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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第48話 本棚の向こう側


 六月も終わりに近づいていた。


 昼間は蒸し暑い。


 けれど放課後になると、どこか柔らかい風が吹く。


 梅雨の合間の晴れの日だった。


 最後の授業が終わる。


 教室には帰り支度をする音が広がった。


 椅子を引く音。


 鞄のチャック。


 誰かの笑い声。


 誰かのため息。


 いつもの放課後。


「なつき」


 茜が振り返る。


「今日どうする?」


「んー……」


 なつきは少し考えた。


 本当は決まっていた。


 ただ、言うのが少し恥ずかしかっただけだ。


「図書室」


「やっぱり」


 茜が笑う。


「やっぱりって」


「クッキー事件のあとだもの」


「その名前やめて」


 前の席の亜衣が反応した。


「クッキー事件!」


「ほら!」


「だって事件だったじゃん」


「事件だったわね」


 茜まで頷いた。


 なつきは机に突っ伏したくなった。


 あの日から数日経った。


 春樹は普通だった。


 いつも通り。


 何も変わらない。


 でも。


 なつきの方は違った。


 あの言葉が残っている。


 ――また作ったら食べたい。


 何気なく言っただけ。


 たぶん春樹にとっては。


 でも。


 なつきにとっては違う。


 思い出すたびに胸が熱くなる。


「図書室行くなら付き合う?」


 亜衣が聞いた。


「今日は一人で行こうかな」


 なつきは答える。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 一人で行ってみたかった。


 前よりも。


 少しだけ勇気が出た気がしていたから。


「お」


 亜衣が目を丸くする。


「成長」


「うるさい」


「頑張れー」


「頑張ることじゃないから」


 茜は優しく笑った。


「いってらっしゃい」


「うん」


 なつきは鞄を持った。


 放課後の廊下を歩く。


 窓の外では運動部が準備を始めている。


 吹奏楽部の音も聞こえる。


 階段を降りる。


 別館へ向かう。


 図書室は静かな場所だ。


 でも。


 今日は少しだけ心臓がうるさい。


 春樹がいるかもしれない。


 いないかもしれない。


 それだけで落ち着かなかった。


 図書室の扉を開く。


 冷房の涼しい空気が流れてきた。


 紙の匂い。


 本の匂い。


 静かな空気。


 なつきは少しだけ肩の力を抜く。


 好きな場所だ。


 そして。


 受付の向こう。


 本棚の間。


 見慣れた後ろ姿があった。


 春樹だった。


「……いた」


 思わず声が漏れる。


 春樹は気づかない。


 本棚の前に立ち、一冊ずつ背表紙を見ている。


 委員会の日ではない。


 今日は普通の利用者だ。


 それなのに。


 何だか図書室にいる春樹は、一番春樹らしく見える。


 なつきは少し離れた場所からその姿を見つめた。


 静かだ。


 落ち着いている。


 本を探しているだけ。


 それだけなのに目が離せない。


 その時だった。


「あ」


 上の棚。


 少し高い位置。


 読みたい本がある。


 でも届かない。


 なつきは背伸びする。


 あと少し。


 届きそうで届かない。


「んー……」


 もう少し。


 そう思った時。


 横から手が伸びた。


 すっと。


 本が抜き取られる。


「これですか?」


 なつきは振り向いた。


 そこにいたのは。


 白石祐衣だった。


「えっ」


「違いました?」


 祐衣が少し首を傾げる。


 肩まで伸びた髪。


 優しい雰囲気。


 球技大会の日と同じ。


 けれど制服姿で見るのは初めてだった。


「あ、合ってます」


「よかった」


 祐衣は本を渡した。


「ありがとうございます」


「いえ」


 柔らかく笑う。


 その笑顔に、なつきは少しだけ驚いた。


 もっと近寄りがたい人かと思っていた。


 でも違う。


 話しやすそうだった。


「横田さんでしたよね?」


 祐衣が言う。


「覚えてたんですか?」


「はい」


 祐衣は頷いた。


「球技大会の日に会いましたし」


 なつきは少し嬉しくなる。


 覚えていてくれた。


 それだけで距離が縮まった気がした。


「白石さんも図書室よく来るんですか?」


「結構来ます」


「本好きなんですね」


「好きです」


 祐衣は笑った。


「料理本も、小説も」


「あ、料理」


 なつきは反応する。


 祐衣が少し目を丸くした。


「知ってたんですか?」


「美優さんから少し」


「ああ」


 祐衣は納得したように頷く。


「料理研究部なので」


「すごいですね」


「そんなことないですよ」


 その返し方も自然だった。


 嫌味がない。


 自慢もしない。


 だから話しやすい。


「横田さんは?」


「私?」


「どんな本読むんですか?」


 なつきは少し考える。


「恋愛小説とか……」


「やっぱり」


 祐衣が笑った。


「何でですか?」


「何となく」


「そんな分かりやすいですか?」


「少し」


 なつきは少しだけ恥ずかしくなった。


 二人は本棚の前で自然に会話を続ける。


 不思議だった。


 初めてちゃんと話すのに。


 思ったより緊張しない。


 その時。


「白石さん」


 声が聞こえた。


 なつきの心臓が跳ねる。


 春樹だった。


 祐衣が振り向く。


「大國くん」


 自然だった。


 本当に自然だった。


 名前を呼ぶことも。


 返すことも。


 なつきは少しだけ胸がざわつく。


 春樹は本を一冊持っていた。


「この前借りたやつ」


「読みました」


「どうだった?」


「面白かったです」


 祐衣が笑う。


「特に後半」


「分かる」


 春樹も頷いた。


 二人は同じ本の話をしていた。


 なつきはその様子を見つめる。


 楽しそうだった。


 自然だった。


 そして。


 少しだけ羨ましかった。


 春樹は本の話になると饒舌になる。


 なつきも知っている。


 でも。


 自分はまだその会話に入れない。


 少し寂しい。


 少し悔しい。


 でも。


 そこで終わらなかった。


 祐衣がふと、なつきを見る。


「横田さんはどう思います?」


「え?」


「この作者」


 話を振られた。


 なつきは驚く。


 祐衣は春樹と話しているだけではない。


 ちゃんとなつきも会話に入れてくれる。


「私は……」


 なつきは本を抱えながら考える。


「登場人物の会話が好きかな」


「分かります」


 祐衣が頷く。


 春樹も少しだけ笑った。


「確かに」


 三人で話す。


 静かな図書室。


 大きな声は出せない。


 だからこそ。


 言葉一つ一つが近く感じた。


 なつきは思う。


 祐衣は良い人だ。


 本当に。


 優しい。


 話しやすい。


 だから余計に。


 強いなと思った。


 春樹と自然に話せる。


 同じ本を読んでいる。


 共通の話題がある。


 自分にはまだないものを持っている。


 でも。


 嫌いにはなれない。


 むしろ。


 仲良くなりたいと思ってしまう。


 それが少し困った。


 やがて閉館時間が近づく。


 返却を済ませる。


 本を借りる。


 そして三人で図書室を出た。


 夕方だった。


 廊下は少し赤い。


 窓から差し込む光が長い影を作る。


 校門まで歩く。


 自然に。


 春樹が真ん中。


 なつきが左。


 祐衣が右。


 そんな並びになった。


 会話は本の話が中心だった。


 なつきは時々しか入れない。


 でも。


 聞いているだけでも楽しかった。


 そして少し悔しかった。


 校門が見えてくる。


 その時。


「春樹ー!」


 元気な声が響いた。


 美優だった。


 その隣には蓮。


 いつもの二人。


「終わったか?」


 蓮が聞く。


「終わった」


 春樹が答える。


 祐衣が笑う。


「美優」


「祐衣」


 名前呼び。


 いつもの二人。


 なつきは少しだけ眩しく感じた。


 自然な関係。


 長い時間を共有してきた人達。


 そこへ春樹もいる。


 蓮もいる。


 祐衣もいる。


 四人で話し始める。


 楽しそうだった。


 なつきは少しだけ後ろへ下がる。


 自分は駅を使わない。


 ここで別れる。


 それだけ。


 それだけなのに。


 胸の奥が少しだけ痛かった。


 四人は駅へ向かう。


 並んで歩く。


 自然に。


 当たり前のように。


 なつきは立ち止まる。


 夕方の風が吹いた。


 少しだけ切ない。


 自分はまだ。


 あの輪の中にはいない。


 春樹の隣。


 それはまだ遠い。


 その時だった。


 春樹が振り返った。


「横田さん」


「え?」


「また明日」


 一瞬だった。


 本当に一瞬。


 でも。


 なつきの胸を満たすには十分だった。


「うん」


 なつきは笑う。


「また明日」


 春樹も小さく頷いた。


 そして四人は駅へ向かう。


 夕焼けの中を。


 楽しそうに。


 自然に。


 なつきはその背中を見送った。


 少しだけ切ない。


 少しだけ寂しい。


 でも。


 それだけじゃない。


 今日。


 祐衣と話せた。


 春樹とも話せた。


 三人で本の話をした。


 また明日と言えた。


 だから。


 きっと悪い日じゃない。


 なつきは本を抱え直す。


 夕焼けが少し赤い。


 君の隣は、まだ遠い。


 それでも。


 今日もまた。


 ほんの少しだけ近づけた気がした。

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