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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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第5話 図書室の向こう側



 放課後のチャイムは、いつも少しだけ特別な音に聞こえる。


 授業の終わりを告げる音。


 部活へ向かう生徒たちを動かす音。


 友達との寄り道を始める音。


 そして、横田なつきにとっては、胸の奥にしまっていた勇気を取り出す合図でもあった。


 私立梅桜高等学校、二年十一組。


 商業科唯一のクラスであるこの教室は、チャイムが鳴った瞬間から一気にざわつき始める。


 机を引く音。


 椅子が床をこする音。


 鞄のチャックを閉める音。


 部活の集合時間を確認する声。


 スマホを見ながら駅前へ行く約束をする女子たちの声。


 島中良を中心にした男子グループの笑い声。


 田辺守が「今日の筋トレメニュー終わってる」と嘆く声。


 そんな音が混ざり合って、教室を満たしていく。


 その中で、なつきは机の上に置いたノートを見つめたまま、しばらく動けずにいた。


 今日は行く。


 そう決めていた。


 図書室へ。


 大國春樹がいる場所へ。


 一年生の頃から、何度も行った。


 けれど、去年のなつきは、いつも廊下から覗くだけだった。


 本棚の陰から見るだけだった。


 図書室に入っても、春樹がいる席からは遠い本棚へ逃げて、何も借りずに帰った日もある。


 声をかけるなんて、できなかった。


 でも、今は少し違う。


 簿記を教えてもらった。


 「また聞いてもいい?」と聞けた。


 春樹は「分かるところなら」と言ってくれた。


 その言葉が、なつきの中で小さなお守りみたいになっていた。


 だから、今日は行く。


 図書室へ。


 春樹が図書委員としてカウンターにいる日だと、伊藤亜衣が昼休みに言っていた。


 それを聞いた瞬間、なつきの胸は大きく跳ねた。


 図書委員の担当日。


 カウンター。


 本を借りに行けば、話せる。


 話しかける理由がある。


 こんなに自然な理由はない。


 それなのに、いざ放課後になると、身体が椅子に貼りついたみたいに動かなかった。


「なつき」


 横から声がした。


 遠山茜だった。


 すでに鞄を持ち、なつきの机の横に立っている。


「行くんでしょ」


「……うん」


「返事だけはいいわね」


「行くよ」


「本当に?」


「行く……と思う」


「そこは言い切りなさい」


 茜は軽くため息をついた。


 けれど、責めているわけではなかった。


 なつきが怖がっていることを、茜は分かっている。


 分かったうえで、逃げ道を塞いでくる。


 それがありがたい時もあれば、少しだけ恨めしい時もある。


 今日のなつきには、どちらもあった。


「図書室に行くだけ」


 茜が言った。


「うん」


「本を借りるだけ」


「うん」


「大國くんがいたら、話すだけ」


「……うん」


「それだけ」


「それだけが、すごく大きいんだよ」


 なつきが小さく言うと、茜は少しだけ表情を緩めた。


「知ってる」


「知ってるなら優しくして」


「優しくしてる」


「してる?」


「一緒に行くって言ってるでしょ」


「……それは、かなり優しい」


「でしょう」


 茜は少しだけ得意げに言った。


 なつきは小さく笑った。


 その笑いで、固まっていた胸が少しほぐれる。


 鞄を持つ。


 ノートをしまう。


 筆箱を入れる。


 リボンが曲がっていないか、無意識に触る。


 髪がはねていないか、指で整える。


 茜がそれを見ていた。


「髪、変じゃないわよ」


「えっ」


「リボンも曲がってない」


「まだ何も聞いてないよ」


「聞く前に全部顔に出てた」


「そんなに?」


「かなり」


 なつきは頬を押さえた。


 最近、何度このやり取りをしているのだろう。


 自分の気持ちは、思っているよりずっと顔に出るらしい。


 春樹には出ていないといい。


 出ていたら、恥ずかしすぎる。


 なつきは少しだけ深呼吸した。


 そのとき、前方から田辺守の声が飛んできた。


「なつき、帰んの?」


 なつきの身体がぴくっと反応した。


 守はジャージの上着を肩にかけ、鞄を片手に持っていた。


 これから部活へ向かうらしい。


 額にはすでに少し汗がにじんでいる。


「えっと、今日はまだ帰らない」


「何かあんの?」


「ちょっと、図書室」


「また図書室?」


 守は本気で不思議そうな顔をした。


 なつきは少しだけ身構える。


 昨日も、一昨日も、守は無自覚に邪魔をしてきた。


 今日もまた「俺も行く」と言い出したらどうしよう。


 そう思っていたら、守は首を傾げたまま言った。


「最近、図書室好きだな。なんかあんの?」


「本を……借りようかなって」


「なつきが?」


「田辺、私を何だと思ってるの」


「本より昼寝が好きなやつ」


「ひどい」


「違う?」


「……違わないけど」


「ほら」


 守は笑った。


 なつきは少しだけ唇を尖らせる。


 その横で、茜が静かに守を見た。


「田辺くん、部活は?」


「あ、やべ。行かないと先輩に怒られる」


「なら早く行きなさい」


「遠山、なんでちょっと追い払う感じなんだよ」


「気のせい」


「絶対気のせいじゃないだろ」


 守は不満そうにしながらも、部活バッグを持ち直した。


 そして、なつきに向かって軽く手を振る。


「じゃあな、なつき。図書室で寝んなよ」


「寝ないよ」


「本に顔突っ込んで寝てそう」


「しないってば」


「遠山、見張っといて」


「言われなくても」


「やっぱ見張る必要あるんだな」


「田辺!」


 なつきが声を上げると、守は笑いながら教室を出ていった。


 なつきは肩から力を抜く。


 今日は、邪魔されなかった。


 それだけで少しほっとする。


「今のうちに行くわよ」


 茜が言った。


「うん」


 なつきは頷いた。


 教室を出る。


 廊下は放課後の生徒でいっぱいだった。


 スポーツ・商業棟は、部活へ向かう生徒たちが多い。


 サッカー部、野球部、バスケ部、レスリング部。


 ジャージ姿の男子たちが、階段を駆け下りていく。


 女子たちは部活館へ向かう子、駅へ向かう子、教室で残って話す子に分かれていた。


 なつきと茜は、その流れとは少し違う方向へ歩く。


 特進棟へ向かう渡り廊下。


 この道を通るたびに、なつきは少しだけ緊張する。


 スポーツ・商業棟から特進棟へ。


 同じ学校なのに、校舎を移るだけで空気が変わる。


 スポーツ・商業棟は声が大きい。


 足音も速い。


 教室の外まで笑い声が広がっている。


 けれど、特進棟へ近づくと、その音が少しずつ薄くなる。


 廊下に貼られている掲示物も違う。


 模試の日程。


 大学説明会。


 自習室利用時間。


 英検対策講座。


 なつきには少しだけ遠い世界だった。


 その遠い世界に、春樹は自然に出入りしている。


 図書室があるから。


 特進の友達がいるから。


 水戸線で一緒に通う人たちがいるから。


 なつきの知らない春樹の時間が、この校舎にはある。


 そう思うと、胸が少しざわついた。


「歩くの遅くなってる」


 茜が言った。


「緊張してる」


「知ってる」


「知ってるなら少し待って」


「待ったら帰りたくなるでしょ」


「……なるかも」


「だから待たない」


 茜は迷いなく歩く。


 なつきは慌ててついていく。


 三階へ上がる階段。


 西棟の奥。


 図書室。


 その扉が見えた瞬間、なつきの足がまた遅くなった。


 扉の向こうからは、静かな空気が漏れている気がした。


 放課後の図書室。


 一年前、初めて春樹を見つけた場所。


 何度も来た。


 何度も覗いた。


 でも、今日ほど心臓がうるさい日はなかった。


「なつき」


 茜が扉の前で振り返る。


「はい」


「大丈夫」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってる」


「私の顔、忙しいね」


「かなり」


 茜は少しだけ笑った。


「入るわよ」


「うん」


 扉が開く。


 図書室の空気が、なつきの頬に触れた。


 紙の匂い。


 木の棚の匂い。


 外より少しだけ冷えた空気。


 窓から入る夕方の光。


 カウンターの近くには、数人の生徒がいた。


 奥の机では、特進科らしい生徒が参考書を開いている。


 本棚の間を、静かに歩く生徒もいる。


 そして。


 カウンターに、大國春樹がいた。


 図書委員の腕章をつけている。


 机の上には貸出用のバーコードリーダーと、返却された本の山。


 春樹は返却された本の表紙を確認し、分類番号を見て、隣の伊藤亜衣へ渡していた。


 亜衣は椅子に座りながら、その本を別の台車へ乗せている。


 体勢は少し崩れているが、仕事はちゃんとしているようだった。


「大國、これって文学?」


「分類番号が九から始まるから」


「数字で見んの?」


「棚にも書いてある」


「へぇ。図書室って意外とシステムあるんだね」


「ある」


「なんか本を適当に並べてるだけかと思ってた」


「それだと探せない」


「たしかに。あたしなら三日で迷子にするわ」


「三日も持つ?」


「大國、たまに失礼じゃない?」


「事実確認」


「やっぱ失礼じゃん」


 亜衣が笑う。


 春樹は淡々としている。


 でも、会話は成立していた。


 なつきは入口近くで立ち止まった。


 その光景が、思った以上に胸に刺さった。


 春樹が図書委員をしている。


 それは予想していた。


 亜衣が一緒にいる。


 それも分かっていた。


 でも、実際に見ると、想像よりずっと自然だった。


 亜衣は春樹に遠慮しない。


 春樹も亜衣を邪険にしていない。


 短く返しながらも、ちゃんと聞いている。


 それが羨ましかった。


 なつきは一年間、図書室の春樹を遠くから見ていた。


 でも、カウンターの内側にいる春樹に、こんなふうに話しかけることはできなかった。


 亜衣はそれを、何でもないことのようにやっている。


「入らないの?」


 茜が小声で言った。


「入ってるよ」


「扉の近くに立ってるだけ」


「今、心の準備を」


「図書室に入ってからすることじゃない」


「ごもっともです」


 なつきは小さく頷き、ようやく一歩進んだ。


 靴音をできるだけ小さくする。


 図書室では、いつも自然と歩き方が静かになる。


 カウンターに近づく。


 心臓が速い。


 春樹が顔を上げる。


 目が合った。


「横田さん」


 春樹が名前を呼んだ。


 それだけで、なつきの頭の中が一瞬白くなる。


 名前。


 大國くんが、私の名前を。


 同じクラスだから当たり前。


 簿記の時にも呼ばれた。


 でも、やっぱり慣れない。


「あ、えっと……こんにちは」


 言ってから、なつきは少しだけ固まった。


 放課後の図書室で、こんにちは。


 変ではない。


 たぶん。


 でも、少しだけ堅い気がする。


 春樹は気にした様子もなく、静かに返した。


「こんにちは」


 亜衣がすぐにこちらを見る。


「あ、なつきじゃん。茜も」


「こんにちは、亜衣ちゃん」


「どうしたの? 本借りに来た?」


「うん……そのつもり」


「おお、なつきが図書室に。珍しい」


「田辺にも同じこと言われた」


「まあ言われるよね」


「そんなに?」


「なつきって本よりクレープ見てそう」


「それはちょっと合ってるかも」


「合ってるんだ」


 亜衣が笑う。


 なつきも少し笑った。


 亜衣の明るさは不思議だ。


 胸がざわつくこともある。


 でも、話しかけられると少し緊張がほどける。


 悪い子ではない。


 むしろ、自然に場を柔らかくしてくれる。


 だからこそ、羨ましいのかもしれない。


「本、決まってる?」


 春樹が聞いた。


 なつきは思わず春樹を見る。


「えっ?」


「借りる本」


「あ……まだ」


「探す?」


「うん。探す」


「ジャンルは?」


「ジャンル……」


 なつきは固まった。


 本を借りに来た。


 それは決めていた。


 でも、何を借りるかは決めていなかった。


 春樹に話しかける理由を作ることで頭がいっぱいで、肝心の本のことを考えていなかった。


 どうしよう。


 恋愛小説?


 ミステリー?


 エッセイ?


 そもそも図書室にどんな本があるのか分からない。


「なつき」


 茜が横から静かに言う。


「おすすめを聞いてみたら」


 なつきの心臓が跳ねた。


 おすすめ。


 それは、とても自然な質問だ。


 図書委員の春樹に、本のおすすめを聞く。


 何も変じゃない。


 むしろ普通。


 でも、なつきにとっては普通ではない。


 春樹の好きな本に近づくみたいで、少し怖い。


 なつきは手に持っていた鞄の紐を握った。


「あの」


「うん」


「大國くんの……おすすめとか、ある?」


 言えた。


 なつきは自分の声が震えていないか気になった。


 春樹は少しだけ考えるように、カウンターの上の本へ視線を落とした。


 すぐには答えない。


 その沈黙が、なつきには長く感じる。


 迷惑だったかな。


 ざっくりしすぎたかな。


 おすすめなんて、人によって違うし。


 そう思い始めた時、春樹が顔を上げた。


「普段、読む?」


「えっと……あんまり」


「なら短めの方がいい」


「うん」


「難しいのより、読みやすい方」


「うん」


「恋愛ものは?」


 なつきの心臓が跳ねた。


 恋愛。


 その単語を春樹の口から聞いただけで、妙に意識してしまう。


「あ、えっと、たぶん……読めると思う」


「たぶん?」


「読んだことあんまりないから」


「じゃあ、重すぎないやつがいいと思う」


 春樹はそう言って、カウンターの横から出た。


 なつきは反射的に一歩下がる。


 春樹が本棚の方へ歩く。


「こっち」


「あ、うん」


 なつきは慌ててついていこうとした。


 茜は少し離れた場所で見ている。


 亜衣はカウンターに残って、にやにやしていた。


「大國、ちゃんと案内してあげなよー」


「してる」


「なつき、迷子になるかもだし」


「ならないよ!」


「図書室で迷子はないか」


「本棚の間で固まる可能性はある」


 春樹がさらっと言う。


 なつきは驚いて春樹を見た。


「私、そんな感じ?」


「今、入口で固まってたから」


「見てたの?」


「見えた」


 なつきの顔が一気に熱くなった。


 見られていた。


 入口で止まっていたのを。


 恥ずかしい。


 でも、春樹が見てくれていたことが、少しだけ嬉しい。


 その嬉しさがまた恥ずかしい。


「ご、ごめんね。緊張してて」


「図書室で?」


「うん」


「珍しい」


「そうかな」


「静かなだけだから」


「大國くんにとっては、そうかも」


 なつきがそう言うと、春樹は少しだけこちらを見た。


「横田さんには?」


「え?」


「静かなだけじゃない?」


 なつきは言葉に詰まった。


 図書室。


 なつきにとって、ここはただ静かな場所ではない。


 春樹を見つけた場所。


 好きだと気づいた場所。


 一年間、話しかけられずに遠くから見ていた場所。


 でも、それをそのまま言えるはずがない。


「ちょっと……特別かも」


 なつきは小さく答えた。


 春樹はそれ以上聞かなかった。


 ただ、短く言った。


「そう」


 その返事が、少しだけ優しかった。


 本棚の間に入る。


 窓からの光が少し届きにくくなり、空気がより静かになる。


 背表紙が並んでいる。


 作者名。


 タイトル。


 分類番号。


 普段あまり本を読まないなつきには、どれも少し遠い文字のように見えた。


 春樹はその中から、迷いなく一冊を抜いた。


 薄めの単行本だった。


「これは?」


 なつきが聞く。


「短編集。ひとつの話が短い」


「短編集」


「途中で止めやすいし、読みやすいと思う」


「恋愛?」


「少し」


「少し?」


「恋愛だけじゃない。学校の話もある」


「学校の話なら読めそう」


「たぶん」


「大國くんも読んだ?」


「読んだ」


「面白かった?」


「うん」


 春樹の「うん」は短い。


 でも、そこに少しだけ温度がある気がした。


 なつきは本を受け取った。


 春樹が読んだ本。


 春樹がおすすめしてくれた本。


 それだけで、紙の重さが少し特別になる。


「ありがとう」


「他にも見る?」


「えっと……まず、これ借りたい」


「分かった」


 春樹は頷き、カウンターへ戻ろうとした。


 なつきも本を抱えてついていく。


 その途中、ふとカウンターの方が少し賑やかになった。


「春樹ー」


 明るい男子の声がした。


 なつきは顔を上げる。


 カウンターの前に、見慣れない男子生徒が立っていた。


 特進科の制服の着こなし。


 なつきたちと同じ制服なのに、少し雰囲気が違う。


 背は春樹より少し高いくらい。


 表情が明るく、目元に人懐っこさがある。


 隣には、もう一人、特進の男子がいるわけではない。


 一人で来ていた。


 彼はカウンターに肘をつくようにして、亜衣と話していた。


「あ、桐谷じゃん」


 亜衣が言う。


「伊藤、今日担当?」


「そう。大國とペア」


「似合わないな」


「図書委員が?」


「伊藤が」


「失礼じゃない?」


「褒めてる」


「絶対褒めてない」


 亜衣が笑いながら返す。


 なつきは、そのやり取りを見て少し驚いた。


 亜衣はこの男子とも普通に話す。


 面識がある。


 桐谷。


 名前だけは聞いたことがある気がする。


 たしか、春樹の特進の友達。


 中学からの友達。


 水戸線で一緒に通っている男子。


 茜からそんな話を聞いたことがあった。


 彼が、桐谷蓮。


 春樹の男友達。


 春樹と同じ地方から電車で通っている人。


「蓮」


 春樹が短く呼んだ。


 蓮はぱっと顔を向ける。


「お、いたいた。春樹、図書委員とか似合いすぎて逆に面白い」


「何が面白い」


「いや、図書室に住んでる人が正式に図書室の人になった感じ」


「住んでない」


「伊藤にも言われただろ、それ」


「言われた」


「ほら、みんな思ってる」


「みんなではない」


 春樹は淡々と返す。


 蓮は楽しそうに笑った。


 春樹の返事が短くても、まったく気にしていない。


 むしろ、その短さに慣れている。


 なつきは少し離れた場所で、その光景を見ていた。


 春樹が友達と話している。


 当たり前のことなのに、なつきには新鮮だった。


 教室では、春樹は紅秋とよく話す。


 でも、それ以外の友達と話している姿はあまり見たことがなかった。


 蓮は紅秋とは違う。


 明るい。


 距離が近い。


 春樹をからかう。


 でも、嫌な感じはない。


 春樹も、面倒そうにしながら返している。


 それが、二人のいつもの距離なのだと分かる。


 なつきの知らない春樹。


 また一つ、見えてしまった。


「で、何借りに来たの?」


 亜衣が蓮に聞く。


「借りるというか、春樹を回収しに」


「回収?」


「帰り、電車同じだから。今日委員会だって言うから、終わるまで時間潰してた」


「あー、そっか。水戸線組だもんね」


 亜衣の言葉に、なつきの耳がぴくっと反応した。


 水戸線組。


 春樹は水戸線で通っている。


 蓮も同じ。


 そして、亜衣もその言葉を自然に使った。


「伊藤もたまに乗るよな」


 蓮が言った。


「うん。うちは基本チャリだけど、雨の日とか親の都合で駅まで送ってもらう時あるから。その時、水戸線乗ることある」


「この前もいたよな」


「いたいた。大國と同じ車両だった」


 なつきの胸が、少しだけ固まった。


 大國と同じ車両。


 亜衣は何でもないように言った。


 本当に何でもないことなのだろう。


 同じ電車に乗っただけ。


 同じ学校なのだから、そういうこともある。


 でも、なつきは知らなかった。


 春樹の登下校。


 駅までの道。


 電車の中。


 そこで誰と話すのか。


 誰と同じ時間を過ごすのか。


 なつきは知らない。


 地元の自転車通学だから。


 放課後に校門を出れば、自分は水戸市内の道を走って家へ帰る。


 春樹は駅へ向かう。


 なつきの知らない線路の先へ帰っていく。


「委員会の日とかさ」


 亜衣が軽く言った。


「たまに大國と途中まで帰ることあるよね。駅までだけど」


 その一言は、何でもない調子だった。


 なのに、なつきの胸には思った以上に深く刺さった。


 途中まで帰る。


 春樹と。


 駅まで。


 亜衣は、そういうことができる。


 委員会だから。


 同じ図書委員だから。


 同じ電車を使う時があるから。


 自然に。


 なつきは本を抱える手に、少しだけ力を入れた。


 痛いわけではない。


 でも、胸の奥に小さな影が落ちる。


 羨ましい。


 また、その感情だった。


「駅までって、伊藤めっちゃ喋るだろ」


 蓮が笑う。


「喋るよ。大國、聞いてんのか聞いてないのか分かんないけど、たまにちゃんと返すから面白い」


「春樹は聞いてるふりして、だいたい聞いてる」


「それ分かる」


 亜衣が指を鳴らした。


「この前もさ、あたしがママと喧嘩した話してて、大國ずっと『うん』とか『へぇ』しか言わないから絶対聞いてないと思ったの」


「聞いてた?」


 蓮が春樹を見る。


 春樹は少しだけ顔を上げた。


「聞いてた」


「ほら」


 亜衣が笑う。


「しかも最後に『謝るなら早い方が楽』って言われてさ。なんか普通に正論で刺された」


「刺したつもりはない」


「大國の正論って無自覚に刺さるんだよ」


「そう?」


「そう」


 亜衣は楽しそうに言った。


 蓮も笑う。


 春樹は少しだけ困ったように見えた。


 なつきは、その会話を聞きながら、胸がざわつくのを止められなかった。


 亜衣は春樹に愚痴を話す。


 春樹は聞く。


 相槌を打つ。


 ときどき真剣に返す。


 それは、なつきがまだ知らない距離だった。


 簿記を教えてもらえた。


 本をすすめてもらえた。


 それだけで嬉しかったのに。


 春樹には、他の人との時間がたくさんある。


 当たり前だ。


 当たり前なのに、少し苦しい。


「横田さん」


 春樹の声で、なつきは現実に戻った。


「えっ」


「貸出」


「あ、はい」


 なつきは慌ててカウンターへ本を差し出した。


 春樹が本を受け取り、バーコードを読み取る。


 ピッ、という小さな音が鳴った。


 その音だけで、なつきはまた少し緊張する。


「生徒番号」


「あ、えっと」


 なつきは慌てて生徒手帳を出そうとした。


 しかし、手が少しもたつく。


 鞄の中で生徒手帳が見つからない。


 筆箱。


 ノート。


 ハンカチ。


 なぜか飴の包み紙。


 生徒手帳がない。


「なつき、前ポケット」


 茜が横から言った。


「あ、そうだった」


 なつきは前ポケットから生徒手帳を取り出した。


 亜衣が笑う。


「なつき、鞄の中で遭難してた」


「言わないでぇ」


「かわいいから大丈夫」


「大丈夫じゃないよ」


 なつきは顔を赤くしながら、生徒手帳を春樹へ渡した。


 春樹は何も笑わなかった。


 ただ、静かに番号を確認する。


 それが少しだけありがたかった。


 馬鹿にしない。


 からかわない。


 春樹のそういうところが、やっぱり好きだと思ってしまう。


「返却期限は二週間後」


 春樹が言った。


「うん」


「読めなかったら、途中で返してもいい」


「え?」


「無理に最後まで読まなくてもいいと思う」


 なつきは本を受け取りながら、春樹を見た。


「途中で返してもいいの?」


「合わない本もあるから」


「でも、大國くんのおすすめだし」


 言ってしまってから、なつきは固まった。


 大國くんのおすすめだし。


 何だか、すごく特別に聞こえる。


 いや、なつきにとっては特別なのだけれど、春樹にそう伝わってしまうと恥ずかしい。


 春樹は少しだけ瞬きをした。


 それから、静かに言った。


「無理に好きにならなくていい」


 その言葉に、なつきの胸が少しだけ揺れた。


 本の話だ。


 分かっている。


 でも、また別の意味に聞こえてしまう。


 無理に好きにならなくていい。


 自分はもう好きなのに。


 そんなことを思って、なつきは慌てて頭の中から追い出した。


「でも、読んでみたい」


 なつきは本を胸の前で抱えた。


「大國くんが読んだ本なら、読んでみたい」


 今度は、自分で言ってからもっと恥ずかしくなった。


 あ。


 これは言いすぎたかもしれない。


 なつきは一気に顔を赤くする。


 亜衣が「お」と小さく反応した。


 蓮も少しだけ目を丸くする。


 茜は黙っている。


 春樹は、なつきを見ていた。


 ほんの少しだけ沈黙が落ちる。


 図書室の静けさが、急に濃くなったように感じた。


 なつきは逃げ出したくなった。


 でも、本を抱えたまま立っているしかない。


 春樹はやがて、短く言った。


「そっか」


 それだけだった。


 でも、嫌そうではなかった。


 困ってもいないように見えた。


 ただ、少しだけ表情が柔らかくなった気がした。


「読み終わったら、感想聞かせて」


 春樹が続けた。


 なつきは、息を止めた。


 感想。


 読み終わったら。


 また話せる。


 本を返す時。


 春樹に感想を言う。


 次の会話の約束みたいだった。


 なつきは本を抱える手に力を入れた。


「うん」


 声が少し震えた。


「ちゃんと読む」


「ちゃんとじゃなくてもいい」


「でも、読む」


「うん」


 春樹が頷く。


 そのやり取りだけで、なつきの胸はいっぱいになった。


 図書室に来てよかった。


 怖かったけど。


 緊張したけど。


 亜衣の距離に少しだけ胸が痛くなったけど。


 それでも、来てよかった。


「春樹」


 蓮が横から声をかけた。


「そろそろ時間大丈夫?」


 春樹は時計を見る。


「あと五分」


「じゃあ待つ。美優にも連絡しとくわ」


 美優。


 その名前が出た瞬間、なつきは少しだけ反応した。


 篠崎美優。


 春樹の幼馴染。


 特進二組。


 水戸線通学。


 なつきは直接話したことはない。


 でも、何度か見たことがある。


 落ち着いた雰囲気の可愛い女の子。


 春樹と自然に話す人。


 蓮がスマホを取り出し、何かを打つ。


 亜衣が覗き込む。


「美優も一緒?」


「たぶん。今日委員会ないって言ってたし」


「相変わらず水戸線組、仲いいね」


「家近いしな。春樹と美優は幼馴染だし」


「それ強いよね」


 亜衣の何気ない言葉。


 幼馴染。


 強い。


 その言葉が、なつきの胸に静かに落ちた。


 白い石みたいに。


 小さく、重く。


 春樹の幼馴染。


 美優。


 同じ電車。


 同じ帰り道。


 昔から知っている人。


 なつきが知らない春樹の過去を知っている人。


 そして、今も近くにいる人。


 亜衣。


 蓮。


 美優。


 なつきが知らない春樹の周りには、ちゃんと人がいる。


 そのことを、今日の図書室で一気に見せられた気がした。


 嫌いになれる相手ならよかった。


 でも、亜衣は明るくて優しい。


 蓮も感じがいい。


 美優だって、きっと悪い子ではない。


 だから、どうしていいか分からない。


 なつきは本を胸に抱えたまま、少しだけ視線を落とした。


「なつき」


 茜が静かに呼ぶ。


「そろそろ行こうか」


「……うん」


 本当は、もう少しここにいたかった。


 でも、これ以上いると、春樹と蓮と亜衣の会話を聞くたびに胸がざわつきそうだった。


 それに、借りる本も決まった。


 春樹とも話せた。


 感想を聞かせて、と言ってもらえた。


 今日は十分すぎる。


 なつきはそう自分に言い聞かせた。


「大國くん」


 なつきはカウンター越しに春樹を見る。


「本、ありがとう」


「うん」


「読んだら、感想言うね」


「待ってる」


 待ってる。


 その三文字で、なつきの心臓がまた大きく鳴った。


 待ってる。


 春樹が、待ってると言った。


 本の感想を。


 それだけ。


 でも、嬉しかった。


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


 亜衣が手を振る。


「なつき、読めなかったらあたしに言って。大國に別のおすすめ出させるから」


「それは大國くんが大変じゃない?」


「大丈夫大丈夫。大國、図書室の主だから」


「主じゃない」


 春樹が即答する。


 蓮が笑った。


「じゃあ管理人?」


「違う」


「住人?」


「住んでない」


「今日だけで何回否定してんの」


 亜衣が笑う。


 春樹は少しだけ息を吐いた。


 その空気が自然で、なつきはまた少し羨ましくなった。


 けれど、さっきほど胸は痛くなかった。


 自分も、今日は少しだけ話せたから。


 図書室を出ると、廊下の空気は少しだけ暖かかった。


 特進棟の三階。


 西日の色が、廊下の床に細長く伸びている。


 なつきは借りた本を両手で持ったまま、しばらく黙って歩いた。


 茜も隣で何も言わない。


 階段の手前まで来たところで、なつきはようやく息を吐いた。


「……すごかった」


「何が?」


「図書室」


「本が?」


「大國くんの周り」


 なつきは本の表紙を見た。


 春樹が選んでくれた本。


 自分の手の中にある。


 それだけで嬉しい。


 でも、胸の奥には違う感情も残っている。


「私、大國くんのこと全然知らないんだなって思った」


 茜は黙って聞いていた。


「伊藤さんとは普通に話してるし、桐谷くんとも仲良さそうだったし、美優さんの名前も出てきたし……水戸線で一緒に帰る人たちがいて、駅まで話したりして、私の知らないところで普通に毎日があるんだなって」


「当たり前だけど、見えると刺さる?」


「うん」


 なつきは素直に頷いた。


「刺さった」


「でも、話せたわね」


「うん」


「本も借りた」


「うん」


「感想を言う約束もできた」


「約束……なのかな」


「少なくとも、次に話す理由はできた」


 茜の言葉に、なつきは本を見つめた。


 次に話す理由。


 それは大きい。


 とても大きい。


 今までのなつきには、理由がなかった。


 話したい。


 でも何を話せばいいか分からない。


 だから見ているだけだった。


 でも今は、本がある。


 春樹がすすめてくれた本。


 読んだら感想を言える。


 感想を聞かせて、と言ってくれた。


 なつきは本を胸に抱いた。


「読む」


「うん」


「ちゃんと読む」


「無理はしなくていいって言われたんでしょ」


「でも読む」


「そう」


 茜は少しだけ笑った。


 階段を下りる。


 渡り廊下へ出る。


 スポーツ・商業棟へ戻る途中、なつきは特進棟の方を振り返った。


 図書室の窓が、西日を受けて光っている。


 その向こうに、春樹がいる。


 亜衣がいる。


 蓮がいる。


 もう少しすれば、美優も来るのかもしれない。


 そして、春樹はその人たちと一緒に駅へ向かう。


 水戸線に乗る。


 なつきの知らない帰り道へ行く。


 胸が少しだけ痛む。


 でも、今日はその痛みだけではなかった。


 手の中に本がある。


 春樹が選んでくれた本。


 自分と春樹を、ほんの少しだけつなぐもの。


 それがある。


「茜ちゃん」


「何?」


「私、やっぱり大國くんのこと、もっと知りたい」


 言葉にした瞬間、胸の中で何かがすとんと落ち着いた。


 好き。


 その気持ちは変わらない。


 けれど、好きだから知りたい。


 知りたいから、近づきたい。


 その順番が、少しだけ分かった気がした。


 茜はなつきを見た。


 そして、小さく頷く。


「なら、読まないとね」


「うん」


「感想、ちゃんと言えるように」


「うん」


 なつきは本を抱え直した。


 春の夕方。


 校舎の間を吹く風が、桜の花びらを一枚、二人の足元へ運んできた。


 なつきはその花びらを見下ろして、少しだけ笑った。


 図書室の向こう側。


 そこには、なつきの知らない春樹の日常があった。


 それは少し遠くて、少し眩しくて、少しだけ胸が痛かった。


 でも。


 今日、なつきはその入り口に立った。


 見ているだけだった場所から、一歩だけ中へ入った。


 その手には、春樹が選んだ一冊の本がある。


 次に話す理由がある。


 だから、怖くても。


 痛くても。


 また行ける気がした。


 横田なつきは、夕方の光の中で小さく息を吸った。


 そして、胸の中でそっと思った。


 次は、ちゃんと感想を言おう。


 大國くんに。


 自分の言葉で。

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