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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第50話 偶然の昼食


「横田さん」


 春樹の声が、本棚の間に静かに落ちた。


 休日の本屋。


 学校ではない場所。


 制服ではない自分。


 その全部が、なつきの頭の中を一瞬で真っ白にした。


 目の前には春樹がいる。


 そして、その隣には美優がいる。


 美優は休日らしい柔らかな服装で、春樹の隣に自然に立っていた。


 あまりにも自然だった。


 それが、なつきの胸を少しだけきゅっと締めつける。


「こ、こんにちは」


 なつきはようやく声を出した。


 少し震えた。


 自分でも分かるくらい。


 春樹はいつも通り、短く頷く。


「こんにちは」


 美優も笑った。


「偶然だね」


「う、うん。偶然」


 なつきはぎこちなく頷いた。


 その横で、亜衣がにやにやしている。


 茜は落ち着いているけれど、目だけはしっかり状況を見ていた。


「こんにちは、篠崎さん」


 茜が挨拶する。


「こんにちは」


 美優も返す。


「横田さんたちも買い物?」


「はい」


 なつきの代わりに茜が答えた。


「午前中から少し」


「へぇ、いいね」


 美優の視線が、なつきと亜衣の持つ袋へ向く。


「結構見てきた感じ?」


「はい。雑貨とか、服とか」


 茜が言う。


 そこで亜衣が割り込んだ。


「水着も見ました」


「亜衣ちゃん!」


 なつきの声が裏返った。


 美優が目を丸くする。


「水着?」


 春樹も少しだけ視線を向けた。


 なつきは全身が熱くなる。


 何で今それを言うの。


 よりによって春樹の前で。


「見ただけ!」


 なつきは慌てて言う。


「試着もしたじゃん」


「亜衣ちゃん!」


「へぇ」


 美優が少し楽しそうに笑う。


 春樹は首を傾げた。


「もう水着売ってるんだ」


「そこ?」


 亜衣が笑う。


「大國くん、反応そこなんだ」


「季節だなと思って」


「春樹らしいね」


 美優が小さく笑った。


 その「春樹」という呼び方が、やっぱり自然だった。


 なつきは胸の奥で小さく息をする。


 幼馴染。


 同じ駅。


 同じ帰り道。


 休日に一緒に買い物。


 それは、なつきがまだ届いていない場所だった。


 でも。


 春樹は自分にも声をかけてくれた。


 また明日、と言ってくれた。


 クッキーも美味しいと言ってくれた。


 その小さなお守りを、なつきは胸の中でそっと握り直す。


「大國くんたちは?」


 亜衣が聞いた。


「二人で本屋?」


 言い方が少しだけいたずらっぽい。


 なつきは内心で焦った。


 美優は気にした様子もなく答える。


「うん。春樹が本見たいって言うから」


「美優も文房具見たいって言ってた」


 春樹が補足する。


「そうそう。ついでに付き合ってもらってたの」


 当たり前みたいな会話だった。


 休日に一緒に出かけることに、特別な意味なんてない。


 少なくとも二人にとっては。


 だからこそ、なつきは少しだけ眩しく感じた。


 もし自分が春樹と休日に本屋へ来ることになったら。


 きっと前日から眠れない。


 服も悩む。


 会話も考える。


 目が合うだけで固まる。


 でも、美優は違う。


 いつものことみたいに隣にいる。


 それが羨ましかった。


 少しだけ。


 ほんの少しだけ。


「横田さん」


 春樹が言った。


「はい」


「本、買うの?」


「あ、うん。買うか迷ってて」


「恋愛小説?」


「えっ」


「この前、図書室で言ってたから」


 なつきは目を瞬かせた。


 覚えていた。


 春樹が。


 図書室で話したことを。


 胸が一気に温かくなる。


「うん。そう」


「そう」


 春樹は頷く。


「好きな作者?」


「まだ読んだことない作者なんだけど、表紙が気になって」


「表紙で選ぶのもいいと思う」


「そうかな」


「うん」


 短い会話。


 それだけ。


 でも、なつきには十分すぎた。


 自分の話を覚えてくれていた。


 それが嬉しかった。


 そのやり取りを、美優は見ていた。


 表情は変わらない。


 いつも通り、柔らかく笑っている。


 けれど、ほんの少しだけ。


 ほんの一瞬だけ。


 目の奥に何かが揺れたように見えた。


 なつきは気づかなかった。


 亜衣は気づいた。


 茜も、たぶん気づいた。


 だが誰も何も言わない。


 休日の本屋の静かな空気の中で、五人の間に少しだけ不思議な沈黙が落ちた。


 それを破ったのは亜衣だった。


「ねぇ」


「何?」


 茜が少し警戒した声を出す。


 亜衣がこういう時に何か言う時は、大体何かを動かす。


「お昼、もう食べた?」


 美優が首を横に振る。


「まだ」


 春樹も答える。


「まだ」


「私たちもまだなんだよね」


 亜衣がにこっと笑う。


「じゃあさ」


 なつきの嫌な予感がした。


 ものすごくした。


「一緒に食べようよ」


 一瞬。


 なつきの心臓が跳ねた。


 一緒に。


 春樹と。


 美優と。


 茜と亜衣と。


 昼ご飯。


 休日に。


 そんなこと、急に起きていいのだろうか。


 なつきは春樹を見る。


 春樹は少し考えている。


 美優は春樹を見た。


「どうする?」


「俺はいいけど」


 春樹が答える。


 軽い。


 普通。


 でも、その普通がなつきには大事件だった。


 美優も笑う。


「じゃあ、私も」


「決まり!」


 亜衣が即座に言った。


 茜が小さくため息を吐く。


「亜衣、勢いが早い」


「こういうのは勢い」


「あなたらしいわ」


 なつきはまだ固まっていた。


 亜衣がなつきの肩をぽんと叩く。


「なつき」


「な、何?」


「生きてる?」


「生きてる」


「じゃあ行こ」


「うん……」


 うん、と言った。


 言ってしまった。


 でも本当は、嬉しかった。


 すごく。


 ただ、その嬉しさより緊張が勝っていただけだ。


 本屋を出ると、駅ビルの中は昼時の賑わいに包まれていた。


 レストラン街へ向かう人。


 買い物袋を持つ人。


 親子連れ。


 学生。


 休日の空気があちこちにある。


 五人で歩く。


 茜と亜衣が前。


 少し後ろに、なつき。


 その隣に春樹。


 春樹の反対側に美優。


 なつきは歩幅に気をつけた。


 近すぎないように。


 離れすぎないように。


 でも、春樹の隣にいるというだけで、意識してしまう。


 春樹は自然だった。


 何も変わらない。


 歩きながら本屋の袋を持ち直している。


「横田さん」


「はい」


「荷物、大丈夫?」


「え?」


「袋、多いから」


 言われて初めて、自分が買い物袋を二つ持っていることを思い出した。


「あ、大丈夫」


「そう」


 それだけだった。


 でも。


 気づいてくれた。


 その事実に胸が跳ねる。


 美優が隣で春樹を見る。


「春樹、そういうとこあるよね」


「何が?」


「見てないようで見てる」


「見てる?」


「うん」


 春樹は少し考えた。


「荷物は見える」


「そういう意味じゃないんだけど」


 美優が笑う。


 亜衣が振り向いた。


「美優ちゃん、それ分かる」


 美優が少し目を瞬かせる。


「美優ちゃん?」


「あ、だめ?」


 亜衣は軽く言った。


 美優は少しだけ笑う。


「だめじゃないよ。篠崎さんって呼ばれるより、そっちの方が楽かも」


「ほんと? じゃあ美優ちゃんで」


「うん」


 なつきはその会話を聞いていた。


 亜衣はすごい。


 距離を縮めるのが自然だ。


 自分だったら、何日も悩むようなことを、軽く言える。


 それは少し羨ましい。


 でも、亜衣だからできることだとも思う。


「じゃあ大國くんも」


 亜衣が続けた。


 なつきはぎょっとした。


「え?」


 春樹が振り向く。


「何?」


「春樹くんって呼んでもいい?」


 さらっと。


 本当にさらっと言った。


 なつきは心臓が跳ねた。


 春樹くん。


 その呼び方は、自分が心の中で何度も呼んできた呼び方。


 でも、実際に口に出す時はまだ緊張する。


 亜衣はそれを軽く越えていく。


 春樹は少しだけ首を傾げた。


「呼びやすいなら」


「やった」


「何が?」


「距離感」


「そう」


 春樹は納得しているのかしていないのか分からない顔だった。


 美優が笑う。


「亜衣ちゃん、早いね」


「距離は詰められる時に詰めるタイプなので」


「いいと思う」


 亜衣は胸を張った。


「じゃあこれから美優ちゃん、春樹くんで」


「うん」


 美優が頷く。


 春樹も短く頷く。


 なつきはその横で、少しだけ焦った。


 亜衣が春樹くんと呼べるようになった。


 それは別に悪いことじゃない。


 亜衣は友達だ。


 むしろ頼もしい。


 でも。


 自分がまだ上手く呼べない名前を、亜衣があまりにも自然に呼んだことに、少しだけ胸が揺れた。


 置いていかれたわけじゃない。


 分かっている。


 それでも。


 自分もいつか、もっと自然に呼べるようになりたい。


 そう思った。


 レストラン街へ着くと、昼時らしくどこも混んでいた。


「何食べる?」


 亜衣が聞く。


「軽めがいい」


 茜が答える。


「パスタとか?」


「いいね」


 美優が頷く。


「春樹は?」


「何でも」


「出た」


 亜衣が笑う。


「何でもって一番困るやつ」


「そう?」


「そう」


 春樹は少し考える。


「じゃあパスタ」


「よし決定」


 五人は比較的空いているカフェレストランへ入ることにした。


 店内は明るく、窓際の席から駅前の通りが少し見える。


 案内されたのは六人掛けのテーブルだった。


 ここで、亜衣の目が光った。


 なつきはその目を見て、また嫌な予感がした。


「なつき、奥行こ」


「え?」


「ほら」


 亜衣がさりげなくなつきを奥側へ押す。


 その隣に空席。


 そして向かい側に茜と亜衣が座る。


 美優は自然に春樹の隣へ行こうとした。


 だが、その前に亜衣が明るく言った。


「春樹くん、こっち座る?」


 指したのは、なつきの隣。


 なつきは固まった。


 春樹は特に疑問もなく頷く。


「うん」


 座った。


 なつきの隣に。


 普通に。


 なつきの心臓が大きく跳ねる。


 美優は一瞬だけ足を止めた。


 ほんの一瞬。


 でも、その一瞬を茜は見逃さなかった。


 美優はすぐに笑って、春樹の向かい側に座る。


「じゃあ私はこっち」


 亜衣がにこにこしながらメニューを開いた。


「いやー、いい席」


「亜衣」


 茜が小声で言う。


「何?」


「やりすぎないように」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんじゃない」


 なつきはメニューを見るふりをしていた。


 文字が全然入ってこない。


 隣に春樹がいる。


 近い。


 学校の席より近い。


 集合写真よりも、打ち上げのシートよりも、今は隣という感じが強い。


 肩が触れるほどではない。


 でも、少し動けば触れそうな距離。


 どうしよう。


 何を頼めばいい。


 何を話せばいい。


 落ち着いて。


 落ち着いて。


 なつきはメニューの端をぎゅっと持った。


 すると、春樹が横から静かに言った。


「横田さん」


「はい」


「メニュー、逆」


 なつきは手元を見た。


 本当に逆だった。


 向かいの亜衣が口を押さえた。


 茜は目を閉じた。


 美優は少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。


 なつきは顔を真っ赤にする。


「……ありがとう」


「うん」


 春樹はいつも通りだった。


 それが救いであり、少しだけ悔しくもあった。


 休日の昼食。


 偶然から始まった五人の時間は、まだ始まったばかりだった。


★★★


 メニューが逆だった。


 それだけのことなのに、なつきにとっては大事件だった。


 しかも、それを指摘したのが春樹だった。


 隣から。


 すぐ隣から。


「……ありがとう」


 なつきはもう一度、小さく言った。


「うん」


 春樹は普通に頷く。


 普通。


 本当に普通だった。


 なつきが一人で勝手に慌てているだけ。


 分かっている。


 分かっているのに、心臓は全然落ち着いてくれない。


 テーブルの上には水の入ったグラスが置かれ、メニューがそれぞれの前に広げられている。


 窓から入る昼の光。


 店内のざわめき。


 隣の席の家族連れの会話。


 食器の触れる音。


 学校ではない場所で聞く、学校とは違う音。


 その全部が、今日という休日を特別にしていた。


「なつき、何にする?」


 向かい側から亜衣が聞く。


「えっと……」


 今度こそちゃんとメニューを見る。


 パスタ。


 ドリア。


 サンドイッチ。


 オムライス。


 デザートセット。


 どれも美味しそうに見える。


 でも、今のなつきは食欲より緊張が勝っていた。


「軽めにしようかな」


「なつき、朝食べてきた?」


「食べたよ」


「ならパスタくらいいけるでしょ」


「亜衣ちゃんの判断基準なに?」


「成長期」


「ざっくり」


 茜がメニューを見ながら言う。


「私は和風パスタにしようかしら」


「茜っぽい」


 亜衣が笑う。


「私っぽい?」


「落ち着いてる」


「料理に落ち着きは関係あるの?」


「ある」


「あるんだ」


 美優もメニューを見ながら微笑んでいた。


「私はクリーム系かな」


「美優ちゃん、クリーム系似合う」


 亜衣が言う。


「食べ物似合うって何?」


「雰囲気」


「そういうもの?」


「そういうもの」


 亜衣は自信満々だった。


 春樹はメニューをじっと見ている。


 なつきは横目でその姿を見てしまう。


 休日の春樹。


 本屋で見た時も思ったけれど、やっぱり制服とは違う。


 私服になると、少しだけ距離が近く見える。


 それが嬉しくて、少し怖い。


「春樹くんは?」


 亜衣が聞く。


 春樹は顔を上げた。


「ミートソース」


「即決?」


「うん」


「さっきまで見てたのに?」


「確認」


「真面目」


 美優が少し笑った。


「春樹、昔からミートソース好きだよね」


「そう?」


「そうだよ。小さい頃、口の周り赤くしてた」


 春樹がわずかに眉を動かした。


「それ言わなくていい」


「え、かわいいじゃん」


「かわいくない」


 なつきは思わず想像してしまった。


 小さい頃の春樹。


 口の周りにミートソース。


 少し不機嫌そうな顔。


 だめだった。


 想像しただけで、頬が緩みそうになる。


 亜衣も目を輝かせた。


「何それ見たい」


「写真あるよ」


 美優がさらっと言う。


「美優」


 春樹の声が少しだけ低くなる。


 美優は楽しそうだった。


「冗談」


「本当?」


「半分」


「半分」


 春樹は小さく息を吐いた。


 テーブルに笑いが起きる。


 なつきも笑った。


 けれど、その笑いの中に、少しだけ胸の痛みが混ざっていた。


 美優は、春樹の小さい頃を知っている。


 写真も持っている。


 昔の春樹を知っている。


 なつきが知らない春樹。


 それは当然のことだ。


 幼馴染なのだから。


 分かっている。


 でも、分かっていても羨ましい。


 そんな自分が少し嫌だった。


 亜衣がその空気を読んだのか、それとも偶然なのか、すぐに話題を変えた。


「じゃあさ、なつきは何にするの?」


「え?」


「なつきっぽい食べ物予想しよう」


「何それ」


「私はオムライス」


「え、何で?」


「かわいいから」


「理由」


 茜が静かに言う。


「なつきは迷って結局無難なものにするタイプ」


「当たってる」


「当たってるの?」


「たぶん」


 美優も少し考えた。


「横田さんは……トマト系パスタとか?」


「あ、それも分かる」


 亜衣が頷く。


「優しい色してる」


「色?」


「雰囲気」


「さっきから雰囲気で決めすぎ」


 なつきは笑った。


 春樹もメニューを見ながら言う。


「ドリアも食べそう」


 なつきの心臓が跳ねた。


 急に春樹が話に入ってきたからだ。


「ドリア?」


「うん」


「どうして?」


「熱いの苦手そうだけど、食べたそうにしそう」


 一瞬。


 沈黙。


 そして亜衣が吹き出した。


「分かる!」


「分かるの!?」


「めっちゃ分かる。なつき、あつあつの食べ物ふーふーしながら一生懸命食べそう」


「一生懸命って何」


 茜も微笑んでいる。


「実際そうね」


「茜ちゃんまで」


 美優も笑っていた。


「横田さん、かわいい」


「か、かわいくないです」


「かわいいよ」


 美優は自然に言った。


 悪意はない。


 むしろ優しい。


 だから、なつきは余計に照れた。


 春樹は何かを言ったつもりもないのだろう。


 ただ思ったことを言っただけ。


 でも、なつきにはすごく嬉しかった。


 春樹が自分を見て、そう思った。


 少しだけでも、自分のことを考えてくれた。


 それが嬉しい。


「じゃあ、ドリアにしようかな」


 なつきは小さく言った。


 亜衣がにやっとする。


「春樹くんのおすすめ?」


「違う!」


「今そういう流れだった」


「違う」


 春樹は首を傾げる。


「ドリア食べたいならいいと思う」


「ほら」


「ほらじゃない!」


 なつきが慌てると、また笑いが起きた。


 注文を終えると、少しだけ落ち着いた空気になった。


 水を飲む。


 荷物を足元に置き直す。


 店内のざわめきが少しだけ大きく聞こえる。


 五人でいるのに、不思議と沈黙が怖くない。


 亜衣がいれば沈黙はすぐに破られるし、茜がいれば空気が整う。


 美優は自然に話を受け取り、春樹は短く答える。


 そのバランスが、少しずつ形になっていく。


「そういえば」


 亜衣が言った。


「美優ちゃんと春樹くんって、休日に出かけること多いの?」


 なつきは水を飲みかけて固まった。


 茜が亜衣を見る。


 その質問は、なつきが聞きたいけれど聞けないことだった。


 美優は少し考えた。


「多いってほどじゃないかな」


「そうなの?」


「うん。用事が合えば一緒に行くくらい」


「今日みたいに?」


「そうそう」


 美優は笑う。


「春樹が本屋行きたいって言って、私も文房具見たかったから」


「へぇ」


 亜衣は頷く。


「幼馴染って感じだ」


「そうだね」


 美優は自然に答えた。


 でも、その声に少しだけ違う色が混ざった気がした。


 幼馴染。


 その言葉をどう受け取ったのか、なつきには分からない。


 春樹は特に気にした様子もない。


 美優を見ることもなく、水を飲んでいる。


「蓮くんは?」


 茜が聞いた。


「今日は一緒じゃないんですね」


「蓮は部活の用事。午後から合流するかもって言ってたけど、たぶん来ないかな」


「桐谷くんもよく一緒にいるんですか?」


「うん。中学からだし」


 美優は言った。


「春樹と蓮はだいたいセットだったから」


「セット」


 亜衣が笑う。


「分かるかも」


 春樹が少しだけ眉を動かす。


「セットではない」


「セットだよ」


 美優が即答する。


「中学の時、先生にも言われてたじゃん。大國と桐谷はどこ行ったって」


「そうだった?」


「そうだった」


 春樹は少し考えた。


「覚えてない」


「都合悪いこと覚えてないよね」


「そう?」


「そう」


 美優の言葉は軽い。


 でも、そこには長い時間があった。


 なつきは聞いているだけだった。


 春樹の中学時代。


 蓮と一緒にいた春樹。


 美優が見ていた春樹。


 自分の知らない春樹。


 また、胸が少しだけ遠くなる。


 でも今日は、前ほど沈まなかった。


 なぜなら。


 今、自分は春樹の隣に座っている。


 偶然だけど。


 亜衣に押された結果だけど。


 それでも。


 隣にいる。


 なつきはその事実をそっと胸の中で確かめた。


 料理が運ばれてきた。


 春樹のミートソース。


 美優のクリームパスタ。


 茜の和風パスタ。


 亜衣のオムライス。


 なつきのドリア。


「本当にドリアにした」


 亜衣が笑う。


「食べたかったから」


「春樹くん効果では?」


「違う」


 なつきはスプーンを持つ。


 熱そうな湯気が立っている。


 チーズがとろけている。


 少し冷まそうとして、息を吹きかける。


 その瞬間。


 亜衣が笑いをこらえているのが見えた。


「何?」


「いや、春樹くんの予想当たってるなって」


 なつきは固まる。


 春樹もこちらを見た。


「熱い?」


「熱いと思う」


「ゆっくり食べた方がいい」


「うん」


 なつきはスプーンを持ったまま頷く。


 それだけの会話。


 でも。


 優しい。


 春樹の言葉はいつも短い。


 でも、ちゃんと見ている。


 美優が言った通りだ。


 見ていないようで、見ている。


 なつきはドリアを一口食べた。


 熱い。


 でも美味しい。


「熱い?」


 春樹が聞く。


「少し」


「やっぱり」


 春樹が小さく言った。


 それがなんだかおかしくて、なつきは笑った。


 春樹もほんの少しだけ口元を緩めた。


 その瞬間。


 美優は二人を見ていた。


 なつきの笑顔。


 春樹の小さな笑み。


 そのやり取りは、何でもない。


 本当に何でもない。


 ドリアが熱い。


 それだけ。


 でも、美優の胸の奥に、小さな違和感が生まれた。


 春樹が誰かとそうやって話している。


 それは今までにもあった。


 蓮とも話す。


 クラスメイトとも話す。


 祐衣とも本の話をする。


 でも、横田なつきと話す春樹は、少しだけ違う気がした。


 春樹が変わったのか。


 横田なつきが変えたのか。


 それとも、自分が気にしすぎているだけなのか。


 美優にはまだ分からなかった。


「美優ちゃん?」


 亜衣が声をかける。


「ん?」


「パスタ冷めるよ」


「あ、うん」


 美優は笑った。


 いつも通りに。


 でも、亜衣はそれを見ていた。


 亜衣は何も言わない。


 ただ、オムライスを一口食べながら、心の中で思う。


 これは。


 少し面白くなってきたかもしれない。


 食事は賑やかに進んだ。


 亜衣が話題を振り、茜が整え、美優が乗り、春樹が短く答え、なつきが時々慌てる。


 それだけで、テーブルは明るかった。


「春樹くんってさ」


 亜衣がまた言う。


「球技大会の後、クラスで人気上がったよね」


「そう?」


 春樹は本気で分かっていない。


「上がったよ」


 茜が言う。


「かなり」


「そうかな」


 なつきも小さく頷く。


「上がったと思う」


「横田さんも?」


「うん」


 なつきは少し勇気を出した。


「すごかったから」


 春樹は少しだけ黙った。


 そして言う。


「ありがとう」


 短い言葉。


 でも、ちゃんと届いた。


 美優はそのやり取りも見ていた。


 なつきが勇気を出していること。


 春樹がその言葉を受け取っていること。


 それが分かった。


 だからこそ、胸の奥が少しだけ落ち着かない。


 でも、嫌ではない。


 横田なつきは嫌な子ではない。


 むしろ、見ていると応援したくなるような子だ。


 そこがまた、難しかった。


「でもさ」


 亜衣がスプーンを置いた。


「春樹くんって、あんまり自覚ないよね」


「何の?」


「色々」


「色々」


 美優が笑う。


「それは昔から」


「昔からなんだ」


「うん」


 美優は春樹を見る。


「春樹、自分が見られてるの気づかないタイプだから」


「見られてる?」


 春樹が首を傾げる。


「ほら」


 美優と亜衣が同時に言った。


 なつきは思わず笑ってしまった。


 茜も口元を緩める。


 春樹だけが分からない顔をしていた。


 その空気が楽しかった。


 少しだけ。


 なつきは思う。


 美優はやっぱり強い。


 春樹の昔を知っている。


 春樹の癖も知っている。


 春樹がどういう人なのか、自然に話せる。


 でも。


 今日、なつきも少しだけ知れた。


 春樹はミートソースが好き。


 熱いものを食べる自分を見て「ゆっくり食べた方がいい」と言ってくれる。


 ドリアを食べそうだと思っていた。


 そんな小さなこと。


 美優が知っている昔には、まだ全然届かない。


 でも。


 自分だけの今日がある。


 そう思えた。


 昼食が半分ほど進んだ頃、亜衣がふと思い出したように言った。


「そういえばさ」


「今度は何?」


 茜が少し警戒する。


「海行きたいって話してたじゃん」


 なつきはスプーンを落としそうになった。


「亜衣ちゃん!」


「何で慌てるの」


「その話は」


「普通の話だよ」


 美優が興味を示す。


「海?」


「うん。今日水着見てて、夏休みとか行けたらいいよねって」


「いいね」


 美優は自然に言った。


 なつきは驚く。


 美優は海とか、そういう場所が似合う気がした。


 明るくて、自然で、春樹の隣にいても違和感がない。


「春樹くんは?」


 亜衣が聞く。


「海?」


「うん」


 春樹は少し考える。


「行ってもいい」


「やった」


「まだ決まってないよ」


 茜がすぐに言う。


「分かってる分かってる。候補」


 亜衣は楽しそうだった。


「人数多い方が楽しいしね」


 なつきの頭の中に、また水着売り場の鏡が浮かぶ。


 白い花柄の水着。


 亜衣の笑顔。


 茜の「似合ってる」。


 そして。


 春樹が海にいる想像。


 だめだった。


 やっぱりまだ早い。


 顔が熱くなる。


「横田さん」


 春樹が言う。


「はいっ」


「海、苦手?」


「え?」


「顔赤いから」


 テーブルが静かになった。


 なつきは完全に固まる。


 亜衣が必死に笑いをこらえている。


 茜が目を閉じる。


 美優も口元に手を当てた。


「苦手じゃないです」


 なつきは小さく答えた。


「そう」


「暑いのは、少し苦手かも」


「じゃあ日陰あるところがいい」


 春樹は普通に言った。


 普通に。


 何でもないように。


 なつきは胸がきゅっとなった。


 そういうところ。


 そういうところが、好きだと思う。


 亜衣が小声で言う。


「日陰、確保されました」


「言わないで」


 なつきは小さく抗議する。


 春樹はやっぱり分かっていない。


 美優はその横顔を見て、少しだけ笑った。


 春樹は変わらない。


 昔から。


 優しいことを、優しいと意識せずに言う。


 だから周りが勝手に揺れる。


 美優はそれを知っている。


 知っているはずなのに。


 今日は少しだけ、その優しさがなつきへ向いているように見えた。


 それが、胸の奥に小さく残った。


 昼食の時間は、ゆっくりと過ぎていった。


 注文した料理は少しずつ減り、グラスの氷が溶け、窓の外の光が少しだけ傾く。


 偶然から始まった五人の時間。


 最初は緊張でいっぱいだったなつきも、少しずつ笑えるようになっていた。


 まだ春樹の隣は落ち着かない。


 でも、最初よりは呼吸ができる。


 春樹が隣にいる。


 美優が向かいにいる。


 茜と亜衣がいてくれる。


 その全部が、不思議なバランスで成り立っていた。


 なつきは思う。


 今、自分はたぶん。


 すごく特別な時間の中にいる。


 でも。


 それをうまく言葉にはできなかった。


★★★


 昼食の時間は、思っていたよりもゆっくり流れていた。


 最初は緊張で味が分からないかもしれないと思っていたドリアも、少しずつ食べ進めるうちに、ちゃんと美味しいと思えるようになっていた。


 熱い。


 でも美味しい。


 そのたびに、春樹が言った。


 ――ゆっくり食べた方がいい。


 その一言が頭に残って、なつきは自然と少しずつスプーンを運んでいた。


「なつき、本当にゆっくり食べてる」


 亜衣が言う。


「熱いから」


「春樹くんの助言守ってる?」


「違う」


「守ってるね」


「守ってない」


 なつきが小さく反論すると、茜が静かに水を飲んだ。


「守るのは悪いことじゃないわ」


「茜ちゃんまで」


 美優が柔らかく笑う。


「でも、熱いものはゆっくりが正解だよ」


「美優ちゃんまで……」


「私も昔、焦って食べて火傷したことあるし」


 亜衣がすぐに食いつく。


「え、美優ちゃんが?」


「うん」


「意外」


「そう?」


「美優ちゃんって何でも器用そう」


 美優は少し笑った。


「そんなことないよ」


 春樹が横から言う。


「美優、昔よく転んでた」


「春樹」


 美優が即座に見る。


「それ言う?」


「言ってたから」


「火傷の話と転ぶ話は違う」


「そう?」


「そう」


 亜衣が目を輝かせた。


「何それ聞きたい」


「聞かなくていいよ」


 美優は苦笑する。


「小さい頃の話だから」


「幼馴染エピソードだ」


 亜衣がにやにやする。


 なつきは少しだけ胸が揺れた。


 また知らない話。


 春樹と美優の昔。


 普通なら気にすることではない。


 幼馴染なのだから、過去があるのは当然だ。


 でも、目の前でその時間を見せられると、やっぱり少しだけ遠く感じる。


 それでも。


 さっきより苦しくはなかった。


 今、自分もこの場にいる。


 春樹の隣に座っている。


 春樹がドリアのことを気にしてくれた。


 それは今日の自分だけの小さな出来事だった。


 なつきは、それを胸の中でそっと守る。


「でもさ」


 亜衣が言った。


「今日、偶然会えてよかったよね」


「そうね」


 茜が頷く。


「お昼も一緒に食べられたし」


「亜衣ちゃんの勢いだけどね」


「勢い大事」


 亜衣は胸を張る。


「美優ちゃんも春樹くんも嫌じゃなかった?」


 美優は首を横に振った。


「全然」


 春樹も答える。


「うん」


「じゃあ成功」


「何が?」


 春樹が首を傾げる。


「交流」


「交流」


「そう。クラス外交流」


「なるほど」


 春樹は納得したような、していないような顔をした。


 その顔に、なつきは少し笑ってしまう。


 亜衣はすごい。


 何でもないことみたいに、人と人の距離を縮める。


 自分にはできない。


 でも、亜衣がいてくれるから、こうして春樹の隣に座れた。


 美優とも話せた。


 春樹くんと美優ちゃん。


 そう自然に呼び始めるきっかけもできた。


 なつきは少しだけ、亜衣に感謝した。


 直接言うのは恥ずかしいけれど。


 食事を終え、デザートを頼むかどうかで少し揉めた。


「私は食べたい」


 亜衣が言う。


「さっきフラペチーノ飲んでなかった?」


 なつきが聞く。


「それはそれ」


「別腹ね」


 茜が言う。


「別腹!」


 美優もメニューを見る。


「小さいパフェならいけるかも」


「美優ちゃんも?」


「うん」


「じゃあ私も」


 亜衣が嬉しそうに言う。


 茜は少し考える。


「私は紅茶だけでいいわ」


 春樹はメニューを見ていた。


「春樹くんは?」


「アイス」


「いいね」


 亜衣が言う。


「なつきは?」


「私は……」


 ドリアでかなりお腹は満たされている。


 でも、みんながデザートを頼むなら少しだけ食べたい。


 なつきが迷っていると、春樹が言った。


「無理しなくていいと思う」


「え?」


「さっき、結構ゆっくり食べてたから」


 見ていた。


 また。


 なつきは胸が跳ねる。


「うん。じゃあ飲み物だけにしようかな」


「それがいいかも」


「ありがとう」


 短い会話。


 けれど、向かい側の美優はそれを見ていた。


 春樹は、横田なつきをちゃんと見ている。


 それは悪いことではない。


 むしろ、春樹らしい。


 困っていそうな人を見れば気づく。


 無理していそうなら声をかける。


 昔からそうだった。


 でも。


 昔からそうだったはずなのに。


 今日はなぜか、その優しさの向きが気になった。


 美優はグラスの水を一口飲む。


 冷たい水が喉を通る。


 胸の中の小さなざわめきは、まだ消えない。


 デザートが運ばれてくると、亜衣はすぐに笑顔になった。


「見て、かわいい」


「写真撮る?」


 美優が聞く。


「撮る!」


「じゃあ並べよう」


 小さなパフェとアイスと紅茶がテーブルに並ぶ。


 亜衣がスマホを構える。


「なつきも入る?」


「私はいい」


「手だけ」


「手だけ?」


「青春っぽい」


「何それ」


 結局、飲み物のグラスとデザートを並べた写真を撮るだけになった。


 それでも亜衣は満足そうだった。


「今日の思い出」


「買い物と昼食の?」


「そう」


 亜衣がにこっと笑う。


「偶然の昼食」


 その言葉に、なつきの胸が少し温かくなる。


 偶然。


 本当に偶然だった。


 でも、その偶然が嬉しかった。


 食事を終え、会計を済ませる。


 店の外へ出ると、駅ビルの通路は相変わらず人で賑わっていた。


 午後の光がガラス越しに差し込み、床に淡い影を作っている。


「この後どうする?」


 亜衣が聞く。


「私、少し文房具見たい」


 美優が言う。


「私はそろそろ帰ろうかな」


 茜が答えた。


「なつきは?」


「私も帰ろうかな」


 朝から歩き回って、少し疲れていた。


 でも、それ以上に胸がいっぱいだった。


 これ以上一緒にいたら、嬉しさと緊張で容量を超えてしまいそうだった。


「春樹は?」


 美優が聞く。


「本屋、もう一回見たい」


「まだ見るの?」


「うん」


 春樹らしい答えだった。


 亜衣が笑う。


「本当に本好きだね、春樹くん」


「うん」


「そこは即答なんだ」


 春樹は少しだけ頷いた。


 駅ビルの出口近くで、自然に分かれる流れになった。


 茜となつきは同じ方向。


 亜衣は少し別方向。


 春樹と美優は駅へ向かう。


 別れ際、亜衣が春樹と美優へ手を振った。


「じゃあね、春樹くん、美優ちゃん」


「またね」


 美優が返す。


 春樹も短く言う。


「また」


 その呼び方が、もう自然に聞こえた。


 亜衣は本当にすごい。


 なつきは少し羨ましいと思いながらも、どこか頼もしかった。


 自分ではできないことを、亜衣は軽くやってくれる。


 それが時々恥ずかしいけれど、いつも助けられている。


「横田さん」


 春樹が呼んだ。


 なつきは顔を上げる。


「はい」


「また明日」


 図書室の時と同じ。


 でも、今日の「また明日」は少し違って聞こえた。


 休日の昼食を一緒に食べた後の、また明日。


「うん」


 なつきは笑った。


「また明日」


 美優もなつきを見て、柔らかく笑う。


「横田さん、またね」


「うん。またね、美優さん」


 名前で呼んだ。


 自然に。


 なつき自身が少し驚いた。


 美優も一瞬だけ目を細める。


「うん」


 春樹と美優が駅の方へ歩いていく。


 亜衣も反対側へ歩き出した。


「じゃあ、なつき、茜、また明日!」


「また明日」


「気をつけてね」


 亜衣が手を振る。


 なつきも手を振り返した。


 そして、茜と二人になる。


 駅ビルを出ると、外の空気は少しだけ暖かかった。


 休日の午後。


 人通りは多い。


 車の音。


 遠くの信号の音。


 歩く人たちの声。


 その中を、なつきと茜はゆっくり歩いた。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 沈黙がある。


 でも、気まずくはない。


 むしろ、今日の出来事を整理するための沈黙だった。


「楽しかった?」


 茜が先に口を開いた。


 なつきは少しだけ笑う。


「うん」


 迷わず答えられた。


「すごく」


「よかった」


「緊張したけど」


「でしょうね」


「メニュー逆だったし」


「あれは面白かった」


「茜ちゃんまで」


 なつきは頬を膨らませる。


 茜は小さく笑った。


「でも、よかったわね」


「うん」


 なつきは視線を少し落とした。


「隣に座れた」


「ええ」


「話せた」


「ええ」


「また明日って言えた」


「ええ」


 ひとつひとつ確かめるように言う。


 茜は全部受け止めてくれた。


「美優さん」


 なつきは少し間を空けて言った。


「やっぱりすごいね」


「そうね」


「春樹くんのこと、たくさん知ってる」


「幼馴染だから」


「うん」


 分かっている。


 分かっているけれど、やっぱり少し胸が痛い。


 なつきは正直に言った。


「ちょっとだけ、羨ましかった」


「うん」


「でも、嫌な感じじゃなかった」


「それも分かるわ」


「美優さん、優しいし」


「ええ」


「だから、難しいね」


 茜は頷いた。


「そうね」


 美優は嫌な子ではない。


 祐衣も嫌な子ではない。


 みんな良い人だ。


 だからこそ、なつきの恋は単純じゃない。


 敵がいるわけじゃない。


 ただ、それぞれに距離がある。


 積み重ねた時間がある。


 自分にはまだ足りないものがある。


「でも」


 茜が言った。


「今日のなつきにも、ちゃんと今日の距離があったわ」


「今日の距離?」


「春樹くんの隣に座った」


「うん」


「ドリアの話をした」


「うん」


「また明日って言えた」


「うん」


「それは、美優さんの過去とは別のものよ」


 なつきは足を止めそうになった。


 茜の言葉が、胸の中にゆっくり沈んでいく。


 美優の過去。


 自分の今日。


 比べなくていいのかもしれない。


 過去は追いつけない。


 でも、今日から積み重ねることはできる。


 なつきは小さく頷いた。


「うん」


 少しだけ笑う。


「ありがとう、茜ちゃん」


「どういたしまして」


 その頃。


 駅へ向かう通路で、春樹と美優は並んで歩いていた。


 少し前までの賑やかさが嘘みたいに、二人の間にはいつもの空気が戻っている。


 美優は文房具店の袋を持ち、春樹は本屋の袋を持っている。


「楽しかったね」


 美優が言った。


「うん」


「亜衣ちゃん、面白い子だね」


「うん」


「距離詰めるの早い」


「そうだね」


「春樹くんって呼ばれてたよ」


「うん」


「嫌じゃない?」


「別に」


 春樹は普通に答える。


 美優は少し笑った。


「春樹らしい」


「そう?」


「うん」


 少し沈黙。


 歩く音。


 人の流れ。


 駅のアナウンス。


 その中で、美優は何気ない声を装って言った。


「横田さんと仲良くなったよね」


 春樹は少しだけ考えた。


「そう?」


 予想通りの返事。


 美優は笑った。


「そう」


「話すようにはなった」


「前より?」


「うん」


「そっか」


 それだけ。


 それだけの会話。


 でも、美優の胸には小さな波が立った。


 春樹は気づいていない。


 たぶん、横田なつきの気持ちにも。


 自分の中に生まれた小さな違和感にも。


 何も気づいていない。


 昔からそうだ。


 春樹は大事なところで鈍い。


 でも、ちゃんと見ている。


 人の小さな変化には気づく。


 だから余計に厄介なのだ。


「横田さん」


 春樹が言った。


「ん?」


「ドリア、熱そうだった」


 美優は一瞬だけ目を丸くする。


 それから笑った。


「そこ覚えてるんだ」


「うん」


「春樹らしいね」


「そう?」


「うん」


 美優は前を向く。


 胸の中の小さな波は、まだ消えていない。


 でも、まだ名前はつけられない。


 つけるほどでもない。


 ただ。


 今日の昼食で、少しだけ何かが変わった。


 そんな気がした。


 なつきは茜と別れた後、家へ向かう道を一人で歩いていた。


 買い物袋が手に揺れる。


 今日買ったハンカチ。


 少し迷った服。


 水着売り場で見た自分。


 春樹と美優に偶然会った本屋。


 隣に座った昼食。


 また明日。


 ひとつひとつ思い出す。


 恥ずかしい。


 でも嬉しい。


 胸がいっぱいで、少しだけ泣きそうになる。


 君の隣は、まだ遠い。


 美優さんの過去には届かない。


 祐衣さんの本の話にも、まだ追いつけない。


 でも。


 今日、私は春樹くんの隣に座った。


 ちゃんと話した。


 また明日って言えた。


 それは、小さくても確かな一歩だった。


 なつきは空を見上げる。


 夕方にはまだ少し早い青空が、駅前の建物の向こうに広がっていた。


 胸の奥で、静かに思う。


 明日。


 学校で会ったら。


 自分から、おはようって言ってみよう。


 それだけでいい。


 でも、今のなつきには。


 それが次の一歩だった。

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