少し変わったからかもしれない。


 誰かを傷つける笑いではない。


 みんなで少しだけ同じものを見て笑う。


 その中心になつきがいるのは恥ずかしいけれど、以前ほど怖くはなかった。


 昼休み。


 教室は弁当や購買のパンでにぎやかになった。


 なつきは茜と亜衣と一緒に机を寄せる。


 亜衣は購買で買ったパンを袋から出しながら言った。


「いやー、朝から楽しかった」


「亜衣ちゃんは楽しかっただろうね」


「なつきも楽しかったでしょ?」


「どこが」


「照れてた」


「楽しいとは違う」


 茜が弁当を開けながら言う。


「でも、一つ前進したんじゃない?」


「私が?」


「春樹くん呼びを意識したでしょう」


 なつきは固まる。


「……した」


「なら前進」


「言える気はしない」


「今はね」


 茜の言葉はいつも静かに背中を押してくれる。


 なつきは小さく頷いた。


 その時だった。


 教室の入口付近が少しざわついた。


 なつきは顔を上げる。


 知らない女子生徒が立っていた。


 別のクラスの子だろう。


 長い髪を軽く結び、少し緊張した表情をしている。


 その女子は教室の中を見回し、春樹の席を見つけた。


 そして。


「大國くん」


 声をかけた。


 教室の空気が、また変わった。


 今度は朝のような笑いではない。


 少し違う。


 ざわり、とした。


 春樹が顔を上げる。


「はい」


 女子生徒は両手を前で握っていた。


 緊張している。


 それは誰が見ても分かった。


「少し……話せますか?」


 教室が静かになる。


 なつきの心臓が、嫌な音を立てた。


 亜衣の目が細くなる。


 茜も表情を引き締める。


 三浦がパンを持ったまま固まる。


 島中も。


 田辺も。


 紅秋も。


 みんなが何となく察していた。


 春樹だけが、いつも通りだった。


「うん」


 短く答えて、席を立つ。


 女子生徒は少しだけほっとしたように見えた。


 そして二人は教室を出ていく。


 扉が閉まる。


 教室には、数秒の沈黙が落ちた。


 それから。


「……え」


 三浦が小さく言った。


「今のって」


 田辺が続ける。


「だよな」


 島中が眉をひそめる。


「球技大会補正か」


 亜衣がゆっくりとなつきを見た。


 茜も、そっとなつきの顔を見る。


 なつきは動けなかった。


 手に持った箸が止まっている。


 胸の奥が、冷たくなったような気がした。


 春樹が呼び出された。


 知らない女子に。


 少し話せますか、と。


 それが何を意味するのか。


 分かってしまう。


 分かりたくないのに。


 分かってしまう。


「なつき」


 亜衣が小さく呼ぶ。


「……うん」


 声が出た。


 でも、自分の声じゃないみたいだった。


 朝は、笑っていた。


 春樹くん呼びで教室中が騒いで、みんなになつきを見られて、恥ずかしくて、でも少し嬉しかった。


 なのに。


 今は違う。


 胸の奥が落ち着かない。


 もやもやする。


 不安。


 焦り。


 そして少しだけ、嫌だと思う気持ち。


 そんな自分に、なつきは戸惑った。


 春樹は誰のものでもない。


 自分はまだ、何も伝えていない。


 だから、知らない女子が春樹を好きになっても、それは何も悪くない。


 分かっている。


 分かっているのに。


 嫌だった。


「……どうしよう」


 なつきは小さく呟いた。


 亜衣が立ち上がりかける。


 茜がそれを止めた。


「亜衣」


「でも」


「今はまだ」


「……分かってる」


 亜衣は座り直した。


 でも、目は完全に戦闘態勢だった。


 三浦がそわそわし始める。


「なぁ」


 田辺が言う。


「行くなよ」


「まだ何も言ってない」


「顔が行く顔だ」


「だって気になるだろ!」


 島中が低い声で言う。


「やめとけ」


 三浦が意外そうに見る。


「島中?」


「こういうのは茶化すもんじゃねぇだろ」


 その一言で、教室が少し静かになる。


 田辺も頷いた。


「だな」


 紅秋も静かに言う。


「戻ってきてからでいい」


 なつきは島中を見た。


 少し驚いた。


 前の島中なら、騒いでいたかもしれない。


 でも今は違う。


 春樹のことも、相手の女子のことも、そしてなつきのことも。


 最低限の線を守ろうとしている。


 球技大会の後、本当に変わったのかもしれない。


 でも。


 それでも。


 なつきの胸の不安は消えなかった。


 教室の外。


 春樹は今、何を話しているのだろう。


 あの子は何を言うのだろう。


 春樹は何と答えるのだろう。


 窓の外で、湿った風が木の葉を揺らしていた。


 教室の空気はさっきまでの笑いを失い、少しだけ静かになっている。


 春樹くん。


 心の中で呼ぶ。


 まだ声には出せない名前。


 なつきは箸を置き、膝の上で手を握った。


 今日一日で、胸の中が忙しすぎる。


 朝は、春樹くん呼びで笑った。


 昼は、知らない女子に呼び出された。


 嬉しさと不安が、同じ日にやってくる。


 恋って、こんなに忙しいんだ。


 そんなことを、なつきは初めて思った。


 そして教室の扉の向こうで。


 何かが始まろうとしていた――。

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