第49話 休日、鏡の前で
休日の朝は、学校の朝とは少し違う。
目覚ましの音も。
窓から入る光も。
制服を着なくていいというだけで、少しだけ世界が緩く感じる。
なつきはベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
今日は、茜と亜衣と買い物に行く日だった。
球技大会の打ち上げでもなく。
学校行事でもなく。
ただの休日の女子会。
それだけのはずなのに、なぜか朝からそわそわしていた。
水戸駅周辺で集合。
雑貨屋を見て、服を見て、どこかでお昼を食べる。
予定としてはそれだけだ。
春樹はいない。
美優もいない。
蓮もいない。
祐衣もいない。
今日は、なつきと茜と亜衣だけ。
だから緊張する必要なんてない。
そう思っているのに、なつきはクローゼットの前で十五分以上悩んでいた。
「これ……派手かな」
白いブラウス。
薄いベージュのスカート。
淡い色のカーディガン。
いつもと大きく違うわけではない。
けれど、休日に友達と駅周辺へ出かけるとなると、少しだけ気合いが入る。
そして、気合いが入りすぎていないように見せたい。
その調整が一番難しい。
なつきは鏡の前で、もう一度自分を見る。
悪くない。
たぶん。
そう思おうとした時、スマホが震えた。
亜衣からだった。
『なつき、かわいくしてきてね』
その下に、にやにやしているスタンプ。
なつきは思わず声を出した。
「もう……」
続けて茜からもメッセージが来る。
『いつも通りで大丈夫』
なつきは少し笑った。
二人らしい。
亜衣は攻める。
茜は支える。
その間で、自分はいつも慌てている。
でも、その関係が心地よかった。
集合場所に着くと、先に亜衣がいた。
明るめのトップスに、動きやすそうなパンツ。
髪も少し巻いていて、いつもより休日感がある。
「なつきー!」
亜衣が大きく手を振る。
「おはよう」
「おはよ。かわいいじゃん」
「いきなり言わないで」
「事実」
「恥ずかしい」
「その反応もかわいい」
「やめて」
亜衣は笑った。
すぐに茜も到着した。
茜はシンプルなシャツに長めのスカート。
きちんとしているのに堅すぎない。
茜らしい服装だった。
「おはよう」
「茜ちゃん、おはよう」
「二人とも早いわね」
「楽しみだったからね」
亜衣が言う。
「買い物久しぶりだし」
「そうだね」
なつきも頷く。
三人で歩き出す。
休日の水戸駅周辺は、学校帰りとは違う賑やかさがあった。
制服姿の高校生もいる。
家族連れもいる。
カップルもいる。
店の前には夏物の服が並び始めていて、ガラス越しに明るい色が目に入る。
季節が少しずつ夏へ向かっている。
それを感じるだけで、なつきの胸は少しそわそわした。
「まず雑貨屋行こ」
亜衣が先導する。
「亜衣ちゃん、今日の目的それ?」
「全部!」
「全部?」
「雑貨、服、カフェ、文房具、アクセ、あと見るだけ水着」
「水着?」
なつきの声が少し裏返った。
茜もわずかに眉を上げる。
「見るだけ?」
「見るだけ」
亜衣はにやりと笑う。
「たぶん」
「たぶんが不穏ね」
茜が言った。
なつきはまだ水着という言葉を処理できていなかった。
水着。
夏。
海。
プール。
そして、なぜか春樹の顔が頭に浮かぶ。
いや、いない。
今日は春樹はいない。
関係ない。
関係ないのに。
想像してしまった自分に、なつきは勝手に顔を赤くした。
「なつき」
亜衣が覗き込む。
「何想像した?」
「何も!」
「大國くん?」
「違う!」
「反応早すぎ」
茜が小さく笑う。
「なつき、分かりやすいわ」
「もうやだ……」
まだ店にも入っていないのに、すでに疲れている気がした。
最初に入った雑貨屋では、三人でヘアピンやキーホルダーを見た。
亜衣は派手めのものを手に取っては「これかわいくない?」と言う。
茜は実用的なポーチを見ている。
なつきは小さな花柄のハンカチを手に取った。
「それ似合う」
茜が言う。
「ほんと?」
「うん」
亜衣も覗き込む。
「なつきっぽい。ふわっとしてる」
「ふわっと?」
「褒めてる」
「本当かな」
「本当」
なつきは少し迷って、それを買うことにした。
小さな買い物なのに、友達に似合うと言ってもらうだけで嬉しい。
その後、服屋をいくつか回った。
夏物のブラウス。
薄手のカーディガン。
スカート。
ワンピース。
亜衣は次々となつきに服を当てた。
「これ!」
「派手じゃない?」
「かわいい」
「こっちは?」
「肩出る!」
「少しだけじゃん」
「無理!」
茜は横で冷静に見ている。
「なつきは淡い色が似合うわね」
「そうかな」
「でも、たまには少し濃い色もいいと思う」
「茜ちゃんまで攻める」
「攻めてはいないわ」
亜衣が笑う。
「茜が攻めたら強いよ」
「どういう意味?」
「静かに逃げ道塞ぐタイプ」
「否定はしない」
「しないんだ」
三人で笑いながら、店を回る。
学校ではない場所で話すだけで、いつもと違う一面が見える。
茜は意外と服の好みがはっきりしている。
亜衣は直感で選ぶ。
なつきは迷いすぎる。
でも、その迷う時間すら楽しかった。
昼前になり、少し休憩しようとした時だった。
通路の先に、夏物の特設コーナーが見えた。
明るい看板。
青い布。
浮き輪。
ビーチサンダル。
そして。
水着。
「あ」
亜衣の目が輝いた。
「行くよ」
「え、ほんとに?」
なつきが固まる。
「見るだけ」
「絶対見るだけじゃない顔してる」
「見るだけ見るだけ」
茜は小さく息を吐く。
「まあ、見るだけなら」
「茜ちゃん!?」
なつきの抵抗はあまり意味をなさなかった。
三人は水着売り場へ入る。
そこは、他の服売り場より少しだけ明るく見えた。
水色。
白。
ピンク。
黒。
花柄。
チェック。
フリル。
スポーティなもの。
大人っぽいもの。
なつきはどこを見ていいのか分からなくなる。
「うわー」
亜衣は完全に楽しんでいた。
「夏って感じ!」
「まだ梅雨だけど」
茜が言う。
「気分は夏!」
「早いわ」
亜衣は一着を手に取った。
「これ茜似合いそう」
「私?」
「うん。シンプルだけど大人っぽいやつ」
茜は少しだけ目を細めた。
「そう?」
「絶対似合う」
「試着する気はないわ」
「えー」
亜衣は今度はなつきを見る。
「じゃあなつき」
「私はもっとない」
「何で?」
「何でって……」
「水着は見るより着た方が分かるよ」
「誰目線?」
「店員さん目線」
「亜衣ちゃん店員じゃない」
そんなやり取りをしていると、本物の店員が笑顔で声をかけてきた。
「よろしければ試着だけでもできますよ」
なつきは固まった。
亜衣は即答した。
「します」
「亜衣ちゃん!」
「三人で」
「増やさないで!」
茜が軽く咳払いをする。
「私は見るだけで」
「茜も」
「亜衣」
「お願い、一回だけ!」
亜衣が手を合わせる。
茜は少し考えた。
そして、諦めたようにため息を吐く。
「一回だけ」
「やった!」
「なつきもね」
「えっ」
「一人だけ逃げるのはなし」
「茜ちゃん!?」
いつの間にか味方がいない。
なつきは完全に追い込まれていた。
結局、三人は試着することになった。
もちろん、実際に外へ出るわけではない。
試着室の中で上から羽織って雰囲気を見るだけ。
それでもなつきには大事件だった。
亜衣は明るい色の水着を選んだ。
元気な亜衣に似合う。
茜はシンプルなネイビー系。
落ち着いていて、大人っぽい。
なつきは亜衣に選ばれた白地に小さな花柄のものを持たされた。
「無理」
「似合うって」
「無理」
「着てから言おう」
「着る前に分かる」
「分かんない」
なつきは試着室のカーテンを閉めた。
心臓がうるさい。
なぜこんなに緊張しているのだろう。
別に誰かに見せるわけではない。
茜と亜衣だけだ。
それなのに。
鏡の前に立つと、自分の姿がいつもよりずっと心細く見えた。
水着姿。
まだ実際に着替えたというより、試着用として合わせただけ。
それでも、普段よりずっと自分の体が見える。
腕。
肩。
脚。
腰。
なつきは鏡の中の自分を見た。
思ったより変ではない。
でも、すごく似合っている自信もない。
少し太ったかな。
もう少し姿勢を良くした方がいいかな。
髪は結んだ方がいいかも。
そんなことを考える。
いつも春樹のことばかり見ている。
でも今日は、鏡の中で自分を見ている。
春樹の隣に立ちたい。
そう思うなら。
自分のことも、ちゃんと見なきゃいけないのかもしれない。
なつきは小さく息を吸った。
「なつきー?」
亜衣の声。
「生きてる?」
「生きてる」
「見せて」
「無理」
「見せて」
「無理」
「なつき」
今度は茜の声。
「大丈夫よ」
その一言に、少しだけ背中を押される。
なつきはカーテンを少しだけ開けた。
亜衣が目を輝かせた。
「かわいい!」
「声大きい!」
「かわいい!」
「二回言わないで!」
茜も見て、柔らかく微笑んだ。
「似合ってる」
「ほんと?」
「ええ」
「変じゃない?」
「変じゃない」
亜衣が力強く頷く。
「むしろ大國くんに見せたい」
「亜衣ちゃん!」
なつきは真っ赤になってカーテンを閉めようとした。
亜衣が笑う。
「でも本当に似合ってるよ」
「……ありがとう」
小さく言う。
嬉しかった。
恥ずかしい。
でも嬉しい。
茜もカーテンを開けた。
なつきと亜衣が同時に固まる。
「茜ちゃん……」
「何?」
「大人っぽい」
亜衣が言う。
「それ」
なつきも頷く。
茜は少しだけ頬を赤くした。
「そう?」
「すごい似合う」
「茜、強い」
「強いって何」
亜衣も自分の水着姿を見せる。
明るい色がよく似合っていた。
「亜衣ちゃんは亜衣ちゃんって感じ」
「どういう意味?」
「元気」
「褒めてる?」
「褒めてる」
三人で試着室の前で笑った。
水着回。
そんなふうに言うと、少し恥ずかしい。
でも、実際はただ友達同士で騒いでいるだけだった。
それが楽しかった。
自分の体を見て少し不安になって。
友達に似合うと言われて少し自信がついて。
夏の予定を想像して少しだけ胸が弾む。
それだけの時間。
でも、なつきには大切だった。
試着を終え、元の服に着替えると、なつきは少しだけほっとした。
亜衣はまだ水着売り場を見ている。
「今度さ」
「何?」
「みんなで海とか行きたくない?」
その言葉に、なつきの胸が跳ねた。
みんな。
その中に春樹が入るのか。
入るのだろうか。
想像した瞬間、なつきは完全に固まった。
「なつき?」
茜が声をかける。
「海……」
「想像したね」
亜衣が言う。
「してない」
「嘘」
「してない」
「大國くんの水着」
「亜衣ちゃん!」
なつきは声を上げた。
店員が遠くで笑っている気がして、さらに恥ずかしくなる。
茜が冷静に言う。
「夏休みに行けたら楽しそうではあるわね」
「茜ちゃんまで」
「行くなら人数は多い方が安全だし」
「現実的」
亜衣が頷く。
「じゃあ候補に入れとこ」
「本当に行くの?」
「行くかは分かんないけど、考えるだけなら無料」
確かにそうだ。
考えるだけなら。
でも、なつきの頭の中では、もう波の音が聞こえ始めていた。
砂浜。
青い海。
春樹。
そこで思考が止まる。
無理。
まだ早い。
でも。
もし本当に行けたら。
少しだけ、楽しみだと思ってしまった。
水着売り場を出た後、三人はカフェで休憩した。
なつきはアイスティー。
茜はホットの紅茶。
亜衣は甘いフラペチーノのような飲み物。
小さな丸テーブルを囲む。
買ったものを見せ合いながら、話題は自然と恋愛へ戻った。
「で」
亜衣がストローをくるくる回す。
「なつきは大國くんとどこまで進みたいの?」
「何その質問」
「真剣」
「真剣に聞かないで」
茜が紅茶を置く。
「でも、考えておくのは悪くないわ」
「茜ちゃんも?」
「目標があった方が動きやすいから」
「目標……」
なつきは考える。
告白。
付き合う。
そんな言葉は遠すぎる。
今の自分にはまだ眩しすぎる。
だから。
「もっと普通に話せるようになりたい」
なつきは小さく言った。
「緊張しないで」
「うん」
「あと……」
少しだけ間を空ける。
「隣にいても、変じゃないくらいになりたい」
言ってから恥ずかしくなる。
でも、二人は笑わなかった。
亜衣は優しく頷く。
「いいじゃん」
茜も微笑む。
「なつきらしい」
「そうかな」
「ええ」
なつきはアイスティーを見つめる。
君の隣を目指して。
その言葉が胸の奥に浮かぶ。
隣にいたい。
でも、ただ隣へ行きたいだけじゃない。
隣にいても不自然じゃない自分になりたい。
そのために、少しずつ変わりたい。
そう思う。
「じゃあまずは」
亜衣が言う。
「次に会ったら自分から話しかける」
「えっ」
「できるでしょ」
「無理」
「クッキーより簡単」
「簡単じゃない」
「でもできたら前進」
「う……」
茜が助け船のように言う。
「一言でいいのよ」
「一言?」
「おはよう、とか」
「それなら……」
「それでも一歩」
なつきは少しだけ考える。
おはよう。
また明日。
ありがとう。
そういう小さな言葉を、もっと自分から言えるようになりたい。
「頑張る」
なつきが言うと、亜衣がにこっと笑った。
「よし」
カフェを出た後、三人は本屋へ向かった。
なつきが図書室回の本を見たいと言ったからだ。
大型書店の中は涼しく、静かで、紙の匂いがした。
なつきは本棚を見上げる。
春樹ならどの棚を見るだろう。
そう考えた瞬間、自分で少し笑ってしまう。
どこにいても春樹のことを考えている。
でも、それが嫌ではない。
「恋愛小説コーナーこっち」
亜衣が言う。
「何で分かるの?」
「なつきが行きそうだから」
「読まれてる」
茜は文庫コーナーを見ている。
三人でゆっくり本棚を回る。
その時だった。
通路の向こうから声が聞こえた。
「春樹、それ前も見てなかった?」
なつきの足が止まる。
聞き慣れた声。
美優だった。
心臓が一気に跳ねる。
棚の向こう。
少し先。
本を手に取っている春樹。
その隣に、美優。
なつきは固まった。
今日はいないと思っていた。
完全に油断していた。
私服の春樹。
休日の春樹。
そして隣には美優。
自然に話している。
美優が少し笑う。
春樹が短く返す。
その距離感は、やっぱり自然だった。
なつきの胸が少しだけ痛む。
でも。
同時に。
また会えた。
そう思ってしまう自分もいた。
「なつき」
亜衣が小声で言う。
「運命じゃん」
「言わないで」
茜は静かに状況を見ていた。
「どうする?」
「どうするって……」
逃げたい。
でも話したい。
見つかりたい。
でも見つかりたくない。
そんな矛盾した気持ちで固まっていると。
春樹がふと顔を上げた。
目が合った。
一瞬。
本当に一瞬。
でも確かに。
「横田さん」
春樹が言った。
美優も振り向く。
「あれ?」
なつきは動けなかった。
亜衣が隣でにやりと笑う。
茜がそっと背中を押す。
なつきは一歩前へ出た。
「こ、こんにちは」
声が少し震えた。
春樹はいつも通り頷く。
「こんにちは」
美優も笑った。
「偶然だね」
休日の本屋。
女子会の途中。
水着売り場で少しだけ自信をもらった後。
なつきは、思いがけず春樹と美優に出会った。
胸の奥が、また忙しくなる。
楽しい一日が。
ほんの少しだけ。
別の色へ変わろうとしていた――。




