第47話 甘い匂いと、逃げられない一歩
球技大会の熱が、少しずつ日常へ溶けていく。
月曜日の教室は、まだ少しだけ浮ついていた。
黒板の端には、誰かが消し忘れた小さな文字が残っている。
男子フットサル優勝。
女子バスケ初戦突破。
球技大会お疲れ!
もう半分以上消えていたけれど、その名残だけで、なつきは少し笑ってしまう。
あの日の歓声。
グラウンドの砂埃。
教室で撮った写真。
日曜日の芝生。
春樹と同じシートの上に座ったこと。
風でめくれたビニールシートを押さえようとして、指先が触れたこと。
思い出すだけで、なつきの胸はまだ落ち着かない。
指先はもう何も覚えていないはずなのに。
なつきの心だけは、しっかり覚えている。
「なつき」
隣の茜が声をかけた。
「はい」
「朝から顔がゆるい」
「えっ」
「かなり」
「そんなに?」
「ええ」
なつきは慌てて頬を押さえた。
前の席の亜衣がくるりと振り返る。
「また日曜日のこと思い出してた?」
「思い出してない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「指先?」
「亜衣ちゃん!」
声が少し大きくなり、近くの女子が笑った。
なつきは慌てて机に顔を近づける。
「やめてよ……」
「だって分かりやすいんだもん」
亜衣は楽しそうだった。
茜が小さくため息を吐く。
「亜衣、ほどほどに」
「はーい」
全然反省していない返事だった。
教室の反対側では、三浦が朝から元気に騒いでいる。
田辺と島中に何か話しているらしい。
島中はまだ足を気にしているものの、表情は以前よりずっと柔らかい。
球技大会の後から、少しだけ空気が変わった。
島中は春樹にむやみに絡むことが減った。
それでも時々、「大國」と声をかける。
春樹はいつも通り短く返す。
その距離感が、前より自然になっていた。
春樹は窓際の席で本を読んでいる。
いつもと変わらない。
変わらないのに、なつきの中では少しだけ違って見える。
球技大会で走っていた春樹。
ゴールを決めていた春樹。
教室の写真で隣に近かった春樹。
日曜日に「楽しかった」と言った春樹。
その全部が重なって、ただ本を読んでいるだけの姿まで特別に見えてしまう。
「横田さん」
不意に名前を呼ばれた。
なつきは慌てて振り向く。
先生だった。
「今日の選択科目、家庭科だったわよね」
「あ、はい」
「移動教室だから、三時間目が終わったら家庭科室ね」
「はい」
先生は教卓へ戻っていく。
亜衣がにやりと笑った。
「来たね、家庭科」
「来たね」
茜もノートを閉じながら言う。
「今日は調理実習だったはず」
「何作るんだっけ?」
なつきが聞くと、亜衣は胸を張った。
「クッキー!」
「亜衣ちゃん、大丈夫?」
「何その心配」
「この前、クッキー作ると岩になるって言ってたから」
「言ったけど!」
茜が静かに言う。
「今日は先生の指示通りにすれば大丈夫でしょう」
「茜、信じてくれるの?」
「先生の指示を信じているの」
「私じゃない!」
亜衣の叫びに、なつきは笑った。
クッキー。
その言葉で、少し胸が揺れる。
白石祐衣。
料理研究部。
お菓子作りが上手。
球技大会の日、美優が言っていた。
祐衣はクッキーを作る。
なつきはそのことを思い出して、少しだけ指先を握った。
自分は料理研究部ではない。
お菓子作りも得意というほどではない。
たまに家で手伝うくらい。
でも。
もし今日、上手くできたら。
春樹くんに――。
そこまで考えて、なつきは頭を振った。
無理。
絶対無理。
作ったものを渡すなんて、そんなことできるわけがない。
目が合うだけで大変なのに。
話しかけるだけでもまだ緊張するのに。
手作りのクッキーを渡すなんて。
無理。
無理。
無理。
「なつき」
茜が見る。
「また顔が忙しい」
「何でもない」
「何でもありそう」
亜衣がにやにやする。
「まさか大國くんに作ってあげたいとか?」
「言わないで!」
答えになっていた。
亜衣は口元を押さえる。
「はい、確定」
「亜衣ちゃん!」
茜は少しだけ笑った。
「作るだけ作ってみれば?」
「渡せないよ」
「今はね」
「今は?」
「いつか渡せるかもしれない」
なつきは言葉に詰まった。
いつか。
それは、今のなつきには遠い言葉だった。
でも。
少しだけ。
そうなれたらいいなと思ってしまった。
三時間目が終わると、選択科目の生徒たちはそれぞれ移動を始めた。
家庭科を選択しているのは、商業科の女子が多い。
男子も数人いるが、春樹はいない。
春樹は別の選択科目だ。
それを知っていても、家庭科室へ向かう途中で、なつきは少しだけ残念に思った。
一緒だったら、それはそれで緊張して何もできなかっただろうけど。
それでも、少しだけ。
家庭科室に入ると、甘い匂いはまだしなかった。
代わりに、洗剤とステンレス台の匂い。
調理台。
ボウル。
ふるい。
小麦粉。
砂糖。
バター。
卵。
材料が班ごとに並べられている。
なつき、茜、亜衣は同じ班だった。
他にも数人の女子が同じ台につく。
先生が前に立ち、今日の流れを説明する。
「今日は基本の型抜きクッキーを作ります。難しいことはしませんが、分量を間違えると食感が変わるので、きちんと量ってくださいね」
亜衣が小声で言う。
「分量」
茜が即座に見る。
「亜衣は量らなくていい。私が見る」
「信用ない」
「過去の発言が原因よ」
「岩クッキーのこと?」
「それ」
なつきは笑いながら、エプロンをつけた。
髪を軽くまとめる。
手を洗う。
水の冷たさで、少し気持ちが引き締まった。
作る。
ただ作るだけ。
春樹に渡すとか、そういうことは今は考えない。
そう思おうとする。
でも、完全には消えなかった。
「なつき、砂糖量って」
「うん」
茜に言われ、なつきはスケールの上にボウルを置く。
砂糖を少しずつ入れていく。
慎重に。
多すぎないように。
少なすぎないように。
「なつき、真剣」
亜衣が言う。
「そりゃ真剣にやるよ」
「誰かに食べてもらうかもしれないもんね」
「亜衣ちゃん」
「まだ名前言ってない」
「言わなくても分かるから」
同じ班の女子が笑った。
「横田さん、誰にあげるの?」
「誰にも!」
即答。
でも声が上ずった。
また笑われる。
なつきは顔を赤くしたまま砂糖を量り続けた。
バターを練る。
砂糖を加える。
卵を少しずつ入れる。
小麦粉をふるう。
生地をまとめる。
ひとつひとつの工程は難しくないはずなのに、なつきには緊張感があった。
失敗したくない。
ちゃんと作りたい。
もし誰かに食べてもらうなら。
もし。
もし春樹が食べることになったら。
そう考えた瞬間、手元が少し乱れる。
「なつき」
茜が言う。
「力入りすぎ」
「ごめん」
「クッキーは敵じゃない」
「うん」
亜衣が笑う。
「ボールと友達になった次はクッキーと友達だね」
「何でも友達にしないで」
「大事だよ、友情」
「クッキーとの友情って何?」
「焼き上がりで分かる」
「分かるんだ」
会話をしながら、生地が少しずつまとまっていく。
型抜きの時間になると、亜衣が急に元気になった。
「型かわいい!」
星。
ハート。
丸。
花。
いくつかの型が用意されている。
亜衣は迷わず星を手に取った。
「私は星!」
「亜衣ちゃんっぽい」
なつきが言う。
「なつきは?」
「普通に丸かな」
「えー」
「えーって何」
「ハートでしょ」
「無理!」
「何で?」
「何でって……」
春樹の顔が浮かんでしまう。
ハート型。
そんなものを作ったら、絶対に意識してしまう。
もし誰かに見られたら。
もし亜衣にからかわれたら。
もし春樹に渡すことになったら。
無理。
「無理」
なつきはもう一度言った。
茜が静かに丸型を差し出す。
「なつきは丸から始めなさい」
「ありがとう、茜ちゃん」
「でも一枚くらいならハートでもいいと思う」
「茜ちゃんまで!」
茜は涼しい顔をしている。
結局、なつきは丸型を中心に抜いた。
でも。
最後に一枚だけ、小さなハート型を抜いた。
誰にも気づかれないように。
いや、気づかれないはずだった。
「見た」
亜衣が言った。
「見ないで!」
「小さいハート」
「違う」
「型が?」
「そう」
「じゃあ誰に?」
「自分用!」
「ふーん」
亜衣はにやにやしている。
茜も見ていた。
何も言わない。
それが逆に恥ずかしい。
クッキーをオーブンに入れると、家庭科室に少しずつ甘い匂いが広がり始めた。
バターと砂糖の匂い。
焼ける小麦粉の香ばしさ。
女子たちの声が少し弾む。
「いい匂い」
「お腹空いてきた」
「ちゃんと焼けるかな」
「焦げないで」
なつきもオーブンの中を覗く。
少しずつ色づくクッキー。
その中に、小さなハート型が一枚ある。
自分で作ったのに、見るだけで恥ずかしい。
焼き上がりを待つ間、先生が持ち帰り用の袋を配った。
「余った分は持ち帰っていいですよ。家族に食べてもらってもいいし、友達にあげても構いません。ただし、今日中に食べること」
友達にあげてもいい。
その言葉が、なつきの胸に刺さった。
亜衣が横から肘でつつく。
「聞いた?」
「聞いてない」
「聞いてた」
「聞いてない」
「友達にあげてもいいって」
「そうだね」
「大國くんも友達だよね」
「友達……」
なつきは言葉に詰まる。
友達。
春樹はクラスメイト。
最近少し話せるようになった。
教えてもらった。
褒めてもらった。
同じシートの上に座った。
でも、友達と言っていいのか分からない。
その距離が、まだ曖昧だった。
「なつき」
茜が言う。
「無理に渡さなくていいわ」
「うん」
「でも、食べてもらいたいと思うなら、それは悪いことじゃない」
なつきは小さく頷いた。
「うん」
焼き上がりの音が鳴った。
オーブンを開けると、甘い匂いが一気に広がる。
「わぁ」
亜衣が声を上げた。
「ちゃんとクッキー!」
「岩ではないわね」
茜が言う。
「やった!」
クッキーは少し形が不揃いだった。
でも、きつね色で、優しい匂いがする。
なつきの丸型クッキーも、綺麗に焼けていた。
小さなハート型も。
ちゃんと。
冷ましてから、一枚ずつ袋に入れる。
みんなで味見をした。
亜衣がなつきのクッキーを食べる。
「美味しい!」
「ほんと?」
「うん。普通に美味しい」
「普通に?」
「褒めてる」
茜も一枚食べる。
「甘さもちょうどいいわ」
「よかった」
「なつき、丁寧だったもの」
その言葉が嬉しかった。
料理研究部みたいに上手ではないかもしれない。
でも、自分なりに丁寧に作れた。
それだけで少し胸が温かい。
問題は。
この後だった。
昼休み。
教室へ戻ると、クッキーの甘い匂いがほんの少しだけ鞄の中から漂っていた。
なつきは袋を机の中へ入れる。
誰にも見えないように。
でも、亜衣は見逃さなかった。
「ねぇ」
「何?」
「一個ちょうだい」
「いいよ」
なつきは普通に袋から一枚出した。
亜衣は食べる。
「うん、美味しい」
「さっきも食べたじゃん」
「何度食べても美味しい」
「ありがとう」
そこで終わればよかった。
終われば。
亜衣はもう一枚、袋からクッキーを取った。
「亜衣ちゃん?」
「うん?」
「それも食べるの?」
「食べない」
「じゃあ何で持ってるの?」
亜衣はにやっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、なつきは嫌な予感がした。
「待って」
「待たない」
「亜衣ちゃん」
「なつき」
「何」
「恋は時に勢い」
「待って!」
亜衣は立ち上がった。
なつきも慌てて立ち上がろうとする。
しかし茜が腕をそっと押さえた。
「茜ちゃん!?」
「見届けましょう」
「裏切り!」
「援護よ」
「どこが!?」
亜衣はすでに春樹の席へ向かっていた。
春樹は本を読んでいた。
いつものように。
静かに。
何も知らずに。
亜衣が机の前に立つ。
「大國くん」
春樹が顔を上げる。
「うん」
「これ」
亜衣はクッキーを差し出した。
なつきは心臓が止まるかと思った。
「亜衣ちゃん!」
声が出た。
教室の何人かが振り返る。
三浦も反応する。
「何だ何だ?」
亜衣は笑顔のまま言った。
「なつき作」
終わった。
なつきは本気でそう思った。
教室の空気が少しだけ動く。
春樹はクッキーを見る。
それからなつきを見る。
なつきは真っ赤になって固まっていた。
「横田さんが?」
春樹が聞く。
亜衣が頷く。
「家庭科で作ったの。美味しいよ」
「そう」
春樹は受け取った。
受け取った。
受け取ってしまった。
なつきの頭の中は真っ白だった。
春樹は少しだけクッキーを見る。
そして。
普通に食べた。
なつきは息を止める。
教室の音が遠くなる。
春樹が噛む。
一口。
二口。
飲み込む。
短い沈黙。
その数秒が、とてつもなく長かった。
春樹は顔を上げた。
「美味しい」
その一言で。
なつきの中の何かが弾けた。
「……ありがとう」
かろうじて声が出た。
春樹は続ける。
「甘さ、ちょうどいい」
追撃だった。
なつきはもう限界だった。
「ありがとう……」
小さく言って、顔を伏せる。
亜衣は満足そうに戻ってきた。
「感想もらえたね」
「もうやだ」
「何で?」
「無理」
「美味しいって」
「聞こえた」
「よかったじゃん」
「よかったけど!」
「じゃあ次は自分で渡そう」
「無理!」
即答。
亜衣は笑った。
「今はね」
その言い方が、茜に似ていた。
なつきは机に突っ伏す。
心臓がうるさい。
顔が熱い。
恥ずかしい。
でも。
嬉しい。
春樹が食べてくれた。
美味しいと言ってくれた。
甘さがちょうどいいとまで言ってくれた。
それだけで、今日一日が全部特別になってしまう。
「横田」
三浦が遠くから言う。
「俺にもないの?」
「三浦くんは黙ってて」
亜衣が即座に止める。
「なんで!?」
「今は空気読んで」
「読んでるつもり!」
「読めてない」
田辺が笑う。
島中も少しだけ笑っていた。
島中は何も言わなかった。
少し前なら、何か茶化していたかもしれない。
でも今は黙っている。
それがなつきには少しありがたかった。
昼休みが終わる前。
春樹がなつきの机の近くへ来た。
なつきはまた固まる。
「横田さん」
「はい」
「クッキー」
「はい」
「ありがとう」
春樹はそう言った。
なつきは目を瞬かせる。
亜衣が渡した。
でも。
春樹はなつきに礼を言いに来てくれた。
「う、うん」
「美味しかった」
「ありがとう」
「また作ったら」
春樹は少しだけ考える。
「食べたい」
時間が止まった。
なつきは本当に呼吸を忘れた。
春樹は何でもないことのように言う。
でも、なつきにとっては大事件だった。
「……うん」
声が震えた。
「作れたら」
「うん」
春樹は頷いて、自分の席へ戻っていった。
なつきはしばらく動けなかった。
亜衣が隣で小さく拍手する。
「おめでとう」
茜も微笑む。
「一歩前進ね」
なつきは顔を両手で覆った。
「もう無理……」
「でも嬉しいでしょ」
亜衣が言う。
なつきは小さく頷いた。
「……嬉しい」
その声は小さかった。
でも、ちゃんと本音だった。
放課後。
なつきは鞄の中に残ったクッキーを見つめた。
小さなハート型の一枚。
結局、それは渡せなかった。
渡せるわけがなかった。
でも。
今日は一枚、春樹に食べてもらえた。
しかも、美味しいと言ってもらえた。
また食べたいと言ってもらえた。
それだけで十分だった。
いや。
十分すぎた。
教室の窓から夕方の光が差し込む。
春樹は鞄を持って立ち上がっている。
なつきは小さく息を吸った。
君の隣は、まだ遠い。
でも今日は。
自分で渡せなかったとしても。
亜衣に背中を押されて。
ほんの少しだけ。
春樹の方へ進めた。
机の中から甘い匂いがする。
それは、今日のなつきにとって。
勇気の匂いみたいだった。




